一首を切り裂く(001:笑)
(たかし)
立春に象が笑うと聞くけれど涙流して笑うのかしら
私は寡聞にして、「立春の卵は立つ」ということは聞いたことがあるが、「立春に象が笑う」ということは聞いたことがない。しかし、一見してただの素人の作品とは思われない、この作品の上の句には、何か出典があるのではないだろうかと思ったので、PCに「立春に象が笑う」・「立春 象 笑」などと入力して検索してみたところ、残念ながら「立春に象が笑う」という記述そのものには一例も出会わなかった。
だが、寒い日々を耐え忍んで来て、いよいよ春を迎える喜びは万物共通のものと思われ、「立春」と「笑い」とを結びつけた記事には無数に出会った。
曰く、「立春・山笑う」「立春には鬼さえ笑う」「立春・仏像も笑う」「立春を迎えて寝たきりの父の顔にも笑いが浮かんだ」などなど。
また、それとは別に、『京の頑固のひとり言』というブログの第38話には、「京都の目抜き通りの四条通にある藤井大丸百貨店の正面に、でっかい『笑う象』八匹の垂れ幕が下がっています」という記述がなされており、それには、確かにそれらしい写真も掲載されている。
さらに加えて、「同じ京都の名刹・養源院の襖杉戸には、笑っている白象の姿が描かれていて、それは近世初期の著名な画家・俵屋宗達の作品である」という記事にも出会った。
これらの事柄を総合してみるに、「立春に象が笑う」という伝承は確かに存在し、作者の<たかし>さんは、その伝承に基づいて、この作品を作られたものと思われる。
民間伝承に基づいた「立春に象が笑うと聞くけれど」という上の句に続いて、下の句に「涙流して笑うのかしら」という七七を配して、よく佳作を成しているが、この「涙流して泣く」とは、悲劇的な結末が予想された事件が予想外の解決を見た場合など、その関係者たちが、あまりの嬉しさに「涙を流して泣いた」などとの慣用的表現が成されるが、この下の句もまた、そうした慣用的表現に倣ったものでもあろう。
だがそれとは別に、あの南国から来た巨大な象が狭い檻の中で、「待ちに待って、やっと立春にこぎつけたぞ。今年の冬は特に冷え込んで苦しんだが、ここまで来ればこっちのもんだ。矢でもバナナでも飛んで来い、ってんだ」などと言っている様も想像され、ほのぼのとした気持ちになってくる。
(本田あや)
帰り道笑った顔の犬をみた 君に電話をすることにした
像が笑う話は初めて聞いたが、犬が笑うという話はよく耳にする話だ。
家内の妹が、田園都市線沿線の横浜市青葉区美しが丘に一戸を構えているが、私たちがその家を訪れると、彼女は、「ねぇ、ねぇ、昨日ね、クロちゃんが私の顔を見て、嬉しそうにして笑ったのよ。嘘と思うでしょう。でも、本当なんだから。嘘と思って誰も信用してくれないから、ケイタイ写真でも撮っておくんだった」などなど、そのうるさいこと、うるさいこと。五月の蝿の方がよっぽどましだ。
彼女にしてみれば、亭主が根っからの会社人間で帰宅時間は午前様。高校三年と一年の息子二人も、最近は彼女でも出来たのか、帰宅時間が亭主ほどではないが超遅く、たまに早く帰っても、そろそろ五十の坂から転がり落ちようとしている、母親の話相手などにはなってくれない。
勢い、その対象は愛犬のクロちゃんに求められる訳だ。おかげで、トイプードルのクロちゃんも、啼いたり笑ったりで大忙しである。
「本田あや」さんの作品の良さは、上の句と下の句の間の一字空きと、「君に電話をすることにした」という下の句にある。これらが在ることに拠って、私たち読者は、作品の話者と、作品中の「君」との私生活の場に踏み込むことになる。
そして、「笑った犬の顔を見なければ、電話する気にならなかったのかしら。もしそうだとすると、そもそも、彼女と彼の間には何があったのかしら。二人の関係は、どの段階まで行っていたのかしら。C段階にまでは行っていなくて、B段階止まりだと思う。まさかA段階ってことはないでしょう」などと、いろいろと詮索することになる。
短歌の鑑賞とは、「言葉で以って示された作品世界と鑑賞者との対話」の別名である。だから、作品の中に自ずから鑑賞者の踏み込む余地を残した作品が傑作ということになる。
私は、西欧の教会の天上画などのルネッサンス絵画には興味を覚えない。あれらの絵が持つ完璧さと厳粛さは、鑑賞者の介入を阻止する性質のものだからである。
( A I )
ミズクラゲぷかりぷかりと笑うけど許しを請うているわけじゃない
最近はやりの水族館の大型水槽内の光景とそれに見入る人を想定しての作品か。
上の句を詳細に記すと、「ミズクラゲは(水槽の中に)ぷかりぷかりと(浮いていて、その様はまるで)笑う(ように見える)けど」となろうが、それを大胆に省略して一首に仕立てたのは、並々ならぬ作者の腕である。
ここでは、本来、擬態語である「ぷかりぷかり」が、「ミズクラゲ」が「笑う」ときの擬声語のようにも捉えられ、絶妙の効果を上げている。
「ミズクラゲ」が水槽の中に「ぷかりぷかりと」浮いていて、「ぷかりぷかりと」「笑う」としたら、その様はあまりに軽薄で卑屈で、乙姫様か誰かに「許しを請うている」ようにも見えるが、決して、そういう「わけじゃない」というわけだ。
乙姫様に「許しを請」わなければならないのは、水槽の中の「ミズクラゲ」ではなく、水槽の外の<わたし>或いは、この作品の作者の<A I>」さんではなかろうか。
罪状は「早漏」または「浮気」。この二つは軽薄短小罪にあたる。拠って緊固三時間。
( ezmi )
見たことが無いからだろうどうしても君の笑顔が思い出せない
人間以外の生物だって笑う世の中だから、本作品の「君」もたまには「笑顔」を見せたらどうだ。あの美人のモナリザだって笑っているんだぞ。それなのに、君くらいの顔で仏頂面しているのは、世間様に申し訳が立たない、ってもんだ。
(根無し草)
激痛に 苦しむ僕の 顔を見て 笑うアナタが 僕は好きです
とは言え、この種の「笑」は、あまり歓迎したくない。所詮、他人事かも知れないけど。
作中の「僕」や作者の<根無し草>さんの考え方は、明らかに倒錯的だ。
でも、広いこの世の中には、大枚を叩いて女子高生のまけたお小水を買い求めて喜ぶという倒錯オヤジも居ると言うから、この程度では序の口の手前の本中程度の倒錯か?
倒錯した世界でも、それが上手に描けていれば、それはそれで立派な短歌だ、が、この作品がそのレベルに達しているかどうかについては私は判断しない。
(西中眞二郎)
遠き縁につながる人か喪服着た一群の中に笑い声する
谷村新司の持ち歌に、「玄冬記-花散る日-」という曲がある。アルバム「昴-すばる-」の中の一曲に過ぎないので、特別にヒットはしなかったが、しっとりとした味わいの名曲である。
私は、この作品に接した時、谷村新司のあの歌を思い出した。
作品の話者(作中のわたし)と作中の死者とはどういう関係にあるのだろうかは分らないが、ある日ある時、話者はある一人物の葬儀に参列した。
ここからは、作品の記述から読み取った私の想像である。
焼香を終えた話者は、いっ時その列を離れ、自分とは住む世界を異にしてしまった人と自分との関わりなどについて、一人静かに考えていた。
と、その時。まだまだ途切れない焼香者の列の中の黒い喪服で装った一群の中から、笑い声が起こった。
あの笑い声はなんだろう、と話者は思う。そして考える。
あの笑い声を上げた一群の人たちと今日の仏様とは、親子とか兄弟とかといった深い関係でつながっているのではないだろう。この葬列の中で笑い声を立てていることからすると、あの人たちと死者とは、遠い縁(えにし)で繋がっているに過ぎないだろう、と。
ここで大事なのは、その笑い声を耳にした時、それに対して、話者は特別不快感を感じたわけではない、ということである。
「幽明境を異にす」とはよく言ったもの。
死者と話者との関係がどんなものであったにせよ、死者と自分との関わりを考え、そして、喪服を着た一群の中から上がった笑い声を耳にした時、話者の心の中に浮かんだのはこの言葉ではなかったのか、と私は思う。
誰かが死んだ時、その葬儀にはかつての同僚や同級生など大勢の人々が参列する。そして、死者の思い出話にひたり、話はそれにとどまらず大いに盛り上がる。次に死ぬのは俺だとかお前だとか、あらぬ方向にまで発展する。そして、そのうちに盛大に同級会でもしないか、などと誰かが言い出し、笑い声なども上がったりする。
そんな、ごくありふれた葬儀風景に取材したこの作品に私は感動した。
作者の西中眞二郎さんは、この作品の他に、あと九十九首の作品を投稿して、また例年のように目出度くゴールインするはずである。この後の九十九首がどんなものであるかは、私にも他の参加者にも予測がつかないし、おそらくご当人の西中さんにも予測がつかないだろう。
だが、この一首は、西中さんの永い詠歌生活の中の忘れられない一首になるだろうと思われるし、「題詠2009」に参加された人々の記憶に残るだろう一首だとも私は思う。
最後にもうひと言。この作品を一読した時、私は、この作品はこのままの形ではなく、「遠縁につながる人か喪服着た一群の中に笑い声する」とした方が良いのではないか、と思った。だが、この作品はこのままでいいのである。「遠い縁」から「い」を除いて「遠縁」とすれば、初句の字余りは一応解消するが、今のままの間延びした形が、作品内容ともマッチしていていいのである。いっそのこと、「縁」を「えにし」と読んで、初句を「遠い縁(えにし)に」と七音にしても良いと私は思っているが、そこまでの字余りは作者の慮外のことであろう。
(志慧)
4階のトイレの鏡が知っているあなたにあげるはずだった笑み
(ふみまろ)
この顔を全部知ってる鏡には作り笑いは無駄だと知った
たまたま「鏡」に取材した佳作が二首あったので並べてみた。
両者の照応は偶然にしては見事。
<志慧>さん作中の<わたし>は、結局、作中の「あなた」に「笑み」をあげなかったことになるが、その理由及び「笑み」の実態は不明。
あげなかった理由は、私たち読者が想像力と創造意欲を駆使して考えるしかないが、「笑み」の実態については、「4階のトイレの鏡が知っている」から、其処に行って、聞くか見るかすれば分るはず。
だが、意外や意外、「4階のトイレの鏡」に映った、作中の<わたし>の顔に浮かんだ「笑み」は、<ふみまろ>さん作中の<わたし>が「無駄だと知っ」て止めた、「作り笑い」だったかも知れない。
(穂ノ木芽央)
彼のひとの微笑写せし素描画(エスキス)に蝶の群れをり 弔ふ朝に
不謹慎なことを申すようだが、どなたのためのものであれ、葬式とは唯美的、象徴的な儀式である。その葬式の祭壇に遺影として、写真ではなく、「彼のひとの微笑写せし素描画(エスキス)」を飾る。そして、そのエスキスに「蝶の群れ」を配する。
本作の作者、<穂ノ木芽央>さんは、非情な唯美主義者なのだ。
「彼の死を悼んで蝶々までが・・・・・」などと誤読してはいけない。.
(中村成志)
坂の上組んだ後ろ手白いシャツ夕陽の中できみは微笑む
まるで一時代前の日活の青春映画みたいだ。浅丘るり子とか吉永小百合とか和田浩ニが出てた。 作中の<きみ>も<ぼく>も若くて健康だ。作者の中村成志さんも彼らと同様に若くて健康だろう。 私たち歌詠みの一部には若さや健康を恥らう傾向があるが、それは非生産的、退廃的、倒錯的な性向に過ぎない。
作中の若者たちと作者の健康に祝杯を。
(星野ぐりこ)
笑われて生きてきました。趣味・特技、特にないです。処女じゃないです。
これはまた、前の作品とは百八十度異なった作品。
「笑われて生きてきました。趣味・特技、特にないです。」と、自己を分析し、徹底的に貶めた後、
最後に「処女じゃないです。」と、些細な見栄を張って見せるところにこの作品の面白さがある。
でも、私のこうした読みは、もしかしたら、この作品に対する過大評価か深読みかも知れない。
少し熱を冷まして、もう少し冷静な読みをしよう。
作品内容と作者名から察するに、作者は、「<わたし>の人生は、グリコのおまけのようなものです」とでも言いたいのだろうか?
でも、グリコのおまけは「笑われ」るために付いているのではなく、喜ばれるために付いているのだぞ。なにもここまで、自分を傷つけることはないじゃないか。それとも、作中の<わたし>は、作者である私と全然別人だとでも言いたいのか。それならそれで、リアリティを失ったただの落書きになるぞ。この種の歌の価値は、糞リアリズムに徹していると認められた時に、初めて保証されるのだから。
と、いつの間にか激してしまい、ここまで書き記した時、私はあることに気がついた。
それは、作者の<星野ぐりこ>さんは必ずしも女性ではなく男性かも知れない、ということである。
それならそれで、「処女じゃないです。」という最終句の意味が一応納得がいくからである。
でも、それでは、この一首はますますリアリティを失ってしまい、公衆トイレの悪戯書きと同等になってしまう。
願わくば、この一首が超アララギ張りの糞リアリズムに徹した作品であり、前述の私の<読み>が、深読みでも誤読でもなからんことを祈る。
(伊藤夏人)
後出しのジャンケンくらいで笑ったりするから君に油断できない
私たちの周りには、朝から晩までコロコロコロコロと笑っている女性が居たりする。彼女は、それこそ<箸が転げているのを見ても笑う>。
そんな彼女に出会ったりすると、間抜けなことに私たちは、「あの子はよほどのお人好しか馬鹿だね」などと言って済ましてしまうが、この作品の話者(=作者か?)は、そんな少女はかえって油断がならない、と言うのである。
この一首を佳作たらしめたのは、「後出しのジャンケンくらいで笑ったり」という上の句である。
作者の伊藤夏人さんは、軽い言葉で重いことを言う。
伊藤納豆は粘り強くて味が良い。「題詠2009」にご参加の皆様、伊藤納豆を宜しく。血栓予防に伊藤納豆を食べよう。国産大豆100パーセントだよ。
(ひわ)
笑い声の絶えない家にしたいの と 笑い袋を孕んだ妻が
(やましろひでゆき)
家中の笑ひ袋をかき集め父帰る日の準備整ふ
「笑い袋」にしようとして仕込んだものが「泣き袋」になるかも知れないからご用心。
<ひわ>さん。あなたの方からは私が見えないでしょう。私の方からは、今のあなた方のことが実によく見えますよ。「笑い袋」を「泣き袋」にしないようにくれぐれも注意して下さい。
<やましろひでゆき>家のみなさん。「父帰る日の準備」のために、「家中の笑ひ袋をかき集め」るのは大変でしょう。でも、あなた方の家にはかき集める「笑ひ袋」があるからまだいいのですよ。それに、多分単身赴任中のお父さんが帰って来られるのが、そう度々ではないから、まだましなのですよ。
私の家には、「笑い袋」らしきものは何一つ無かったし、その上、人一倍うるさ型の私は、毎日毎日、定刻に帰って来たから、それはそれは、家族のみんなは大変だったと思いますよ。
ところで、現代社会に於ける「笑い袋」とは何か?
勉強がよく出来て聞き分けの良い子どもか、使っても使っても使い切れないお金か、家族一同の健康か。
まさか、国際会議で居眠りをしていた大臣や、その親玉の<未曾有>総理ではないでしょうね。
(水口涼子)
残されたガテマラ産の豆を煎る焦がさぬように笑って泣いた
詠い出しの「残された」が、末尾の「笑って泣いた」と呼応して、そこに何か深刻な事情があったことを窺わせる。
グアテマラをガテマラと呼ぶ叔父が居て二十年前(はたとせまえ)に撃たれて死んだ
とは、私の旧作であるが、水口涼子さん作中の<わたし>の恋人と思われる<彼>は、まさか、拙作中の<叔父>のように、ゲリラに襲撃されて死んだのではあるまい。
ともあれ、この作品の作者は、前述の冒頭と末尾の照応に加え、文科省の示した国名表記の基準では「グアテマラ」と記すべきところを、敢えて「ガテマラ」と記すことによって、それとなく登場人物の年齢や性向を示唆するなど、作中にさまざまな仕掛けを凝らしていて、焦げ臭くて近寄れない。
年配者から聴いたところによると、ハンガリーをハンガリアと呼んだり、グアテマラをガテマラと呼んだりするのは、中国をシナと呼ぶ年齢層と同じで、第二次世界大戦前に初等教育を終えた者に限られそうだ。すると作中の登場人物もまた、そうした年齢層の男女かも知れない。
さすれば、作品世界で展開されるのは、今は昔の悲恋物語である。
男性<A>が恋人である女性<B>を残して死んだ。
世間の噂によると、死亡した<A>は、さる大手商社から中南米に派遣されたやり手の商社マンで、彼の地に駐在中、コーヒー栽培プラントの中で猛獣捕獲のために仕掛けられた罠に嵌って即死したのだとか。また、その罠は、本当は猛獣捕獲のために仕掛けられたのではなく、日頃の酷使に耐えかねている現地の労働者が、自分達をそうした境遇に陥れている彼<A>を殺すために仕掛けたのだという噂も同時に聴いた。
彼の亡骸は現地のジャングルで荼毘にふされたが、数ヵ月後、その遺骨と共に幾缶かのガテマラコーヒーが恋人<B>の元に届けられた。
それから更に数ヵ月後、未だに恋人を失った痛手から立ち直っていない<B>は、今となってはたった一缶となってしまったガテマラコーヒーを、焦がさぬよう、焦がさぬよう、と大事に大事に煎るのであった。泣いたり笑ったりしながら。
想像の上に想像わ加えて、勝手なことを書き連ねてしまったが、私は、<水口涼子>さん作の世界をこのように読み解いた。
(わたつみいさな)
思いだし笑いをしつつ手帳にはあたし最後の日とだけ書いた
どうでも良いことではあるが、この作品の作者のお名前<わたつみいさな>とは、私のかつてのハンドルネームの一つであった。
元<わたつみいさな>の私がここにこうして、数ある「題詠2009」の応募作品の中から、現<わたつみいさな>さんの作品を選び出し、その評を書こうとしているのは、思えばこれも何かの縁かとは思うが、不思議な気がしないでもない。
現<わたつみいさな>さん、いつまでもお元気で。そして、カッコいいお名前を大切に。
あれあれ、これは、現<わたつみいさな>さんの遺書ではないか?
でも、「作中の<わたし>≠作者」であるから、心配ないか?
(新井恭子)
不用意に受け取ってきた微笑みを並べて冬の星座にかえる
パチンコの景品を現金に換えてくれる景品交換所があるように、私たちが日常生活の中で、不用意に「受け取ってきた微笑み」を、「冬の星座」にかえてくれる施設・「微笑み交換所」が在ればいい、と言うのかな。
いや、そうではない。そんな便利な施設があったら、ただでさえ巷に満ち溢れている「微笑み」が、もっともっと増えて、交換所ではその処理に困るだろうから。
作品中の女性<わたし>は、日常生活の中で他人から、彼女に向けて放たれた「微笑み」にしばしば遭遇する。遭遇した時、その「微笑み」の性格を一つ一つ分別して、「これはあなたが私に本当の気持ちを込めて投げかけて下さった微笑みだから頂戴します」「これは見せ掛けだけの微笑で、本当は私に対する軽蔑の念が込められたものだから、お返しします」などと、その受け取りの諾否を明らかにして、頂きたいものは頂き、頂きたくないものは頂かないようにすればいいのだが、不用意にもそのような選別をすることが出来ないまま、必要なものやら必要でないものやら、小さな身体に沢山の微笑みを抱えたまま帰宅してしまう。
そこでその処理法として、その女性は、とある冬の夜、その微笑みを冷たい夜空に並べ、冬の星座に変える、というあどけない話なのだ。
あれは乙女座、明るく心のこもった微笑みだけを並べた星座さ。あれはサソリ座、受け取った時、心にじくじくと突き刺さった微笑みを並べて作った星座さ。などなど。
(原田 町)
あやしても笑わぬ児よと嘆きおり世の中そうそう甘くはないよ
ハンドルネームは「俵万智」ならぬ「原田町」。さすれば、この作品の作者もまた、シングル・マザーなるか?それとも、その逆か?
この作品の面白さは、「世の中そうそう甘くはないよ」と言っている者が、ひょっとしたら、作中の「あやしても笑わぬ児」なのではないか? とも思われる点にある。
(天野ねい)
こんなとき君ならなんて言うのかな 僕は笑っているだけだった
〔答〕 こんなとき僕も笑っているだけだ 君も笑っているだけだったけど
あまりにもひど過ぎて、ただ笑って見ているしかない、という現実も確かに在るからな。一例を上げれば、あの<未曾有>の出来事。
(日向奈央)
さみしさで笑ってた日もあるけれどもう泣けるから大丈夫だよ
〔答〕 一通り泣いた後にはまた笑え今度の笑いは本物笑い
淋しくて泣く。嬉しくて笑う。これが常識だが、これを逆転して見せたのがこの作品の手柄。淋し過ぎて笑うしかない、という淋しさだって確かに在る。
(ジテンふみお)
片笑みで佇むままの灯台もたまには発射すればいいのに
「片笑み」とは、片方の頬に笑みを浮かべること、であるが、灯台の発光口を笑みを浮かべた片頬に見立てたのであろうか。
それはどうだか分らないが、あの「片笑みで佇むままの灯台」に、「たまには発射すればいいのに」と呼びかけたのは面白い。
灯台の形が宇宙ロケットに似ていることから、こんな奇抜な発想したのであろうが、その破れかぶれさに何とも言えない味わいがある。
(五十嵐きよみ)
プロヴァンス訛りで話す人たちの笑顔に会って夏がはじまる
「Wikipedia」の解説に拠ると、「プロヴァンス (la Provence) は、フランス南東部の地域である。『プロヴァンス』の名称は、ローマ帝国の属州(プロウィンキア、Provincia)であったことにちなみ、プロヴァンス語で Provènço や Provença などとも呼ぶ」とのことである。
「地中海気候の影響が強いことから、フランス有数の観光地の一つであるが、円高の今日、この地方には、グルメや異性を求める日本からの観光客がうろうろしている」とは、昨年夏、この地方に一ヶ月滞在して、大枚三百万円を費やして来た、家内の従兄弟の話である。
「題詠2009」をお一人で取り仕切る五十嵐きよみさんのことであるから、プロヴァンス旅行の五回や十回は当然しているはずで、現地には知人も少なくは無いだろうとは思われるが、私は、この作品中の「プロヴァンス訛り」を、「フランス南東部の地域・プロヴァンス」の現地人の話す「プロヴァンス訛り」では無くて、五十嵐さんの友人の日本人の話す「プロヴァンス訛り」と思って、この論を進めて行きたい。
その理由は、ひとえに、私たちの「題詠2009」の輝ける主催者・五十嵐きよみさんと、円高を嵩に着て、「グルメや異性を求める日本からの観光客」とを同日に論じたくないからである。
東京の青山界隈、その一廓に奇妙な訛りの日本語を話す日本人ばかりが住むマンションがある。そのマンションの名は「シャトー・プロヴァンス」。住民の話す日本語はプロヴァンス訛りなのである。
彼ら、彼女らと五十嵐きよみさんのお付き合いはかれこれ六年に及ぶ。
毎年夏の初め、「シャトー・プロヴァンス」の住民たちは、各々の友人である著名な日本人たちを招待してパーティーを開く。
かくして、五十嵐きよみさんの「夏」は、「プロヴァンス訛りで」日本語を「話す人たちの笑顔に会って」「はじまる」のである。
(髭彦)
をさなごの無邪気な笑ひ目に耳になによりうれし六十路のわれに
「目に耳に」という三句目が決め手。
「をさなごの無邪気な笑ひ」を、眼で捉え、耳で捉えて、「うれし」と思ったのである。眼で捉えたのは笑う表情。耳で捉えたのは笑い声。
ともすれば放逸に流れがちなインターネット歌壇の中で、こういうしっかりした作風の歌に出会えるのは嬉しいことだ。
立春に象が笑うと聞くけれど涙流して笑うのかしら
私は寡聞にして、「立春の卵は立つ」ということは聞いたことがあるが、「立春に象が笑う」ということは聞いたことがない。しかし、一見してただの素人の作品とは思われない、この作品の上の句には、何か出典があるのではないだろうかと思ったので、PCに「立春に象が笑う」・「立春 象 笑」などと入力して検索してみたところ、残念ながら「立春に象が笑う」という記述そのものには一例も出会わなかった。
だが、寒い日々を耐え忍んで来て、いよいよ春を迎える喜びは万物共通のものと思われ、「立春」と「笑い」とを結びつけた記事には無数に出会った。
曰く、「立春・山笑う」「立春には鬼さえ笑う」「立春・仏像も笑う」「立春を迎えて寝たきりの父の顔にも笑いが浮かんだ」などなど。
また、それとは別に、『京の頑固のひとり言』というブログの第38話には、「京都の目抜き通りの四条通にある藤井大丸百貨店の正面に、でっかい『笑う象』八匹の垂れ幕が下がっています」という記述がなされており、それには、確かにそれらしい写真も掲載されている。
さらに加えて、「同じ京都の名刹・養源院の襖杉戸には、笑っている白象の姿が描かれていて、それは近世初期の著名な画家・俵屋宗達の作品である」という記事にも出会った。
これらの事柄を総合してみるに、「立春に象が笑う」という伝承は確かに存在し、作者の<たかし>さんは、その伝承に基づいて、この作品を作られたものと思われる。
民間伝承に基づいた「立春に象が笑うと聞くけれど」という上の句に続いて、下の句に「涙流して笑うのかしら」という七七を配して、よく佳作を成しているが、この「涙流して泣く」とは、悲劇的な結末が予想された事件が予想外の解決を見た場合など、その関係者たちが、あまりの嬉しさに「涙を流して泣いた」などとの慣用的表現が成されるが、この下の句もまた、そうした慣用的表現に倣ったものでもあろう。
だがそれとは別に、あの南国から来た巨大な象が狭い檻の中で、「待ちに待って、やっと立春にこぎつけたぞ。今年の冬は特に冷え込んで苦しんだが、ここまで来ればこっちのもんだ。矢でもバナナでも飛んで来い、ってんだ」などと言っている様も想像され、ほのぼのとした気持ちになってくる。
(本田あや)
帰り道笑った顔の犬をみた 君に電話をすることにした
像が笑う話は初めて聞いたが、犬が笑うという話はよく耳にする話だ。
家内の妹が、田園都市線沿線の横浜市青葉区美しが丘に一戸を構えているが、私たちがその家を訪れると、彼女は、「ねぇ、ねぇ、昨日ね、クロちゃんが私の顔を見て、嬉しそうにして笑ったのよ。嘘と思うでしょう。でも、本当なんだから。嘘と思って誰も信用してくれないから、ケイタイ写真でも撮っておくんだった」などなど、そのうるさいこと、うるさいこと。五月の蝿の方がよっぽどましだ。
彼女にしてみれば、亭主が根っからの会社人間で帰宅時間は午前様。高校三年と一年の息子二人も、最近は彼女でも出来たのか、帰宅時間が亭主ほどではないが超遅く、たまに早く帰っても、そろそろ五十の坂から転がり落ちようとしている、母親の話相手などにはなってくれない。
勢い、その対象は愛犬のクロちゃんに求められる訳だ。おかげで、トイプードルのクロちゃんも、啼いたり笑ったりで大忙しである。
「本田あや」さんの作品の良さは、上の句と下の句の間の一字空きと、「君に電話をすることにした」という下の句にある。これらが在ることに拠って、私たち読者は、作品の話者と、作品中の「君」との私生活の場に踏み込むことになる。
そして、「笑った犬の顔を見なければ、電話する気にならなかったのかしら。もしそうだとすると、そもそも、彼女と彼の間には何があったのかしら。二人の関係は、どの段階まで行っていたのかしら。C段階にまでは行っていなくて、B段階止まりだと思う。まさかA段階ってことはないでしょう」などと、いろいろと詮索することになる。
短歌の鑑賞とは、「言葉で以って示された作品世界と鑑賞者との対話」の別名である。だから、作品の中に自ずから鑑賞者の踏み込む余地を残した作品が傑作ということになる。
私は、西欧の教会の天上画などのルネッサンス絵画には興味を覚えない。あれらの絵が持つ完璧さと厳粛さは、鑑賞者の介入を阻止する性質のものだからである。
( A I )
ミズクラゲぷかりぷかりと笑うけど許しを請うているわけじゃない
最近はやりの水族館の大型水槽内の光景とそれに見入る人を想定しての作品か。
上の句を詳細に記すと、「ミズクラゲは(水槽の中に)ぷかりぷかりと(浮いていて、その様はまるで)笑う(ように見える)けど」となろうが、それを大胆に省略して一首に仕立てたのは、並々ならぬ作者の腕である。
ここでは、本来、擬態語である「ぷかりぷかり」が、「ミズクラゲ」が「笑う」ときの擬声語のようにも捉えられ、絶妙の効果を上げている。
「ミズクラゲ」が水槽の中に「ぷかりぷかりと」浮いていて、「ぷかりぷかりと」「笑う」としたら、その様はあまりに軽薄で卑屈で、乙姫様か誰かに「許しを請うている」ようにも見えるが、決して、そういう「わけじゃない」というわけだ。
乙姫様に「許しを請」わなければならないのは、水槽の中の「ミズクラゲ」ではなく、水槽の外の<わたし>或いは、この作品の作者の<A I>」さんではなかろうか。
罪状は「早漏」または「浮気」。この二つは軽薄短小罪にあたる。拠って緊固三時間。
( ezmi )
見たことが無いからだろうどうしても君の笑顔が思い出せない
人間以外の生物だって笑う世の中だから、本作品の「君」もたまには「笑顔」を見せたらどうだ。あの美人のモナリザだって笑っているんだぞ。それなのに、君くらいの顔で仏頂面しているのは、世間様に申し訳が立たない、ってもんだ。
(根無し草)
激痛に 苦しむ僕の 顔を見て 笑うアナタが 僕は好きです
とは言え、この種の「笑」は、あまり歓迎したくない。所詮、他人事かも知れないけど。
作中の「僕」や作者の<根無し草>さんの考え方は、明らかに倒錯的だ。
でも、広いこの世の中には、大枚を叩いて女子高生のまけたお小水を買い求めて喜ぶという倒錯オヤジも居ると言うから、この程度では序の口の手前の本中程度の倒錯か?
倒錯した世界でも、それが上手に描けていれば、それはそれで立派な短歌だ、が、この作品がそのレベルに達しているかどうかについては私は判断しない。
(西中眞二郎)
遠き縁につながる人か喪服着た一群の中に笑い声する
谷村新司の持ち歌に、「玄冬記-花散る日-」という曲がある。アルバム「昴-すばる-」の中の一曲に過ぎないので、特別にヒットはしなかったが、しっとりとした味わいの名曲である。
私は、この作品に接した時、谷村新司のあの歌を思い出した。
作品の話者(作中のわたし)と作中の死者とはどういう関係にあるのだろうかは分らないが、ある日ある時、話者はある一人物の葬儀に参列した。
ここからは、作品の記述から読み取った私の想像である。
焼香を終えた話者は、いっ時その列を離れ、自分とは住む世界を異にしてしまった人と自分との関わりなどについて、一人静かに考えていた。
と、その時。まだまだ途切れない焼香者の列の中の黒い喪服で装った一群の中から、笑い声が起こった。
あの笑い声はなんだろう、と話者は思う。そして考える。
あの笑い声を上げた一群の人たちと今日の仏様とは、親子とか兄弟とかといった深い関係でつながっているのではないだろう。この葬列の中で笑い声を立てていることからすると、あの人たちと死者とは、遠い縁(えにし)で繋がっているに過ぎないだろう、と。
ここで大事なのは、その笑い声を耳にした時、それに対して、話者は特別不快感を感じたわけではない、ということである。
「幽明境を異にす」とはよく言ったもの。
死者と話者との関係がどんなものであったにせよ、死者と自分との関わりを考え、そして、喪服を着た一群の中から上がった笑い声を耳にした時、話者の心の中に浮かんだのはこの言葉ではなかったのか、と私は思う。
誰かが死んだ時、その葬儀にはかつての同僚や同級生など大勢の人々が参列する。そして、死者の思い出話にひたり、話はそれにとどまらず大いに盛り上がる。次に死ぬのは俺だとかお前だとか、あらぬ方向にまで発展する。そして、そのうちに盛大に同級会でもしないか、などと誰かが言い出し、笑い声なども上がったりする。
そんな、ごくありふれた葬儀風景に取材したこの作品に私は感動した。
作者の西中眞二郎さんは、この作品の他に、あと九十九首の作品を投稿して、また例年のように目出度くゴールインするはずである。この後の九十九首がどんなものであるかは、私にも他の参加者にも予測がつかないし、おそらくご当人の西中さんにも予測がつかないだろう。
だが、この一首は、西中さんの永い詠歌生活の中の忘れられない一首になるだろうと思われるし、「題詠2009」に参加された人々の記憶に残るだろう一首だとも私は思う。
最後にもうひと言。この作品を一読した時、私は、この作品はこのままの形ではなく、「遠縁につながる人か喪服着た一群の中に笑い声する」とした方が良いのではないか、と思った。だが、この作品はこのままでいいのである。「遠い縁」から「い」を除いて「遠縁」とすれば、初句の字余りは一応解消するが、今のままの間延びした形が、作品内容ともマッチしていていいのである。いっそのこと、「縁」を「えにし」と読んで、初句を「遠い縁(えにし)に」と七音にしても良いと私は思っているが、そこまでの字余りは作者の慮外のことであろう。
(志慧)
4階のトイレの鏡が知っているあなたにあげるはずだった笑み
(ふみまろ)
この顔を全部知ってる鏡には作り笑いは無駄だと知った
たまたま「鏡」に取材した佳作が二首あったので並べてみた。
両者の照応は偶然にしては見事。
<志慧>さん作中の<わたし>は、結局、作中の「あなた」に「笑み」をあげなかったことになるが、その理由及び「笑み」の実態は不明。
あげなかった理由は、私たち読者が想像力と創造意欲を駆使して考えるしかないが、「笑み」の実態については、「4階のトイレの鏡が知っている」から、其処に行って、聞くか見るかすれば分るはず。
だが、意外や意外、「4階のトイレの鏡」に映った、作中の<わたし>の顔に浮かんだ「笑み」は、<ふみまろ>さん作中の<わたし>が「無駄だと知っ」て止めた、「作り笑い」だったかも知れない。
(穂ノ木芽央)
彼のひとの微笑写せし素描画(エスキス)に蝶の群れをり 弔ふ朝に
不謹慎なことを申すようだが、どなたのためのものであれ、葬式とは唯美的、象徴的な儀式である。その葬式の祭壇に遺影として、写真ではなく、「彼のひとの微笑写せし素描画(エスキス)」を飾る。そして、そのエスキスに「蝶の群れ」を配する。
本作の作者、<穂ノ木芽央>さんは、非情な唯美主義者なのだ。
「彼の死を悼んで蝶々までが・・・・・」などと誤読してはいけない。.
(中村成志)
坂の上組んだ後ろ手白いシャツ夕陽の中できみは微笑む
まるで一時代前の日活の青春映画みたいだ。浅丘るり子とか吉永小百合とか和田浩ニが出てた。 作中の<きみ>も<ぼく>も若くて健康だ。作者の中村成志さんも彼らと同様に若くて健康だろう。 私たち歌詠みの一部には若さや健康を恥らう傾向があるが、それは非生産的、退廃的、倒錯的な性向に過ぎない。
作中の若者たちと作者の健康に祝杯を。
(星野ぐりこ)
笑われて生きてきました。趣味・特技、特にないです。処女じゃないです。
これはまた、前の作品とは百八十度異なった作品。
「笑われて生きてきました。趣味・特技、特にないです。」と、自己を分析し、徹底的に貶めた後、
最後に「処女じゃないです。」と、些細な見栄を張って見せるところにこの作品の面白さがある。
でも、私のこうした読みは、もしかしたら、この作品に対する過大評価か深読みかも知れない。
少し熱を冷まして、もう少し冷静な読みをしよう。
作品内容と作者名から察するに、作者は、「<わたし>の人生は、グリコのおまけのようなものです」とでも言いたいのだろうか?
でも、グリコのおまけは「笑われ」るために付いているのではなく、喜ばれるために付いているのだぞ。なにもここまで、自分を傷つけることはないじゃないか。それとも、作中の<わたし>は、作者である私と全然別人だとでも言いたいのか。それならそれで、リアリティを失ったただの落書きになるぞ。この種の歌の価値は、糞リアリズムに徹していると認められた時に、初めて保証されるのだから。
と、いつの間にか激してしまい、ここまで書き記した時、私はあることに気がついた。
それは、作者の<星野ぐりこ>さんは必ずしも女性ではなく男性かも知れない、ということである。
それならそれで、「処女じゃないです。」という最終句の意味が一応納得がいくからである。
でも、それでは、この一首はますますリアリティを失ってしまい、公衆トイレの悪戯書きと同等になってしまう。
願わくば、この一首が超アララギ張りの糞リアリズムに徹した作品であり、前述の私の<読み>が、深読みでも誤読でもなからんことを祈る。
(伊藤夏人)
後出しのジャンケンくらいで笑ったりするから君に油断できない
私たちの周りには、朝から晩までコロコロコロコロと笑っている女性が居たりする。彼女は、それこそ<箸が転げているのを見ても笑う>。
そんな彼女に出会ったりすると、間抜けなことに私たちは、「あの子はよほどのお人好しか馬鹿だね」などと言って済ましてしまうが、この作品の話者(=作者か?)は、そんな少女はかえって油断がならない、と言うのである。
この一首を佳作たらしめたのは、「後出しのジャンケンくらいで笑ったり」という上の句である。
作者の伊藤夏人さんは、軽い言葉で重いことを言う。
伊藤納豆は粘り強くて味が良い。「題詠2009」にご参加の皆様、伊藤納豆を宜しく。血栓予防に伊藤納豆を食べよう。国産大豆100パーセントだよ。
(ひわ)
笑い声の絶えない家にしたいの と 笑い袋を孕んだ妻が
(やましろひでゆき)
家中の笑ひ袋をかき集め父帰る日の準備整ふ
「笑い袋」にしようとして仕込んだものが「泣き袋」になるかも知れないからご用心。
<ひわ>さん。あなたの方からは私が見えないでしょう。私の方からは、今のあなた方のことが実によく見えますよ。「笑い袋」を「泣き袋」にしないようにくれぐれも注意して下さい。
<やましろひでゆき>家のみなさん。「父帰る日の準備」のために、「家中の笑ひ袋をかき集め」るのは大変でしょう。でも、あなた方の家にはかき集める「笑ひ袋」があるからまだいいのですよ。それに、多分単身赴任中のお父さんが帰って来られるのが、そう度々ではないから、まだましなのですよ。
私の家には、「笑い袋」らしきものは何一つ無かったし、その上、人一倍うるさ型の私は、毎日毎日、定刻に帰って来たから、それはそれは、家族のみんなは大変だったと思いますよ。
ところで、現代社会に於ける「笑い袋」とは何か?
勉強がよく出来て聞き分けの良い子どもか、使っても使っても使い切れないお金か、家族一同の健康か。
まさか、国際会議で居眠りをしていた大臣や、その親玉の<未曾有>総理ではないでしょうね。
(水口涼子)
残されたガテマラ産の豆を煎る焦がさぬように笑って泣いた
詠い出しの「残された」が、末尾の「笑って泣いた」と呼応して、そこに何か深刻な事情があったことを窺わせる。
グアテマラをガテマラと呼ぶ叔父が居て二十年前(はたとせまえ)に撃たれて死んだ
とは、私の旧作であるが、水口涼子さん作中の<わたし>の恋人と思われる<彼>は、まさか、拙作中の<叔父>のように、ゲリラに襲撃されて死んだのではあるまい。
ともあれ、この作品の作者は、前述の冒頭と末尾の照応に加え、文科省の示した国名表記の基準では「グアテマラ」と記すべきところを、敢えて「ガテマラ」と記すことによって、それとなく登場人物の年齢や性向を示唆するなど、作中にさまざまな仕掛けを凝らしていて、焦げ臭くて近寄れない。
年配者から聴いたところによると、ハンガリーをハンガリアと呼んだり、グアテマラをガテマラと呼んだりするのは、中国をシナと呼ぶ年齢層と同じで、第二次世界大戦前に初等教育を終えた者に限られそうだ。すると作中の登場人物もまた、そうした年齢層の男女かも知れない。
さすれば、作品世界で展開されるのは、今は昔の悲恋物語である。
男性<A>が恋人である女性<B>を残して死んだ。
世間の噂によると、死亡した<A>は、さる大手商社から中南米に派遣されたやり手の商社マンで、彼の地に駐在中、コーヒー栽培プラントの中で猛獣捕獲のために仕掛けられた罠に嵌って即死したのだとか。また、その罠は、本当は猛獣捕獲のために仕掛けられたのではなく、日頃の酷使に耐えかねている現地の労働者が、自分達をそうした境遇に陥れている彼<A>を殺すために仕掛けたのだという噂も同時に聴いた。
彼の亡骸は現地のジャングルで荼毘にふされたが、数ヵ月後、その遺骨と共に幾缶かのガテマラコーヒーが恋人<B>の元に届けられた。
それから更に数ヵ月後、未だに恋人を失った痛手から立ち直っていない<B>は、今となってはたった一缶となってしまったガテマラコーヒーを、焦がさぬよう、焦がさぬよう、と大事に大事に煎るのであった。泣いたり笑ったりしながら。
想像の上に想像わ加えて、勝手なことを書き連ねてしまったが、私は、<水口涼子>さん作の世界をこのように読み解いた。
(わたつみいさな)
思いだし笑いをしつつ手帳にはあたし最後の日とだけ書いた
どうでも良いことではあるが、この作品の作者のお名前<わたつみいさな>とは、私のかつてのハンドルネームの一つであった。
元<わたつみいさな>の私がここにこうして、数ある「題詠2009」の応募作品の中から、現<わたつみいさな>さんの作品を選び出し、その評を書こうとしているのは、思えばこれも何かの縁かとは思うが、不思議な気がしないでもない。
現<わたつみいさな>さん、いつまでもお元気で。そして、カッコいいお名前を大切に。
あれあれ、これは、現<わたつみいさな>さんの遺書ではないか?
でも、「作中の<わたし>≠作者」であるから、心配ないか?
(新井恭子)
不用意に受け取ってきた微笑みを並べて冬の星座にかえる
パチンコの景品を現金に換えてくれる景品交換所があるように、私たちが日常生活の中で、不用意に「受け取ってきた微笑み」を、「冬の星座」にかえてくれる施設・「微笑み交換所」が在ればいい、と言うのかな。
いや、そうではない。そんな便利な施設があったら、ただでさえ巷に満ち溢れている「微笑み」が、もっともっと増えて、交換所ではその処理に困るだろうから。
作品中の女性<わたし>は、日常生活の中で他人から、彼女に向けて放たれた「微笑み」にしばしば遭遇する。遭遇した時、その「微笑み」の性格を一つ一つ分別して、「これはあなたが私に本当の気持ちを込めて投げかけて下さった微笑みだから頂戴します」「これは見せ掛けだけの微笑で、本当は私に対する軽蔑の念が込められたものだから、お返しします」などと、その受け取りの諾否を明らかにして、頂きたいものは頂き、頂きたくないものは頂かないようにすればいいのだが、不用意にもそのような選別をすることが出来ないまま、必要なものやら必要でないものやら、小さな身体に沢山の微笑みを抱えたまま帰宅してしまう。
そこでその処理法として、その女性は、とある冬の夜、その微笑みを冷たい夜空に並べ、冬の星座に変える、というあどけない話なのだ。
あれは乙女座、明るく心のこもった微笑みだけを並べた星座さ。あれはサソリ座、受け取った時、心にじくじくと突き刺さった微笑みを並べて作った星座さ。などなど。
(原田 町)
あやしても笑わぬ児よと嘆きおり世の中そうそう甘くはないよ
ハンドルネームは「俵万智」ならぬ「原田町」。さすれば、この作品の作者もまた、シングル・マザーなるか?それとも、その逆か?
この作品の面白さは、「世の中そうそう甘くはないよ」と言っている者が、ひょっとしたら、作中の「あやしても笑わぬ児」なのではないか? とも思われる点にある。
(天野ねい)
こんなとき君ならなんて言うのかな 僕は笑っているだけだった
〔答〕 こんなとき僕も笑っているだけだ 君も笑っているだけだったけど
あまりにもひど過ぎて、ただ笑って見ているしかない、という現実も確かに在るからな。一例を上げれば、あの<未曾有>の出来事。
(日向奈央)
さみしさで笑ってた日もあるけれどもう泣けるから大丈夫だよ
〔答〕 一通り泣いた後にはまた笑え今度の笑いは本物笑い
淋しくて泣く。嬉しくて笑う。これが常識だが、これを逆転して見せたのがこの作品の手柄。淋し過ぎて笑うしかない、という淋しさだって確かに在る。
(ジテンふみお)
片笑みで佇むままの灯台もたまには発射すればいいのに
「片笑み」とは、片方の頬に笑みを浮かべること、であるが、灯台の発光口を笑みを浮かべた片頬に見立てたのであろうか。
それはどうだか分らないが、あの「片笑みで佇むままの灯台」に、「たまには発射すればいいのに」と呼びかけたのは面白い。
灯台の形が宇宙ロケットに似ていることから、こんな奇抜な発想したのであろうが、その破れかぶれさに何とも言えない味わいがある。
(五十嵐きよみ)
プロヴァンス訛りで話す人たちの笑顔に会って夏がはじまる
「Wikipedia」の解説に拠ると、「プロヴァンス (la Provence) は、フランス南東部の地域である。『プロヴァンス』の名称は、ローマ帝国の属州(プロウィンキア、Provincia)であったことにちなみ、プロヴァンス語で Provènço や Provença などとも呼ぶ」とのことである。
「地中海気候の影響が強いことから、フランス有数の観光地の一つであるが、円高の今日、この地方には、グルメや異性を求める日本からの観光客がうろうろしている」とは、昨年夏、この地方に一ヶ月滞在して、大枚三百万円を費やして来た、家内の従兄弟の話である。
「題詠2009」をお一人で取り仕切る五十嵐きよみさんのことであるから、プロヴァンス旅行の五回や十回は当然しているはずで、現地には知人も少なくは無いだろうとは思われるが、私は、この作品中の「プロヴァンス訛り」を、「フランス南東部の地域・プロヴァンス」の現地人の話す「プロヴァンス訛り」では無くて、五十嵐さんの友人の日本人の話す「プロヴァンス訛り」と思って、この論を進めて行きたい。
その理由は、ひとえに、私たちの「題詠2009」の輝ける主催者・五十嵐きよみさんと、円高を嵩に着て、「グルメや異性を求める日本からの観光客」とを同日に論じたくないからである。
東京の青山界隈、その一廓に奇妙な訛りの日本語を話す日本人ばかりが住むマンションがある。そのマンションの名は「シャトー・プロヴァンス」。住民の話す日本語はプロヴァンス訛りなのである。
彼ら、彼女らと五十嵐きよみさんのお付き合いはかれこれ六年に及ぶ。
毎年夏の初め、「シャトー・プロヴァンス」の住民たちは、各々の友人である著名な日本人たちを招待してパーティーを開く。
かくして、五十嵐きよみさんの「夏」は、「プロヴァンス訛りで」日本語を「話す人たちの笑顔に会って」「はじまる」のである。
(髭彦)
をさなごの無邪気な笑ひ目に耳になによりうれし六十路のわれに
「目に耳に」という三句目が決め手。
「をさなごの無邪気な笑ひ」を、眼で捉え、耳で捉えて、「うれし」と思ったのである。眼で捉えたのは笑う表情。耳で捉えたのは笑い声。
ともすれば放逸に流れがちなインターネット歌壇の中で、こういうしっかりした作風の歌に出会えるのは嬉しいことだ。
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