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今週の朝日歌壇から

○  三角のニ辺を通るほかはなき京の真中のまたしぐれけり    (神奈川県) 中島さやか

 上の句の「三角のニ辺を通るほかはなき」は、京都という街の特徴を表わしているものであろうが、下の句中の「またしぐれけり」も亦、この季節の京都の気候の特徴を表わしているものであろう。
 決して見逃してはならない。 
     〔答〕 神奈川の師走のそれに較らぶれば京の師走の時雨の多き  鳥羽省三


○  土曜日はサンダルの底ひきずりて時速2キロでゴミ出しに行く  (川崎市) 川島隆則

 「サンダルの底ひきずりて時速2キロで」は、「ゴミ出し」という仕事に対する気持ちの在り方を示しているのでありましょう。
 でも、「ゴミ出し」は、昨今、最も注目を浴び、拍手喝采をされている仕事、即ち「事業仕分け」の一種でもありましょう。
 恥じるに足らず。
 臆するに足らず。
 歩武堂々と進め。
     〔答〕 隔日に足音軽くゴミ出しに行くのが僕の決まった仕事  鳥羽省三

 
○  満月に投網を掛けるごとくにも寄せては返す椋鳥の群れ    (南アルプス市) 中島利夫

 「満月に投網を掛けるごとく」とは卓越した直喩。
 「寄せては返す椋鳥の群れ」は写生として素晴らしい。
     〔答〕 ステージを紗幕で閉づる如くにて刹那に曇る湖の景  鳥羽省三


○  霜月の湾の日暮れのはやきこと声掛け合いて釣竿納む     (舞鶴市) 吉富憲治

 私の記憶では、本作の作者・吉富憲治氏は、つい先ごろまで米国に滞在していて、彼の地から朝日歌壇に傑作を寄せられていた。
 その吉冨憲治氏の傑作を、舞鶴市在住者の作品として読ませていただいていることの不思議さ。
 「声掛け合いて」が一首の効き目。
 この「声掛け合いて」は、釣り師たちの礼儀でもあろうが、自分が釣竿を納めた直後に、未だ竿を納めていない者の釣竿に大物がかかって、釣竿を納めてしまった者が悔しがった、というのはよく聴く話。
 その「よく聴く話」を未然に防ぐため、釣り師たちは、「そろそろ竿納めと行きませんか」などと、お互いに声を掛け合うのだそうだ。
     〔答〕 霜月の舞鶴湾の寒きこと五枚重ねで朝釣りに行く  鳥羽省三


○  鍵せざる家にして日々闖入者 滑子・大根・葱・ブロッコリー  (佐渡市) 小林俊之

 本作の作者は、「鍵せざる家に」「日々」、「滑子・大根・葱・ブロッコリー」などの「闖入者」が現れることを、嬉しいこと、田舎暮らしの素晴らしさ、と捉えて一首を成しているのであろう。
 だが、それを、ある日突然、煩わしいこととして捉えなければならないことにもなるから、田舎暮らしは、時に素晴らしく、時にままならぬものである。
 「闖入者」に、作者のユーモア精神が感じられ、「滑子・大根・葱」と漢字ばかりを並べた後の「ブロッコリー」というカタカナが効いている。
     〔答〕 鎖さざれば犬・猫・鼬、時として獅子舞なども入り来る我が家  鳥羽省三  


○  雨降ればハロワへ行けぬ寝転びてひとりながめる小津安二郎   (福岡市) 人捨 無

 職業安定所が<ハローワーク>という呼び名に変わったことを、つい最近、知ったばかりの私ですから、その「ハローワーク」を「ハロワ」という略称で呼ぶ歌人の登場には吃驚しました。
 「人捨無」という作者名にも驚嘆。
 公田耕一氏の再来かも知れない。
     〔答〕 無為徒食ごろり寝転びビデオ見る毎日日曜気ままな暮らし  鳥羽省三 

今週の朝日歌壇から

○ 軒並みに電飾せよとのお触れあり今や街とは呼べぬ通りに  (長野県) 沓掛喜久男

 いわゆる<シャッター通り><シャッター街>は、今や日本全国何処に行っても珍しくない。
 その「街とは呼べぬ通りに」、「軒並みに電飾せよとのお触れあり」。
 「お触れ」とあれば、それは役場などの行政機関からの命令に違いなく、民草たる者は、泣く泣く従わざるを得ぬ。
 「お触れ」の一語に、作者・沓掛喜久男氏の生きる姿勢が示されていて妙。
   〔答〕 軒並みに電飾しても客は来ぬそもそも人は猿より少ない


○ 子を抱く生き物同士の目が合ひぬ動物園のサルと私と  (和泉市) 星田 美紀

 「動物園のサルと私と」は、「子を抱く生き物同士」と言うよりも、檻の内外の違いはあれど、<我が子安かれ>と祈る<同志>である。 
 だから、ばっちりと「目が合」い、心が合うのだ。
 上の句と下の句とが一体となった佳作である。
   〔答〕 檻隔て生き物同士の睨み合ひサルが私か私がサルか 


○ 電柱の決まって根元に貼られ居りペット火葬の業者のビラは  (所沢市) 栗山 雅臣

 この頃多くなりましたね。そんなビラが。
 でも、ペット業者のはまだいい。
 「決まって電柱の根元に貼られ」ているから、そのうち道行くワン公たちのおしっこの洗礼を浴びて溶けてしまうから。
 困るのは、落選した自民党公認候補のビラ。
 あれから貼られっぱなしの事前運動演説会のビラ。
 次回選挙まで持たせる気なのか?
   〔答〕 総理来る麻生来るとの選挙ビラ図太く今も風にヒラヒラ 


○ 秋晴れの朝の清しさくっきりと富士のかたちに凹む空見ゆ  (平塚市) 河野伊佐央

 空が主役で、富士が脇役。
 しかも上下逆様。
 主客転倒・上下逆様の発想転換が見事。
   〔答〕 小春日の昼すがすがし葉を脱ぎし楡の形に空は抜かれて
       葉を脱ぎしケヤキ象り空抜けて師走ついたち陽は暮れなづむ


○ 疚しさのなき生うすし許されぬ愛など抱きて生きたかりけり  (高松市) 沖津 秀美

 何処かの国では、ママからの巨額のプレゼントを貰った宰相が居て、政権を投げ出そうかどうかと思案中という。
    〔答〕 貧しさを知らぬ総理がばら撒きのマニフェストゆえ苦境に立ってる


○ 番号を呼べばうっかり返事するコインロッカーのあわずや夜更け  (和泉市) 長尾 幹也

 夜更けのコインロッカールームは暗くて、自分の荷物を入れたロッカーを探すのに一苦労。
 「いろはの<ろ>の<397番>、お前は何処に隠れた」と酔客が叫んでいる。
 ところで、金を積まれれば顧客の個人情報を漏らす銀行員や証券会社員がいると聞くから、「番号を呼べば」うっかり「返事」をしたり、口を開けたりする「コインロッカー」だって、本当に居るかも知れませんよ。香港辺りには。
   〔答〕 番号を呼ばねどづかづか出でて来て「俺のをやれ」と無理を言う客


○ この道の上にも集落この道の下にも集落ありてバス停  (館林市) 阿部 芳夫

 最近は、どこの山村に行っても、自民党政治のお蔭でバイバスが作られている。
 そうなれば、それまでは旧道を走っていたバスがバイバス沿いに走るようになり、そこにバス停も出来る。
 バイパスの一廓に作られた、バス停の上には旧道に沿って家が数軒の集落があり、バス停の下にも別の道があって、そこにも家が数軒だけの集落がある。
 過疎の集落に住む高齢者たちの共通の悩みは、一日数本しか走らないバスに乗るためには、長い山坂を登り降りして、新設のバス停まで行かなければならないこと。
    〔答〕 俺んちの前には以前バス停が在った筈だが今は何処に 
と、中古車を運転して、久しぶりに帰郷した若者が言ったとか?

 
○ われの名に辿り着くまで姪や孫猫の名も出る小春日の母  (町田市) 古賀 公子

 転居前に<今生の別れ>をと、私は、郷里の老人介護施設で余生を送っている二人の老女を見舞った。
 その一人は、私の連れ合いの実母で、もう一人は実姉。
 義母は痩せこけて骨がらがらではあったが、意識は意外にはっきりしていて、連れ合いが私を指差して、「この人誰?」と言うと、即座に、「鳥羽省三さん。あんたのダンナ」と答えた。
 実姉は見かけは健康そのものだが、認知症がかなり進んでいて、実の弟の私を指して、「この人だれ?」と、介護職員の方に訊いていた。
    〔答〕 甥の名や猫の呼び名は出さねども実弟の名を言えぬ呆け姉
        我も亦かならず至る道なれど義母の老けざま姉の呆けざま


○ 噴水は色なきがいい秋の陽に形を変えつつ風景を消す  (長野県) 沓掛喜久男

 公園の噴水の水は無色不透明、決して水色でも透明でもない。
 その無色不透明の噴水の水を、作者は「いい」と言う。
 何故なら、噴水は無色不透明の水なるが故に、秋の陽を浴びて形や色を変え、その形なり、その色なりに、余の風景を消してしまうから。
 『徒然草』<235段>に、「鏡には色・像なき故に万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば映らざらまし。虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干の事は入り来らざらまし。」とある。
 朝日歌壇の常連・沓掛喜久雄氏のこの一首も亦、兼好法師の言葉同様に示唆に富む。
   〔答〕 噴水は形無きまま風に揺れ森羅万象ものを象る

  
○ 染めるのを辞めただけです有難う肩たたかれて席ゆずられる  (横浜市) 宮本真基子

 白髪や胡麻塩を黒く染めると、少なくとも十歳は若く見られる。
 かく言う私も、女性に持てたい、という下心ゆえに白髪染めを施していた。
 ところがある日、はたと気が付いた。
 「これ以上、私ばかりが持ててどうする。私ばかりが持てていたら、余の高齢者たちが悲観して、日本が暗くなる。」と。
 それ以来、私は、美容院での白髪染めを止めた。
   〔答〕 染めるのを止めただけです見る通り今も矍鑠わたし持て持て  

 
○ 黄昏て汐満ち来ればふいにボラ跳ねて河口の景を動かす  (西海市) 前田 一揆

 「黄昏て汐満ち来れば」という上の句は、自分の気持ちをボラに移入して詠んだのであろう。
 下の句の「ふいにボラ跳ねて河口の景を動かす」は、「ボラ」と「河口の景」との一瞬の動きをよく捉えている。
   〔答〕 たそがれて胡麻塩なれど我も亦ふいに跳ねたき気がせぬでなし         

今週の朝日歌壇から

○ 晩秋の朝の茶房の湯の音を最初の客として聞いている   (京都市) 才野 洋

 斎藤茂吉の『白き山』(昭和24年刊)に、「晩餐ののち鉄瓶の湯のたぎり十時ごろまで音してゐたり」という作品がある。
 おそらくは大石田隠棲中の作品であろう。
 評者は、才野氏のこの作品に接した時、真っ先にこの茂吉作品を思い出した。
 「晩秋の朝の茶房」が、先ず落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 その「茶房」の厨房に滾る「湯の音」を、作者は、その茶房の一番客として聞いているのである。
 身も心も休まる静寂。
   〔答〕 初雪の厨に入るる珈琲の香りけざやか今朝のキリマン


○ 秋の花植えてうれしい幼稚園何してんのと児等は寄り来る   (東京都府中市) 大久保春子

 作者は幼稚園の先生かしら。
 春子というお名前から推して、園長先生とお見受けする。
   〔答〕 先生とも園長さんとも呼ばせずに春ちゃんなどと児等に呼ばせる


○ テレビには「キモイ」と言わるる人映り笑われながら笑いておりぬ   (東京都) 白石 瑞紀

 「言わるる」を「言はるる」と、「笑われながら」を「笑はれながら」と、「笑いておりぬ」を「笑ひてをりぬ」と改め、文語短歌としたらどうでしょうか。
 文語と口語をごちゃ混ぜにした、仮名遣いも覚束無い短歌が横行しているが、これは何かの間違いだろう。
 受身の助動詞「る」の連体形を「るる」としたら、即、文語表現。
 完了の助動詞「ぬ」を用いていたら、これも即、文語表現。
 したがって、それ以外の箇所も、文語表現、「古典仮名遣ひ」にしなければならない。
 但し、俗語「キモイ」はそのままで佳し。
 口語と文語が混在する短歌も、そのことを弁えた上での創作なら、それはそれとして悪くないからである。
 要は、文語と口語との区別を知り、標準的表現と俗語的の区別を知らなければならない、と言うこと。
 そうした区別も知らず、さしたる方針も覚悟もないままに、ごちゃ混ぜ短歌を許容し、日本語も碌に弁えない輩を歌人面させている結社は、即、解散すべし。
 何処が其処とは言わないが。
 敢えて、この作品を例にとって、この事を述べたのは、白石氏作は、題材が宜しいだけに、こうしたつまらない失着が惜しまれるからだ。
   〔答〕 テレビには「キモイ」と言われる人映り笑われながら笑っているよ


○ 机上なる本に差し込む日のなかを野鳥がニ、三羽よぎりてゆけり   (栃木市) 飯塚 哲夫

 これぞ完璧なる文語短歌なる。
 天空を飛び翔ける野鳥の姿を直接描かずに、「机上なる本に射し込む日のなかを」としたところが斬新なのである。
 「机の上に置かれた本に日が射し込んでいる、その日に影を落として、野鳥がニ、三羽飛び過ぎて行った」のである。
   〔答〕 湖上なる枯れ木の枝を弧で囲い虹が架かれり真冬の虹が


○ 後向きに店内に立つケンタッキーおじさんを見た開店前の   (東京都) 夏川 直

 千載一遇と言えば少し大袈裟ではあるが、こういうチャンスはめったにない。
 「後向きに店内に立つ」が宜しい。
   〔答〕 前向きにそれでもぺこり舌出してペコちゃんが立つ銀座の不二家 

今週の『朝日歌壇』から

 これらの秀歌はいずれも「作中の<わたし>=作者」という等式の中で作られたものと確信する。
 そこで私は、「作中の<わたし>」及び「話者」を、「作者」と呼んで稿を進めることにした。


○ 賜りし無職の日々を妻とわが夕餉にあまる鹿尾菜藻を刈る          (宗像市)巻  桔梗
 
 ものは考えようである。作者は、「無職の日々」を「賜りし無職の日々」と言っているのだ。
 そうした日々の中のある一日、作者は自分たちの貧しい夕餉のおかずにしようと思って、妻と一緒に鹿尾菜藻刈りにでかけた。ところがその日は、妻と自分の夕餉のおかずにしてもなお食べ余る程の大収穫があった。
 作者が「無職の日々」を「賜りし」と言っているのは、その日、彼らが、鹿尾菜藻を沢山刈ることができたからでもあろうが、それともう一つ、彼自身が、無職という境遇であれ、鹿尾菜藻の収穫であれ、現在、自分が当面している状態や事柄を神から賜ったものとして受け入れるような性格の持ち主だからであろう。


○ 寒風に水子地蔵の風車回る回らぬあるこそあわれ              (高崎市)石井 省三

 「回る回らぬ」が効き目。
 どなたの仕業か、「水子地蔵」には、よく「風車」が回っている。 


○ きさらぎの光を浴びて桃の木はももでありたきいっしんとなる         (福島市)美原 凍子

 「ももでありたきいっしんとなる」という下の句が、この作品を優れた一首にしているのだが、その意味は今ひとつ文明でない。
 「美味しい実をつけようと一心になっている」という意味なのか、それとも、「地中深く根を張り、天高く枝葉を茂らせようと一心になっている」という意味なのか、分からない。
 でも、その分からなさが、この一首の魅力なのかも知れない。
 「きさらぎの光を浴びて」と「いっしんとなる」の照応も見事。


○ 夢無くて浅間の噴火待ち望むそんな青春だったなわれも           (高崎市)門倉まさる

 その日、作者は、荒れている若者達について報道したテレビ番組を見たのかも知れない。
 「浅間の噴火待ち望む」が身につまされるが、この作品の作者に限らず、青春時代には、そういうことがありがちだ。


○ ここちよき定位置なのか川なかの岩にいつもの鵜があさひ浴ぶ       (浜松市)松井  恵

 鵜は鵜たらんと一心である。 


○ 着ぶくれて切符の在り処また探す集札口に妻を待たせて           (神戸市)内藤 三男

 「着ぶくれて」が佳い。私も、最近、こういうことがめっきり多くなった。


○ あと一つ足らぬ気がして見つめおり弁当箱のわずかなすき間         (盛岡市)白浜 綾子

       あとひとつ足らぬおかずは佃煮か弁当箱のわずかなすき間     省三 


○ 多摩川を越えれば東京東京に細く光りて東京の月             (小田原市)南雲長太郎

       荒川を越えれば東京東京に鈍く輝き東京の星             省三

今週の『朝日歌壇』から

○膨張と収縮ありて湯湯婆のブラックホールに春の海眠る    (八王子市)武藤 オキ
 
 湯の熱さや容量によって、「膨張」するときと「収縮」するときがあるのだろうか? 「湯湯婆」の中の空洞を「ブラックホール」に見立てたのも、それから得られる暖かさを「春の海」としたのも面白い。
 昔の人が、「ゆたんぽ」を漢字で「湯湯婆」と書いたのは、これを抱いて寝たときの暖かさが、丁度、老妻(婆)を抱いて寝たときの暖かさと同じだと感じたからだとすれば、これまた面白いが、女性からすれば、面白いでは済まない、大変失礼な話だろう。

○一月の日の明るさを確かめつつ十歩で渡る町川の橋      (さいたま市)吉田 俊治

 一月も半ばを過ぎると、めっきり日が長くなり、明るくもなる。「一月の日の明るさを確かめつつ」という上の句には、そうした季節感と、そうした季節に出会った喜びの気持ちがよく表現されている。
 たった「十歩で渡る町川の橋」でも、その「町川の橋」の下には、冷たさが少し弛んだ川の水が流れていることを作者は感じているのだろう。
 「一月の川一月の谷の中」という飯田龍太の句あり。あれは峡谷の清流、これは町川の必ずしも清流ならず。

○冬はつとめて門を出ずれば中空にしんと凍れる有明の月     (八尾市)水野 一也

 「春はあけぼのやうやうしろくなりゆく山ぎは少しあかりてむらさき立ちたる雲の~~~(中略)~~~冬はつとめて~~(以下略)」という『枕草子』の序段を思い出した。
 八尾市の男と言えば、荒々しいものとばかり思っていた。その八尾の男が、こんな繊細な気持ちの持ち主だなんて、世はさまざまだ。


 それから、こんなことを申すのは、作者に対して大変失礼とは思われますが、今週の入選作のうち、「紅梅の蕾ふくらむ夕まぐれガザの戦火の小休止きく」という作品は、いかにも朝日歌壇への投稿作品と思われます。
 発想も俗、語句も俗、上の句と下の句の取り合わせも俗、と私には思われ、朝日歌壇の選者・高野公彦氏ならこんな作品でも入選させてくれるかも知れないとの、作者の思いが、ありありと感じられるように、私には思われました。
 また、作者ご自身にしても、必ずしも力量を充分にご発揮なさった作品とは思われません。いかがなものでございましょうか?
 作者、南与三氏に対しての失礼は、幾、幾重にもお詫び申し上げます。 
プロフィール

鳥羽省三

Author:鳥羽省三
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