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一首を切り裂く(080:午後)

(西中眞二郎)
    若き娘(こ)に引かれて午後の道を行く犬のふぐりの左右に揺れる

 本作に感動し、私が、「拝啓、西中眞二郎様」で始まる拙文をものしたのは昨年の二月十七日のことであり、思えば私が「一首を切り裂く」の執筆を思い立ったのは、それが発端であった。
 そこで、それに誤字などの若干の訂正を加えた上で再録し、併せて、それに対する現在の自分の意見なども記してみようと思う。

 拝啓 西中眞二郎様

 日頃は拙作を多々ご選歌いただいたうえ、再三に亘ってご無理なことまでお願い申し上げ、真に恐縮に存じます。
 さて、「題詠2009」のお題「080:午後」に対する御作、「若き娘(こ)に引かれて午後の道を行く犬のふぐりの左右に揺れる」は、投稿作品中、稀に見る傑作と拝察申し上げます。
 つきましては、百首一巻の投稿を終え、完走報告をし終えた心安さから、無謀とは知りつつも、その解釈と鑑賞を試みましたので、以下に記させていただきます。

 詠い出しの「若き娘に引かれて」の「若き娘」は、人間の「若い娘」を指すのではなく、動物の「若い娘」、即ち作者・西中氏とは等号で結ばれる関係の作中の<私>の愛犬の、雌犬を指すのであろう。
 以下、そうした前提で、一首全体の解釈を試みる。
 麗らかな春の午後、作中の<私>即ち西中眞二郎氏は、折からの春風に誘われて、愛犬を散歩に連れ出そうとする。
 愛犬は若い雌犬。生来の出不精に加えて、遣らずもがなの「題詠2009」の選歌の忙しさにもかまけて、最近私は犬の散歩を怠っていたので、運動不足気味のこの犬は、私が犬舎の施錠を解く前から、まるで女の子がお気に入りの伊勢丹のケーキー屋に出掛ける時のように、「早く、早く」とばかりに、狭い犬舎の中で跳ね回っている。
 屋外に出た。予定コースは定番の○○川土手のウォーキングロードだ。運動不足のせいか、今日はなんだか身体が重い。そんな私とは関わり無く、犬は私を引くようにして、どんどんどんどん先へ先へと進んで行ってしまう。
 いい歳をして、若い娘ならぬ若い雌犬に引かれての散歩とは、いささか恥かしい。誰に観察されているわけでもないが、私は少し照れてしまう。
 まだ少し冷たいのか、と思って出て来たのだか、身体全体を撫でて行く風が意外に心地よい。そこで、さっきまで塞いでいた私の心も少しは軽くなる。春風が私の身体を押すようにして吹き過ぎる。私は、心だけではなく、身体までも軽く感じる。
 道の畔には、枯れ草に交じって、その下から萌え出た新芽がちらほら見えている。枯れ残りの「犬のふぐり」が道の左右で揺れている。植物の「犬のふぐり」だけでは無く、動物の「犬」の「ふぐり」も、オーナー様の歩みにつれて「左右に揺れる」。

 調子に乗って、つい書き連ねてしまったのだが、「植物の『犬のふぐり』だけでは無く、動物の『犬』の『ふぐり』も、オーナー様の歩みにつれて『左右に揺れる』」と書いた瞬間、私は、「あっ」と気がついて、恥かしくなった。
 そうだ、作品中の<私>を引いてゆく「若い娘」は雌犬だから、彼女の股間には「ふぐり」などぶら下がっていないのではないか。ぶら下がっていないはずの「ふぐり」が「左右に揺れる」はずはない。 あの<たんたん狸のキンタマ>だって、彼の股間にぶら下がっていればこその<風もないのにぶーらぶら>なのだ。
 すると、詠い出しの「若い娘」を、作品中の<私>の愛犬の雌犬と解したのは、間違いではなかったのだろうか?  私の考え方は根本から間違っていたのではなかったのだろうか?
 否、否、私のあの解釈は絶対だ。第一、私よりご高齢のはずの西中眞二郎氏が、人間の「若き娘(こ)に引かれて午後の道を」行ったりするはずがないではないか。それなら、昼下がりの情事ではないか。そんなことは許されるはずがないではないか。たとえ奥方様が許してもどなたが許しても、この鳥羽が許さないぞ。もし、そんなことが在ったとしたら、それは、ほとんど犯罪ではないか。西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか。『元高級歌人の犯罪』、これは立派な小説ネタになるぞ。
 待て、待て、「西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか」とは言い過ぎだ。話を面白くしようとするあまり、つい、言い過ぎてしまうのは、君にごまんと有る性格的欠陥の中でも最たるものだ。第一、作品中の<私>と作者の西中眞二郎氏を等号で結ぶのは、お前の信条に反するのではないか。
 いや、いや、つい口を滑らしてしまった<西中眞二郎氏犯罪者説>は取り消すとしても、その他のことは絶対に取り消さないぞ。作品中の<私>と実在の西中眞二郎氏とを等号で結んでしまったのもこの際は無視しよう。大事の前の小事だからな。
 それより何より、上の句の冒頭の「若き娘」を雌犬とし、下の句の「犬のふぐり」を、道端の枯れ残りの「犬のふぐり」と愛犬の「ふぐり=陰嚢」との掛詞とする、私の考え方は絶対に正しい。
 いやいや、雌犬の股間に陰嚢がぶら下がっているはずがないじゃないか。ぶら下がってもいない「ふぐり」が「左右に揺れる」はずがないじゃないか。
 いや、いや、作品中の<私>の目には、その時確かに、犬の「ふぐり」が見えたのだ。枯れ残りの「犬のふぐり」が「左右に揺れる」のと重なって、雌犬の「ふぐり」が「左右に揺れる」のも見えたのだ。この考えは、絶対に譲らないぞ。作品中の<私>の頭の中で、一瞬の間に、犬の雌雄の性転換が行われることだって、在り得るからな。
 お前はどこまでも我を張る。上の句の「若き娘」が雌犬であることは認めるにしても、下の句の「犬のふぐり」は、やはり、道端の枯れ残りの「犬のふぐり」に過ぎない。下の句は散歩の途上の道端の風景のスケッチなのだよ。
 西中眞二郎氏の短歌を馬鹿にするな。下の句が道端の風景の単純なスケッチに過ぎないとしたら、それではあまりにも、下の句の語句の働きがなさ過ぎるではないか。君の言い方は、単に西中作品に対する侮辱に止まらず、短歌文学全体に対する侮辱だ。だから、君の考えは、絶対に認めるわけにはいかない。

 いやはや、その五月蝿いこと、五月蝿いこと。在るか無きかの雌犬のキンタマを廻っての論争は、この後も果てし無く続くことであろう。
 
 そこで、この秀作の作者の西中眞二郎氏に質問致します。
 貴方は、この「犬のふぐり」論争が読者の間でやかましく交わされることを予測して、この作品を「題詠2009」にご投稿なさったのですか。
 もしそうならば、御作は<御作>ならぬ<御策>、<秀作>ならぬ<秀策>でしょう。
 とにもかくにも、歌壇の片隅のインターネット上で、今、全く新しいスタイルの短歌が呱呱の声を挙げようとしていることは確かです。
 そのニュースタイルの短歌とは、「読者を論争に巻き込んだ挙句、混乱の極に陥れて、突き放す」スタイルの短歌、 ポスト・前衛、ポスト・ライトヴァースの短歌。
 掌に付着したチューインガムのようなスタイルの短歌。チューインガムという奴は、見た目が甘そうなだけに始末に負えないからね。
 西中眞二郎様、おめでとうございます。
     人麻呂に茂吉に邦雄そして万智、そして今また西中眞二郎      鳥羽省三
 末筆乍ら、御作を無断で引用させていただいたことを、深くお詫び申し上げます。また、この戯作が、西中様に御目文字致さないことを祈念して居ります。万が一、御目に留められましたら、平にお許しあれ。                                                    敬具
          平成二十一年二月十七日                      鳥羽省三

 〔追い書き〕

 拙稿をものしてから間も無く、本作の作者の西中眞二郎氏からメールを頂戴した。
 そのメールによると、作中の「犬のふぐり」とは、動物の「犬のふぐり」であり、その「ふぐり」をぶら下げた犬は、散歩している西中氏の前を歩いて行く、年頃の娘が連れている犬だったそうだ。
 かくして、私の「犬のふぐり」論争は空振りに終わったようにも見受けられるが、作中の「犬のふぐり」を巡って、読者たちが「あれかこれか」と思案するだろうことを、本作の作者の西中眞二郎氏は、最初から計算に入れていたことだろう、という私の推測は決して的外れではないと、私は今でも信じている。
     〔答〕 空振りの犬のふぐりのあれこれは「一首を切り裂く」動機なりけり  鳥羽省三


(梅田啓子)
    冬の陽に微熱の残る身をさらす神を信じてみたくなる午後

 「冬の陽に微熱の残る身をさらす」となると、つい、そうした気にもなろう、とは思われないでもないが、短歌の出来を考えてみると、「神を信じてみたくなる午後」というこの下の句は、やや安易に過ぎた表現とも思われる。
 「神を信じてみたくなる午後」という<七七>は、「それにつけても金の欲しさよ」という<七七>同様に、どんな<五七五>とも繋がる、<黄金の七七>だからである。
     〔答〕 古池や蛙飛び込む水の音それにつけても金の欲しさよ  鳥羽省三
         金魚大鱗夕焼けの空の如きあり神を信じてみたくなる午後   同
上記二首の上の句には、それぞれ人口に膾炙した名句を使わせていただきました。


(迦里迦)
    かぶきたる午後は過ぎにき変性(へんじゃう)の生の身ひとつ水へ降りゆく

 『京鹿子娘道成寺』の続編であろうか?
     〔答〕 入相の花に見紛ふ蛇の化身「鐘に恨みは数々御座る」  鳥羽省三
 
 
(行方祐美)
    午後からの雨やわらかな音を立つ最後の切り札潜めるらしき

 三句目の「音を立つ」が「音を立てる」の意味ならば、「立つ」は、下二段活用の文語・他動詞であるはず。
 もしそうならば、二句目中の「やわらかな」は「やはらかな」としなければならないし、四句目中の「潜める」は「潜むる」とならなければならない。
 何も知らない「なんちゃって歌人」ならばともかく、行方祐美さんクラスの歌人は、仮名遣いや文法が出鱈目であってはいけない。
 「題詠2009」が、「なんちゃって歌人」さんたちの交歓パーティーになることは、どなたも望んでは居られないでしょう。
     〔答〕 潜めたる最後の切り札生臭し「わたしの勝手」の開き直りか  鳥羽省三
 

(原田 町)
    発言の機会なきまま会議すみ午後の日差しの街中に出る

 厳しいことを申せば、「午後の日差しの街中に出る」がやや安易。
 もっと厳しいことを申せば、二句目を「機会ないまま」ではなく「機会なきまま」としたら、この一首は、それで文語短歌と決まってしまうわけだ。
 すると、末尾の「出る」は「出づ」にした方がよくなるというわけ。
 原田さんの短歌は、発想の根本が口語なのだから、徹底的に口語調にした方が好い。
 なまじっか、かっこ良く見せようとして、「ないまま」を「なきまま」としたりするからボロを出す。
 誤解してはいけませんよ。
 この一首は、なかなか見所があるから採り上げたのです。
 欠点として指摘した以外のところは、全ていいところです。
 第一に、「発言してやろうと手薬煉ひいて会議に出席したら、司会者の詐術にしてやられ、発言の機会を見つけられなかった。そこでがっかりして議場を出たら、時刻はいつの間にか午後になっていて、街路には午後の陽射しが射していた」なんてことは、現代短歌の題材にするに相応しい素晴らしい情景ではありませんか。
 それを発見したのは、原田さんの経験と知識との賜物なんですよ。
 大いに自慢しても良いことなのです。
 あとは詰めの問題なのです。
     〔答〕 発言の機会なきまま会議終ゆ議場出づれば陽射し身を刺す  鳥羽省三
         発言のチャンス無いまま議事終わる議場を出たら身を刺す陽射し   同
 のっぺらぼうにしないで、適当に区切ることも覚えましょう。


(今泉洋子)
    妄想が膨らみてゆく夏の午後 青銅の指しづかなりけり

 初句は、「妄想が」でもいいが、「煩悩が」としてもいいでしょう。
 それは「笑い」としても、下の句の不備は笑って済まされない。
 「青銅の指しずかなりけり」と言われても、何のことかさっぱり解らない。
 ここは、具体的に「阿修羅像の指しづかなり」とするべきではないでしょうか。
 新年早々申し上げたくはありませんが、詠歌歴数十年の今泉洋子師にして、この失策あり。
 縁って、短歌の奥深さを知るべし。
     〔答〕 懊悩の鎮まりて行く春の午後み仏阿修羅の掌(て)のやはらかし  鳥羽省三
 

(村本希理子)
    レプリカの胸像並ぶギャラリーに深く伸びをり午後の日差しは

 「レプリカの胸像並ぶギャラリー」とは、これまた安直なギャラリーですこと。
 そこは、ギャラリーというよりも、画材屋ではありませんか。
 そんなギャラリー紛いの画材屋に、いや、画材屋紛いのギャラリーに、「深く伸びをり午後の日差しは」。
 私は、銀座裏辺りのギャラリー巡りや、青山骨董通り辺りの徘徊を趣味としている者ですが、東京・銀座も目抜き通りから一本外れると、そんなギャラリーが確かに在りますね。
 油絵も胸像も半ば色褪せて。
     〔答〕 レプリカのヴィナス像の色褪せて骨董通りの陽の斜めなり  鳥羽省三
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あけましておめでとうございます

鳥羽様
新年早々のご指導ありがとうございます。ご返歌二首目の口語調をいただきたいと思います。ただお題の「午後」が入っておりませんが、題詠だとどうしても題にとらわれて安易な発想になってしまい反省です。

青銅の指

鳥羽省三さま
  新年早々に拙作を採り上げていただきありがとうございます。
下の句の「青銅の指しづかなりけり」は訳が分からないというご指摘は
御尤もです。「銅」という題詠の苦しい舞台裏がありましたので先生お許しを。
それにしても、酒井法子が覚醒剤で捕まった前に作りましたが、「妄想が膨らむ」などは覚醒剤患者と間違われないかなと思いました。「夢」や「 妄想」を入れるとどんな
事柄をもってきてもいいという甘い考えは、深く反省することにします。
「歌歴」が「枯木」になってぽきっと折れそうな私ですが、歌との出会いは早かったのですが助走期間が少しあって真面目に詠みだして十年ですので、省三先生の足もとにも及びません。まだぴーぴーです。どうぞ宜しくご指導のほどお願い申し上げます。
☆秋津島大和の行方みつめゐる阿修羅の纏ふ千年の闇

No title

よくとりあげていただいて、また返歌もいただき恐縮です。

変性の身は自分自身のことを譬えて詠んだものでしたけど
道成寺の清姫・・そう言われればそんな読みもできますね。
ありがとうございました。
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鳥羽省三

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