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一首を切り裂く(004:ひだまり)

 冒頭に告白を一つして置く。
 これから取り上げる作品は全て、「題詠2009」のお題「004:ひだまり」に投稿された作品の中から、佳作・傑作として、私が選り抜いて来たものである。
 だが、いざ鑑賞の段になってみると、私はそれらの作品の幾首かに僅かながら不満を覚えて来た。
 何故ならば、それらは数ある投稿作品の中に在って、間違いなく佳作・傑作と言うべき位置を占めながらも、微細な観察眼を向けて鑑賞してみると、そこに今ひとつ推敲の詰めを欠いていると思われる欠点が認められるからである。
 そこで、今回は少し趣向を変え、先ずそうした作品に対して私が覚える些細な不満点を述べ、併せて、この作品は此処を此のように改めたら良くなるだろうなどとの、不遜な提案をもしてみようと思う。
 誤解が無いように重ねて言うが、これらの作品は、数多い投稿作品の中の傑作として私が選抜したものである。従って、これから述べる私の不満も、言わば、それらの作品に私が捧げるオマージュに似たものである。ましてや、それぞれの作品について私が示すはずの身の程知らずの改作案などは、丁度、豊満なママのおっぱいにしがみついて、お腹いっぱいお乳を飲みながらも、「まだ、おっぱいが欲しい。まだ欲しい」と泣き喚いている、意地汚い赤ん坊の泣き声のようなものである。
 お受け入れになられる作者殿のご自由、一笑に付されるも作者殿のご自由。何卒、平にお許しあれ。それでは稿を進めよう。


(秋月あまね)
   ひだまりに身を擦り付ける猫がいて蹴りはこび来た石もここまで

 秋月あまねさんは、「題詠2009」に参加された歌人の中でも有数の作者と思われ、私などのとうてい及ぶところではないと思われる。だが、この作品については、私はわずかながら不満を覚える。
 先ず、順序良く上の句から。
 「ひだまりに身を擦り付ける猫がいて」を、「ひだまりに身を擦り付ける猫がいる」と、三句止めにしたらどうでしょうか?
 「擦り付ける猫がいて」では、その後に起こる事柄の原因や理由を説明していることになるので、その理屈ばった言い方を嫌ってのことである。
 結社の歌会などに、上の句の末尾を「~て」にした作品を提出すると、やれ、間延びがしての、説明的だのと、ひとつ覚えの知識をご披露して、その作品を槍玉に上げるお方が居られるが、私は彼らに組するつもりは毛頭ない。
 要するに、説明を避けるべき場面では避け、避ける必要がない場面では避けないだけのことである。この作品の場合は説明的になることを避けなければならない、と思ったからこその提案である。
 だが、下の句に抱くそれに較べれば、上の句に抱く不満など物の数ではない。問題は、「蹴りはこび来た石もここまで 」という下の句である。
 作者は何故、「蹴りはこび来た石」などと、その「石」の性格を煩わしく説明するのだろうか。たどたどしい描写をわざとして、何か特別な効果を期待しているのだろうか。いや、描写ならまだしも、「蹴りはこび来た石」という言い方は、単なる説明ではないか。
 そんな無駄なことをせずに、ここはあっさりと、「石蹴りゲームもここでお仕舞い」と、言い切ってしまったらどうでしょうか?
 作中の<わたし>がしている「(石の)蹴りはこび」が、仮にゲームといった性格のものではなく、実用的な労働であるとするなら別の話ではあるが、まさか作中の<わたし>には、蹴って運んできた石を漬け物石にしたり、墓標にしたりするつもりはあるまい。
 「石蹴りゲーム」が嫌だったら、「石蹴り遊び」としても良い。「ここでお仕舞い」が嫌だったら、「ここで終了」、或いは「これでお仕舞い」・「これで終了」などとしても良い。「お仕舞い」を「おしまい」とひらがな表記にしても良い。
 そのようにしても、その石が作中の<わたし>の足に蹴られて、ひだまりに身を擦り付ける猫がいる付近まで運ばれて来たことが分るはずである。
 あの秋月あまねさんにして、このエラー有り。短歌創作の容易ならざることが理解されよう。
 私の尊敬する歌人・秋月あまねさんの忌憚のないご意見を拝聴したい。


(夏実麦太朗)
   ひだまりの真ん真ん中に陣取った太った猫が私をにらむ

 夏実麦太朗さんもまた、私が尊敬する歌人の一人である。別のハンドルネームで参加させて頂いた昨年と今年、拙作百首を詳細にお読みいただき、特選七首のご選歌まで頂いたご恩もある。
 だが、この脱俗然とした佳作には、佳作ならではの不満を私は覚える。
 「ひだまりの真ん真ん中に陣取った太った猫が私をにらむ 」。
 不満を述べる前に、この作品の優れた点を述べてみると、先ず、二句目の「真ん真ん中に」が素晴らしい。
 私を睨みつける太った猫を中心にして、ひだまりが丸く大きく明るく広がっている様が、まるでスポットライトを浴びせたかのように、浮かび上がって来るからである。
 もう一点、この作品では、お題の「ひだまり」が浮いてもいないし、遊んでもいない。
 私たちの多くは、題詠で短歌を詠む際に、与えられたそのお題を手枷、足枷として受け止め勝ちである。そのお題に縛られていることを強く感じながら作品を作り勝ちである。
 一例を上げると、このお題について私が投稿した作品、「ひだまりをひざげりと読む子らの居て我が教室は春まだ浅し」。
 この作品を作る際、私は、お題「ひだまり」を嫌悪し、完全に持て余していたのである。その挙句、「ひだまりをひざげりと読む子らの居て」などと、お題から逃避するような上の句を作って、一首全体を誤魔化しの作品に仕立ててしまったのである。
 題詠とは、必ずしも、与えられたお題を正面に据えたり、テーマにしたりして詠まなければならないものではない。だが、お題から逃れようとしたり、お題をかわそうとしたりしてばかりいてもいけないものである。
 お題を正面に据えない作品は、気の利いた作品として、その場限りの評判になることはあっても、一首としての自立性に欠けることが多いから、やがて作者自身からさえ嫌悪されるものである。
 馬鹿ではないか、鳥羽省三は!
 同じ軽みを狙った作品でも、夏実麦太朗さんの作品と私の作品とでは、天道さんと番頭さんほどの違いがある。どちらが天道さんでどちらが番頭さんであるかは、いちいち説明する必要がないだろう。
 とは言え、私は、この作品とその作者の才能に完全に屈服しているわけではない。なぜなら、この作品には絶対に見逃し出来ない欠点が在る、と私は思うからである。
 その欠点とは、三句目の「陣取った」の「た」である。
 文法的な注釈を加えると、この「た」は「太った」の「た」と同じく、口語文法の<完了>または<確認>の助動詞の連体形である。
 従って、文意は「陣取った犬」そして「太った犬」となり、「太った」と同様に、「陣取った」もまた、体言「犬」の修飾語としての働きしかしないことになる。
 わずか三十一音でしかない字数の中で、言葉をそのように不経済に使ってはいけない。
 それでは、この三句目はどうあれば良いのか? 
 結論は既に出掛かってはいるが、この句は、「陣取った」ではなく、「陣取って」でなければいけない。
 先ほど、秋月あまねさん作の解説の中で、私は、この接続助詞の「て」を無効有害として退けたが、彼処では無効として退けられた此の「て」が、此処では有効として推奨されるのである。
 「ひだまりの真ん真ん中に陣取って 太った猫が私をにらむ」と、この作品はこうなるべきである。
 一字空きを多用するのは詠歌の邪道と言われるが、それが許されるならば、この作品の上の句と下の句の間は、一字空きにした方が良い。結社や個々の歌人の短歌観から、一字空きになっていない場合も多いが、そういう場合でも、鑑賞者は一字空きになっているような気持ちで、「ひだまりの真ん真ん中に陣取って」と読んでから、一呼吸か半呼吸置いて、「太った猫が私をにらむ」と読むのである。
 何が故に「陣取った」ではなく、「陣取って」でなければならないのかと言うと、「陣取った」では、「太った」と同じに「犬」に係る修飾語の働きをするだけの句となり、省略された上の句の主語「犬」を受けての述語としての役割を果たしている「陣取って」よりは、一首の中での重みや働きが比較にならないほど低くなるからである。
 あの夏実麦太朗さんにしては千慮の一失、手痛いエラーではある。
 私の尊敬する夏実麦太朗さんの、忌憚の無いご意見を拝聴したい。


(伊藤夏人)
   ひだまりに君をたっぷり漬け込んで凍った本音を発掘しよう

 伊藤夏人さんもまた、かなりの力量を持った歌人である。そのことを証明するかのように、この作品は、自分の本音を絶対に言わない彼女のその「本音」を、「凍った本音」とするなど、なかなか面白い作品である。
 この作品の欠点を一つ二つ上げるとすれば、五句目「発掘しよう」が、それ以前の叙述とややバランスを欠いていることも惜しまれるが、何と言っても、最大の欠点は、副詞「たっぷり」の置かれた位置と、その座りの悪さであろう。
 伊藤さんの作品では、この「たっぷり」が、「漬け込んで」という文節に係る連用修飾語になっているが、私はこれを、「君を漬け込んで」という連文節の修飾語にしたいと思うのである。
 つまりこの歌を、「ひだまりにたっぷり君を漬け込んで凍った本音を発掘しよう」と改作したらどうかと、言いたいのである。
 「君をたっぷり漬け込んで」と「たっぷり君を漬け込んで」とでは、どう違うのか、と、ご質問になられる方が居られるかも知れない。
 そういう方には、私はこう答えよう。
 この作品の中で副詞「たっぷり」の果たす役割は、ホウレン草のおひたしにかけるお醤油のようなものであり、文節「君を」は、ホウレン草のおひたしを美味しく食べようとする時に、茹でたホウレン草の上に乗っける「鰹節」のようなものである、と。
 ホウレン草のおひたしを美味しく食べるためには、先ず、裏の畑からホウレン草を採って来る(スーパーや八百屋から買って来てはいけない)。→根を切ってから洗い、そして茹で、食べ頃の長さに切ってお皿に盛る。→それに鰹節をかけ、→最後に醤油をかけて食べる。
 これらの一連の行程は順序立って行われなければならない。畑から採って来る前に洗ったり、茹でる前に鰹節を掛けたりするようなことは、どんな阿呆だってしないに違いないが、ひょっとすると、「鰹節を乗っける→醤油をかける→食べる」の行程には狂いが生じるかも知れない。
 何故なら、鰹節など乗っけなくても、醤油さえかけたら、一応は食べられるからである。また、鰹節を乗っける前に醤油をかけ、その後で鰹節を乗っけても一応は食べられるからでもある。
 だが、それは一応食べられる、というレベルの話であって、美味しい食べ方とは言えない。
 最初から断わっているように、私はあくまでも、「ホウレン草のおひたしの<美味しい食べ方>」を説明しようとしているのである。従って、一応は食べられるからといって、「鰹節を乗っける→醤油をかける」の順序は、絶対に逆にしてはならない。
 このホウレン草のおひたしの美味しい食べ方の、「鰹節を乗っけてから醤油をかける」に相当するのが、前述の伊藤夏人作の短歌について私が提案した、「君をたっぷり漬け込んで」ではなく「たっぷり君を漬け込んで」という連文節なのである。これらの連文節中の「君を」は、言わば、ホウレン草のおひたしの美味しい食べ方の行程中の「鰹節を乗っける」に相当するのである。
 ホウレン草のおひたしの美味しい食べ方の進行過程と、伊藤夏人作の短歌中のこの連文節の語順とは、一見逆みたいに見えるから少し解り難いが、要するに、おひたしの上に鰹節を乗っけてから醤油をかければ、醤油の味と共に醤油によって溶かされた鰹節の味もおひたしに沁み込むから美味しいように、文節「漬け込んで」ではなく、連文節「君を漬け込んで」の上に副詞「たっぷり」を置けば、
修飾語としての副詞「たっぷり」の働きが、連文節「君を漬け込んで」の全体に及ぶから、意味上に加えて見た目上も効果的だろう、ということである。
 お解りになられたでしょうか?
 

(イマイ)
   吹き抜けの隅に見つけたひだまりを二人はよけて部屋へと戻る

 「二人はよけて」ではなく、「避けて二人は」にしたらどうでしょうか。語順を変え、「よけて」を「避けて」と漢字表記にしたのである。
 「二人は」が重要か、「よけて」が重要か、ということだが、私は、この二人が何か「ひだまり」を避けなければならない後ろめたさを持っているに違いない、と思ったので、語順を変え、ひらがな表記を漢字表記に改めたのである。
 いかがですか。イマイちかな。


(梅田啓子)
   ひだまりに夫と肉まん食みてをり ずつと死なないやうな気がする

 「ずつと死なないやうな気がする 」という下の句に実感有り。「にくまん」も効いている。
    〔答〕 死なないでずっと居れたらいいけれど生まれて死なぬ生物は無し


(五十嵐きよみ)
   選ぶならひだまりよりも水たまり裸足になって歩きたいのは

 共通項「たまり」を利用しての揚げ足取りであるが、それなら私も負けないぞ。
    〔答〕 選ぶなら水たまりより土だまり裸足になって芝生の上を
        選ぶなら土だまりより吹き溜まり裸になってみたらどうだい
 どんな問題(いや、間違いでした)、どんなもんだい! まいったか、五十嵐さん!


(斉藤そよ)
   あの角を曲がってもまだひだまりにあそぶかれらがいると思える 

 一首全体に実感有り。本当にそう思いますよね。あのひだまりで遊んでいた彼らが、それぞれ年取って、どこかで所帯を持っているなんて、信じられませんからね。
    〔答〕 あの角を曲がってしまえば帰れない彼らも君も子どもではない


(わだたかし)
   想い出はグランド脇のひだまりにひっそりそっと置いておきます

 どこの高校のグランド脇にも、そんなひだまりが必ずありました。あそこには、今でも想い出がうようよしているんでしょう。
    〔答〕 想い出はグランド脇のひだまりにそっと埋めて校門去りな


(藻上旅人)
   学食で授業をサボる昼下がりここにはいつもひだまりがある

 その「ひだまり」で語られる落武者たちの話の中に出て来る、教師・鳥羽の評判が、必ずしも悪いものばかりではなかったことが私の救いでした。
    〔答〕 学食の饂飩はとても不味かったけれども僕は毎日食べた
        学食は落武者たちの拠り所なのにいつでも温かかった

(穂ノ木芽央)
   手のひらにひだまりうけて黙りこむふたりの呼吸(いき)が吹きだまる 春

 今ひとつ意味の解らない下の句が、この一首の魅力なのかも知れません。
    〔答〕 てのひらにひだまりうけて黙してた頃がなつかし想い出帰らず


(佐藤紀子)
   ひだまりに網を拡げて繕ひし日々もありたり 若き太郎に(浦島太郎物語)

 この一首は、連作「浦島太郎物語」を代表する作品になるでしょう。ドロップダウンせずに、必ず百首詠んで下さい。
    〔答〕 ひだまりに真綿広げて掛け布団作ったあの日も今は帰らず
        中止せず必ず百首作ってね前代未聞の浦島短歌


(髭彦)
   鉢植えの草花かなしひだまりを追ひて移さむ冬の朝は

 髭彦さんの作品は常に安定していて、一寸たりともぶれない。
 「ひだまり」などという平凡なお題は、私たち作者にとって、あまり有り難くないお題なので、それに正面から挑もうとはしないものであるが、彼・髭彦さんは、それを正面に見据えて離さない。
       「鉢植えの草花かなしひだまりを追ひて移さむ冬の朝は」
 上から読んでも山本山。下から読んでも山本山。髭彦さんぐらいの歌人の作品になると、どこがどのように良い、などと言うのも失礼に当たる。
 この堂々たる作風には、文句のつけようが無い.完敗、乾杯。 
    〔答〕 鉢植えの草花うれしひだまりを追ひて移され髭彦さんに
 これが、せめてもの仕返しだい。どうだ、鸚鵡返し流とはこのことだ。 


(詠時)
   ジグソーのパズルを解きし猫たちはひだまりの中静かに午睡す

 五句目を「静かに午睡す」と字余りにしたのはどうしてでしょうか。
 「ジグソーのパズルを解きし猫たちはひだまりの中静かに午睡」でも「ジグソーのパズルを解きし猫たちはひだまりの中静かに昼寝」でもいいんじゃないですか。
 猫たちがジグソーパズルを解くという発想自体が面白いだけに、些細な欠点が惜しまれる。
    〔答〕 猫たちがジグソーパズルを解く家はひがないちにち日溜りの中
        飽きちゃったジグソーパズルを枕にし日溜りのなか子猫の昼寝


(振戸りく)
   ひだまりにおかれたものはおしなべてしあわせそうな色をしている

 「ひだまり」と言えば縁側。私の家の縁側には、いつもこんなものが置かれていた。冬を迎える準備だったのでしょうか。
    〔答〕 米・大豆・小豆・南京・ささげ豆・日向日溜りいつもポカポカ


(末松さくや)
   ひだまりでそれの名前を呼びながらマトリョーシカを並べていたね

 上京し立ての頃、新宿・ニ幸のピロシキ売り場に並べられていたマトリョーシカを思い出します。実演販売をやっていたロシヤ人の太ったおばさんがまた、その一番大きいのとよく似ていたこと。今、あの二幸はそのまま在るのでしょうか?    
    〔答〕 ひだまりでマトリョーシカの名を呼んでいたあの頃を昭和と名づく
        伊勢丹に二幸にコマに紀伊国屋 新宿盛り場なつかし昭和
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