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ブログ探訪(その5~戯作・西中眞二郎様へのメール~)

拝啓 西中眞二郎様

 日頃は拙作を多々ご選歌いただいたうえ、再三に亘ってご無理なことまでお願い申し上げ、真に恐縮に存じます。
 さて、「題詠2009」のお題・「080:午後」に対する御作、「若き娘(こ)に引かれて午後の道を行く犬のふぐりの左右に揺れる」は、投稿作品中、稀に見る傑作と拝察致しました。
 つきましては、百首一巻の投稿を終え、完走報告をし終えた心安さから、、無謀と知りつつも、その解釈と鑑賞を試みましたので、以下に記させていただきます。

 さて、詠い出しの「若き娘(こ)に引かれて」の「若き娘(こ)」は、人間の「若い娘」を指すのではなく、動物の「若い娘」、即ち作品中の<わたし>の愛犬の<雌犬>を指すのである。そうした前提で、一首全体の解釈を試みる。

 麗らかな春の午後、作品中の「わたし」、即ち話者は、折からの春風に誘われて、愛犬を散歩に連れ出そうとする。
 愛犬は若い雌犬。生来の出不精に加え、遣らずもがなの「題詠2009」の選歌の忙しさにかまけて、最近私は犬の散歩を怠っていたので、運動不足気味のこの犬は、私が犬舎の施錠を解く前から、まるで女の子がお気に入りの伊勢丹のケーキー屋に出掛ける時のように、「早く、早く」とばかりに、狭い犬舎の中で跳ね回っている。
 屋外に出た。予定コースは定番の○○川土手のウォーキングロードだ。運動不足のせいか、今日はなんだか身体が重い。そんな私とは関わり無く、犬は私を引くようにして、どんどんどんどん先へ先へと進んでしまう。
 いい歳をして、若い娘ならぬ若い雌犬に引かれての散歩とは、いささか恥かしい。誰に観察されているわけでもないが、私は少し照れてしまう。
 まだ少し冷たいのかと思って出て来たのだか、身体全体を撫でて行く風が意外に心地よい。そこで、さっきまで塞いでいた私の心も少しは軽くなる。春風が私の身体を押すようにして吹き過ぎる。私は、心だけではなく、身体までも軽く感じる。
 道の畔には、枯れ草に交じって、その下から萌え出た新芽がちらほら見えている。枯れ残りの「犬のふぐり」が道の左右で揺れている。植物の「犬のふぐり」だけでは無く、動物の「犬」の「ふぐり」も、オーナー様の歩みにつれて「左右に揺れる」。

 調子に乗って、つい書き連ねて来てしまったのだが、「植物の『犬のふぐり』だけでは無く、動物の『犬』の『ふぐり』も、オーナー様の歩みにつれて『左右に揺れる』」と書いた瞬間、私は、「あっ」と気がついて、恥かしくなる。
 そうだ、作品中の<わたし>を引いてゆく「若い娘」は雌犬だから、彼女の股間には「ふぐり」などぶら下がっていないのではないか。ぶら下がっていないはずの「ふぐり」が「左右に揺れる」はずはない。 あの<たんたん狸のキンタマ>だって、彼の股間にぶら下がっていればこその<風もないのにぶーらぶら>なのだ。
 すると、詠い出しの「若い娘」を、作品中の<わたし>の愛犬の<雌犬>と解したのは、間違いではなかったのだろうか? 私の考え方は根本から間違っていたのではなかったのだろうか?
 否、否、私のあの解釈は絶対だ。第一、私よりご高齢のはずの西中眞二郎氏が、人間の「若き娘(こ)に引かれて午後の道を」行ったりするはずがないではないか。それなら、昼下がりの情事ではないか。そんなのは許されるはずがない。たとえ奥方様が許してもどなたが許しても、この私が許さないぞ。もし、そんなことが在ったとしたら、それは、ほとんど犯罪ではないか。西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか。「『歌人の犯罪』、これは小説ネタになるぞ。
 待て、待て、「西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか」とは言い過ぎだ。話を面白くしようとするあまり、つい、言い過ぎてしまうのは、君にごまんと有る性格的欠陥の中でも最たるものだ。第一、作品中の<わたし>と作者の西中眞二郎氏を等号で結ぶのは、お前の信条に反するのではないか。
 いや、いや、つい口を滑らしてしまった、西中眞二郎氏犯罪者説は取り消すとしても、その他のことは取り消さない。作品中の<わたし>と実在の西中氏を等号で結んでしまったのも、この際は無視する。大事の前の小事だからな。
 それより何より、上の句の冒頭の「若き娘」を雌犬とし、下の句の「犬のふぐり」を、道端の雑草の「犬のふぐり」と愛犬の「ふぐり=陰嚢」との掛詞とする、私の考え方は絶対に正しい。
 雌犬の股間に陰嚢がぶら下がっているはずがないじゃないか。ぶら下がってもいない「ふぐり」が「左右に揺れる」はずがないじゃないか。
 いや、いや、作品中の<わたし>の目には、その時確かに、犬の「ふぐり」が見えたのだ。雑草の「犬のふぐり」の「左右に揺れる」のと重なって、雌犬の「ふぐり」が「左右に揺れる」のも見えたのだ。この考えは、絶対に譲らないぞ。作品中の<わたし>の頭の中で、一瞬の間に、犬の雌雄の性転換が行われることだって、考えられるからな。
 お前はどこまでも我を張る。上の句の「若き娘(こ)」が雌犬であることは認めるにしても、下の句の「犬のふぐり」は、やはり、道端の雑草の「犬のふぐり」に過ぎない。下の句は散歩の途上の道端の風景のスケッチなのだよ。
 西中眞二郎氏の短歌を馬鹿にするな。下の句が道端の風景の単純なスケッチに過ぎないとしたら、それではあまりに、下の句の語句の働きがなさ過ぎるではないか。君の言い方は、単に西中作品に対する侮辱に止まらず、短歌文学全体に対する侮辱だ。だから、君の考えは、絶対に認めるわけにはいかない。

 いやはや、その五月蝿いこと、五月蝿いこと。在るか無きかの雌犬のキンタマを廻っての論争は、この後も果てし無く続くことであろう。
 
 そこで、この秀作の作者の西中眞二郎氏に質問致します。
 貴方は、この「犬のふぐり」論争が読者の間でやかましく交わされることを予測して、この作品を「題詠2009」にご投稿なさったのですか。
 もしそうならば、御作は<御作>ならぬ<御策>、<秀作>ならぬ<秀策>でしょう。
 とにもかくにも、歌壇の片隅のインターネット上で、今、全く新しいスタイルの短歌が呱呱の声を挙げようとしていることは確かです。
 そのニュースタイルの短歌とは、「読者を論争に巻き込んだ挙句、混乱の極に陥れて、突き放す」スタイルの短歌、ポスト・前衛、ポスト・ライトヴァースの短歌。掌に付着したチューインガムのようなスタイルの短歌。チューインガムという奴は、見た目が甘そうなだけに始末に負えない。
 西中眞二郎様、おめでとうございます。

   人麻呂に茂吉に邦雄そして万智、そして今また西中眞二郎      鳥羽省三

 末筆乍ら、御作を無断で引用させていただいたことを、深くお詫び申し上げます。また、この戯作が、西中様に御目文字致さないことを祈念して居ります。万が一、御目に留められましたら、平にお許しあれ。                                                    敬具
  
       平成二十一年二月十七日                      鳥羽省三
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