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書を伏せて

書を伏せて朱の魚卵を食める夜半秘儀めくに冬の灯を暗くせり     冨小路禎子『柘榴の宿』より
 
 独り暮らしだから食事時も一定ではなく、お腹の空き具合や何かの都合によっては、三度のものが二度になったり、夕食を真夜中に食べたりすることにもなる。
 今夜の食事も、読書に熱中するあまり夜半に摂るはめとなった。
 私は書を伏せ、からだを徐ろに食卓に移す。食卓の上に在るものは、箸一膳と真っ白なご飯を盛った茶碗一個と、それに、朱いイクラを数粒載せた小皿一枚。
 小皿の上のイクラは、今夜は何故か輝いて見える。冬の夜半の食卓で、イクラたちが朱々と輝いている。
 イクラと言えば、このイクラの一粒一粒は、鮭という命あるもののお腹に宿り、それ自身も亦、それぞれ、鮭の稚魚という一個の生命体に生まれ変わる可能性を宿していたのだ。
 私はかつて、「処女にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす」と詠み、「女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季」とも詠んだ。
 そんな私が、かつては爛々と命の炎を燃やしていたはずのイクラを食べようとしているのだ。朱々と輝いているイクラを食べようとしているのだ。いや、その様は、食べようとしていると言うよりも、喰らおうとしていると言った方がいい。
 そんなせいかどうかは知らないが、今夜の食事は、何か秘密の儀式めいて来た。私は、この秘密の儀式を司る魔女だろうか。きっとそうに違いない。
 そう思った私は、身を立ち上げ、部屋の電灯を暗くした。魔女の司る秘密の儀式には、明る過ぎる冬の夜は似合わないから。明る過ぎる部屋では、イクラを食らうことが出来ないから。

 生まるべき稚魚のいくつをかなしめば眼ふとつむりイクラを噛みき        『未明のしらべ』より


作中主体などと呼ぶのは?

<作中主体>などと呼ぶのは仰々し詠歌は独話<話者>と呼ぶべし     省三

 ここに「霊柩車ゆっくり走れ焼き場まで君には一時(ひととき)吾には一生(ひとよ)」という短歌らしきものがある。
 言うまでもなくこれは、栗木京子さんの、あまりにも有名なあの作品のパロデイであり、ついさっき、ある魂胆があって私が創ったものであるから、作者は私・鳥羽省三である。
 ところで、私は今日まで、父母を初め数多くの親類縁者をあの世に送り、時には、霊柩車を追走する車に乗り、火葬場まで亡骸と同行したこともあるが、そういう時でも、「霊柩車よ(或は、霊柩車の運転手よ)、今日、この亡骸を火葬場まで運ぶという仕事は、君にとっては、たった一時(いっとき)の出来事に過ぎないだろうが、亡骸の縁者である私にとっては、一生一回の、生涯生きている限り、絶対に忘れられない出来事である。だから、もっとゆっくり走ってくれ。もっとしずしずと厳粛に走ってくれ」などとは、思ったことがないから、前述のパロディ中の「吾」は、いかなる意味に於いても、その作者である私・鳥羽省三と同一ではない。
 短歌というものは、基本的には<一人称文学>であるから、その鑑賞にあたっては、<我=私>の存在を意識しなければならない。そのことは、先のパロディのように、作品中に直接「吾=私」が登場する場合に於いても、「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(塚本邦雄『日本人霊歌』より)のように、作品中の何処にも「我」も「私」も登場しない場合でも同様である。
 私は、生活の資を得るために高校の教壇に立って、長年、短歌鑑賞の授業を行って来た。その頃の高校の国語教科書に載っている短歌は、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲(佐佐木信綱『新月』より)」・「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ(斎藤茂吉『小園』より)」・「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼(北原白秋『雲母集』より)」などのように、短歌鑑賞に際して読者が意識しなければならない「私」が、「私=作者」として片付けても済むような作品ばかりであったため、私は、私の授業に出席している生徒達に多少の後ろめたさを感じながらも、「作者は晩秋の大和路の風景の中に立って~~」とか、「東京を逃れてきた作者は、今~~」とかと言って済まして来た。
 ところが、学校での授業の場を離れると、作品中の<我>とその作品の作者との落差を強烈に意識をしなければならなかった。
 何故なら、自作の中に、現実の自分とは似ても似つかない艶福者や美男子などを「われ」として登場させるのは、他ならぬその作品の作者の「私」に他ならなかったからである。
 そうした私にとって、短歌鑑賞の場でいつの頃からか使われるようになっていた、「作中主体」という言葉は極めて重宝なものであった。
 短歌作品の中に登場して、「煙草くさき国語教師が言う」「明日という語」を「最もかなし」と感じている少年は、あくまでも、文学作品たる短歌の登場人物に過ぎず、その作品の作者とは別人である。その「別人」のことを「作中主体」と呼ぶ。このことは至極当然なことであり、改めて注釈を要しない。
 だが、「作中主体」という、この至極当然で極めて重宝も言葉も、決して万能ではない。
 何故なら、「煙草くさき国語教師がいうときに明日という語は最もかなし(寺山修司『空には本』より)」という作品からは、確かに、「作中主体」と呼ぶべき存在を指摘することが出来るが、先に引用した「日本脱出したし~~」のような作品からは、「私」及び「作者」の存在を指摘することは出来ても、「作中主体」と言うべき存在を指摘することは出来ないからである。
 それより何より、たかが短歌鑑賞の場である。ある誰かが、「作者は~~」「作品中の<われ>は~~」などと言ったが最後、別の誰かが、まるで鬼の首を取ったかのような口調で、「作者と作品中のわたしとは厳密に区別しなければいけません。作品中の私を指す場合は<作中主体>と言うべきです」などと騒ぎ立てるのは、あまりにも仰々しく、あまりにも青臭いと思う。
 短歌が、本来<一人称文学>であり、詠歌とは、自己の切なる思いを<語る>行為であったことを思えば、短歌作品中の<われ>は本質的にその作品の作者自身である、と言ってもそれほど見当違いとは言えない。少なくとも、「作者と言わず作中主体と言え」などと言い出して威張り腐る歌人ちゃんよりはよほどましである。
 とは言え、短歌作品中に作者自身とは異なる人物を登場させ、その人物(時には、非人物)をいろいろと思考させたり行動させたりする作品が短歌としての存在を主張している今日、「短歌作品中の<われ>は、本質的にはその作品の作者自身だ」などということを、いつまでも主張しているのも、これまた青臭く、阿呆らしい。
 従って、私は、作品中に直接登場する<われ>は勿論、しない<われ>も含めて、短歌作品に於ける<われ>を<話者>と呼ぶことにする。
 上掲のミソヒトモジ、「<作中主体>などと呼ぶのは仰々し詠歌は独話<話者>と呼ぶべし」は、そうした私の思いを述べようとしたものである。但し、この<思い>は、<決意>とは異なり、かなり軟弱なものであるから、<話者>という一語で以って把握出来ない作品に出会ったら、その時はまた、別の言葉を考えるだろう。
 因みに、上掲作品の「われ」は、作品の作者と完全に重なる「われ」である。 

僧侶等は

僧侶等は白き草履に目印のなければとまどふこの世の庭に  奥平初子『四照花』より
 
 数年前のことであるが、私は後学の為にと、曹洞宗のある寺院で行われた、晋山式という行事に出席(と言うよりも見学)したことがあった。
 晋山式とは、言わば寺院の住職交代儀式で、ある寺院で、それまで住職を務めていた僧侶が死亡したり引退したりした場合、その職務を引き継ぐべき別の僧侶が、その寺院の正式な僧侶として入山することを記念して行う行事であるそうだ。
 その式が行われた寺のj前住職は、同宗派のその地方の僧侶の実力者とか言うことで、その後継者たる息子のためのその儀式には、曹洞宗の二つの本山たる永平寺と総持寺の僧侶は勿論、法縁の寺々などから数十名の僧侶が臨席していた。
 本尊仏を前にして行われた、読経や問答などがひと通り終わった後、本堂前の庭園に設えられた雛壇に上がって、臨席僧侶一同の記念写真を撮る段になった。すると、それまでご本尊の前で大人しく額づいたり、読経したりしていた僧侶たちが我先にと争うようにして履物置場へ急ぐ。檀家の子弟たちが担っていた当日の履物係が、予め各僧侶たちの履物に付けられていた番号札と僧侶たちが衣の袖を探って差し出した半券とを引き比べ合わせ、それぞれの僧侶にその履物を差し出す。
 私は、その一部始終を興味深く観察していたわけではないが、おおよそ、その僧侶たちは、その着衣こそ各自の位階などに応じてそれぞれ異なっていたが、その履物は、この作品中に出て来るように、何の記名も無く目印も無い白一色の草履で、殆んど同一物なのだ。
 私が出席した晋山式に於いては、ミシン目入りの荷札を用いた番号札というウルトラC(この言葉ももはや死語となったか?)と檀家の子弟の履物係によって、尊いお坊さんたちに醜態を曝させないで済んだが、この作品の背景となった法会に於いては、主催者たちがそうした智慧も廻らさなかったのであろう。
 「白き草履に目印のなければと」「この世の庭に」「僧侶等は」「まどふ」。
 本作の背景となった法会は、もしかしたら、生臭坊主たちの日頃からの強欲ぶりに立腹していた人々による陰謀だったのかも知れない。
 インターネットで検索したところに依ると、本作の作者の奥平初子さんは「礫の会」に於いて、主宰補佐をなさって居られる方であるそうだが、その観察眼は鋭く、その言は辛辣である。
 経典に言う、「女人は刀刃を以て人を戮さず、舌鋒を以て戮す」とは、この謂ひなるか?

彼岸では

彼岸では有色元首が誕生す此岸の総理は未曾有の暗愚      省三
 
 オバマ大統領就任おめでとう。これからどうなるかは判らないが、今はとにかくおめでとう。なにしろ、彼岸・米国に黒人大統領が誕生したのは未曾有の出来事に違いないから。
 リンカーンの奴隷解放が真の意味で完遂したのは2009年1月20日と言わなければならないだろう。
 ところで、此岸・日本の政界は黒杳々、混迷を極めるばかりである。
 今朝の朝日新聞によると、昨日の同委員会で麻生首相が、数日前「みぞゆう」と誤読して満天下の笑いを誘った漢字<未曾有>を、正しく<みぞう>と発音し、それほど狭くない委員会室がどよめく一幕もあったそうだ。
 間違って読んで笑われ、間違わないで読んで笑われる。こんな男が、どうして一国の総理大臣の座に在るのか。麻生首相は、天皇や皇太子と同窓だそうだが、この日本には、華族制度が未だ健在なのだろうか。
 参議院予算委員会の一幕は、質問に立った、民主党の石井一議員への答弁の中で展開されたもので、前述の朝日新聞の記事によると、「石井氏は、首相が就任直前に月刊誌『文芸春秋』に寄稿した論文から、『畢竟』『窶す』などの難しい漢字を抜粋したパネルを用意し、『(論文は)本当にあなたが書いたのか』と迫った。首相は、『書かせていただいた。皆さんが読みにくいのは、<身を窶し>ぐらいじゃないか』と涼しい顔。石井氏は『じゃあなぜ<みぞゆう>なんて言うんだ。率直に認めないとまた支持率下がるよ』と皮肉った」そうだ。

ピラカンサの

ピラカンサの実のつぶつぶの黒みつつ有象無象のふかきつぶやき    小島ゆかり 『憂春』より

  「わだかまり言はんと来しにわが髪の雪をやさしく君は払へり」といった、毒にも薬にもならないような歌を詠んでいた女も、時を経て薹が立てば、このような小難しい歌を詠む。とかく、時間の為す業は厄介で、女という者は恐ろしい。
 この歌は、晩秋から冬にかけて、戸建住宅の玄関先辺りで、紅い小粒の実を無数に着け、「私たちも紅よ!」と言わんばっかりに自己主張している、あのピラカンサ(ピラカンサス)の、つぶつぶの実を詠っているのであるが、その盛りを詠わずに、「黒みつつ」ある状態を詠っているところに、この粒粒に対する話者の気持ちの在り様が伺わる。下の句の「有象無象のふかきつぶやき」は、その気持ちを具体化して述べたものであろうか。
 カキ、ナンテン、ウメモドキ、ナナカマド、ゴゼンタチバナ、センリョウ、マンリョウ、ヤブコウジと、晩秋から冬にかけての庭面を紅く染める木の実や草の実は数多いが、その中でも、この歌の題材となったピラカンサは、その実の数が圧倒的に多く、しかも、その中心部に一粒一粒黒々として目立つ一物を抱えている。その「実のつぶつぶの」数の多さと腹に抱えた黒々とした一物と、本作の話者にとって、それがどうしようもないのだろう。それも未だ秋口で、一粒一粒が真っ赤に輝いていた頃なら我慢出来たが、季節が深まり冬になり、黒い一物を中心としたつぶつぶの実の全体が黒ずんで来ると、いよいよ我慢できなくなるのだろう。
 話者は、その黒ずんだ実の一粒一粒に、自分の周囲や縁辺、そのまた縁辺の誰彼の人間を感じてくる。話者とは全く関わりのない人々の人間性をも感じてくる。
 「この有象無象めッ! ひとりひとり身を真っ赤に焦がして。そのくせ、からだのど真ん中に真っ黒な恥部を抱えやがって。それ見ろ、この頃、からだ全体が黒ずんで来たではないか。生意気にも、一人一人ぶつぶつ呟いているが、お前らが何を言うのだ。何を呟くのだ。お前らに何が解ると言うのだ」と。
 話がこれで終われば、本作の話者にとっても、本作を鑑賞する私にとっても、他人事として片付けることが出来て、それほど複雑ではないが、やがて話者の目には、その哀れで汚らしい実の一粒が自分に見えて来る。鑑賞者の私の目にも、それと同様に見えて来る。 
 かくして、本作の話者もその鑑賞者の私も、その「黒めいて」哀れな実に愛しささえ感じるようになり、その前から離れられなくなる。

 凡百の歌人ちゃんなら、「ちっちゃくて可愛いね」とか言っちゃって、簡単に片付けてしまうかも知れない、あのピラカンサの実に「有象無象」を感じた作者は確かに才女だ。もしかしたら彼女こそ、<みちのくの奥の奥>から文学への憧れを抱いて上京した、昭和・平成の菅原孝標女かも知れない。下の句の「有象無象のふかきつぶやき」にも、十二分の説得力が感じられる。
 更に劫を積んで、あの<歌会始の儀>の撰者か召人になつた時の彼女の御歌が読みたい、と思うのは、必ずしも私の悪趣味とばかりは言えないだろう。

   月も出でで闇に暮れたる姨捨を何とて今宵は訪ね来つらむ    菅原孝標女
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鳥羽省三

Author:鳥羽省三
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