スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

一首を切り裂く(005:調)

(月下燕)
   すべり落つ調律師の指ひややかにピアニッシモを響かせてゆく
 
 複合動詞「すべり落つ」は終止形だから、この歌は初句切れということになる。作者の月下燕さんはそのことを十分に承知しておられるのであろうから、ひと先ずは無用な詮索をせずに、このまま鑑賞させていただくこととする。
 題材となったのは、演奏会を前にしたピアノ調律の場面。
 今しも「調律師」は、その作業を終えたピアノの鍵盤に向かって、「指ひややかにピアニッシモを響かせてゆく」。
 調律師が冷ややかな指を真っ白な鍵盤の上に滑らせ、その最後の一音の最弱音中の最弱音を弾き終え、鍵盤から指を下げ下ろした瞬間、それを見ていた作中の<わたし>は、調理師の一瞬の指の動きを、まさに「すべり落つ」と感じたのである。
 調律師の瞬間的動作と、それを見ていた私の瞬間的感動とが、「すべり落つ」という初句に見事に表現されている。 
 最弱音である「ピアニッシモを響かせてゆく」のに相応しいのは、確かに「ひややか」な「指」ではあろう。だが、「指ひややかに」という三句目の語句からは、それだけではなく、調律師としての腕前とまんざらでもない演奏技術とを確信して陶酔境に耽っている、調律師の冷ややかな表情までもが窺われる。
  ところで、私はこの作品を初句切れと信じ、信じるがままに注釈を加えて来たが、先ほどから、私がパソコンのキーを叩いている脇に立って、次第に書き上がって行く本稿と月下燕さんの作品とを見比べていた私の妻が、「この作品の初句は、<すべり落つる>とあるべきところを作者のうっかりミスで、<すべり落つ>としたために、真面目人間のあなた(鳥羽省三のこと)は、初句切れの作品として勝手に解釈し、おまけに最大級の評価まで与えているが、それは本当は間違いかも知れないよ」などと、作者に対しても私に対しても、これ以上ないような無礼な言辞を吐いた。
 もしも、作者の月下燕さんが、私の妻のこの言葉を直接耳にしたら、月下燕さんは血相を変えて怒り出し、たちまちその場に血の雨を降らせたことでしょう。しかし、今の私としては、そのような事態が生じては困るし、かと言って、妻の発言を取り消させる程の元気もない。
 何故なら、私の妻は、年齢が私より一回りも少なく、界隈で評判の美人で、そのうえ聡明で、おまけに無類の働き者ときているから、この妻に、「私と月下燕さんと、一体どちらを取るの」などと迫られたら、しがない年金暮らしの私としては、妻を取るしかない。
 そこで、私から月下燕さんに一つお願いがあるのだが、もしも、妻の推測が当たっていたとしても、「そんなことはないよ。鳥羽さんの解釈は、私のこの作品の核心をついた名解釈だよ」といった感じで、つんと澄ましていて欲しい。それが我が家の惨劇を未然に防ぐべく、唯一無二の方法だからである。宜しくお願いします。


(じゅじゅ。)
   夜想曲 第2番 変ホ長調 白く弾ける きみの指先

 ショパンと来たか。
 「夜想曲・第2番・変ホ長調」と言えば、例のあの曲。ショパンの夜想曲の中で、いちばんポピュラーなあの曲だよ。
 「白く弾ける」がいい。
 ピアノの鍵盤の色や曲想だけではなく、演奏者である「きみ」の表情、それに加えて、その演奏を聴いている<わたし>の<きみ>に対する感情までもが彷彿とされる。


(本田あや)
   ト長調の健やかさには未だ慣れず 3Dフォトも斜めからみる

 WiKipediaの解説するところに拠ると、フランス盛期バロック音楽の代表的作曲家であるマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643~1704)は、ト長調の曲は「甘い喜ばしさを表わす」と言ったそうだ。
 ト長調の曲と言えば、クラシック音楽では、バッハのブランデンブルク協奏曲の第3番と4番、モーツァルトのセレナーデ第13番、ブラームスのヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲・第2番など。
 ポピュラー音楽では、チューリップの「サボテンの花」、松田聖子の「赤いスィートピー」など。
 確かに、甘い曲ばかりである。
 作中の<わたし>は、そのト長調の曲を「健やかさ」と評し、「未だ慣れず」と言っているが、そのことから、彼女の境遇をある程度推測することが可能だ。
 即ち、彼女は既婚のОLで子どもは未だ居ない。亭主は未だに実家離れをしていないマザコン男。
 その亭主だが、彼は週末ともなれば、未亡人で世話好きの母と実兄夫婦と二人の姪がいる実家に入り浸りであるが、たまに実家に行かなかったりすると、ト長調の甘い音楽ばっかり聴いている。
 わずか二部屋しかないマンション住まいであるから、亭主の聴いている、その甘くて健やかなト長調の曲は、否応なしに彼女の耳にも入って来る。だが、不幸なことに、彼女はその「ト長調の健やかさには未だ慣れず 」と言うよりも、ト長調の曲のその健やかさが嫌いなのである。
 彼女ら夫婦の住むマンションのリビングルームには、これの他にもう一つ、彼女の嫌いなものが在る。
 それは亭主が実家からうやうやしく頂いて来た、「3Dフォト」フレーム入りの姪たちのお写真。
 未だに子どもが居ないし、産む気も無い彼女にとって、この写真は煩わしい以外の何物でもない。だから、それを見る時、彼女は「斜めからみる」、と言うよりも、彼女はその「3Dフォト」をほとんど見ない。
 この夫婦、早晩破局を迎えるな、との推測は評者の短慮。
 広い世の中を見渡せば、このような光景は、あそこにもここにもやたらに眼につく。この程度で離婚していたら、世の中に夫婦など、トランプの王様夫妻以外に存在しないことになる。
 だから、もしもこの作品中の<わたし>があなたご自身であったとしても、<本田あや>さんよ、決して軽挙に走らないで下さい(とか何とか言っちゃって)。
 それはどうでも、この一首は、お題の「調」を、音楽の「短調・長調」など、音楽関係の語として詠んだ作品中の最高傑作であろう。


(五十嵐きよみ)
   かしましく調弦されるヴァイオリン賑わうカフェの談笑のごと

 前述の本田あやさん作と比較すれば、この作品などは平凡過ぎて論じるに足りないが、作者・五十嵐まよみさんの、いつもの手馴れた技には見るべきものがある。
 「キイーッ、キイーッ」とやたらに「かしましく調弦されるヴァイオリン」の音は「賑わうカフェの談笑のごと」か?
 この分では、五十嵐きよみさんもそれほどハイクラスな「カフェ」には、行っていないように思われますが、どうでしょうか?


(酒井景二朗)
   調度類が少ない割に狹い部屋 本、ゴミ、そして俺自身が邪魔 
 
 高尚な音楽シリーズが終わった瞬間、それとは似ても似つかぬ、この汚い部屋。
 下の句に「本、ゴミ、そして俺自身が邪魔」とあるが、これは危ない。
 「作者の酒井景二朗さん、決して早まってはいけない。君だって、生きてさえいれば、あの『安儀素日記』や『見沼田圃の畔から』の貴重な読者の役目ぐらいは果たせるし、それに、自己犠牲精神に富んだ、『題詠2009』への君の投稿作品は、読者の間でまんざら評判が悪くはないよ」、と筆者。
 「見沼田圃の畔から」の部分は、完全にお手盛りだ。


(ウクレレ)
   過ちは二度としないと泣きだした取調室の他人丼

 酒井さんの「汚い部屋」に続いて、今度は警察署の取り調べ室。
 「他人丼」が泣かせるが、取調べに当たっている刑事は、あの藤田まこと演じるあの人情刑事か。


(はしぼそがらす)
   犯罪の調書を取られるかのようにカルテが黒く埋まっていく

 刑事の書く犯罪調書も医者の書くカルテも似たようなものである。どうせ悪いところについて書くのだから。
 おまけに近頃のカルテは、医者の質が下がったせいなのか、ドイツ語で書かれてさえいない。
 先日私が行った「××総合病院」の医師は、患者の私の目の前で「末期症状」の四文字を書き記した。勿論、目の前にいる患者の私のカルテにだ。三菱マークの黒いボールペンでだ。
 この作品の作者のハンドルネーム「はしぼそがらす」も、なんだか薄気味悪いな。その独特な細い嘴で、屍骸を啄ばむみたいで。


(村木美月)
   調和してたまるかって言うように街のポストは今日も酔ってる

 「酔ってる」のは、作品中の<わたし>です。「今日も酔ってる」とあるからには、昨日も酔ってた。そして一昨日も、一昨昨日も。もしかしたら作中の<わたし>はアル中ではないだろうか?
 「作中の<わたし>=作者」でないといいな。近頃は女性のアル中患者が多いから、私は作者の村木美月さんのことが心配だ。


(空色ぴりか)
   調布から京王線に飛び乗ってそれから俺はそれから俺は

 この作品中の「俺」もまた酔漢? 
 「調布から京王線に飛び乗って」「それから俺は」「それから俺は」地獄行きだよ。
 いや、間違いでした。列車は間もなく新宿駅に到着します。歌舞伎町は目と鼻の先です。


(髭彦)
        <調布なる地名の起源に寄せて>
   調として多摩の流れにさらされし布納めゐしか古人(いにしへびと)は

 同じ調布でも、こちらはぐぐっと高尚に、調布という地名から、その地名成立の由来となったいにしえを思い出す。
 万葉の昔、多摩川の近辺は麻布の産地として知られていた。現在、この近辺に残っている、砧や麻布などの地名はその名残である。
 「多摩川にさらす手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」という歌は、万葉集に収録されている東歌である。
 この歌は、当時、多摩川近辺に住んでいた人々が、租庸調の「調」として時の政府に納めるために、「麻を刈り取って水に漬けて皮を剥ぐ。剥いだ皮を細く裂いて糸を紡ぐ。その糸で手作りの麻布を織る。織り上がった麻布を漂白するために多摩川の清流につけて洗う。洗い終えた麻布を河川敷にさらさらになるまで晒す」といった、麻布の生産を巡る一連の作業に勤しんでいたが、それに取材して詠んだものがこの東歌なのである。
 だが、この歌葉は本質的には、「そのようにして織り上げた手作りの麻布を多摩川の水で洗って、さらさらになるまで川原で晒す、そのさらさらと言う言葉のように、更に更に、この女の子のことが、こんなにも愛しいのは、どうしたことだろうか」といった意味の相聞歌である。
 髭彦さんの作品は、調布という地名に接したことがきっかけとなって、この東歌を思い出し、その歌を念頭に置いて作ったもので、「調布付近を流れる多摩川の水に晒された麻布を、租庸調の<調>として納めていたのか、この土地の昔の人たちは」といった内容である。
 申してみれば、たったそれだけの内容の作品であるが、この作品の中に込めた、作者・髭彦さんの思いは奥深くて果てし無い。
 おそらく、ご自宅近辺と思われる、「調布」という土地の名の由来に思いを馳せ、その土地の名が、古代の税制「租庸調」の「調」とその土地の特産物「麻布」の「布」との関わりから来ていることに思いを馳せ、そこから更に、その麻布晒しの辛い作業にまつわる万葉の歌と、歌の中に描かれた一組の男女の恋物語に思いを馳せるのである。
 「たかが短歌、されど短歌」とはよく言ったもの。たった三十一音に過ぎない一首の歌に込められたものは、こんなにも豊富で、こんなにも奥深いものなのだ。
 私は、お題「001:笑」の頃から髭彦さんの作品に注目していたのであるが、髭彦さんの投稿作品の一部に、詞書を付したものがあるので、それが題詠企画の投稿規程違反になるものと誤解して、それらの作品を選定したり、それらの作品に寸評を加えたりすることを控えていた。
 然るに、この度、髭彦さんからの丁重なるメールに拠って、そのことが私の全く誤解であることを知った。今となっては私は髭彦さんに伏して謝罪するしかなく、穴があったら入りたい心境である。
 髭彦さん、何卒、平に平にご容赦の程を。

 
(井手蜂子)
   鴨肉を塩と胡椒で調えて唱える呪文火口湖へ翔べ!

 今ひとつ意味が解らなくもないが、その解らなさに魅せられて採った。
 「痛いトコ、痛いトコ、火口湖へ翔んで行け!」というわけだろう。


(西野明日香)
   ささくれに触れないようにして送る「です」「ます」調の最終メールは

 「痛いトコ」に続いて今度は「ささくれ」か。ささくれ立っている奴が多いからな。メール族には。
 従って、最終メールの文体も「です・ます」調だ。
 「わたくしはこのたびあなたを好きでなくなりましたのでお別れしたいと思います。マジです。このメールを最後にお別れです」とか。
    お別れの今日か明日かと思ひしにまさか今日とはマジに想はぬ      省三
 「今日か明日か」の「明日か」のところが、あなたのお名前の「明日香」と掛詞になっているのですよ。西野明日香さん。


(香-キョウ-)
   「優しさと ほんの少しの厳しさを 上手く調節」 恋愛講座

 カッコ内は、恋愛講座の内容の概略。「ほんの少しの厳しさ」が効く。恋愛の場面でも、本作の表現の場面でも。また、歌評の場面でも。


(佐藤紀子)
   あまりにも調子よすぎるお礼だと思はないのか「疑え、太郎!」(浦島太郎物語)

    あまりにも調子良すぎる詠みっぷり まさかこれきりじゃないよな紀子     省三    


(振戸りく)
   抹茶ソイラテより調整豆乳の抹茶風味の方が好みだ
 
 エコブーム、健康ブームの今日では、スタバで飲む「抹茶ソイラテ」なんかより、コンビニで買う「調整豆乳の抹茶風味の方が好みだ」と言う人の方が多いのが現実。
 その現実を、上手く三十一音に仕立て上げたものだ。


(月下 桜)
   桐の枝すべて天に向かいたり宇宙の調べ受信するべく

 写生と空想から成る傑作。
 未だ新芽の芽生えない頃の「桐の枝」は、「すべて天に向か」って尖がっている、まるで「宇宙の調べ」を「受信するべく」。


(ジテンふみお)
   パソコンが上気している 春に咲く花の名前を調べるうちに

 過熱したのかな? あまり<わたし>が、インターネットの「草花<ジテン>」を見るのに熱中しているから。
 春を待つ、この頃の「上気している」気分と、「春に咲く花」の取り合わせが良い。
 「パソコンが上気している」とは、なかなか言えないものですよ。私の経験から言っても。
 さすが「ジテン」だ。総選挙に立候補しても、次点くらいまでは行くカモ。


(水風抱月)
   見上げては零す吐息の糸を寄せ弓張る月の調弦の妙

 夜空に弓を張るようにして照り映えている弓張月を楽器のハープか何かに見立てて、それを「調弦の妙」として称えているのだが、この作品の良さは、言葉の運びの「妙」に有る。
 空を「見上げては零す」<わたし>の「吐息」が、もしも流れ星のように糸を引いているとしたら、その「糸を」引き「寄せ」て、夜空に「弓」を「張る」ように照り映えている弓張月の、その「調弦」技術の何と「妙」なることよ、というわけだ。
 糸巻きから次々に繰り出される糸のように作者の唇から次々に漏れて来る言葉の糸。その糸を紡ぎながら読んで行くと、作者の表現意図が解るような仕掛けになっている。
 少し舌足らずとも思われるが、これだけの意味内容を、わずか三十一音で言い尽くしたのは見事。
 これだけの作品になると、今ひとつ意味が解らないままに、その表現の美しさに魅せられて、解ったような解らないような解釈をして、「素晴らしい作品でした」などと作者に媚を売る輩も出て来るだろう。
 作者の水風抱月さんにご質問致しますが、あなたのこの作品に対する上記の私の解釈は、ほぼ作者ご自身の表現意図を汲み尽くしたものと、私は自負していますが、他に付け加えるべきものがあるとしたら、それはなんでしょうか? どうぞご教示下さい。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

No title

初めまして。香と申します。
ご丁寧に歌の分析をして頂きありがとうございます。

全ての批評を読ませて頂きましたが、ここまで細部に渡り見られているのかと思うと凄いの一言でした。
私にはできないことです。
お疲れ様でした。
プロフィール

鳥羽省三

Author:鳥羽省三
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。