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ブログ探訪(その2)

 京大短歌会のホームページの「京大短歌・歌会の記録」を開いてみると、それぞれのページごとに、その日の出席者の作品の一部を掲載した後、その末尾に、毎回必ず、次のような注意書きを記している。
 ・ このページに掲載の歌稿は、作者の許可のもとで掲載しています。
 ・ このページに掲載の歌稿は、通常の歌会等における詠草と同じ権利のもと「一切の短歌メディアに対して未発表扱い」です。ご注意ください。
 ・ 転載・引用を希望される場合は、「お問い合せ」より連絡下さい。作者の意向を尊重し、その都度対応を決定致します。
 情報メディアとして、電子メディアが印刷メディアや放送メディアに比肩するほど重要視されるに至った今日、私たちがインターネットのホームページやブログなどで読んでいる記事は、その筆者や管理者が、他人に見せることを目的の一つとして書き、常時他人に見られるような状態で記録され、公開されているものである。
 したがって、仮に誰かが、他の誰かの書いたブログなどの記事について、筆者の許可を得ないままに論評し、公開発表したとしても、その内容が関係法規に抵触しない限り、何ら問題が生じないのではないだろうか。
 そのことは、私たちが、印刷媒体や放送媒体から齎される情報などについて、その著作権の帰属者に断わらないままに、論評し公開発表しても、その内容が関係法規に抵触しない限り、何ら問題が生じないのと同様である、と私は思う。
 私のこうした思いは、単に私一人だけの思い込みではなく、世間一般の常識であり、社会通念でもあろう、とも私は思うが、もしそうならば、「京大短歌会」ともあろう有識者の集りが、一体どういう理由があって、毎回毎回飽きもせず、自らのブログの記事として、上記三項目の注意書きを掲載しているのであろうか。
 上記三項目の全部に問題があるとも思われるが、そのうち、特に第二項目の記載内容には、大きな問題があると思われ、この項目の文全体が、意味不明瞭な悪文である、と私は思う。
 第二項目には、「『このページに掲載の歌稿は、通常の歌会等における詠草と同じ権利のもと『一切の短歌メディアに対して未発表扱い』です。ご注意ください」と書いてあるが、そもそも、情報メディアとして今やゆるがせに出来ない位置にある、インターネットのホームページに記され、公開されている短歌を、ことさらに「歌稿」と呼ばねばならない理由は何処にあるのだろうか。
  「歌稿」とは、「歌=短歌を書いた原稿」のことであろうが、手元にある「新明解・国語辞典(第五版)」を開いて、「原稿」の意味を調べたところ、「【原稿】 印刷物や口頭で発表する通りに文章を紙に書いたもの」とあった。
 即ち、世間の常識に基づけば、短歌作品は、作者がそれを創り、やがてなんらかのメディアに載せて発表するために、その準備として原稿用紙などの紙に書いただけで、それが未だ何のメディアにも載っていない段階に於いては、その作品の作者であれ、誰であれ、そのものを指して「歌稿」と呼んでも構わない。勿論、この段階では、紙に書かれたその作品を、わざわざ「歌稿」と呼ばずに、「短歌」と呼んだり、「歌」と呼んだりしても、一向に差し支えないであろう。
 しかし、一旦それがメディアに載せられて、世間に公開され、発表されたら、その途端、それは直ちに<歌稿>ではなくなり、<短歌>とか、<歌>とか、<作品>とかと呼ばれる存在となる。
 この場合のメディアの範疇には、新聞や書籍・雑誌などの印刷メディア及び、テレビやラジオなどの放送メディアばかりではなく、インターネットを中心とした電子メディアも含まれること当然である。
 それが、世間の常識と言うものであろう。
 ところで、著名な歌人が、雑誌などに掲載した自作の短歌について語るとき、「ひと様の前にぶざまな歌稿を曝す結果になってしまったのは、私の不徳の致すところでして~~」などと、既に発表した自作の短歌のことを、短歌とも歌とも作品とも呼ばずに、「歌稿」と呼ぶ場面が想定されるが、前述の『新明解国語辞典(第五版)』の記載に基づいて言えば、その時のその歌人の言い方は間違いである、としなければならない。その時、その歌人が、「ひと様の前にぶざまな短歌を曝す結果になってしまったのは、~~」と語らなければならないところを、「ひと様の前にぶざまな歌稿を曝す結果になってしまったのは、~~」と語ってしまったのは、その時、その歌人の心の中が、<照れ>とか<謙遜>とかといった思いに占領されていたからだ、とか、なんらかの理由が考えられるが、インターネットのホームページという、立派な情報媒体に堂々と記録して公開発表した短歌を、「短歌」とも「歌」とも呼ばずに、その前段階であり、幕開き前の状態であることを示す言葉・「歌稿」として紹介した京大短歌会の面々の心中を占領していたのは、一体、どのような思いであろうか。
  「歌稿」がインターネットに乗って公開発表された途端に、それは「歌稿」ではなく、立派な「短歌」もしくは「歌」となる。その立派な「短歌」もしくは「歌」を、インターネットのホームページという、今や花形の電子メディアを通じて世界中に公開発表しながら、「このページに掲載の歌稿は、通常の歌会等における詠草と同じ権利のもと『一切の短歌メディアに対して未発表扱い』」です。ご注意ください」などと断わるのは何故だろうか。
 公開発表しながら「未発表扱い」にすると言い張るのは、一体、どんな根拠に基づいての理屈であろうか。
 また、この文中の「通常の歌会等における詠草と同じ権利のもと」と言う件の「権利」とは、どんな「権利」であろうか。そもそも、この際は、「歌稿」でも「短歌」でも「歌」でも構わないが、人間でも生き物でもないものが、「権利」などというご大層なものを持っているものであろうか。
 更に、「『一切の短歌メディアに対して未発表扱い』です」とあるが、「未発表扱い」の対象を「短歌メディア」に限定するのは、どんな理由があるからなのであろうか。そもそも、「短歌メディア」とは、どの範囲のメディアを指すのか。
 もしも、いかなる意味に於いても「短歌メディア」とは言えないメディア、例えば、風俗関係メディアなどが、何かの必要があって、「京大短歌・歌会の記録」に記録され、公開発表されている短歌を引用したり、転載したりするときは、その作品の作者なり京大短歌会なりの許可を得なくても良いのであろうか。
 あれやこれや考えているうちに、京大短歌会の会員ほどには頭脳明晰ではない私も、この三項目の注意書きの持つ意味が解ったような気になった。
 近年(と言うよりも、かなり前から)、京大短歌会の構成メンバーから、短歌総合誌などが主催する新人賞の受賞者や次席・受賞候補者などが輩出するようになったと聞く。京大短歌会の構成メンバーやその関係者の短歌が、短歌総合誌などの商業誌に掲載される機会が多くなったとも聞く。
 これはあくまでも私の推測であるが、京大短歌会が、一見意味不明の三項目の注意書きを自らのホームページに掲載しているのは、そのことと関係しているのではないだろうか。
 もしそうならば、それは、大変利口な遣り方と言うか、もっと端的に言えば狡い遣り方である。
 京大短歌会に限らず、仮にこの世間に、次のような短歌結社とその構成員が存在したとしたら、世間一般の人々はどう思うだろうか。
 その道の有望株揃いの集団と聞くから、ある短歌会に入会し、その歌会に出席して短歌を作った。
 せっかく作った短歌だから、その会のホームページででも公開発表し、歌仲間や世間の人々に見せびらかしたい気持ちもある。
 でも、その会のホームページで公開発表しただけでは、読者の数が少なくて見せびらかし甲斐がないし、その上、もしも、その作品を新人賞に応募する作品の中に加えようと思っても、その作品は、インターネットのホームページという立派なメディアに載せて、公開し発表した作品であるから、その新人賞の応募規定に抵触する。
 そういうことで、歌人願望の彼ないし彼女は大いに悩む。
 そうした悩める彼・彼女の救済策として、その会の幹部か誰か、とにかく中途半端に頭の切れる者が、既にメディアに載せて公開し発表した「短歌」を「歌稿」と言い張り、電子メディアで公開しただけでは「発表」したことにはならない、といった、世間の常識に逆らうような内規を作って、ホームページに掲載する。
 そこで、その短歌会は益々隆盛を極め、その短歌会の関係者が益々歌壇で羽振りを利かすようになる。
 いいがであろうか。
 終りに、少し軽口を言わせていただこう。
 京大短歌会に於いて、既に電子メディアに記録し、公開し発表した短歌を、「短歌」と呼ばずに「歌稿」と呼んだり、「未発表扱い」にしたりするのは、同会の会員同士が、熱い「兄弟仁義」ならぬ「京大仁義」で結ばれているからであろうか。
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