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一首を切り裂く(090:長)

(jonny)
    どんよりと視界の曇る極東ですこし長めの竹やりを持つ

 「極東」とあるから、あちら方面の極東かと思った。
 そしてその後を見たら、「すこし長めの竹やりを持つ」とあるから、益々その意を強くした。
 だが、よくよく考えてみると、すこし長めでも短めでも、あちら方面の方々が、今どき「竹やり」などを持っているはずが無い。
 そこで、もう一度考えたら、やっとその意味が分かって来た。
 「どんよりと視界の曇る極東」とは、極めて厳しい国情認識かと思われます。
 その「どんよりと視界の曇る極東で」生き抜いて行く為に「すこし長めの竹やりを持つ」お方は、他ならぬ<jonny>さんご自身でありましょう。
 で、その<jonny>さんの持っておられる「すこし長めの竹やり」とは何ですか。
 持ち前の寛容心に富んだ御性格ですか。
 それとも深慮遠謀のお知恵ですか。
 で、で、それらで以って対抗すれば、「どんよりと視界の曇る極東で」生きて行くことが保証されるのですか?
 それとも、それとも、<jonny>さんの仰る「すこし長めの竹やり」は、あの、<出た出た山賊が、長い長い槍持って、おんなのあそこを突っ付くた>の<槍>ですか。
 まさか、まさか、まさか、まさかり担いだ金玉の、それは無いでしょー。

     〔答〕 燦々と光り輝く山口でお神酒徳利を捻りなどする  鳥羽省三
 向こうが極東で来たからこちらは山口で、と言うわけではありません。 
 拙作中の「山口」とは、あちら方面の山口ではなく、萩焼で有名な萩市のある山口なのです。


(夏実麦太朗)
    町長は女性と子供と老人を選んで話す笑みをつくって

 昨年の初秋に亡くなった私の長姉は、大の田舎政治家嫌いであった。
 その姉の生前に私は、「今度選ばれたY町長の評判はどうですか?」と訊ねてみた。
 Y町長とは、姉の居住地である北東北の田舎町の町長であり、彼はまた、私の知り合いでもあった。
 すると姉は、「世間の評判はどうか知らないが、私にとって、あの町長ほどいけ好かない人間は居ない。何故ならば、つい先日行われた町の老人クラブの忘年会で、私が出来るだけ目立たないようにしようと思って、いちばん下座に座っていたら、あの町長は、つかつかと私の前にやって来て、跪いてお辞儀をし、『さあ、お姉さん。どんどんお空け下さい。さあさあ、どうぞ、ご遠慮無く』などと言って、嫌がる私に、無理矢理ビールをなみなみと注いだんだよ。今までの町長なら、いちばん上座の会長の席に行ってサービスをして、それから徐々に下座に下って来るのに、あの町長は、最初から下座に足を運んでサービスを始める。しかも、この年寄りをつかまえて『お姉さん』だってよ。魂胆が見え見えだよ」と言うのだ。
 私の姉の観察眼も、私とは違って、なかなか厳しいが、Y町長の処世術もなかなかである。
 本作の作者の夏実麦太朗氏は、「子供と老人を選んで」「笑みをつくって」「話す」「町長」を、私の姉と同じく、処世術に長けた、いけ好かない人物として見ているのでありましょうか? 
 それとも、その逆でありましょうか?
     〔答〕 この鳥羽は歌詠み巧者に厳しくて歌人ちゃんには優しくしてる  鳥羽省三


(梅田啓子)
    長女ゆゑ譲りゆづりて生きて来ぬおほきな苺は夫のくちに

 歌詠み巧者と言えば、私の考えるところ、本作の作者・梅田啓子さんは、「題詠2009」に参加されている歌人の中で十指に入るような歌詠み巧者である。
 そういうことで、このぼんくらの鳥羽省三は、ある時、さほどの理由も無いのに、梅田啓子さんの作品について、かなり手厳しく評価を下したことがあった。
 冷静さを欠いた私の、論評にあらざる論評に愛想づかしをされたのでありましょうか?
 それ以来、梅田啓子さんからは梨の礫。
 お怒りの程は深くお察し申し上げます。
 何卒、平にご容赦下さい。
 <093>のお題は「鼻」であるが、そのお題について、梅田啓子さんは、「全共闘世代で五黄の寅うまれ鼻つぱしなら誰にも負けぬ」という作品を投稿されたいた。
 私は、この作品を、お題「鼻」に基づいて投稿された作品中、十指に入るような傑作と思ったのであるが、敢えて、「一首を切り裂く」の対象作品として選び、論評しようとは思わなかった。
 そこに、ある種の気負いを感じ、痛々しさをも感じたからである。
 上掲の作品は、一見すると、前述の「全共闘世代で五黄の寅うまれ鼻つぱしなら誰にも負けぬ」という作品とは裏腹な関係にあり、作者・梅田さんの御性格の優しさを表わした作品のようにも受け取れるが、よくよく考えてみると、前述の作品と同根から発した作品であると思われ、好むと好まざるに関わらず「長女」としてこの世に生を受けた、梅田啓子さんの、矜持と気概とを表わした作品であろうと思われる。
そうした、矜持と気概とを持って居られる作品の話者(=梅田さん)の前では、彼女のご夫君も、ただ「くち」を開けて、「おほきな苺」を食べるしかないのでありましょうか。
     〔答〕 我が妻も気位高く吾もまた大きな苺を食ぶるしか無し  鳥羽省三
 気位の高い女性は、痛いところがあっても、決して「痛い」とは言わないから要注意。
 彼女らが「痛い」と言った時には、彼女らは半ば<遺体>になっているのである。

 と、ここまで書いてみた時、私が梅田啓子さんに嫌悪される(?)原因となっただろうと思われる一文をものした時の、私の気持ちが甦って来た。
 その気持ちは、前述の「全共闘世代で五黄の寅うまれ鼻つぱしなら誰にも負けぬ」という作品を、一定のレベルに到達した佳作と認めながらも、敢えて、論評に及ぼうとは思わなかった時の気持ちとも共通しているのだが、例の作品に出会った時に感じた私の、歌人・梅田啓子さん観は、「この方はそれなりの結社歴を経て手馴れていらっしゃる。そのためにするするするすると、まるで金太郎飴のような短歌作品をいとも容易く捻り出してしまう。在り合わせのお粉とお砂糖とお塩と、それに、わずかばかりの香料で以って」というものであった。
 でも、あの時、そうした激しい感情を、梅田啓子さんの例の作品を前にしてぶっつけたのは、私の失敗であった。
 何故なら、短歌作品を前にして、私がそうした感情を抱くのは、何も、梅田啓子さんのあの作品に対した時だけでは無く、他の歌人たちの作品に対した時の同じ、例えば、「題詠2008」の主催者、五十嵐きよみさんの作品に対したときも、全く同様であるからである。

 と、此処まで書いてみた時、私は、突然あることを思い出した。
 私は先刻、「この方はそれなりの結社歴を経て手馴れていらっしゃる。そのためにするするするすると、まるで金太郎飴のような短歌作品をいとも容易く捻り出してしまう。在り合わせのお粉とお砂糖とお塩と、それに、わずかばかりの香料で以って」などと、またまた心ある歌人たちの逆鱗に触れるようなことを書いてしまったが、その文中に登場する「飴」について、この松の内に、朝日新聞朝刊の「声」欄に於いて、興味深い思い出話の応酬が交わされていたのである。
 その発端は、「母にだまされた甘い思い出」と題する、5日付けの秋田県在住の方の投稿。
 その主旨は、「幼い日に、飴を買って欲しいとせがむ私に、『飴というもものは、それを造る人が唾をつけて造るものだから大変不潔だ。だから、あんな不潔なものを食べたいなどと思ってはいけない』と母が言った。今にして思うと、その頃の我が家は大変貧しかったので、子供の私に飴を買って食べさせる余裕が無かった。その頃の母と同じ年代になってみて初めて、母のそうした苦労がしみじみと偲ばれる」というもの。
 それに対して、昨日、8日付けの同紙・同欄に、「『アメつば』は多分ホント」というタイトルで、埼玉県越谷市在住の男性からの投書が掲載されていた。
 その主旨は、「アメを造る人がその製造過程で、自分の唾をつけて造るというのは真実」ということで、投稿者はそれを自分が実見したこととして、語って居られるのである。
 子供たちの欲しがるアメ一つにしても、唾をたっぷりとつけて仕込んだアメとそうでは無いアメとでは、その値や味がそれぞれに異なることでありましょう。
 ましてや、芸術作品たる短歌の場合は、第三者から見ると、「手馴れた手わざで以って、在り合わせのお粉とお砂糖とお塩と、それに、わずかばかりの香料で以って、するするするすると、まるで金太郎飴のように、いとも容易く捻り出してしまう」としか見えないような作品だとしても、その創作過程に於いては、唾はともかくとしても、涙や汗や、時には鼻水まで注ぎ込むこともあるに違いないから、それぞれに独特の風味と味わいが存在するに違いない。
 それを、十把一絡げにして、「金太郎飴のような短歌」として退けたり、貶したりするのは、利口な評者の遣ることではなかろう、と反省すること頻りである。
     〔答〕 金太郎飴に酷似の作品をかく言ふ鳥羽も創り居り候  鳥羽省三


(理阿弥)
    長月の今という時美濃菊の頭がほとと日記に落ちて

 「美濃菊」の花見頃は、陰暦「長月」であろうか。
 待ちに待った、その花見頃の「今という時」、作者のお手植えにして、ご自慢の「美濃菊」「の頭がほとと日記に落ちて」しまった。
 残念無念、遣る方なし。
 私は本作を、格別優れた作品とは思っていない。
 作者・理阿弥氏が精魂込めて創った作品とも思っていない。
 「題詠2009」に投稿した理阿弥氏作・百首の中に、「美濃菊」を詠んだ作品がもう一首在る。
 それを傑作と感じて選び、その観賞記事を書いて作者にご披露に及んだところ、作者は、「美濃菊を詠んだ歌を、私はもう一首投稿しましたよ」とのコメントをお寄せになられた。
 今回、この一首を選んで、軽くご紹介申し上げたのは、「そのコメントをありがたく頂戴し、しみじみと拝読させて頂きましたよ」と申し上げて、理阿弥氏の律儀さに敬意を表したい、という思いからなのである。
 二句目は、「今という今」とした方が、臨場感と切迫感がより増大するのではないでしょうか?
 一句の中に、同じ文字を使うのは良くないとして、避けて居られるのでしょうが、時には、その逆を行くことも必要でしょう。
 ところで、本作の作者の理阿弥氏は、故中山義秀氏作の『厚物咲』という小説をお読みになられたことが御座いましょうか。
 もし、未だお読みになって居られないようでしたら、この際、是非、ご一読下さい。
    
     〔答〕 長月に帰ると言ひし約束も空しく咲ける菊花の契り  鳥羽省三
 返歌は、中山義秀氏の作品に取材したものでは無く、ご存知の江戸文学の傑作に取材したものです。


(野州)
    夏至に咲くあさがほ一輪軒下のゴム長靴はねこが倒しぬ

 かなり難解な作品である。
 「夏至」という時期は、「あさがお」の咲く季節としては、早いのだろうか、遅いのだろうか。
 それについて即答することは出来ないが、一般的には早いと言うべきであろうか?
 その夏至に朝顔が咲いた。
 夏至という時期は朝顔の最盛期ではないから、咲いた朝顔はたった一輪。
 ちょっぴり嬉しくもあり、侘しくもある初夏の朝である。
 その嬉しくもあり、侘しくもある初夏の朝に、冬の頃から軒下に置きっ放しにしていたゴム長靴が倒されている。
 <軒下のゴム長靴転倒事件>の犯人は、この家の飼い猫。
 その飼い猫にとっては、たった一輪だけど、美しい朝顔の花が咲く夏至の朝に、ただの死に損ないに過ぎない、ゴム長靴如きが、軒下に突っ立っているのは許せなかったのだ。
 季節柄、場所柄も弁えていない、無風流な行いに見えて、仕方がなかったのだ。
     〔答〕 仏壇の干菓子を食った犯人は天井裏のねず公たちだ  鳥羽省三


(藻上旅人)
    石筍が鍾乳石と出会うよな静かで長い一日終える

 藻上旅人さんとは久しぶり。
 どこか遠くへでもお出掛けでしたか。
 あっ、そんなことを言ってはいけない。
 どこか遠くに出掛けていたのは、藻上旅人さんでは無くて、この鳥羽省三でした。
 この鳥羽省三は、藻上さんとお会いしてない間、遠くも遠く、地獄の玄関の三途の川の手前まで行って来ました。
 ところで、あの山口県は秋吉台の鍾乳洞などに見られる、下から上へと伸びていく石筍と、上から下へと垂れ下がって行く鍾乳石とが、洞内の空間で出逢って石柱になるまでには、われわれの想像を絶した長い長い時間が必要とされるのでしょう。
 その長い長い時間を要する石筍と鍾乳石との出逢いの瞬間、その舞台である鍾乳洞内は、神の齎した深い深い静寂に支配されているに違いない。
 作者は、その石筍と鍾乳石との出逢いの瞬間に鍾乳洞内に生じる深い静寂のような一日を過ごし終え、そして今は、夜を迎えた、と言うのである。
 「石筍」や「鍾乳石」の独特の質感が、「静かで長い一日」という叙述を導き出したのであろう。
 藻上旅人さん、久々の傑作である。
     〔答〕 出会ふ時こそりと音を立てもせず意思と意思とは鎮もり合へり  鳥羽省三
 

(冥亭)
    カタカナの名も垣間見ゆ甲子園長き残暑も半ばゆきたり

 カタカナ名前の甲子園球児と言えば、誰でも知っているのは、あの東北高校のダルビッシュ有投手。
 彼以外にも、2006年夏の香川西高の主将、ウラム・エフェレディン選手など、毎年ちらほら「垣間見」られるようになりましたね。カタカナ名前の甲子園球児が。
 その夏の甲子園大会が酣となる頃には、選手を苦しめ、観客を苦しめた「残暑も半ばゆきたり」ということになるのである。
     〔答〕 イチローの球児の頃のお名前は鈴木一朗カタカナならず  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    あげましょう 木場少年に画用紙を色鉛筆を長い日暮れを

 この一首に寄せた、作者ご自身のコメントに拠れば、「京極夏彦著の小説『百鬼夜行(京極堂)シリーズ』の主要登場人物のひとり、木場修太郎をイメージした歌です」「本当にねぇ、少年時代の木場さんに会って、思う存分、絵を描かせてあげたいよ、おねえさんは」とのことです。
 ご自分の年齢は今のままだから「おねえさん」。
 一方の木場修太郎はぐっぐっぐっと若返らせるから「木場少年」となる。
 佐藤羽美さんの作品は、空想の世界を翔けることがしばしばである。
     〔答〕 あげましょうこのおねえさんのなにもかも色鉛筆のこぼれる芝生で  鳥羽省三


(お気楽堂)
    さかさまに立てし箒の効き目など微塵もあらで叔母の長尻

 京極堂さんのお次はお気楽堂さんです。
 こちらの堂上人の作品は、前述の佐藤羽美さん作とは異なって、より現実的なはず。
 「長尻」のお客を追いたてようとして、「さかさまに立てし箒」。
 数年前に観たNHKの大河ドラマにも、確かそんな場面がありましたが、その場面でも「効き目など微塵もあらで」、結局はお客の「長尻」という結果になってしまっていた。
 そのように考えると、この作品の作者の堂上人も、あまり現実的なお方とは申せませんな。
 お気楽堂さんはやはりお気楽だ。
 青森の堂上人と少しもお変わり御座いませんね。
     〔答〕 さかさまに帽子被らぬジェロさんの帽子のマークはNYヤンキース  鳥羽省三
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今年もよろしくお願いします

鳥羽 省三 様

久しぶりにお邪魔いたします。
昨年の失礼の数々お許しくださいませ。
強い言葉を投げつけられますと、普段は眠っているトーソーシンが目を覚ましてしまいます。
過度であったと反省しております。

さて私の拙い歌を選んで下さいましてありがとうございます。
コメントを拝読し、鳥羽様に私の心中を見透かされたような思いです。

「矜持と気概」という言葉を使われてらっしゃいましたが、
「矜持と気概」は自信のなさの裏返しであることは、自覚しております。

今年は寅年、私の年です。
「気負い」という虎の威を借りずに、自然体で歌っていきたいと思います。

最後に、私は短歌歴も浅く、語彙も知りません。
手馴れてするする出来た歌はないと思います。

どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
寒い折、ご自愛くださいませ。




No title

こんばんは

とりあげていただきまして、ありがとうございます。
この歌は、実際に見た光景をそのまま歌にしたものです。
見たままの描写なので、町長に対してはとくに何の
感情も抱いていませんでしたが、歌を読めば、
僕が町長を、「処世術に長けた、いけ好かない人物」
と感じているという印象をもつのが普通でしょうね。


No title

今という今、いいですね。
これは「時間」というものが感じられる歌になるといいな、
と思って詠んだ歌です。

中山氏の著作は読んだことがありませんでした。
調べたところ、近くの図書館にあるようですので、
借りてこようと思います。
ご紹介ありがとうございます。

残すところ、あと十首ですね。
なんかもったいないので、どうかゆっくりとお走り下さいませ。

No title

アフリカで誕生した人類が、ユーラシア大陸に渡り、ベーリング海峡を越えていく旅は、壮大でドラマチックです。しかしその一方、地下で繰り広げられるこの物語にも圧倒されます。

頂いた答歌の「出会い」は、出会うべくして運命づけられたもの。とても素敵で大切なものですね。

鳥羽省三さん、久しぶりに鑑賞して頂きありがとうございます。暫くはページの更新も無かったのが、こうして再開されてよかったです。
昨年の題詠への参加は逡巡したのですが、今年は考える前に、参加表明しました。今年も、よろしくお願いします。

ありがとうございます

ものを知らないお気楽堂です。恥ずかしいので、なにとぞ「上人」などと呼ばないでください^^;

お知らせ頂きながら間延びの訪問で恐縮です。
鳥羽さんも「新選組!」ご覧になったのですね。

そういえば、逆さにした箒には手ぬぐいを被せるのだった、と後になって思い出しました^^;

こんにちは。

いつも、丁寧にお読みいただき、ありがとうございます。
まあ、下半身の話はさておきまして(笑)
わたしを含む日本人の国防意識みたいなものを
穿って詠んだつもりでした。
プロフィール

鳥羽省三

Author:鳥羽省三
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