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作中主体などと呼ぶのは?

<作中主体>などと呼ぶのは仰々し詠歌は独話<話者>と呼ぶべし     省三

 ここに「霊柩車ゆっくり走れ焼き場まで君には一時(ひととき)吾には一生(ひとよ)」という短歌らしきものがある。
 言うまでもなくこれは、栗木京子さんの、あまりにも有名なあの作品のパロデイであり、ついさっき、ある魂胆があって私が創ったものであるから、作者は私・鳥羽省三である。
 ところで、私は今日まで、父母を初め数多くの親類縁者をあの世に送り、時には、霊柩車を追走する車に乗り、火葬場まで亡骸と同行したこともあるが、そういう時でも、「霊柩車よ(或は、霊柩車の運転手よ)、今日、この亡骸を火葬場まで運ぶという仕事は、君にとっては、たった一時(いっとき)の出来事に過ぎないだろうが、亡骸の縁者である私にとっては、一生一回の、生涯生きている限り、絶対に忘れられない出来事である。だから、もっとゆっくり走ってくれ。もっとしずしずと厳粛に走ってくれ」などとは、思ったことがないから、前述のパロディ中の「吾」は、いかなる意味に於いても、その作者である私・鳥羽省三と同一ではない。
 短歌というものは、基本的には<一人称文学>であるから、その鑑賞にあたっては、<我=私>の存在を意識しなければならない。そのことは、先のパロディのように、作品中に直接「吾=私」が登場する場合に於いても、「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(塚本邦雄『日本人霊歌』より)のように、作品中の何処にも「我」も「私」も登場しない場合でも同様である。
 私は、生活の資を得るために高校の教壇に立って、長年、短歌鑑賞の授業を行って来た。その頃の高校の国語教科書に載っている短歌は、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲(佐佐木信綱『新月』より)」・「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ(斎藤茂吉『小園』より)」・「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼(北原白秋『雲母集』より)」などのように、短歌鑑賞に際して読者が意識しなければならない「私」が、「私=作者」として片付けても済むような作品ばかりであったため、私は、私の授業に出席している生徒達に多少の後ろめたさを感じながらも、「作者は晩秋の大和路の風景の中に立って~~」とか、「東京を逃れてきた作者は、今~~」とかと言って済まして来た。
 ところが、学校での授業の場を離れると、作品中の<我>とその作品の作者との落差を強烈に意識をしなければならなかった。
 何故なら、自作の中に、現実の自分とは似ても似つかない艶福者や美男子などを「われ」として登場させるのは、他ならぬその作品の作者の「私」に他ならなかったからである。
 そうした私にとって、短歌鑑賞の場でいつの頃からか使われるようになっていた、「作中主体」という言葉は極めて重宝なものであった。
 短歌作品の中に登場して、「煙草くさき国語教師が言う」「明日という語」を「最もかなし」と感じている少年は、あくまでも、文学作品たる短歌の登場人物に過ぎず、その作品の作者とは別人である。その「別人」のことを「作中主体」と呼ぶ。このことは至極当然なことであり、改めて注釈を要しない。
 だが、「作中主体」という、この至極当然で極めて重宝も言葉も、決して万能ではない。
 何故なら、「煙草くさき国語教師がいうときに明日という語は最もかなし(寺山修司『空には本』より)」という作品からは、確かに、「作中主体」と呼ぶべき存在を指摘することが出来るが、先に引用した「日本脱出したし~~」のような作品からは、「私」及び「作者」の存在を指摘することは出来ても、「作中主体」と言うべき存在を指摘することは出来ないからである。
 それより何より、たかが短歌鑑賞の場である。ある誰かが、「作者は~~」「作品中の<われ>は~~」などと言ったが最後、別の誰かが、まるで鬼の首を取ったかのような口調で、「作者と作品中のわたしとは厳密に区別しなければいけません。作品中の私を指す場合は<作中主体>と言うべきです」などと騒ぎ立てるのは、あまりにも仰々しく、あまりにも青臭いと思う。
 短歌が、本来<一人称文学>であり、詠歌とは、自己の切なる思いを<語る>行為であったことを思えば、短歌作品中の<われ>は本質的にその作品の作者自身である、と言ってもそれほど見当違いとは言えない。少なくとも、「作者と言わず作中主体と言え」などと言い出して威張り腐る歌人ちゃんよりはよほどましである。
 とは言え、短歌作品中に作者自身とは異なる人物を登場させ、その人物(時には、非人物)をいろいろと思考させたり行動させたりする作品が短歌としての存在を主張している今日、「短歌作品中の<われ>は、本質的にはその作品の作者自身だ」などということを、いつまでも主張しているのも、これまた青臭く、阿呆らしい。
 従って、私は、作品中に直接登場する<われ>は勿論、しない<われ>も含めて、短歌作品に於ける<われ>を<話者>と呼ぶことにする。
 上掲のミソヒトモジ、「<作中主体>などと呼ぶのは仰々し詠歌は独話<話者>と呼ぶべし」は、そうした私の思いを述べようとしたものである。但し、この<思い>は、<決意>とは異なり、かなり軟弱なものであるから、<話者>という一語で以って把握出来ない作品に出会ったら、その時はまた、別の言葉を考えるだろう。
 因みに、上掲作品の「われ」は、作品の作者と完全に重なる「われ」である。 
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