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一首を切り裂く(081:早)

(西中眞二郎)
    年齢の上限既に超えておれば献血車の脇足早に過ぐ

年齢から想像してみると、本作の作者の西中眞二郎氏は文語調短歌を専らにされると思われるが、意外なことに口語調短歌を得意とされているご様子である。
 だが、氏とて一首の中にまるきり文語を用いないわけでも無い。
 例えば、本作の場合は、末尾の「過ぐ」は文語動詞である。
 一首全体は明らかに口語調なのだが、終句を「足早に過ぎる」とせずに「足早に過ぐ」として、字余りになるのを防いでいるのである。
 然らば、西中氏は、口語使用を旨としながらも、口語にこだわっていると字余りになってしまうような場合にだけ文語を使用するのであろうか?
 もっと端的に言うならば、西中氏は口語と文語をごちゃ混ぜに使用するご都合主義者なのだろうか?
 そうである、と答えることも可能だが、そうでない、と答えることも可能である。
 その矛盾を克服して西中眞次郎短歌の神髄に迫るため、本作を例にとって説明してみよう。
 前述の通り、西中氏は終句を「足早に過ぎる」とせずに「足早に過ぐ」とすることによって字余りを回避した。
 その伝で行けば、「超えておれば」という三句目も、文語の複合動詞を用いて「超えをれば」とすることによって字余りを回避するはずである。
 ところが、そうはせずに、投稿作は上掲の通りなのである。
 「何が彼女をそうさせたか?」
 否、何が原因で彼はそうしたのであろうか?
 察するに、西中氏は三句目の字余りをほとんど気にかけて居られないのだ。
 いや、三句目を「超えをれば」とせずに「超えておれば」とすることによって、この作品の独特の味わいが増すだろう、と西中氏は考えたのであり、口語文語に拘泥することなく、一首全体を総合的に判断してその局面に相応しい言葉を選択して歌作りをしているのである。 
 そこに、西中氏の教養と短歌観が感じられる。
 短歌作者に口語派も文語派も無い。
 ものに触れて一首を成そうとした時、その時その場で、万葉時代の宮廷歌人の言葉から現代の若者の言葉まで、時には、カタカナ語や外国語をも含めて、広く深く流れる言語の大河の中から、より相応しい言葉を掬い上げて来て一首を成すのである。
 これが、西中眞二郎氏の短歌観であろうと思われるし、私・鳥羽省三の短歌観でもある。
 私は、原田町氏などの作品を論評する場に於いて、「口語と文語のごちゃ混ぜ使用はいけない」と盛んに叫んで来た。
 それなのに、ここではこういうことを言う。
 そうした私の短歌観を矛盾だと指摘し、食って掛かって来られる方も居られるに違いない。
 そういう方に、私は申し上げたい。
 「あなたは、滔々と流れる言葉の大河の中に身を浸して短歌をお詠みになって居られるのか」と。
     〔答〕 滔々と流るる水に溺れつつ時に歌詠み時には読まむ  鳥羽省三


(今泉洋子)
    どれだけの時間をもつているのだらう六道の辻を足早に過ぐ

 本作の作者はコチコチの文語調短歌の読み手なはず。
 それなのに、「もつてゐるのだらう」を「もつているのだらう」としたりする。
 「百日の説法オナラ一発」とはこのことか?
 察するに作者は、「持っている」という言い方は口語的な言い方であるから、この一首は最初から首尾一貫した文語短歌を創ろうとして創ったのではありません、などと仰るのでありましょうか。
 もし、そうならば、「もって」を「もつて」としたり、「だろう」を「だらう」としたりする必要も無いはず。
 それなのにそうするのは、奥さま歌人たちの装飾的な文語癖が原因なのだ、などと甚だ失礼なことさえ申し上げたくなる。
 でも、いくら人格者の作者とて、そこまでも申し上げたら、その激しい怨念の情を六道の辻までも引き摺って行かれるでありましょうから、それは申し上げなかったことにする。
 ところで、一口に文語と言ってもその範囲はすこぶる広く、文語文法の基準となっている平安中期とその終点の江戸末期とでは、言葉の体系が大きく異なっている。
 高校のの文語文法の教科書を開いてみるとよく解ることであるが、文語動詞「持つ」の連用形には、「持ち」という形と共に、その音便形である「持っ」という形もあって、その形に、助詞の「て」や「たり」を接続させて、「持って」「持ったり」という言い方をするのは、文語表現でもあり、口語表現でもあるのです。
 したがって、本作は、徹底的な文語短歌として意識されるならば、「どれだけの時間をもつてゐるのだらう六道の辻を足早に過ぐ」とすべきであり、どうでもよければ「どれだけの時間をもっているのだろう六道の辻を足早に過ぐ」としても宜しいかと思います。
 いずれにしても、「だろう」を「だらう」としながら、「もっている」ないしは「もつてゐる」を「もつている」などとしたら、口の悪い鑑賞者に、「奥さま歌人たちの装飾的な文語癖」と言われて笑われるのみならず、所属結社や主宰先生の恥を晒すことにもなりましょう。     
     〔答〕どれほどの時間を持っていようともが急いで行くな六道の辻  鳥羽省三
        どれほどの時間を持つてゐやうともが急いで行くな六道の辻    同
 

(髭彦)
    児らあまた早とちりなし彼の山の兎美味とて唱ひ想ひき

 このギャグを、私は飯の種としてよく使わせていただいた。
 「私は、教員生活から退いたら故郷に帰って山や川を駆け巡って暮らしたいと思います。『うさぎ追ひしかの山、小鮒釣りしかの川』。私の故郷には、<かの山>と言って兎が沢山棲んでいる山があります。<かの山>で捕れる兎は美味しい。とても美味しい。兎という小動物は、今でこそ小学校で飼われていて、夏休みになれば<いきもの係>の小学生たちがみーんな外国旅行に出かけちゃって餌をやる者が居なくなるから、その始末に困った校長と教頭が相談して、校長より偉くない教頭が、校庭の隅に穴を掘って埋めちゃった、などというニュースが、こないだのNHKのテレビで流されていたが、私の子供の頃は、よく兎を食べたものですよ。まだよちよち歩きのひよこの頃に友だちの家から貰ってきた兎を育てるために、私たち田舎の子供は、朝早く野山や田圃の畦などに出掛けて、兎の餌になる草を刈ってくる。しかし、<みみちゃん>とか<うさちゃん>とかという可愛い名前まで付けて育てた兎が、ある日突然、お父さんの手によって首を絞められて殺され、家族の者の餌にされてしまうのだ。あなた方はその残酷さに耐えられますか。その殺戮に耐えられますか。その残酷さに耐え、その殺戮に耐え得た者のみが、世界平和の美酒に酔い痴れる資格を持つことが出来るのだ。名前まで付けて可愛がった兎の肉はあまり美味しくないが、<かの山>で捕まえた兎はとても美味しいですよ」などと、どこかの国の大統領みたいなことを言って、生徒を笑わせたり、困惑させたりした。
 本作の作者もまた、私と同業者。
 髭彦氏もまた、私と同じギャグを口にして、行き詰った授業の難局を凌いでいたのであろうか。
 この一首の前に作者は、これとほとんど変わらない、「児らあまた早とちりなし彼の山の兎美味とて想ひ唱ひき」という作品を投稿し、その後すぐさま、上掲の作品を再投稿していた。
 そのどちらがより良い作品なのかは私には解らないが、作者・髭彦氏は、再投稿作品を以って決定稿とされたのである。
     〔答〕 かの山に兎走れる冬来たりかの川雪に埋もれてをらん  鳥羽省三


(ウクレレ)
    感覚は「早」ではなくて「遅」生まれ同級生のなかに混じれば

 早生まれではありませんが、わたしもまた<ウクレレ>さんと同感。
     〔答〕 早生まれとて自慢する亜紀ちゃんはクラスで一ニを争うちびっ子


(佐藤羽美)
    早春の出来事などを話すとき舌にじんわり滲みし訛り

 同郷者同士が集まって話す時に、いちばん多く話されるのは、早春の、雪解け頃の故郷の風景の美しいことについてである。
 そんな時は、みんな故郷訛りで話す。
 本作の作者の佐藤羽美さんは、今でこそ『未来』の<彗星集>で羽ばたいていらっしゃるが、元々は北東北生まれの方なのでありましょうか。
     〔答〕 この頃はお菓子の歌を詠まぬのか故郷訛りの佐藤羽美は  鳥羽省三


(田中ましろ)
    永遠にあいまいなもの 早漏は何秒からが早漏ですか

 <田中ましろ>さんは、顔を赤らめもせずにこんなことを仰って。
 でも、問われて逃げるも見苦しいから、<候文>にて答えてあげましょう。
     〔答〕 早漏は相手次第で御座候 相対的なことにて候  鳥羽省三


(蓮野 唯)
    「早く行こ」急かしてくるのは三歳児午後の散歩は楽しい冒険

 蓮野唯さんも<田中ましろ>さんと同じ話をなさっているのかと思いきや、こちらは児戯に類する内容の御歌。
 でも、こちらの答も候文にて。
     〔答〕 「早く行こ」とせかしてるのは五十歳早漏癖の者にて候  鳥羽省三


(久哲)
    謀反とかするタイミングにはちと早い深夜にたぬき蕎麦でいいかな?

 「謀反」と言えば、織田信長に謀反を起こした者は、明智光秀と荒木村重。
 この男たちの生き方は凄いよ。特に荒木村重の行き方は凄い。
 「凄い」という形容詞は彼の生き方を形容するための言葉だと思われるくらい、荒木村重の生き方は凄い。
 本作の作者・久哲氏も、この際じっくりと荒木村重の生き方について考究されたし。
 すると、簡単に「義憤」などという物々しい言葉を口にしなくなりましょう。
 明智光秀の場合は、タイミングを見計らっての謀反であったが、荒木村重の場合は、タイミングを計るも何も無く、そうせざるを得ない局面まで追い込まれての挙句の、言わば義憤に駆られての謀反であったのだ。
 謀反をしようかどうかと思案する深夜に食べる食物として最も相応しいのは「たぬき蕎麦」。
 そのことに気付いただけでも久哲氏は、歌人を名乗る資格が有る。
 しかし、久哲氏が真の歌人となるためには、他人の言葉にもう少し身を入れて耳を傾けなければならない。
 特に、私の言葉には。
 本作をまともな作品として評価してくれる鑑賞者が、いったい何人居るだろうか。三百人に余る「題詠2009」の中に。
 仮にニ、三人居たとしても、それは本作の言葉使いの珍妙さと、これから想像される作者の恍けた風貌とに惹かれてのことに過ぎないだろう。
 本作の魅力はそこにもあるが、それ以上に佳いのは、一見関係なさそうに思われる、「謀反」という言葉と「たぬき蕎麦」という言葉との深い繋がりなのだ。
 「謀反」しようかどうかとタイミングを計っているのは、徳川家康みたいな狸親父であろうが、それだけではなく、揚げ玉の他には何も入っていない、あの「たぬき蕎麦」を深夜に食べる時のじっくりとした味わいと趣きとは、「謀反」の「タイミング」を見図る時の趣きと何か通うものが在るのだ。
 本作への評価は、そこまで気が付いての評価でなければ、あまり意味の在る評価とは言えないのだ。
 この際じっくりと、深夜にたぬき蕎麦でもすするような謙虚な気持ちで、あなたの作品について私が述べて来たことを再読してみなさい。
 あなたご自身が既にお気づきになって居られるように、私はあなたの作品について、それを読んだ他人が義憤に駆られて抗議をするようなことは、ただの一度たりとも述べていない。
 そして、水田涼子さんが私に寄せられた、「久哲様の一首を私は全く不快には思っておらず、むしろ好きですよ。うるさ方の私が何故そう思うか、説明しだすとうまく纏めるのに時間がかかりそうなので・・また」というコメントもまた、あなた同様に、あなたの一首に寄せた私の観賞文が、決して悪意に基づいたものでは無いことを知っての上でのコメントだったのです。
 水田涼子さんご自身は未だにお気づきになって居られないようですが、彼女と私とは、彼女も私も別のハンドルネームを使っていた当時からの知り合いで、彼女のブロクには、作者名の異なった私の作品が、数十首掲載されているのです。
 彼女の発言の仕方は、一見すると「義憤型」のように見受けられますが、決してそうではありません。
 水田さんはご自分自ら「義憤型」を装って居られるから、あのような言い方をなさいますが、見るべきところは確かに見て居られるのですから、久哲さんがご心配なさることは何もないのです。
 それとは別に、私が何方かの作品に悪口紛いの論評をする。
 すると、当該作品の作者でも作者以外の方でも、「義憤に駆られた」紛いのコメントを寄せる。
 するとまた、どなたかがコメントを寄せる。
 「一首を切り裂く」というタイトルから推してお解りになられるでしょうが、私は、そのような展開を期待し、予想して、このブログを飽きずに更新しているのです。
 そういうわけですから、水田涼子さんも久哲さんも、また、ご両名以外の方も、ご自分の作品に関係されたコメントのみならず、他の方の作品についても、どしどしコメントをお寄せ下さい。
 勿論、その前提として、作者・作品のみならず、その展開に関わる方々への敬意と愛情とを失ってはいけませんが。
     〔答〕 久哲にお似合いなのはナポリタン朝でも昼でも夜でも食べよ  鳥羽省三
 久哲氏の一見軽薄そうでハイカラでイタ公的な詠風と風貌とが、ナポリタンスパゲッティに似通っているのです。
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No title

 明けましておめでとうございます。いつもながらの深い御洞察、敬服の至りです。私は、どちらかと言えば文語、口語にあまりこだわらない方で、深い考えもないままに、そのときどきの気分で使っているような気がします。この歌の場合、「超えておれば」は、原因をはっきりさせるためには、「超えおれば」ではニュアンスが伝わらないような気がしたものかと思います。「過ぐ」は「過ぎる」でも良いような気がして来ました。いずれにせよ、御指摘の「御都合主義」そのものだと思います。
 なお、05年7月25日の私のブログに「短歌における文語と口語」というメモを掲載しています。御指摘の御趣旨とは異なる視点からのものかと思いますが、御参考までに申し添える次第です。

うっかりミス

  鳥羽省三様

 採りあげていただき、的確なご指導有り難うございます。

 言い訳がましいですが、うつかりミスです。「い→ゐ」に訂正します。実は、投稿してからあーと気がつきましたが、、。アバウトな性格なのでまあいいかといった感じで忘れていました。あと数首あったような気がします。さすが省三先生です。一字のミスをこんなに熱く熱く時間とスぺースを使って指導いただき感謝申しあげます。文語調短歌読み手の一生の不覚でございます。文語と口語のごちゃ混ぜは一番気になります。文語にこだわる私の完璧なミステイクでした。旅の疲れといったらあまりにも言い訳がましいですね。
 それから、足早も足速がよかったかなとも後悔しました。
丁寧に読んで頂き有り難うございます。今年の題詠も参加する予定
ですので、ミスのないように一首一首丁寧に詠んでいきたいとおもいます。読者を侮る無かれですね。けっして六道の辻まで怨念を引き摺りませんのでご安心を。それにしても平安中期と江戸末期の文語文法の違いなどまでお教え頂き有り難うございました。

☆阿修羅にはほど遠き太腕に多羅波蟹喰ふねぶりねぶりて
(ミスを恥じてのやけ食い)

_(⌒▽⌒)ノ彡☆ばんばん!

 ・・・・・正月早々何書いてんですかもうっ!www
 めっちゃ笑いましたやんっ!w

 ほら、笑いすぎて挨拶忘れてるしw

 改めまして。
 あけましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしく。

おじゃまします

田中ましろ様の作品には私も思わず大笑いです!鳥羽様の「答」も一回目はお上手!

以前に、セクハラを超えて女性蔑視の短歌に、本当は優しい?私が激怒したことがあるのです。
その一部始終を鳥羽様はご存知なので、説明不足になってしまいました。

それで、どこでその線引きをするかということですが、感覚というしかないかもしれませんが・・
自分が表現なさっていることがわかっていて、素直であればいいし、センスがあったり、面白ければ更に好し・・
ということでしょうかね(笑

<お知らせ>
私のブログ作者別のカテゴリですが、多くの方の作品を掲載させて頂きたいのですが、手がまわらずに失礼しております。
(閉鎖を考えたこともあるのですが、結構便利に見にいらっしゃる方も途絶えはしていないようですので)
せっかくなので、自選の10首、過去の作品も含めお知らせくださると大変うれしく思います。
題詠以外の自選作、入れ替えたい歌、違う名前で掲載されてから纏めてほしいなどのご要望でも結構です。
ブログのリンクがそのままの髭彦様はわかりましたが、鳥羽様も意地悪しないで教えてね(笑

<お知らせ>の追記

鳥羽様 皆様

私ったらなんていう言い方をするのでしょう・・。
しばらく短歌から離れたり、お休みした時期も何回かありましたが・・・
削除しないでおりますのは、愛着があり、皆様の歌を時々見るのがとても楽しいからなのです。

私からも伺いますが、できればご本人の気に入っているお歌を掲載させて頂きたいとも思ってのことです。

熱心に他の方の歌を選び、観賞なさっている鳥羽様はじめ、多くの方を見習って、少しづつでも私も続けたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。





早飯

省三様。
毎度、ありがとうございます。
ご挨拶が遅れましたことをお詫び申し上げます。

えーと、省三様?
水田ってなっていますが、水口様では?

あの時代は大好きでして、省三様のご指摘のように
荒木村重の生き方を考えてみるに、突然の結論として
「羽柴秀吉が一番嫌な奴」となりますね。

結果的に天下人ですし、ことに大阪では「太閤はん」と言われ
明るいイメージですが、「明るくダーティ」な人は一番怖いです。

さて、そんなに深刻に困ってはいませんが
この 早 の歌にしたところで狸蕎麦にそれなりの作為は
あります。ただ、昔からよく言われていることですが

『自作が一番わからない』

要は何かに投稿などしたとして、本人が傑作だなどと、思っていて
も全く駄目。時間が無いから気に入らないけど、えーいと送った歌
が採用なんてことは良くある話ですよね。

この辺りを何か効果的かつ的確に分かる方法は、無いものかなと。

いやはや、ネットだけで自足していたもので、某カルチャーセンター
でコテンパンでしたので、参りました。

とそんなこんなで、お正月から愚痴っぽくなりましたが
ありがとうございました。

極東のパスタロードの終点で蕎麦と恋するマカロニの穴 久哲
プロフィール

鳥羽省三

Author:鳥羽省三
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