スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

一首を切り裂く(016:Uターン)

(磯野カヅオ)
   たはむれにショッピングカート弄ふ子のげになめらかにUターンせり

 故郷への場合でも、自動車運転の場合でも、Uターンすることは、大人にとっては容易に決断がつかないことであり、非常に困難なことでもある。
 なのに、買い物先のスーパーの店先で、我が子がいとも容易くそれを演じてみせるのだ。
 我と我が子との決定的な違いに驚嘆する作中の<わたし>の気持ちが、実にリアルに表現されている。
 百人以上の投稿者が、この類い稀な好個のお題「Uターン」の処置に迷われていた中に在って、この作品は掛け値無しの傑作である。それだけに、「弄ふ」の「ふ」の濁点無しが惜しまれる。
    〔答〕 ふるさとを持たぬ我が子がスーパーのショッピングカートでUターンをする

 〔補足〕 作者からのメールによると、「弄ふ」は「もてあそぶ」の意の「いらふ」とのこと。私は、字余りにかなり不満を覚えながらも、これを「もてあそぶ」とよみ、「弄ふ」とあるのは、作者のケァレスミスによる、濁点の施し忘れと思っていた。作者の磯野カヅオさんには大変失礼致しました。
 それはそれとして、この場面での「弄ふ(いらふ)」はやや硬い表現と思われる。作者ご自身が私宛てのメールで仰られたように、ここは「遊ぶ」とした方がよさそうである。すると、本作は、「たはむれにショッピングカートで遊ぶ子のげになめらかにUターンせり」となるのか?
 評者は、この作品を、お題「Uターン」を詠んだ作品中の最高傑作として、作者のお名前とともに永く記憶に止めて置きたい。
    〔答〕 磯野カヅオの「ツ」に濁点あり「弄ふ」の「ふ」に濁点なし失礼しました


(小早川忠義)
   我が為にUターンせしタクシーの扉の開く停まらぬままに

 こちらは、大人社会で演じられるUターンの活写。
 数多いタクシー運転手さんの中には、道の反対側に居るお客を見つけると、寸秒を争うかのようにしてUターンし、車が停止する前に扉を開ける者がいる。さすがプロと誉めていいのだろうか。手抜き運転と看做して乗車を見合わせればいいのだろうか。
 それはどうでも、百年に一度と総理も匙を投げ気味の不況下、ことほど然様に、大人社会での生存競争は激しいのである。
 ましてや、一度は故郷を棄てたはずの次男坊以下が職を失って帰郷した場合はどうなるか?
    〔答〕 失職しUターンせし汝(な)がために生家はドアを開けて待てるか
 誤解の無いように注釈するが、五句目「開けて待てるか」の「る」は、存続の助動詞「り」の連体形である。つまり、「ドアを開けて待てるか」で「ドアを開けて待っているか?」という意味である。


(ひいらぎ)
   格好悪いことは頭で分かっててそれでも君へUターンする

 「君」とは、一旦は作中の<わたし>に棄てられた彼である。
 大見得切って彼を袖にし、他の男へ走った挙句、その男に棄てられて元の古巣へ。
 今さらUターンすることのカッコ悪さは「頭で分かって」いても、彼女の身体は男無しでは一日としてもたない。<背に腹は変えられぬ>という譬えそのまま。
    〔答〕 <ひいらぎ>は何処にも生える樹ですから私はひょいひょい男を替える


(ぽたぽん)
   Uターン禁止と言えないわたくしは結局あなたを受け容れるでしょう

 これだから、<ひいらぎ>ごとき雑木がつけあがるのだ。
 <ぽたぽん>よ、あなたが男であろうと女であろうと、この際は問題ではない。でも、プライドってものがあるだろう。人間としてのプライドが。
    〔答〕 <ぽたぽん>と過去を忘れる私です Uターン自由いつでも帰れ


(陸王)
   牡馬をつなぐ椿の木をもとめUターンする北国街道

 <陸王>は、かつては、あの重厚なエンジン音を響かせて日本中を飛ばし回ったものだから、国内の道路のことなら隈無く知っている。だから、北国街道沿いの山際には雪椿の樹が多いことも知っている。
 だが、人間を見れば直ぐに蹴り上げ、牝馬を見れば即飛び掛って行く牡馬を繋ぐ椿の木ともなれば、少なくとも、怒張した牡馬のあれの三倍以上の直径は必要である。
 かくて、「牡馬をつなぐ椿の木をもとめUターンする北国街道 」とはなる。
 世に、「北酒場」「北の漁場」「北の湖」「北の街」などと、「北」の一字を添えることによって、風情を出そうとした安直な詩や歌は多い。
 誤解の無いように言い添えておくが、本作の五句目の「北国街道」は、それを置けば、どんな出鱈目な言葉でも短歌らしくなる、などという安直な気持ちから置かれているのではない。
 北国街道沿線は<ユキツバキ>の自生地であり、それはまた、新潟県の県木でもあるのだ。
 だから、道路通の作者<陸王>さんは、この一首の下の句を、「Uターンする北国街道」としたのだ。
 重ねて言うが、作中の<わたし>は、北国街道の至る所に生えている、ただの細い「椿の木をもとめ」て、わざわざ北国街道をUターンしているわけではない。「牡馬をつなぐ」に相応しい「椿の木をもとめ」るために、北国街道をUターンしているのである。
    〔答〕 陸王を噴かして街道上るとき牡馬はさかりて卑卑と嘶く 


(久哲)
   いく度かUターンしたこの道も途切れることがあるのでしょうか

 寡聞にして私は、世に<哲学の道>という道が在るとは聞いているが、<久哲学の道>という道が在るとは聞いていない。もし、在るとすれば、それは私にとっては、魅惑に満ちた未知の道。謎と冒険に満ちた未知の道に違いない。
 実を言うと私は、今週の週末から来週にかけて、京都散策を予定して居り、その際は、あの疎水縁の小道を歩くことにもなろう。桜の季節には未だ早いだろうが。
 本作の作者の久哲さんが「いく度かUターンしたこの道」とは、どんな道であろうか。
 私が推測するに、この「道」とは現実の道路を指すのではなく、生活の道、即ち、これまで何回と無く仕送りされて来た、故郷の家からの生活援助資金ではないだろうか。
 つまるところ、この歌の意味は、「故郷の家からの仕送りは途切れるのではないでしょうか」という、作者・久哲さんが思わず漏らしたため息のようなものである。
 髪結いの亭主のくせして、「久哲の適当緑化計画」などという、あの田中角栄顔負けの大法螺をこく。だから、三度三度のサンドイッチにも事欠く。挙句の実家頼みは、男として、あまりにも恥かしいではないか。
 それにしても、実家からの一方通行の仕送りを、「Uターン」と言うのは、いくら何でも理屈に合わないではないか?
 そこが、久哲さん流というわけだよ。
 久哲さんから実家に「カネオクレ。オナカガスイタ」とメールを送る。すると、実家から久哲さんの元に、「一つ金、数万円也」の現金書留が送られて来る。
 その繰り返しを、久哲さん言語に翻訳すると「いく度かUターンしたこの道」ということになるのである。
    〔答〕 その道はいつか必ず途切れるぞ 緑化計画止めて働け


(はしぼそがらす)
   バー伝い繰り返されるUターン リハビリ室に陽は傾いて

 リハビリ室に置かれている歩行訓練用の器具は、ちょうど、体操競技の平行棒を低くしたようなものである。
 回復期にある患者さんは、ドクターの指示に基づいて、飽くこと無くその往復を繰り返す。
 リハビリ室の窓は大きいから、折りからの夕陽が部屋一杯に射し込み、患者さんの顔の汗が光る。
    〔答〕 火の剣のごとき夕陽に看護士の青年一瞬カーテンを閉づ


(笹本奈緒)
   実家から私の箸が消えていた Uターンする故郷はありや

  「実家から私の箸が消えていた」のは、ほんの序曲。そのうちにアルバムが消え、やがては「私」についての生息の記憶の全てが消える。
 男性にしろ女性にしろ、一旦、家を後にした者が、生まれ家を実家と言えるのは、両親が生きている間だけである。
    〔答〕 叔母ちゃんの箸はないのと甥が言う 身寄するほどの実家はありや
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

鳥羽省三

Author:鳥羽省三
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。