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師匠が支障を生む

 「今週の『朝日歌壇』から」を書くための選歌をしようとして、朝刊の「歌壇・俳壇」の頁を開いたとたん、私の目に飛び込んで来たのは、「師匠は支障を生む」「『短歌人』にエッセー」という、二行の見出し。
 朝日俳壇の「大串章選」の下に、俳壇と同じ巾のスペースを使って、その記事は掲載されている。
 『短歌人』に掲載された、このエッセーについては、あの黒田英雄氏が、ご自身のブログ『安輝素日記』で、その詳細にわたって紹介されたので、私も早速、ブログの記事を読んだところだ。
 黒田氏の紹介された当該エッセーの内容や、それについての黒田英雄氏ご自身の感想は、田舎結社の閉鎖性に辟易した経験を持つ私にとって、「良くぞ言ひたる」といったところだったので、私は即日、黒田氏及び当該エッセイの筆者の斎藤寛氏に宛てて、深甚なる謝意を込めてメールを寄せたところ、両氏からも早速丁重なるご返事があった。
 一結社に所属するそれほど有名とは言えない歌人(と言ったら、斎藤寛氏に対して失礼だろう)が、先輩や仲間の視線を気にしながらも、これだけは、という思いで書いたエッセーが所属結社の短歌誌に掲載された。
 筆者の斎藤氏にとっては、それだけでもラッキーと言わなければならないであろうが、それがまた、彼と同結社に所属し、「超うるさ型の歌人」という評判無きにしも非ず、あの黒田英雄氏のお眼鏡に叶い、そのブログ記事で絶賛された。そして、今日は今日で、お堅いことで有名兼アンチ巨人で有名な、あの朝日新聞が、貴重な紙面を割き、肯定的観点に立った紹介記事を掲載したのだ。
 おめでとう、斎藤寛さん。
 そして、大朝日新聞に先行して、斎藤寛さんのエッセーを紹介された、黒田英雄さんもおめでとう。
 あなた方が一等賞、大朝日は二等賞なのだ。
 ところが、私が今、「二等賞」と褒めたばかりの朝日新聞の記事が問題なのだ。

 「『短歌人』2月号に、斎藤寛さんが興味深いエッセー『師匠は支障を生む』を寄せている。上達を願う初心者が、評価の定まった特定歌人にあこがれ選を受ける=師事したいと思い、それを誇りとし喜びとするのは人情というものだろう。しかし、と斎藤さんは問いを投げるのだ。」という、第一段落の記述は、大朝日紙の記者の書いた文としては少したどたどしいが、それはまあ、よしとしよう。
 
 問題は、「〝何人かの師匠がいて〟〝その先生方は何を措いても偉い〟といった師弟関係を基軸とし、頂上に〝師匠風〟の歌人をいただく一部結社の存在に言及。前近代性をひきずった実態に触れ批判する」という第二段落だ。
 
 この記事の筆者は、なるべくエッセー中の語句を引用して、その趣旨を紹介しようと心掛けたのであろうが、せっかくの殊勝な心掛けも、肝心要の文意が通らなければ全くの無駄。
 
 私は、短歌とはまるきり無縁の者ではないから、この段は、一部の結社にはヒエラルキー的構造があり、エッセーの筆者の斎藤寛氏は、それを批判している、ということを述べようとしたのであることは解るが、それは、善意に立って、おおマケにマケて読めば、ということである。
 
 この記事の文脈を正確に辿って行っても、短歌結社のヒエラルキー的構造は頭に入ってこない。文脈に忠実になろうとすればするほど、何が何だか解らなくなる。
 
 「その先生方は何を措いても偉い」(とされているのが)「何人かの師匠」(たちであって)、(その)「何人かの師匠」(たちと、弟子たちとの)「師弟関係を基軸とし」、「頂上に〝師匠風〟の歌人をいただく一部結社の存在に(ついて斎藤寛氏は)言及。前近代性をひきずった(短歌結社の)実態に触れ批判する。」
 
 私は、当文章の前々段でも述べたように、この記事を書いた朝日新聞の記者は、その第二段落に於いて、短歌結社のヒエラルキー的構造とそれに対しての斎藤寛氏の批判的態度について述べようとした」のだと思ったので、前段落に於いては、適宜、必要語句を補充するなどして、その趣旨が明確になるように、文脈の整理を試みようとしたのであるが、その途中、自分の試みが殆んど無駄であることに気がついた。
 
 朝日記者の書いた記事には、「何人かの師匠」とあり、「頂上に〝師匠風〟の歌人をいただく」ともあるが、この「何人かの師匠」の「師匠」と、「頂上に〝師匠風〟の歌人をいただく」の「師匠風」との関係が、先ず判らない。

 例えば、私たちが常日頃よく食べている饂飩に、「手延べ饂飩」と、「手延べ風饂飩」があったとする。この場合、正真正銘の手延べ饂飩は「手述べ饂飩」で、「手延べ風饂飩」は、手延べ饂飩を真似て作った「機械延べ饂飩」ではないだろうか。高価なのは「手延べ饂飩」の方で、「手延べ風饂飩」の方は、その半値もしない、安物の饂飩ではないだろうか。
 
 それが、世間一般の常識というものである。

 それなのにどうして、その「一部結社」とやらは、「師匠風」を「師匠」の上位と思われる「頂上」に「いただく」のであろうか。

 重ね重ね言うが、「手延べ風」より「手延べ」が高価、「師匠風」より「師匠」が偉い、とするのが世間一般の常識である。
 
 斎藤寛氏が『短歌人』掲載のエッセーで、その「存在」について「言及」されたと朝日新聞の記事が説明している「一部結社」は、世間一般のそうした常識に反するような構造から成り立っているから、斎藤寛氏は、その結社を批判されたのであろうか。それとも、あの記事を書いた朝日新聞の記者は、「師匠」と「師匠風」の上下関係を逆に考えているのだろうか。

 そこら辺のことがとんと解らない。

 第三段落は、「〝明日の歌会の何番の歌は某先生の歌だから点を入れるように〟といった根回しがなされ、〝師匠風〟が設定した〝禁じ手〟ほか〝大原則〟に従わない作品ははじめから選外、など。斎藤さんの本意は暴露ではない。〝(歌の)教育〟をめぐる真摯な論だけに刺激的であり、同時に考えさせられた」となっているが、「明日の歌会の何番の歌は某先生の歌だから点を入れるように〟といった根回しがなされ」ることと、「〝師匠風〟が設定した〝禁じ手〟ほか〝大原則〟に従わない作品ははじめから選外」となることとは、両方とも、この「一部結社」の抱えている問題点、という点では同一であるが、前者と後者は、まるで別々の事柄ではないだろうか。もしそうならば、いくら限られたスペースの中での記事とは言え、このような書き方をしてはならない。
 また、朝日新聞が、大学などの入試問題に自紙掲載の記事が用いられていることを誇り、それを自紙購読の勧誘材料にしているならば、記事中の「斎藤さんの本意は暴露ではない」以下を改行し、第四段落を立てるべきだ。
 朝日新聞は、「斎藤寛氏のエッセイそのものが雑然としていた」などと言って、この問題から逃げてはいけない。
 斎藤寛氏のエッセイの内容や文体を「良し」と認めて紹介し、その結果が、このような意味不明瞭な悪文となったのは、他でもない、この記事を書いた記者本人の資質と、それをチェックする立場にあるデスクの、勤務態度の問題なのだ。
 斎藤寛氏のエッセイにいち早く注目し、必ずしも文明ならざるその文章の趣旨を読み取って、自身の管理するブログで紹介したのは黒田英雄氏である。
 彼の文章は、かなり過激なこと、遊びが多いこと、時たま、品性に欠けた語句を意識的に用いることなど、欠点は多々あるが、言わんとするところの壺は決して外さない。
 私は、黒田英雄氏とは違って、極論を言わないことを主義としているから、「朝日新聞の記者は、黒田英雄氏宅に日参し、彼から文章作法を学べ」などとは言わない。でも、勤務の余暇をみて、彼のブログ「安輝素日記」を覗くぐらいのことはしても、決して罰は当たらないであろう。
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