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『題詠2009』への投稿作品と作者自身によるその注釈(そのⅠ)

                       〔序〕
 文芸作品を彫琢に数年数月を要する彫刻に例えたのは評論家の某氏であるが、もしも短歌作品が文芸作品の範疇に入り得るものならば、そのような短歌作品とその短歌作品を電波に乗せて送らせ、その速さを競わせているような「題詠2009」の企画とは明らかに矛盾する。
 そう思い、それを悪しとするならば、それに参加しなければいいだけの話であるが、私はそれを格別悪しとも思わないし、そこに別の意義を見出せるとも思うので、ここに、この企画に参加させていただき、いち早く拙作百首の投稿を終えた。
 しかし、私の投稿作品の中には、碌々推敲しなかったが故の失敗作もあり、また、必ずしもそうとばかりも言えない作品もあるかと思う。
 そこで、この度、一に自己確認の為に、二に存在するかどうかも分らない拙作の鑑賞者の為に、「『題詠2009』への投稿作品と作者自身によるその注釈」と題して、雑文を書き散らすことにした。
 短歌を書いて恥をかき、その弁解をしては恥をかく。近頃の私は、有り余る暇に任せて、ただ書きに書くばかりである。
 かくかくかく、文を書くのも「かく」と言い、恥をかくのも「かく」と言う。いずれ「かきかく」ものならば、在るか無きかの読者方への義理欠かぬよう、頭掻きつつ、四角い画面に我はかく書く。
 ご期待あれ。

001:笑(鳥羽省三)
 あの憎いお笑い野郎にコマサレて何故に孕むか藤原紀香
 
 「題詠2009」の主催者の五十嵐きよみさんが加入している<goo>ブログには、投稿上の規則というものがあって、例えば、差別的な表現とか性的な表現を含んでいる記事は投稿できないのだと言う。
 現に、私が、<お題>「003:助」について詠んだ作品の初稿、「「助さんも格さんも居ぬ平成の我は天下の人工肛門」は、私が散々手を尽くしてトラックバックを試みても投稿先のブログの画面に一向に反映されず、結局、投稿を諦めざるを得なかった。
 察するに、この作品中の「人工肛門」という語が、差別的な表現または性的な表現に該当していると判断され、コンピューターから門前払いを食らわされたのであろう。
 こうした措置は、<goo>ブログが示した一つの見識であり良識であろうから、これをとやかく言うつもりは今の私には無い。むしろ逆に、たかが詠み棄て短歌一首の投稿のために、「人工肛門」などという、当事者にすれば絶対に眼にしたくない言葉を電波に乗せようとした、私自身の良識の無さを恥じるばかりである。
 そのことが明らかになった時、私は、「001:笑」のお題について投稿したはずの上掲の作品のことが心配になった。
 何故ならば、この作品中の「お笑い野郎・コマサレて・孕む」が、<goo>ブログの言う、差別的な表現、性的な表現に該当しているかも知れないし、この作品の内容自体が、一種の差別意識や性的劣情に基づいて作られていると判断されても致し方の無い側面を持っているからである。
 しかし、この作品は「題詠2009」の画面に間違いなく記録され、私の心配は杞憂に帰した。
 それはそれで良しとしても、そうした事態に直面して私は思うのである。
 それは、「お笑い野郎・コマサレて・孕む」が差別的な表現でも性的な表現でもなくて、「人工肛門」が差別的な表現もしくは性的な表現であると判断された<goo>ブログの基準とは、一体いかなるものか、ということである。
 そして、<お題>「003:助」についての私の作品、「助さんも格さんも居ぬ平成の我は天下の人工肛門」が、<goo>ブログには見事にはねつけられて、「題詠2009」への投稿作品として日の目を見なかったが、私の加入している<FC2>ブログには、格別な拒否反応もしめされないで、ここにこうして記録され公開されているのは、一体、ブログ業界全体の、どんな基準及び協定に基づいてのことであろうか、ということである。
 この作品自体については、格別な解説は要さないとは思われるが、私はこれまで藤原紀香ネタの短歌を連発して来た。
 その中の比較的真面目なのを示せば、「身の丈があまりに高くこの僕に似合うはずなし藤原紀香」となるが、「あのお笑い野郎と離別した後の紀香となら、少しぐらいの身長の差を無視しても結婚したいな」などと言っているのは、勿論、作品中の<僕>であって、そうした無節操でチビな彼と現実の私とは一切関わりがありません。

002:一日(鳥羽省三)
 一日に百万円も遣えたら友だちの友だちも友だち

 いささか旧聞に属するが、例の「<簡保の宿>の払い下げ拒否問題」で、一躍<男>を上げ、近頃元気の無い自民党議員の中で、異例の壮健振りを発揮している鳩山邦夫現総務省が、「私の友だちの友だちはアルカイダである」などと奇怪な発言をして<男>を下げたことがあり、また、それで<男>を下げたはずの鳩山邦夫氏が、何を隠そう「一日に百万円ずつ使っても、一生使い切れない大金持ち」である、という新聞報道がなされたことがあった。
 上掲の作品、「一日に百万円も遣えたら友だちの友だちも友だち」は、その鳩山邦夫氏のそうした一連の事績に取材して作った、私の旧作である。
 現在の私は、一日に百万円どころか、その千分の一も使えないので、友だちらしい友だちはほとんど居ない。だが、その御蔭で、こんな素晴らしい短歌を創作できる余暇に恵まれているので、鳩山邦夫氏の金満ぶりを羨んでいる作品中の<わたし>と、この作品の作者である私とを等号で結ぶのはご勘弁願いたい。
  
003:助(鳥羽省三)
 助さんにも格さんにも見限られ印籠持たず何処行く首相

 上述のような事情で、お題「003助」についての作品、「助さんも格さんも居ぬ平成の我は天下の人工肛門」の投稿を諦らめざるを得なかったので、その代りにと、ほんの数秒で作ったのがこの作品。
 「印籠持たずに何処行く首相」の「首相」とは、言うまでも無く、あの<未曾有>のお方を指すが、「助さん」「格さん」については、読者諸氏よ、それぞれ任意にお決めなされ。
 
004:ひだまり(鳥羽省三)
 ひだまりをひざげりと読む児らの居てわが教室の春まだ浅し

 初稿は、「ひだまりをひざげりなどと読み違い支持率落すな総理大臣」であったが、「003:助」に続いて、またもや<未曾有>ネタなので、急遽、上掲の作品に変えた。その間、ほんの十秒。作品中の<わ>≠作者の私。
 私のかつての勤務先は、ガリ勉コチコチの生徒ばかり居る受験校であったので、私は、こんな教室風景とは無縁であった。私の元の同僚の某教諭の話に拠ると、高校には、<受験校>と<事件校>があるそうだ。
  
005:調(鳥羽省三)
 我が職は人事部付けの調査役 人は私を窓際と呼ぶ

 私は、池井戸潤氏の銀行小説の愛読者である。彼の小説には、必ず、上掲の作品の「我」のような人物が出て来て、悪巧みに長けた銀行幹部を退治する。
 初稿を以て投稿作としたが、「我がポストは人事部気付調査役 人は私を窓際と呼ぶ」と改めてもいいかな、とも思っている。いずれにしても<詠み捨て作品>に違いない。

006:水玉(鳥羽省三)
 水玉のシャツ着て街を行くときは何故か弾けてステップを踏む

 この作品の創作には実質一時間を要した。いざ詠まんと身構えても、「水玉のシャツ」とか「水玉のエプロン」とかの月並みな語句しか思い浮かばなかったからである。
 結局は、その月並みの「水玉のシャツ」で詠い出すことになってしまったが、「水玉」→「弾ける」→「ステップ」の連想ゲームには、いささか自負するところがある。
 この一首を思いついた時には、「俺の脳味噌もそれほど腐れてはいないな」と思った。
 
007:ランチ(鳥羽省三)
 「ギャル曽根やランチ食うとき口開ける」 あいた口から蝿が飛び込む

 大食いネタのテレビ番組はほとんど視たことがない私であるが、ギャル曽根という見るも卑しき大食いタレントがいることぐらいは知っている。
 ところで、今は亡き俳人・西東三鬼に「広島や卵食ふとき口ひらく」という傑作がある。
 上掲の歌の初稿が出来た時、私は、あの卑しき食うだけタレントの醜態を詠むだけのために、私の尊敬する三鬼大先生の名句を下敷きに使うのはもったいない、と思った。その思いに殉じて、三鬼句の「口ひらく」を「口開ける」に変えた。
 「口ひらく」よりも「口開ける」の方が、ギャル曽根のギャル曽根振りが一層引き立つと思ったからでもある。 

008:飾(鳥羽省三)
 神持たぬ我が窓にまで光(かげ)寄せて虚飾電飾聖しこの夜

 「題詠2009」のブログを開いて、「008:飾」という文字を目にした瞬間、私は、このお題には井上陽水ネタを使ってやろうと思い、そう思った瞬間、「<飾りじゃないのよ涙は>なんちゃって、泣いたふりしてダイヤねだるの」という一首が、ほとんど完成していた。
 でも、私にとってこそ井上陽水は天才であり神様であるが、「題詠2009」の参加者や読者にとって、今の彼は、NHKの語学番組に七光り出演している生意気な娘の馬鹿親に過ぎないのではないかと思った。その瞬間、私の胸には、ある別の思いが走り、初稿は結局棄てられる運命となった。
 私の胸(と言ったって、あの巨乳とか言う奴ではないよ、別に)に走った「ある別の思い」とは何か。
 それは、私には「008」のお題「飾」を使った作品のストック、しかも将来、歌人・鳥羽省三の代表作と言われるかも知れない大傑作のストックがあることである。
 去年のクリスマス頃の夜、この土地に転居して間もない私は、自宅近辺を徘徊した。すると、つい先日、「ドレス着て犬がおめかしせぬ代りをんな着膨れ冬のさいたま」と私に馬鹿にされたばかりの「さいたま市」の家々の外壁に、煌々と灯りが灯っているではないか? 
 何と驚いたことに、それはクリスマスの電飾なのだ。クリスマス時季に民家の外壁が電飾で彩られる光景は、前住地の横浜で飽きるほど目にしているが、まさか、この<さいたま>で、寒風吹き荒ぶ冬になっても愛犬に胴巻き一つ買って与えられない人々ばかりが住む、この<さいたま>で、民家の外壁の電飾を拝めるとは思わなかった。しかも、濃厚な電飾で彩られた外壁で囲われた民家の中には、某宗教団体を集票源とした、あの政党の委員長様のポスターを貼っている家もあるのだ。
 私には、「虚飾」としか思われない「電飾」の「光」は、クリスチャンでも(一時代前ならこの後、<アグネスちゃんでも>と続けるのだが、あの方も、とうとう正確な日本語を話せないまま老境に入られてしまったから止めた)ない私の家の窓辺にまで押し寄せて来て、ただでさえ寝不足の私を益々寝不足にさせたのであった。
 「虚飾・電飾・聖しこの夜」、このごつごした語句の転がりがなんとなくいいなあ。「聖しこの夜」の「聖」が、あの広告塔歌手を思い出させて少し嫌だけど。
 あんまりいいからもう一度転がしてみるか。「虚飾・電飾・聖しこの夜」、ああ、ビリビリと来る。感電かしら? 寡聞にしてこの鳥羽省三、これ以上快調にして、意味有り気な「転がし」には、生まれてからこの方、出会ったことがない、と、自分で言っていれば世話はないけど。
 でも、棄ててしまった、「飾りじゃないのよ涙は~~」もなかなかいいよ。誰か拾ってくれないかな。もったいないから俺が拾っちゃお。ちゃおちゃおバンビーノだってば。

009:ふわふわ(鳥羽省三)
 ふわふわと飛んで行ったりしないでね。お姑様から叱られるから。

 「ふわふわ」という、何と無く<ふわふわ>した擬態語に惑わされて、真面目に歌を作る気になれなかった。だから、あくまでも繋ぎとして即興で作った、この一首を仮投稿しておいた。
 「題詠2009」の開催期間は、私にとっては、気が遠くなるほど永いから、そのうちに本格的な作品を再投稿しよう、と思っている。
 一首の意は、「あなたー、お願いだから、こないだみたいに、ふわふわと何処かへ飛んで行ったりしないでね、お願いだから」「こないだなんか、大事な息子のあなたが居ないからって、わたし、お姑(かあ)さまからコテンコテンに叱られちゃった。あの婆ったら、自分が生んだ上等息子が家に居ないからって、他人のこのわたしを叱るのよ、いつも。わたしトサカに来ちゃった」と、近ごろ認知症気味のダンナさまを、その奥さまがお叱り遊ばしている図柄。そ・れ・だ・け。

010:街(鳥羽省三)
 長春市大同大街ニッケビル父母の出会ひしオフィスありき
 
 初稿は、「新京市大同大街ニッケビル母を見初めし父のオフィス」であったが、投稿しようとしてトラックバックを試みたら、<goo>ブログのコンピューターめが門前払いを食らわした。
 中国がアメリカに対抗し得る程の経済力と軍事力を備えた昨今、旧満州に関わる地名を口にするのはタブーなのだろうか。
 それにしても、同じ業界に居ながら、五十嵐きよみさんが加入している<goo>ブログと、私の加入している<FC2>ブログとが歩調を合せていないのは何故か。
 作品中の<わたし>が、現実の私と別人の架空の人物だから、作品中の「父母」もまた架空の人物。もっとも、私の周辺に日本毛織株式会社の社員がいたことは事実だが。
 でも、その事とこの事とは一切関係が無い。
 今の長春市、元の新京市の、今の人民大街、元の大同大街のニッケビルには、設立当時の満映の事務所が置かれていた。そこでこのビルには、満映の理事長であったあの甘粕正彦など、多数の著名な日本人が出入りしていたことが考えられるし、満映が撮った映画に出演した女優なども出入りしていたことが考えられる。
 そこで私は、掲出作品の背景として、それらの人物間の恋愛を想定した。
 例えば、甘粕正彦と李香蘭。そうなると、作品中の<わたし>は、甘粕正彦・李香蘭夫妻(内縁関係)の子どもということになる。
     蟹工船・小林多喜二・大震災・獣に劣る甘粕大尉     鳥羽省三
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