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一首を切り裂く(010:街)

(井手蜂子)
   東京湾の見える草原ここはまだ名を持たぬ土地D-0街区

 お題「街」の投稿作品数は今のところ約百五十首。その中にあって、この作品の存在はかなりユニークである。
 山を崩したり海を埋め立てたりして工場用地や宅地を造成する有様は、崩されたり埋められたりする山や海の側からすると、それはまさしく、欲に目が眩んだ人間たちの行う、勝手な侵略であり酷い暴力である。
 華やかさなどは微塵も認められない本作を、私が本稿の冒頭に置いて論じるのは、本作が、他の作品には見られないような視点、つまり、侵略されたり暴力を加えられたりする側の視点に立って詠まれているからである。
 「東京湾の見える草原」という上の句の段階ではまだ、他の作品とほとんど変わらない視点に立つものと思われるので、鑑賞者である私は、ふと、作者の胸の中に芽生えつつある抒情を感じたりもする。
 だが、「ここはまだ名を持たぬ土地D-0街区」という下の句を目にするや否や、 その気持ちは一転して拒否反応を起こし始める。
 目に入るものは、広大な天とその下の草原と、その草原から見下ろせる海だけ。風はかなり強く吹いているが、鳥も鳴かないし、波の音も聞こえない。
 作品中の<わたし>は只、その草原の荒涼たる様に見入り、その上の広大な空の重さに押し潰されるようにして立っているだけ。
 <わたし>が立っているその草原には、一応「D-0街区」という名前に似たものがあるのだが、それは言わば符号のようなものであって、そこに立ち竦んでいる<わたし>には、その無機質な土地の上に、やがて巨大な工場や団地が建てられたり、そこで働いたり、暮らしたりするような人が居るようにになるとは、思われもしない。
 たが、私たちこの作品の鑑賞者は、この<D-0街区>が、ただの荒れ果てた埋立地ではなく、「草原」であることを忘れてはいけない。

 〔答〕      
    寒いなあ、海風
    広いなあ、草原      
    草原、私は、その上空の重さに押し潰されそうだ
      
    鳥も鳴かないし、
    波音も聞こえないし
    あら草を靡かせ、海からの風が吹き過ぎて行くだけ      
      
    誰か居ないかなあ
    誰かやって来ないかなあ
    わたしと話す人が
  
    私は押しつぶされそうだ。
    あの厚い天の重さに
    あら草も吹き飛ばされそうだ
    海風の激しさに
      
    わたしは泣くことも出来ない
    あまりさびしいから
    私はため息をつくばかり
    <D-0街区>に立ち

    凄いなあ
    広いなあ
    淋しいなあ
    怖いなあ
    私ひとり佇んでいるだけの
    草原、<D-0街区>。
      
       (あつ、あそこの草原の中で、いま、何かが動いた)      
 

(jonny)
   街路樹が静かな傍観者に変わるその瞬間を見逃したのよ

 「街路樹」がただの「傍観者」ではなく、「しずかな傍観者に」変わってしまったのだと言う。
 その「静かな」という限定詞の存在によって、評者は今のところ未だ、作者の創作意図や一首全体の意味を計りかねている。
 作中の<わたし>は、「静かな傍観者」に変わってしまった「街路樹」に違和感を覚えているのだろうか。その反対だろうか。
 そうした評者の疑問に答えてくれるのは、四、五句目の「その瞬間を見逃したのよ」であろうが、その箇所をいくら凝視していても、今のところ答は見えてこない。
    〔答〕 今朝ここでひき逃げ事件があったとの街路樹たちのひそひそ話


(詩月めぐ)
   君の住む街の天気が気になって 心にいつもてるてる坊主

 評者は昨年まで二人の息子と住む地方を異にしていた。そんな時、夕方のテレビの明日の天気予報を、自身の住む土地のそれと息子たちの住む土地のそれとに注意して見ていた。
 「ああ、明日はせっかくの土曜日だから、自分の住む土地はともかく、息子の住む土地の天気は快晴であってくれればいいなあ」などと。
 作中の男女は目下長距離恋愛中らしい。本作は、その恋人同士の女性の気持ちをコミカルに表現したものであろう。
 「心はいつもてるてる坊主」という表現に、作者の性格の明るさが窺われる。HMを「詩月めぐ」などとしたのも、そうした傾向の表れではあろうが、もう四、五年も経てば、そのことが悔やまれ、HMだけではなく、「詩月めぐ」時代の作品まで抹消したくなるかも知れないが、今は今のままでいいのだ。その時、その時に、詠みたいように詠むのが短歌だ。
    〔答〕 霧かかるロンドンの癖取れなくて心にいつもバーバリーを着る 


(じゅじゅ。)
   唯一の目撃者なる街燈が やさしく照らすくちづけの宵

 近頃は盛り場での路上接吻など、ごくありふれた風景。
 私は一昨日、久しぶりに渋谷に出て行き、あのモアイ像の前で友人と待ち合わせをしたが、その小一時間ほどの間に、そうした場面を五回も見せ付けられた。
 そんな光景に見とれていたことろにやって来た友人が私に、「おい、お前は何に見とれているんだ、バカヤロー。近頃の渋谷で、アベックのキスシーンなどに見とれていたら、目玉がいくつあったって足りないよ、バカヤロー」と。「バカヤロー」を二度もだ。
 読者の皆さーん。この鳥羽がバカヤローであるかどうかは、皆さんならよーくお判りでしょう。みなさんたちの中で、この鳥羽省三をバカヤローだと看做される方はモアイ像の前に。そうでない方はハチ公像の前に一時間後に集合して下さい。
 あれ、一時間経ってもハチ公像の前には誰も集まらないぞ。普段なら待ち合わせの男女でごった返している場所に、人っこ一人居ないもんだから、鳩たちがキスしているよ。
 冗談はさて置いて、このようにありふれた路上キスシーンではあるが、やらかしているご当人は、自分達は選ばれたスターか何かのように錯覚しているから、「唯一の目撃者なる街燈が」などと言うのだ。 
 「やさしく照らす」も何も、街燈は、ただ路上を照らしているだけであって、なにも見ちゃーいねぇよ。バカヤロー。
    〔答〕 我が国に姦通罪が在ったころ路上接吻現場で逮捕


(新井蜜)
   つけてくる者のいぬこと確かめて凍った街の花屋を探す

 前作の作者に続いて、この作品の作者もまた、ある種の錯覚状態に陥っているものと、私は思う。
 上の句の「つけてくる者のいぬこと確かめて」は、このままでも宜しいのであるが、それに対応する下の句が、どうして「凍った街の花屋を探す」にならなければならないのだろうか?
 これからは新井蜜さんのこの作品を離れて、ごく一般的な話であるが、昨今のインターネット歌壇に群がる、いわゆる「歌人ちゃん」たちの中には、作品中に「凍った街」だとか「花」だとかを使いさえすれ
ば、それだけで作品がドラマチックになり、ロマンチックになるものだと錯覚している連中が居る。
 だが、そのような語句は腐り切っていて、ぷんぷんと匂いがするから、そんな作品を傑作だと認めてくれる者は一人として居ないはずだ。
 あの一見軽そうに見える穂村弘氏だとか、荻原裕幸氏だとか、加藤治郎氏だとかは、見せ掛けはあのようでも、特に言葉に敏感な種族であるから、そんな腐り切った言葉を使った作品は、絶対に認めてくれないだろう。
 それでは、短歌の中に「凍った街」とか「花」とかは、絶対に使ってはならないのかと言うと、それはそうでもない。
 私が言いたいのは、短歌表現の場面で、先人の手垢でさんざん汚されてしまった言葉を使う時は、その言葉の固定的なイメージに頼って使うのではなく、その言葉に新しい生命を注ぎ込むつもりで使わなければならない、ということである。
 誤解の無いように言うが、新井蜜さんの作品は新井蜜さんの短歌観によって創作されたものであるから、それを作者の新井蜜さんがいいと判断されて投稿されたり、その世界に陶酔されたりされればいいのであって、それを私が認めないとかどうしたとかというレベルの話ではないのだ。
    〔答〕 つけて来る犬の居ぬこと確かめて坂本竜馬は寺田屋に入る
        つけて来る人が居ること気にしつつ小暗い路地の質屋に入る


(ウクレレ)
   おしなべてスタバ、ローソン、UFJあってさみしい街というもの

 しばらく首都圏を離れていた私にとって、いささか驚きものではあるが、この作品によると、今やあのスターバックスが全国至る所の盛り場に在ることになる。これが本当だとすると、私はすっかり浦島太郎になってしまったことになる。
 ローソンやUFJはともかく、あのスターバックスが至る所の街に「おしなべて」在る、と言うのは、おそらく、作者<ウクレレ>さんの虚栄心から来る誇張か、無知の証明に違いないとは思うが、その論は別として、この作品はなかなかの出来である。
 「街というもの」には、「おしなべてスタバ、ローソン、UFJ」が在って「さみしい」と言うのも、作者<ウクレレ>さんの分身と思われる作中の<わたし>の気障な性格が言わせた言葉と思えば面白い。
 いいぞ、ウクレレ。奏でよ、ウクレレ。
 昨日読んだ、なぎら健壱著『日本フォーク私的大全』に、著者のなぎら健壱が若い頃、ウクレレをマンドリンのように弦の多い楽器に改造したのはいいが、演奏していたら胴体毎折れてしまった、という馬鹿話が載っていた。
 本作の作者の<ウクレレ>さんも、私に誉められて舞い上がり、胴体毎折れてしまわないように。
    〔答〕 おしなべて農協・しまむら・地蔵様しか無くさみし村というもの 
 自作の弁解をするようで申し訳ないが、おばさんルックのあの「しまむら」が、今や全国至る所の町や村に店を構えているんだぞ。
 だから、「おしなべて農協・しまむら・地蔵様しか無くさみし村というもの」と言うのは、見栄でも誇張でも何でもない。それに第一、見栄で「しまむら」を着ている奴が何処にいるか。
    〔答〕 見栄で着る伊太利屋族のお隣りの<しまむら>様のお嬢さまです


(梅田啓子)
   引力の無くなりたるごと不安なりヒトに遭ひたく街に出でゆく

 曲解も批評の極意の一つである。
 「引力の無くなりたるごと」は、作中の<わたし>の満たされない心理状態を比喩して言うのだとは、知らないわけではないが、それを認めてしまったら、この作品があまりにも馬鹿馬鹿しくなってしまい、作中の<わたし>が、ただの浮かれ女になってしまうから、そこは知らぬふり。
    〔答〕 引力の無くなりたるが不安なり夏期休暇には地球に還らむ
 どうです皆さん、作品のスケールが幾何級数的に大きくなったでしょう。


(風天のぼ)
   溶けたくて傘をささない日もありき魚眼レンズに映るビル街

 「溶けたくて傘をささない日もありき」──そんな日も確かにありき私にも。
 下の句の「魚眼レンズに映るビル街」とは、そんな青春の日々に彷徨した街の現在の風景と過去の風景とのダブルイメージであろうか。
    〔答〕 傘無くて氷雨に濡れし日もありき井上陽水・少年時代


(髭彦)
   街並みは小ぎれいなれど美と深みいづくにあらむこの都にぞ

 髭彦さんぐらいの手だれになると、我が街・東京の賛歌ぐらいは<お茶の子さいさい>というところでしょうが、「それをやるには教養が邪魔」ということで、自作に無理矢理批評性とやらを付与しようとなさる。
    〔答〕 東京に美を求むるはご無理にて小ぎれいなれば良しとすべきか


(31pieces)
   街なんて呼べないようなこの町で飛べない理由をまだ探してる

 昨今の時世を反映して、「飛べない理由」という、この手垢に塗れた比喩を、またぞろ若者たちが使うようになったのだろうか。
 「街なんて呼べないようなこの町で」という上の句がたどたどしいだけに、それなりの深刻みは感じられる。
 昨今では、「飛んだらお仕舞い着陸出来ぬ」が常識となってしまったから、作中の<わたし>もうかつには飛べないのであろう。
    〔答〕 鳥ならば羽があるから飛べるけど君は人にて羽を持たない
        飛べるなら飛んでみせなよホトトギス 不如帰とは帰るに如かず


(ろくもじ)
   ユーミンの歌を真似して書置きはルージュで書いた。街よ、さよなら。

    〔答〕ユーミンももはやババロア ババロアもたまにはいいね特に夏には
       ユーミンの使ったルージュは資生堂 君のはダイソー百円均一


(水口涼子)
   春かおる街路樹わきのカフェテラス誰もがみんな誰かを待って

 都会の瀟洒なカフェテラスでは、誰かが誰かと語り、誰かが誰かを待っている。その光景は、昨日も今日も、そして明日も変わらない。
 都会のほの暗いカフェテラスの周りには、プラタナスが生え、公孫樹が生え、ニセアカシヤが生え、ポプラが生えている。
 プラタナスや公孫樹やニセアカシヤやポプラが生えているカフェテラスの周りの風景は、日々変わらないように見えるが、本当は、毎日毎日、少しずつ、少しずつ変化して行ってるのだ。プラタナスの葉が風に散り、公孫樹の新芽が伸び、ニセアカシヤの花が咲き、ポプラの葉が黄色く紅葉したりして。
 だから、カフェテラスで誰かと語らっている誰かよ。そして、誰かを待っている誰かよ。君たちも少しずつ少しずつ、変わって行くのだぞ、あの街路樹たちのように。話したり待ったりしている間もね。 
 あっ、ついさっきまであんなに仲良く話していたD席の男女が、いつの間にか別れ話を始めていた。たった一杯の珈琲も飲み終えない間にだよ。
    〔答〕 銀杏の匂いこもれるカフェテラス水口さんも誰かを待って


(原田 町)
   一本松とう街の名かつてありしこと麻布十番ゆきつつ思う
 荷風日記に見る麻布十番や私がかつて訪れたことのある麻布十番と、人の話に聞く今の麻布十番とでは、隔世の感があるという。
 今から四十七年前の春休みに、私は、麻布十番の商店街で電話帳配達のアルバイトをした。その頃の東京都の電話帳は厚さ十cm足らず。それを新橋の運送屋の倉庫から自転車で運び、店に配達すると七円、古いのを回収して来ると三円、合計十円の収入になった。
 あの豆菓子屋さんは今では大繁盛と聞く。
    〔答〕 思ひ出の麻布十番「豆源」の味もあらかた忘れたりしな
        <田原町>とふ街あるをふと思ふ原田町さんの歌を読みつつ


(久哲)
   街路樹に生まれましょうよソラ色の金魚を陸に呼んだ報いで

 異才・久哲さんの作品は、あくまでも、あの遠大な「久哲の適当緑化計画」の一環としてのもの。
 従って、この非才の私が、その意味を解ろうとしたり、その表現のあれこれについて詮索しようとするのは、いささか筋違いというものであろうか?
 でも、何と無く解るぞ。
 もしも私たち人類が、「ソラ色の金魚を陸に呼んだ」犯人であるならば、その「報いで」、私たちは、「街路樹に生まれ」替わって、久哲さんの「適当緑化計画」の人柱になるしかないのだから。
    〔答〕 リュウキンを作りしことの報ひにて夕焼け空はいつも真っ赤だ
 久哲さんほどの才に恵まれない私の「赤化計画」は、せいぜいこの程度でしかない。


(マトイテイ)
   空見上げ佇んでいる街角で涙は重力次第だと知る

 作者<マトイテイ>さんの分身に他ならない作中の<わたし>は、街角で空を見上げながら、本当は、懸命になって涙を堪えているのに違いない。
 だから、この一首は、彼の負け惜しみなんだよ。
    〔答〕 落涙が重力次第と言いながら君の瞳は涙で光る


(八朔)
   ほぼ同じことだと思う街角で愛されること憎まれること 

 この一首を投稿したことによって、作者<八朔>さんは、「愛される」方の人間ではなく、「憎まれる」方の人間であることが証明される。
 「八朔」とは柑橘類の一種で、少し酸味がある。
 街角で佇んでいる<八朔>さんの胸には、あの八朔のような酸っぱさがこみ上げて来る。
    〔答〕 愛憎は人の心の表裏 憎い彼女が可愛くもある


(ひぐらしひなつ)
   花街に花なくかつて花たりしひとの曲がった影ゆくばかり

 作者の<ひぐらしひなつ>さんの優しい配慮によって、「かつて花たりしひと」は、私たち鑑賞者の前に衰えた容色を曝さないで済んだ。
 その配慮とは、五句目の「影ゆくばかり」。
 「かつて花たりしひと」であっただけに、衰えた素顔を曝させるのは、かわいそうだからね。
    〔答〕 花街の花も今では姥桜 腰を曲げつつ路地裏を行く


(秋月あまね)
   わたくしは永久凍土と添い遂げる生まれた街を貶めながら

 これはまた勇敢にして冷徹な宣言であることよ。
 我等が「氷の女王」は、生まれた街によほどの恨みを抱いているものと思われる。
    〔答〕 わたくしはナウマン像かマンモスか凍土から出て展示されてる


(英田柚有子)
   いろいろはできないけれどここにいます 街路樹であることにも慣れて

 「いろいろはできないけれど」とは、もしかしたら、「一種類の街路樹の紅葉色は一色だ」という意味なのかも知れない。
 例えば、かえでの紅葉は真っ赤、ポプラの紅葉は黄色、という具合に。
    〔答〕 いろいろは出来ないでしょうが落葉の始末ぐらいは自分でしてね


(ふみまろ)
   この街にこの日本にこの地球(ほし)にそして僕にもどうか未来を

 聞かせどころは、末尾の「僕にもどうか未来を」。
 従って、本作の大部分は、聞かせどころの前の「そして」を導くための序詞の働きをしているだけ。
    〔答〕 この星のこの日本のこの街の<ふみまろ>さんに明るい未来を


(O.F.)
   街路樹を叩いて帰る夜明け前そうだマチャアキ「さらば恋人」

 「街路樹を叩いて帰る夜明け前」という上の句から、下の句「そうだマチャアキ『さらば恋人』」への転換が見事。
 ちょっと軽めの見せ掛けに惑わされて低く評価してはいけない。
    〔答〕 街路樹を叩いて歩くその癖は<成り物虐め>の名残りだろうか 
                            〔注〕 <成り物虐め>とは、その昔、桃・林檎・梨・栗などの実の成る樹木を叩くと、その年は沢山実を付けるという伝承に基づいて、正月などに子ども達がそれらの樹木を叩いたり、鉈で傷つけたりした風習。


(佐東ゆゆ)
   きみはわたしの街にきてほんとうのこいびととあそんでいった

 ニューミュージック全盛時代のどなたかの曲に、「恨みます」というのがあった。この一首は、まさにその歌の世界。
 こともあろうに「きみはわたしの街にきてほんとうのこいびととあそんでいった 」。その祟りはおそろしいぞ。さあ、惨劇の幕開けだ。
    〔答〕 <ほんとうのこいびと>と言うのは哀れ それでは君は偽のこいびと


(わたつみいさな)
   うらみごとばかりの街をあたらしい一眼レフで丁寧に撮る

 これはまた、直前の作とは、うって変わってさっぱりしていること。でも、なんだか嘘くさいなあ。
    〔答〕 うらみごとばかりの街をあたらしいライフル銃で一発見舞う


(夏実麦太朗)
   みぞれなど降りだしそうな問屋街スプーンフォーク静かに光る

 夏実麦太朗さんは名人上手。手馴れたものだ。「静かに光る」は、視覚の聴覚化。
    〔答〕 みぞれなどサービスしそうな問屋街 器(うつわ)とスプーン用意して居て


(ジテンふみお)
   はじめての街に降り立つ甲と乙 丙の噂をできるお店へ     

 中野重治の最晩年の長編小説に、『甲乙丙丁』というのが在る。どうせのことなら、そこまでやればよかったのに。
    〔答〕 はじめての曲に聴き入るAとB EのCD借りて来たのだ


(笹本奈緒)
   チャリで行く道無き道のでこぼこはレゴブロックの街の比じゃない

 「レゴブロックの街」は、街路をレゴブロックで作らないから、格別な凹凸は無いはず。
     〔答〕 道あってはじめて道と言えるのだ道なき道を行けるわけない


(暮夜 宴)
   きみの背をめじるしにして追いかけた南京街は飲茶の匂い

 横浜の中華街の土曜、日曜の人出はまさしくこの歌そのもの。
 「きみの背をめじるしにして追いかけた」は、決して誇張ではない。
 でも、評者はひねくれ者であるから、時たま、故意に誤解する。
    〔答〕 犯人を「きみ」と呼ぶのは純情派刑事逮捕後飲茶おごった


(新田瑛)
   人類が紡ぐ歴史の色合いを確かめながら老いてゆく街

 この作品に詠まれた「街」は、ヨーロッパの街であろう。日本の街は老いる前に立ち枯れる。
    〔答〕 人類に蝕まれては穴が空きもはや修理の効かぬオゾン層


(ひろうたあいこ)
   だんだんと夜になってく街あかり旅人みたいに紛れていよう

 隅々まで知り尽くした街に住み、旅人のような感覚で生きることが出来たら、と私も思う。
    〔答〕 街灯が夜になってくわけは無い 夜になるから灯りが点くのだ


(ほたる)
   スパンコールが弾けたあとの歓楽街赤い鱗の散らばる舗道

 私はかつて、スパンコール製の人魚の衣装をつけた女たちが客席をすいすいと泳ぎ回るキャバレーにボトルを置いたことがある。
 その感じがかなりリアルに出ているぞ。
    〔答〕 スパンコールの服の女が殺された千切れた服が鱗に見えた 


(岡本雅哉)
   市街地で育ったんだねやわらかくひとのあいだをすり抜けるきみ

 下記の、私の返歌は、都会育ちの六十代の友人から聞いた話そのままです。それだけに、この一首には降参気味です。
 ただひと言、傑作です。もの柔らかい語り口がよけい現実感を増します。
    〔答〕 すれ違うクルマや人をかわすのが街の子供の肝試しなの


(如月綾)
   ごくたまに逃げ出したくなる 僕のこと誰も知ることのない街へと

 私は現在、言わば、「僕のこと誰も知ることのない街」で暮らしている。居心地は決して良くない。人間は常に無いもの強請りをするものと思われる。
    〔答〕 その他の日には居心地すごくいい誰もが僕を知ってるこの街


(キャサリン)
   街路樹が空の水色突き刺して傷つきやすい季節になりぬ

 作品を見つめながらじいっと考えていた。「街路樹が空の水色突き刺して傷つきやすい季節」って、いったい何月頃を指して言うのだろうかと。
 結論から言うと、そういう季節は日本の風土には無い。敢えて言うと、それは、作者・キャサリンさんが「街路樹が空の水色突き刺して傷つきやすい季節」と思える季節。
    〔答〕 傷つくは空を突き刺す街路樹かそれとも空かそれとも人か


(ノサカ レイ)
   少しずつ街を追われていったのです 最後のグスクも失いました

 「グスク」と言ったら沖縄だ。
 本作は琉球史という史実とどの程度関わりがあるのだろうか、興味深い。
    〔答〕 歌で知る琉球哀史 追われてく沖縄の人インディアンみたい


(村本希理子)
   草色のぺたんこ靴で春をゆく街路樹の名を確かめながら

 〔答〕 いつもハイヒールを履いているOLが、たまたま履いたローヒール靴の履き心地にすっかり満足しているのだが、ある種の気取りや虚栄心が手伝って、自分の気持ちを素直に言わないで、「私ったら、こんなぺたんこ靴を履いたりして恥かしいったらありゃしない」などと、済まして人に言う。
 本作の作者も、上の句の「草色のぺたんこ靴で春をゆく」を、そういう気分で言っているのだろうか?
    〔答〕 <ぺたんこ>と言へば詩になる安靴を履きて街路をペタペタ歩む


(振戸りく)
   落書きの上にペンキを塗ってあるシャッターばかり目立つ街並み

 横浜市内の東横線の線路脇のコンクリートの壁に描かれた落書きを見たことがありますか?
 その昔は、それをいちいち白いペンキで消していたのであろうが、今では、その落書きが港・ヨコハマの観光資源の一つになっている。
    〔答〕 落書きの上にペンキも塗らないで自慢たらしく港・ヨコハマ


(酒井景二朗)
   少しづつ繁華街にも慣れようと思つて買つた切符が折れた

 奇才・酒井景二朗さんが、お題「街」を持て余しているなんて、この世の七不思議の一つ。
 「切符が折れた」って、どうってことないじゃないか、と鳥羽。   
    〔答〕 どうせなら歓楽街に慣れなさい切符がどうこう言うのを止めて


(ezmi)
   遠き日のまぼろし祖母の思い出と連れ立ち歩く日光街道

 江戸川乱歩に『押繪と旅する男』(1929・新青年)という名作がある。
 作中の<わたし>は言わば、「思い出と旅する女」。
 彼女が「祖母の思い出と連れ立ち歩く」のは「日光街道」。
 行き先にどんな釣り天上が待っているか、野次馬の私としては楽しみである。
    〔答〕 祖母連れて同行二人思い出の日光街道まぼろしの旅


(詠時)
   セルロイド人形みたいな香りさせ街のネオンへ少女溶けゆく

 作中の「少女」から漂う「香り」は、「セルロイド人形みたいな香り」であって、セルロイドの香りではない。それでは、その「セルロイド人形みたいな香り」とは、どんな香りだろうか?
 ちょっと古風で、ちょっとロマンチックで、ちょっと壊れ易くて、ちょっと甘酸っぱくて、ちょっと燃え易くて、・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
    〔答〕 セルロイド人形みたいな少女なら燃え易いからネオン街向き


(藻上旅人)
   川沿いの床鳴りのするアパートの跡に立つビルあの街はない

 鶯張りというわけでもないのに、一歩足を踏み入れればぎしぎし鳴って泣きたくなるような床板。
 清水の舞台から飛び降りるような気分で連れ込んだ彼女なのだが。そのような展開になることを覚悟して、真新しい下着に着替えて来た彼女なのだが、あのぎしぎしに吃驚して、なんだか気分が乗らないみたいだった。
 部屋の窓から釣り糸を垂らしたこともあったっけ。薬缶のお湯を零して、階下の人から怒鳴られたこともあったっけ。
 でも、あのアパートは跡形もなくなり、その跡に真新しいビルが建っていた。
 あの街は街ごと消えた。彼女とはあれっきりだ。僕の思い出は消えた。
    〔答〕 窓辺から水面(みなも)に揺れる藻が見えた青春の思い出ぎしぎしアパート
 

(花夢)
   ひだまりで満たされないと気づいても猫は街から去らないだろう

 「ひだまりだから満たされない」のか? 「ひだまりでは満たされない」のか? 
 「猫」に聞かなければ分からないのだろうか?
    〔答〕 この街は何処も彼処も日溜りで猫は炬燵で丸くなれない
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お礼

何度か歌を取り上げてくださったにもかかわらずご挨拶が遅れて大変恐縮です。この「街」でつくったマチャアキの歌は自分でも気に入っていたので、お褒めのお言葉、とてもうれしいです。励みにがんばります。さまざまな鑑賞、すごいですね。またじっくり読みにうかがいます。引き続きどうぞよろしくお願いします。
プロフィール

鳥羽省三

Author:鳥羽省三
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