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今週の朝日歌壇から

○ 社員三人鬱病となしし社に勤め十六年をくたびれ果てぬ   (仙台市) 坂本捷子

「今日の世相そのものを体験に持った歌。作者も鬱情をまぬかれながら『くたびれ果てぬ』とうたう」と、選者の馬場あき子氏は評す。
 「社員三人鬱病となしし社に勤め」と言う上の句中で留意すべき語句は「なしし」である。
 「なしし」とは<過去に於いて為した>ということ。
 これに拘って、この一首を大袈裟に解釈すれば、作者は自分自身が十六年の長きに亘って勤務した会社の内情を暴露し糾弾していることになる。
 そのような会社に長く勤めていれば、自分とて無事で居られるはずはない。
 「自分は鬱病に罹りこそはしなかったが、この会社での十六年ですっかりくたびれてしまった」と作者は言っているのである。
 「十六年をくたびれ果てぬ」という下の句から読み取れるものは、「この十六年間、我慢に我慢を重ねて私は働いて来たが、今となっては、精も魂も尽き果ててしまった」という、作者の憤懣と諦念であろう。
 会社の実名こそ出してはいないが、この一首から、評者が、作者の内部告発的姿勢を読み取ったとしても、決して深読みとは言えないであろう。  
   〔答〕 鬱を病む社員三人首斬りて我が社の経営いよよ安泰   鳥羽省三 


○ 二羽の鳩三日つづけて訪ね来て四日目からは巣を作りおり   (町田市) 高梨守道

 「二・三・四と上ってゆく数詞の遊びが、鳩への親しみを楽しく伝える」とは、選者の佐佐木幸綱氏の評。
 単なる数字遊びに終らせず、「たった二羽でやって来て、しかもわずか三日通っただけで、四日目には、もう巣作りを始めてしまった。あの鳩たちの命の営みのなんと浅はかなことよ」といった、我が家の軒に巣を掛けた鳩たちに対する、話者のの驚きと憐憫の気持ちが表現されているのである。
 「四日目」から始まった巣作りの作業が終わると、やがてその巣の中には、五つの新しい命が誕生するはず。
 佐佐木幸綱氏の言う「数詞の遊び」は、<二・三・四>で終らず、そこに新たな<五>を加え、<六>を跳ばして、<七>にまで発展することが予測される。
   〔答〕 二羽で来て七羽で暮らす鳩たちの糞のこぼるる軒下を往く   鳥羽省三 


○ 渋滞の我が渋面を後続の運転席の顔で悟れり   (東京都) 佐藤利栄

 「渋滞」と「渋面」。
 <じゅう・じゅう>の渋くて重い音声の重なりが、交通渋滞への苛立ちの気持ちを表わしているのである。
 だが、ふと、バックミラーに視線をやったら、そこには「後続の運転席の顔」が映り、それは「渋面」であった。
 そこで作者は、自分もまた後続車のハンドルを握っている人と同じように、渋面を浮かべながら運転しているに違いない、と気が付いたのである。
 末尾の「悟れり」から、はっと気が付き、気を持ち直して「渋面」を止めようとした作者の気持ちの変化が読み取れる。
   〔答〕 後続の運転席の渋面をバックミラーに見つつ走れり   鳥羽省三


○ 冬空に池の金魚らじっとしてゼリーの中の蜜柑のように   (東京都) 古川 桃

 「ゼリーの中の蜜柑のように」という直喩が宜しい。
 「ゼリーの中」だから、ぎゅうぎゅうに縛られ、閉じ込められているわけではない。
 「ゼリーの中の蜜柑のように」という直喩は、単に、「冬空に」「じっとして」耐えている「金魚ら」の様子だけを表わすだけでは無く、その「金魚ら」を包む「池の水」の柔らかく白濁した様子と、晴れやらぬ「冬空」の様子をも表わしているのである。
 「ゼリーの中の蜜柑のように」は、視覚と触覚から発想された比喩なのである。
   〔答〕 冬空を映して清める池水の底にかそけき金魚の生きよ   鳥羽省三         


○ 開けたなら閉めて出てゆけわが猫よこごと言いつつ年暮れ果つる   (豊中市) 玉城和子

 「こごと言いつつ年暮れ果つる」という下の句は、老境に達した作者の暮らし振りと心境とを覗かせていて、それだけで十分に面白いのだが、その「こごと」を「わが猫」に言う所が更に面白い。
 因みに、「開けたなら閉めて」とは、還暦を幾つか過ぎた私の連れ合いが、古希に達した私に向かってよく言う言葉である。
 私は、玉城和子さん宅のニャンコ並みなのか?
   〔答〕 「開けたなら閉めて行って」とまた言われ猫の尻尾を踏んで仕返し   鳥羽省三


○ 東洋の粟散辺地にわれはいてモーツァルトの楽を楽しむ   (八尾市) 水野一也

 この<世界三位の経済大国・日本>を言い表わすのに、事もあろうに「東洋の粟散辺地」とは、何たる言い様。
 さすが、八尾の<あほんたれ>の言うことは、他の人のそれとは違う。
 その口して、あの楽聖<ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト>様の「楽を楽しむ」とは、とんでもない。
 それでも、どうしても音を聴いていたいのなら、村田英雄や中村美津子の歌声か、勝新太郎のダミ声の科白を聴いたらいかが。         
   〔答〕 大阪の粟散辺地の八尾に居てモーツァルト聴くとはうそのよな話   鳥羽省三 


○ うっすらと埃のようにつもるだろうみんなで笑った今日の記憶は   (佐倉市) 船岡みさ

 「楽しかった一日、それすらも埃のような記憶として『つもるだろう』と言う。時間の生理と言えばそうだが、どこか将来の儚い影を暗示するような歌だ」とは、選者・永田和宏氏の弁である。
 だが、その一面、永田氏の言う「将来の儚い影」を意識するあまり、<楽しかった一日>をそれほどにも楽しめず、「みんなで笑った」その笑いの中にも、十分には溶け込めなかった話者の心情が覗き見られるのではないだろうか。 
   〔答〕 塵埃の底に沈める面影のふと甦る今朝の初雪   鳥羽省三  
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一首を切り裂く(100:好)

(みつき)
    好きという理由ひとつで結ばれて今年も同じさくらを見てる

 「さくら」が「好きという理由ひとつで結ばれて今年も同じさくらを見てる」というわけですか。
 本作の作者<みつき>さんと相手の方とは、きっと、「花見同好会」とかいうサークルに加入されているお仲間なんでしょうね。
 と、言うのは、あまりのご夫婦仲のよさに嫉妬している鳥羽省三の悪質な冗談でした。
 「さくら」は、大阪造幣局のくぐり抜けですか。
 それとも、祇園の枝垂れ桜。
 或いは岐阜の山奥の薄墨桜。
 もしくは千鳥が淵の堀に傾れて咲く桜。
     〔答〕 かくありし時の挙句に結ばれて角館(かくのだて)にてさくら見ている  鳥羽省三
 「かくありし時」の意味を、さまざまにお考え下さい。


(ひいらぎ)
    好きなとこ嫌いなとこも思い出になれば全てはただ美しい

 それが、時間というものに必然的に備わっている、<浄化作用>というものでありましょう。
     〔答〕 嫌なこと水に流して隅田川今日も明日も海へ注げる  鳥羽省三


(斗南まこと)
    たまになら夢に見ていいその時はあなたの好きにしちゃってもいい

 斗南藩の藩主様ともなれば、「夢」にまで認可権をお持ちなんですか?
 <まこと>なんですか?
 斗南は、薩長との戦いに敗れた末にやっと辿り着いた最果ての地なのですから、せめて、夢ぐらいは自由に見させてやって下さいませ。
     〔答〕 夢は夢 誰に遠慮が要るものか 好きなお方と共に見なさい  鳥羽省三 


(蓮野 唯)
    戻りあう好意互いに受け止めて今は一児の親をする仲

 「親をする仲」という表現は、少し苦しい。
 でも、「戻りあう好意」を「互いに受け止めて」「今は一児の親」となったのは大変お目出度いことです。
 あの工藤公康投手も、元の古巣の西武ライオンズにカムバックしましたし。
    〔答〕 許し合う心ここらで発揮して鳩山兄弟政界再編  鳥羽省三


(花夢)
    ずっと好きでいるのもなにか省エネのように感じて過ごす休日

 「ずっと好きでいるのもなにか省エネのように感じて」というのは、実に素晴らしい表現です。
 かく持ち上げる私も、本作に接してみて初めてこの表現の素晴らしさに気付き、これ一つをとってみても、花夢さんは立派な表現者なのだと、今さらのように納得しました。
 そうですね。
 冒頭の「ずっと」の意味を<継続的に>と解釈すれば、その「ずっと」を止めて、<継続>を解消した途端に、止めた人間は、ものすごく膨大なエネルギーを消費することになります。
 例えば、それまで延々と続けて来た「好き」と「好き」との関係を解消して、一挙に「嫌い」と「嫌い」の関係になだれ込んだ時には、皿が飛ぶやら、襖が破れるやら、お互いの心身が傷付くやらで、それこそ目も当てられない結果となり、お互いにへとへとに疲れてしまい、その挙句に、それを通じて消費したエネルギーの補給にも、莫大なお金を要します。
 また、その反対に、それまで、人知れずに地下水の流れるが如くに続けて来た、ごく淡白な「好き」と「好き」との関係を解消して、濃厚な「好き」と「好き」との関係に入ったときも、同じように膨大なエネルギーとお金とを消費することになりましょう。
 先ず、途切れ無しに掛け合うケータイの通話料の支払い。
 そして、毎晩支払うモーテル代。
 さらには、あの「くみつほぐれつ」する時のエネルギー消費量もばかにはなりませんよ。
 みんな疲れることばかりで、みんなお金の掛ることばかりなのです。
     〔答〕 休日は遠く離れて好きのままキスもしないで居るのがステキ  鳥羽省三


(ほたる)
    問われれば蕾のひらくようにして“好き”を咲かせてしまう、そのたび

 花夢さんと違って、<ほたるさん>ぐらい純情になれば、「“好き”を咲かせてしま」っても、何も危険なことはありません。
 何しろ、未だ「蕾」のままですからね。
     〔答〕 “好き”咲かせ“機雷”は閉じておきましょう 争いごとは“嫌い”ですから  鳥羽省三


(今泉洋子)
    竈猫の話弾みて猫好きの親子の夜はしんしんと更く

 作中の「竈猫」とは、冬の夜に、飼い猫が、火を消した後もまだ温みの残っている竈の中に潜り込んで一夜を過ごす現象や、そのようにする猫を指していう言葉である。
 だが、日常生活の中でこの言葉を用いることはほとんど無く、主として、俳句の季語として用いられるのであるが、家庭での暖房様式の変化に伴って、今となってはその季語も、季語ならぬ死語となってしまった。
 そこで私は、自分自身の勉強の為にもと思って、「竈猫」を季語とした俳句を探索し、以下にそれを提示した。

       銀猫も竈猫となつて老ゆ      山口青邨
       鳴くことのありてやさしや竈猫    々
       竈猫けふ美しきリボン結う      々
       かまど猫家郷いよいよ去りがたし  鈴木渥志
       何もかも知つてをるなりかまど猫  富安風生

 俳句の季語としての「竈猫」は、読んで字の如く<かまどねこ>と読むのが通常であるが、使われる場面に応じて<かまねこ>と読んだり、<へっついねこ>と読んだりもする。
 本作の場合は、これが「竈猫の」として、一句目に用いられているから、作者としてはおそらく、「かまねこの」と読ませたいのであろう。
 
 東京に遊学している息子が暮れの休みに久しぶりに帰省した。
 この息子は、夫と同じように、すこぶる付きの猫好きである。
 そこで、猫好き同士の二人は、さっそく熱燗徳利を抱えて暖炉の側に寄って、竈猫の話に熱中し、眠ることも忘れてしまったようだ。
 冬の夜はしんしんと更けて行く。
 けれど、彼ら二人の竈猫を巡る話題は尽きようにもない。
 格別嫌いというわけでも無いが、特別な猫好きでもない作者は、久しぶりに帰って来た息子と夫を放ったまま、自分一人だけで眠りに就くわけには行かない。
 特に、今年の秋口から晩秋にかけて、作者は詠歌の取材と称して、関東・関西を股にかけて遊び回って居ただけに、余計に気が咎めるのである。
 そこで作者は、そっと書斎に入って行き、自分専用のパソコンを開いてみた。
 そして、かねてよりやたらにコメントを寄せて来る、あの歌好きの爺さんのブログを立ち上げてみた。
 すると間も無く、パソコンの画面に現れ出たのは、あの「見沼田圃の畔から」の記事。
 その記事の中程に、「今泉洋子)竈猫の話弾みて猫好きの親子の夜はしんしんと更く」とある。
 いけない、いけない。
 この悪口だらけの記事を、今見てはいけない。
 これを、今読んでしまったら、私はきっと卒倒してしまい、可愛い息子と夫に、明日の朝食べさせる、お雑煮も作れなくなってしまうから。
     〔答〕 <かまねこ>と<かまとと>の違いも知らぬから「一首を切り裂く」難渋してます  鳥羽省三 


(千坂麻緒)
    お互いに好きだったことお互いに子どもだったね 東京にいます      

 つまり作者は、「あなたがわたしを好いていた原因や、わたしがあなたを好いていた原因は、わたしたち二人が、まだ子供で、幼稚だった点に存在する」と言いたいのでしょう。
 したがって、本作は、短歌スタイルを騙っての一種の去り状、即ち、離縁状、絶縁状に他ならない。
 創作の動機が極めて不純であるが、第五句の「東京にいます」がなかなか宜しい。
     〔答〕 「東京にいます。けれども好きでない。わたしをあきらめ結婚しなさい」  鳥羽省三

一首を切り裂く(099:戻)

(西中眞二郎)
    久々に帰り来し娘(こ)が若き日に戻りて一人オルガンを弾く

 「オルガンを弾く」が宜しい。
 「弾く」のが「オルガン」であるから、「若き日に」を「稚き日に」としても面白いかとも思われますが、「稚き」を「わかき」と読ませるような小細工はしたくないのでしょう。
 それが節度というものでありましょうから。
     〔答〕 連休で帰省した子が大阪の土産だと言い<たこ焼き>呉れた  鳥羽省三


(梅田啓子)
    棕櫚の木を凌霄花の登りゆく戻れぬことを知るよしもなく

 いがいがの「棕櫚の木を凌霄花の登りゆく」風景は、何かの諭しかとも思われます。
 「蟷螂の斧」ともう一つ、<無謀な試み・はかない抵抗>を意味する格言が在りましたが、そちらの方は、差別語を含んでいるので死語扱いとなっています。
     〔答〕 冬富士に挑める右京とその徒党帰れぬことは知るよしもなく  鳥羽省三
 あれもまた、チーム全体の能力を考えれば、<無謀な試み>であった、としか言えませんね。
 

(じゅじゅ。)
    沈丁花香る一条戻り橋 夕陽とともにあなたを待って

 わたしは「あなたを待って」いるのだが、「夕陽」は何を待っているのでしょうか?
   ① わたしと「ともにあなたを待って」いる?
   ② 自らが落ちて行くのを待っている?
 
 「②」の場合は、文脈の上では、落ちて行くのは「夕陽」だけであるが、現実には、<わたし>もまた、「夕陽とともに」堕ちて行くことになるかも知れません。
 「沈丁花」という花の名も、「一条戻り橋」という橋の名も、何か不吉で暗示的です。
     〔答〕 行くもならぬもどるもならぬ戻り橋去るもさらぬも地獄直行  鳥羽省三
 

(minto)
    連休に戻れることを楽しみに励みゐるらむひとり居の子は

 それが<親心>というものでありましょうが、「親のこころ子知らず」という諺もありますから。
     〔答〕 連休に戻ると言ひし一人児に逢って<みんと>ぞ出迎へにけり  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    細長いため息をつき拝み屋は本の綴じ目に戻っていった

 本作については、作者の佐藤羽美さんが、自らのブログに、次のようなコメントを寄せて居られました。
 よって、それを引用して、観賞文に替えさせていただきます。
 
 「099:戻」の歌は、京極夏彦著の小説『百鬼夜行(京極堂)シリーズ』の主役と言っていい、京極堂こと中禅寺秋彦をイメージして詠みました。
 この人と一緒に暮らすってどういう感じですか、千鶴子さん。
 と私は尋ねたいです。
 すんごい神経質で皮肉を言われそうだけど、しかったら優しかったで、ちょっといやかもしれない。

 羽美さんの解説文中の「すんごい神経質で」が、とても印象的でした。
     〔答〕 京極堂・中禅寺明彦すんごくて本の綴じ目に戻してやった  鳥羽省三 


(流水)
    終バスの灯が暗闇に溶けてゆく戻らぬものは優しく残る

 この一首を読んで、「溶暗」という舞台用語を思い出しました。
 「溶暗」とは、照明などが次第に「暗闇に溶けてゆく」ことを指す言葉でありましょう。 
 そう、「暗闇に溶けて」行って、永久に「戻らぬ」灯の記憶は「優しく残る」ものです。
     〔答〕 「戻らぬ」の一言だけを書き置きて消えにし兄の記憶が優し  鳥羽省三

一首を切り裂く(098:電気)

(近藤かすみ)
    なよたけのフィラメントもてエジソンは点しそめたり電気のひかり

 「なよたけ」は、<弱弱しい竹>の意。
 「トーマス・エジソンの発明した電灯のフィラメントには、その<なよたけ>が使われているから、我が日本国は、トーマス・エジソンの電灯の発明にも大きく貢献したのだ」と言うのが、私の小学時の担任の芳賀先生の口癖でありました。
 芳賀先生のお話は、それだけで終わらず、「だから君たちも頑張って、エジソンみたいになれ」という落ちがついておりました。
     〔答〕 エジソンになれぬ男がノラになれぬ女くどいて築いた家庭  鳥羽省三

 
(本田鈴雨)
    家出してナースとなりし電気屋のむすめよ帯電しやすき母よ

 たった一人の跡取り娘なら、「帯電しやすき母」の気持ちも理解できます。
     〔答〕 帯電をし易き母の楽しみは夫のアース目指す放電  鳥羽省三


(花夢)
    いつか孵化するだろうにくしみを電気毛布であたためている

 二句目の字足らずは、「するのだろうか」とすれば簡単に解消するのだ。
 些細な努力を惜しんではいけませんよ。
 才能は十分過ぎるくらいあるのですから。
     〔答〕 些細なる努力惜しみて流したる水子短歌の悲しみを知れ  鳥羽省三

一首を切り裂く(097:断)

(西中眞二郎)
    晴れ渡る空真っ二つに断ち割って飛行機雲は西へと走る

 先日、初詣の帰りに、久しぶりに「飛行機雲」を見ました。
 その飛行機雲は、晴天の底のずっとずっと手前に浮き下がっているような感じで、なんだか元気無く、 大空を「真っ二つに断ち割っ」た感じではありませんでした。
 その日のお天気具合とか、空気の澄み具合とかによって、一筋の飛行機雲から感じられるイメージもいろいろと異なるものですね。
 その日、私の見た飛行機雲は、短歌に詠めそうな感じではありませんでした。
     〔答〕 ふらふらと空に下がれる飛行機雲もっとしゃきっとしてはくれぬか  鳥羽省三


(梅田啓子)
    そこだけが騒めき断たれゐるごとし落合監督坐るベンチは

 そこの辺りが中日の不人気の理由なんでしょうか?
 かと言って、監督を立浪和義に替えても、中日は勝てないし、不人気な点も同じことでしょう。
 要するに、中日は名古屋限定の永遠なる不人気球団なんですよ。
 いっそのこと、三重や岐阜などの近隣の地方都市と協力して、自由契約必至のおんぼろ選手やプロ球団入りを狙っている若手選手ばかりを集めた地方リーグを作って、中日はその盟主になればいいと思うのですが。
     〔答〕 其処だけで崇めて居てもつまらない立浪和義賞味期限切れ  鳥羽省三
 
 とは書きましたが、実を申すと、私は落合監督の大ファンで、中日というチームそのものも、口で言うほどには嫌っていないのです。
 巨人は勿論のこと、中日以外のセリーグ各球団は、あの広島も含めて全国区的人気を得ようとしているのです。
 そうした中にあって、唯一、中日だけが地域限定の人気上昇を目指しているのは、今後のプロ野球発展のためには、極めて意義のあることです。
 米大リーグの各球団は、あのヤンキースも含めて、地域チームに徹しております。
 名古屋という土地は、人口からしても経済力からしても、中日ひとチームを支えるのに、十分過ぎるものを備えています。
 東京や大阪は複数チームを抱えている。
 札幌、仙台、千葉、広島、福岡は、人口の面でも経済力の面でも、プロ野球球団を抱えるには不足な面がかなりある。
 横浜は、東京とほとんど変わり無い。
 故に、残るのは名古屋だけ。
 あとは中日経営陣の斬新な企画力と、落合監督の一念発起が待たれるのみです。
     〔答〕 監督の落合博満孤高にて選手・コーチが敬遠してる  鳥羽省三


(羽うさぎ)
    ためらいも憂いも愛も伏せたままメールは縁を一撃で断つ

 ケータイという、先端機器が本質的に備えている、非情さに着目している。
 冒頭を「ためらいも」としたのが大変良かった。
     〔答〕 プッシュ一閃、愛憎を断つケータイのメールに敵う通信は無し  鳥羽省三


(野州)
    堅茹での男はいつも濡れてゆく差しかけられた傘を断る

 もう半世紀近くも前の話です。
 その頃、学生であった私は、ダブルスクールとして、東中野の日本文学学校にも通っていた。
 梅雨酣の頃、授業を終えて帰宅を急いでいた午後九時過ぎに、突然雨が降って来た。
 あまりに急なことなので、傘も差さずに歩いていた私に、後ろから走って来た何方かが傘を差し掛けてくれたのである。
 見ると、その人は同じ日本文学学校の学生で、頭もなかなか切れそうで、メガネを掛けてはいるが容貌も申し分が無くて、私が普段から、「こんな女性とお付き合いが出来たなら、私の貧しい青春にも薔薇の花が咲いたようになるのに」と思っていた女性なのだ。
 思いもしなかった幸運に、私はすっかり舞い上がってしまい、有り難うの一言も言えずに、無言のままの相合傘で駅までの道をうきうきしながら歩いた。
 そして、あろうことか、東中野の駅に着くや否や、その女性にひとことの言葉も掛けずに、改札口への階段をつかつかと駆け上がって行ったのだ。
 改札をくぐった瞬間、私は「しまった」と思ったが、それからでは取り返しのつくことでは無かった
 さだまさしの歌『主人公』の一節に、「<或いは><もしも>だなんてあなたは嫌ったけど/ 時を遡る切符があれば/欲しくなる時がある/あそこの別れ道で選びなおせるならって」と言うのが在る。
 私にとっての「あそこの別れ道」とは、あの東中野駅の、改札口への上り階段のことなのかも知れない。
 その後、良き伴侶を得て、二児の父、二児の祖父となった私ではあるが、時折り、「あそこの別れ道で選びなおせるならって」思わないわけでも無い。
 さだまさしの『主人公』の歌詞は、その後、「勿論/今の私を悲しむつもりはない/確かに自分で/選んだ以上精一杯生きる/そうでなきゃ/ あなたにとても/とても/はずかしいから」と続く。
 誤解の無いように、この際、申し述べて置くが、「そうでなきゃ/あなたにとても/とても/はずかしいから」と、私が思う時の「あなた」とは、東中野駅の階段下に放置して来てしまった、あの女性のことでは無く、私の愛妻のことである。
 と、ここまで書いてきたが、私は突然、腹が立って来た。
 その理由は、本作中の「堅茹での男」とは、私のことでは無いか、と思ったからだ。
 本作の作者の野州氏よ、あなたはCIAか何かに依頼して、私の事績を克明に調査したのではありませんか?
 だとすれば、あなたは卑怯者だ。
 一体全体、私は貴方に何をしたと言うのだ。
 ただ、貴方のあまり上手くもない歌を、一所懸命にに誉めただけではないか。
 それなのに、貴方はこんなに卑怯なことをする。
 こうなったら、出る所に出て、一挙に始末をつけましょう。
     〔答〕 とかなんとかおっしゃってとどのつまりの時間稼ぎをしちゃった私  鳥羽省三


(emi)
    週末はひたすらスープを煮込みます沈めた言葉の断片溶いて

 「週末はひたすらスープを煮込みます」という上の句には、それほどの疑問点もない。
 もし、あるとすれば、それは,副詞「ひたすら」に関することであり、本作の話者は何故、スープを煮込むことなどに、「ひたすら」打ち込んでいるのか、ということぐらいである。
 だが、その答は、上の句を「ひたすら」凝視しているぐらいでは得られない。
 その答を得るためには、下の句を見なければならないし、下の句の中でも、特に「沈めた言葉」を凝視し、その意味を真剣に考えなけれならないのである。
 しからば、「沈めた言葉」とは何か?
 言葉を沈めるとは、どうすることか?
 私見ではあるが、言葉を沈めるとは、言いたい言葉を言わないままで済ませることである。
 私の連れ合いの言い分では無いが、言いたい言葉を言わないままで済ませると、ストレスがたまる。
 その、たまったストレスを解消するために、本作の話者はスープを煮込むことに「ひたすら」熱中するのである。
 スープを煮込むことに限らず、何かに熱中することは、ストレス解消の為に役立つ。
 かくして、当初はいとも容易く解答が得られると思っていた、上の句の叙述から感じられた疑問点は、実は、下の句の叙述と密接な関わりがあるのであって、下の句の叙述に関わる疑問点が解けると、上の句の叙述に関わる疑問点も、自然と氷解してしまうのであった。
 本作を一定のレベルに到達した作品として評価するためには、そうした、下の句と上の句との密接な関わりに気付かなければならない。
     〔答〕 平日は言いたいことも言わないでストレスばかり溜めて居ります  鳥羽省三 



(岡本雅哉)
    断れない理由がふいに浮かんでは断る理由をかき消していく

 事は単純明解。
 この作品の話者にとっては、「断る理由」よりも「断れない理由」の方か重要なのだ。
 つまりは、断ることが出来ないのだ。
     〔答〕 最初から断る気などないのなら断るそぶりを見せちゃいけない  鳥羽省三


(村本希理子)
    ぱつつんと断つタイミング計りをり タテイタにミズのセールストーク

 本作の話者は暇人。
 持て余している暇の解消策として、サプリメントを売りつけに来たセールスマンのトークを、買うはずも無いのに、さも買いたそうにして聴いていたに違いない。
 だが、その目的は十分に達成された。
 今こそ、「ぱつつん」と音立てて、「タテイタにミズのセールストーク」を遮断しなければならないのだ。
 だが、「断つタイミング」を「計りをり」などと言うのは、「断つ」ことが出来な時にいう口実なのだ。
 かくして、歌人・村本希理子さんは、あのサブリメント<香潤>を一年分も買わせられる結果となった。 
     〔答〕 立て板に流れる水は断たれない断とうとすれば溢れ出るだけ  鳥羽省三  

一首を切り裂く(096:マイナス)

 大変残念なことであり、大変寂しいことでもありますが、観賞の対象となる作品は一首もありませんでした。
     〔答〕 読むに足る短歌無き夜は楽天家われも陥るマイナス思考  鳥羽省三

一首を切り裂く(095:卓)

(中村成志)
    手遊びの花占いの花びらのごとく欠けゆく円卓の席

 人望の無い部長の送別の宴席の円卓から次々と去って行く同僚社員の有様を、特に批判視するでもなく、ただ茫然
と眺めているのである。
 「手遊びの花占いの花びらのごとく」という表現から推してみるに、「欠けゆく」のは、主に女性社員、しかも比較的に若い女子社員なのでしょう。
     〔答〕 手遊びに摘まれた花もありましょう鼻を明かしてやれと逃亡  鳥羽省三


(髭彦)
    円卓の歴史彩る騎士たちよ中華料理よ回転寿司よ

 巡る歴史、巡る円卓、巡る回転寿司でありましょうか。
作者は、かつて高校で歴史教師をなさっていた方。
 趣味傾向から推すに、日本史の教師ではなく、世界史の教師であったと思われる。
 連想の展開過程を想像してみると面白い。
 作者の目の前に、今、一冊のテキストが置かれている。
 それは、西欧、中世社会の出来事を写真や絵図を中心にして解説した瀟洒な書物である。
 その書物に載っている絵図は、騎士たちが一堂に会しての円卓会議の風景を描いたものである。
 その騎士たちの円卓会議の絵を見たことから、作者・髭彦氏の旺盛な想像力が刺激され、やがて彼は、先月、横浜の中華街で、円卓を囲んでの小宴の有様を思い起こし、その後、その帰途に立ち寄った、東京神田の回転寿司屋で食べ損なった上トロ寿司へと、彼の想像は馳せて已まないのであった。 
     〔答〕 円卓に並ぶ海老チリ・青椒肉絲(チンジャオ)に歴史教師のお腹ぐうぐう  鳥羽省三
         円周を成して流れる寿司皿に今しも髭が手を差し伸べた           々


(五十嵐きよみ)
    枕辺に残すほどではないメモを走り書きして食卓に置く

 「○○を冷蔵庫から出してチンして食べてね」といった程度の内容のメモか?
     〔答〕 オムレツはチンして食べて わたくしは今日も「指輪」を聴きに行くから  鳥羽省三


(都季)
    続かないラリーの隙間を埋めていく卓球台を転がる笑い

 「卓球台を転がる笑い」が、ピンポン玉の転がる様子と、その周囲の有様を想像させて面白い。
     〔答〕 温泉の一夜泊まりの卓球の転がる玉に転がる笑い  鳥羽省三


(美木)
    食卓の醤油を使い切るまでの長さで一人になったと感じ

 キッコーマンの例の小瓶に入った醤油を「使い切るまで」の時間の長いこと。
 我が家の別居中の息子などは、「あまり長く使っていないと腐ってしまうから勿体ない」と言って、行きつけの回転寿司屋の小袋に入ったヤツを持って来て使っているようだ。
     〔答〕 面倒だ勿体無いを口実にお風呂もたまに沸かすだけだね  鳥羽省三 


(ほたる)
    教わったうちのひとつが左手のブラインドタッチで電卓を打つ

 一首の意を正確に辿って行くと、「(かなり遅めの寿退職をしたお局さんからは、お小言と一緒に、実に多くのことを教わったが、)教わったうちのひとつが左手(の指を全部用いての電卓)のブラインドタッチで(あった。)(そこで、今朝は、教えてくださったお局さんの新妻ぶりを想像しながら、)電卓を(教わったブラインドタッチで)打つ」ということになる。
 それを一首にまとめてしまうのだから、ほたるさんの詠歌力(うたよみじから)はすごい。
     〔答〕 教わった場所の多くは給湯室 お湯沸かしつつ上司の悪口  鳥羽省三


(近藤かすみ)
    永遠に触れらるることなきままの√キー持つCASIO電卓

 四句目は、「るーときーもつ」と読むのか?
 「√キー」を「持つ」のは「CASIO電卓」だけですか?
     〔答〕 永遠に見ること出来ぬ我が背中 このごろ妻が洗ってくれる  鳥羽省三


(HY)
    初志貫徹手段選ばす貫いた江川卓のそれも人生

 江川卓の「空白の一日」は、あまりにも有名である。
     〔答〕 初志貫徹できずに負けることもあるそれでも江川は先発投手  

一首を切り裂く(094:彼方)

(夏実麦太朗)
    そのかたち自由自在に変えながら空の彼方へ行くレジ袋

 「レジ袋」は「そのかたち」を「自由自在に変えながら」「空の彼方へ行く」のではなくて、<自由自在に変えられながら>空の彼方へ行くのである。 
 その昔は、材料がポリエチレンであることから<ポリ袋>と呼ばれていた例の「袋」の呼び名が、昨今では、「レジ袋」と呼ばれるようになった。
 つい最近、私が、この袋のことを、レジ袋では無く<ポリ袋>と呼んだら、「そんな言い方をしたら、警察官が持っている袋と間違われるから、ここは偏見を捨てて、ポリ袋と呼べよ」と嗜められた。
 そういうことですから、「レジ袋」という、この呼び名は、このまま定着してしまうに違いない。
 材料がポリエチレンでなくなっても、呼び名を変更する必要が無いからでもある。
 ところで、昨年辺りは、エコ社会に対応するためにレジ袋の廃止運動が盛んに行われような気配を見せていたのだが、いつの間にかその運動も凋んでしまった。
 作中の「レジ袋」の行方も気になるが、<レジ袋廃止運動>の行方はそれ以上に気になる。
     〔答〕 そのかたち勝手気ままに変えられて風に漂うレジ袋かも  鳥羽省三


(小早川忠義)
    出会ふ前のまたは離れてしまひたる友とは何の彼方にをらむ

 「離れてしまひたる友」は、今はともかく、離れる前には紛れも無い「友」であったのだが、「出会ふ前」の「友」は、まだ出会っていないのだから常識的には「友」とは言えない。
 それなのに「友」と呼んでいるところに、本作の作者のロマンティズムが認められる。
     〔答〕 山の穴 山のあなたの空遠く 未だ出会わぬ友が住むのか  鳥羽省三
 拙作の冒頭の「山の穴」については、今さら解説を要さないであろう。
 

(佐藤羽美)
    彼方まで気球観測しておりぬ妹に深い渓谷のあり

 作中の「妹」の胸の中に存在する「渓谷」は深くて広い。
 故に、妹は「彼方まで気球観測して」いるのである。
 気宇壮大は、何も男子の気構えの大きさだけを形容する語句ではない。
     〔答〕 彼方までアドバルーンなどぶち揚げて誰の渓谷覗くのか鳥羽  鳥羽省三 


(虫武一俊)
    彼方から髭のひとりも現れてあきらめなさいと言ってくれぬか

 「髭のひとり」の誰彼を、いろいろと詮索してみるのが面白い。
 髭と言えば、大国主命の髭、聖徳太子の髭、明治天皇の髭、伊藤博文の髭。
 彼らは、髭の所有者なるが故に紙幣の図柄となっているのだ。
 髭の彼らを図柄とした日本銀行券は、「鳩山くん、マニフェストの実現は、もうあきらめなさい」と言ってくれるのだろうか?
     〔答〕 髭立てず腹も立てずに鳩山の由紀夫は何時まで持つのだろうか  鳥羽省三


(振戸りく)
    此方から彼方に変わる瞬間の場所と時間を教えてください

 私の連れ合いは、夜遅くまでテレビを観ていたりしている時、時計が十二時を回ると、「ああ、もう明日になってしまった。いや、間違った。今は今日であって明日ではない。私たちは明日という日に巡り会うことが、永久に出来ないのだ」などと言って洒落めかす。
 そう、我が連れ合いの言うが如く、「明日」は「今日」を基準としての「明日」であって、今日になってしまえば、それは明日では無いのである。 
 それと同じように、「彼方」は「此方」を基準としての「彼方」である。
 故に、「彼方」に行ってしまえば、其処は「此方」であって「彼方」ではないのである。
 だから、此方と彼方の境目となる「場所」や「時間」を特定することは永久に不可能である。
 ところで、昨今の世間では、<元カレ>という変な言葉が跳梁跋扈している。
 その<元カレ>とは、<現役の彼氏>に対しての<退役の彼氏>を指して言う言葉であろうが、そもそも、彼女の対象者であるところの男性は、あくまでも<彼氏>であり、世間には、<現役の彼氏>の略語としての<現カレ>と言う言い方は無いから、それと相対的な関係になる<元カレ>という言い方は成立しないはずである。
 成立しないはずの言葉<元カレ>を成立させるために、世間の馬鹿どもは、その相対語として、最近、<今カレ>という、<元カレ>に更に輪を掛けたようにして意味不明な言葉を急浮上させ出した。
 自分の居る時間軸が常に<今日>であるように、彼女と相対する者は、常に<彼>ないし<彼氏>である。
 だから、<今カレ>とか<元カレ>とかいうような言葉を、何の疑問も無しに使っている者は馬鹿としか言えない。
 仮に、<カレ>という言葉の対義語がどうしても欲しいのならば、それは、<元カレ>では無くて<非カレ>であろうか。
    〔答〕 今日明日の狭間と言うと思い出す江川卓の空いた一日  鳥羽省三 


(五十嵐きよみ)
    忘却の彼方ですけどリカちゃんと昔はおなじ年齢でした

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用であるが、「リカちゃん(Licca-chan)はタカラ(現タカラトミー)製の着せ替え人形玩具。フルネームは香山リカ(Licca Kayama )。日本人らしい身長や顔立ちで、親近感が沸くように作られている。累計出荷数は5000万体を超える」、「誕生日:5月3日/年齢:11歳(小学5年生)/血液型:O型」である。

 本作の作者の五十嵐きよみさんが、「リカちゃん」と「おなじ年齢」であったのは、一体、何年前のことであろうか。
 <十年ひと昔>という言葉が在るが、その言葉に従えば、五十嵐きよみさんは、ひと昔やふた昔では無い、ずーっと、ずーっと昔のことを話しているのである。
 ことの序でに、例の知ったかぶりで、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から仕入れた知識を披瀝すると、日本人とフランス人との間に生まれたハーフとして設定されたリカちゃんは、当時、ハーフの少女タレントとして人気絶頂だった、高見エミリさん、現在の鳩山エミリさんをモデルとして設定されたのだそうだ。
 だとすれば、現役宰相の実弟の鳩山邦夫氏は、友だちの友だちがアルカイダだったり、お母さんから数億円を貰ったり、奥様がリカちゃん人形のモデルだったりして、現代、類い希な幸せ者であろう。
     〔答〕 往年のリカちゃん人形のモデルさん今の首相の義理のいもうと  鳥羽省三


(近藤かすみ)
    雲間より光の降りて山の端の彼方に見ゆる天使の梯子

 五十嵐きよみさんがリカちゃん人形を語れば、近藤かすみさんは「天使の梯子」を語る。
 共に、叶わぬ夢を語りたくなるようなご年配であられましょうか?
 でも、「雲間より光の降りて」来ることもありましょうから、今年一年、またがんばって下さい。
 近藤かすみさんが撤退してしまえば、「題詠2010」は闇夜になりましょうから。
     〔答〕 闇を行く想いしながら歌を読む時折り出会う秀歌頼みて  鳥羽省三


(蓮野 唯)
    鼻先で閉じた扉が語ってる心はとうに彼方へ去った

 こちらは、リカちゃん人形とも天使の梯子とも、縁もゆかりも無い蓮野唯さんの作品でありますが、少々意味の解り難いところが在ったとしても、それは尻取り短歌のせいでありますから、勘弁していただきましょうか。
 それにしても、その「先」で扉を閉じられるくらいの「鼻」とは、一体どんなに高い鼻なんでしょうか?
 その正確な寸法は分かりませんが、そんなに高い鼻の持ち主だから、貴女は彼に逃げられるんですよ。
 「心はとうに彼方へ去った」などと、ふて腐れて居ないで、そんな鼻などは自分でへし折って、大急ぎで彼を探してきて、もう一度彼とやり直しなさい。
 決して、諦めてはいけません。
 彼は案外近くにいるのですから。
 目と鼻の先に。
     〔答〕 鼻先で笑っていても泣いているとうの彼方に去った心が  鳥羽省三


(今泉洋子)
    瑠璃色の空の彼方にむなしさをひとつおきさり闌けてゆく秋

 こちらの作者は、お年も欲望もお忘れになられたお方の作品である。
 でも、ご本人のご力量から推してみて、いかにも投げやりな作品と思われ、「題詠」全盛の新古今時代に紛れ込んだような感じが致します。
     〔答〕 投げ遣れば実も蓋も無きダイエーの特価売り場に買ふ物のなし  鳥羽省三


(ほたる)
    彼方より空耳がしてスキップで渡る横断歩道の鍵盤

 しんがりは、お年に不足(?)のほたるさん。
 だんだら模様の「横断歩道」をピアノの「鍵盤」に見立てたのが、この作品の手柄でしょう。
 それで以って、初めて、「スキップで渡る」という表現も生きて来るのである。
 意識したり計算したりしないで、そうした効果的な表現が出来る所に、本作の作者の強みがある。
     〔答〕 彼方には蛍狩りの児まっている摑まえられて一夜光りな  鳥羽省三
        蛍狩りは子供では無く大人にて尻を剥かれて光らせられた   同

一首を切り裂く(093:鼻)

(桑原憂太郎)
    シラカバの花粉の舞ひし学舎で生徒の嘘を鼻が感じる

 「シラカバ」が出て来ると、山の分教場みたいですが、それは評者の不勉強。
 最近は、都会の学校の校庭などにも白樺が植えられています。
 教育予算の削減続きの今日では、教室や職員室のサッシもガタピシ。
 そのガタピシの学舎の窓から、その季節になるとシラカバの花粉が舞い入って来る。
 本作の作作者・桑原憂太郎教諭は、そのシラカバの花粉にやられて苦しんでいる。
 時折り、くしゃみなどもするから、生徒達から、句洒魅先生なとどという風流なニックネームなども奉られている。
 その句洒魅先生の鼻が、生徒のついた些細な「嘘」を感受したのだ。
 「一昨日、僕が遅刻したのは、通学に使っているチャリンコがパンクしていたからだ」と言った白場香くんの言葉は本当はウソで、「彼は、通学の途中で有馬記念の馬券を買いにいったのだ」と。
     〔答〕 くしゃみして生徒のウソを感受して実に多忙な先生の鼻  鳥羽省三


(西中眞二郎)
     けだるさは鼻風邪程度のことなれど そを口実に会うを断る

 「けだるさは鼻風邪程度のことだけどそれを理由に会うの断る」とすれば、<しなやか>な口語短歌になるんだけど、それをそうしないで、「けだるさは鼻風邪程度のことなれど そを口実に会うを断る」と、口語と文語の折衷体にしてしまうのは、西中眞二郎氏独自のご理論有ってのことだろうとはお見受けするが、少し<したたか>さをも感じます。
     〔答〕 したたかを装ってするしなやかさ西中短歌の神髄見たり  鳥羽省三


(理阿弥)
    革命の二百年記に歌はるる仏蘭西国歌(マルセイエーズ)が今朝の鼻唄

 こちら、理阿弥氏の作品は文語短歌ではあるが、使用している言葉が言葉だから、何の抵抗も無く、口語派にも受け入れられるであろう。
 「今朝の鼻唄」が「仏蘭西国歌(マルセイエーズ)」であるところに、本作の作者・理阿弥氏の教養と情熱が感じられる。
     〔答〕 鼻唄に「花街の母」歌ひつつ寅年初めの連休に居り  鳥羽省三


(伊藤夏人)
    鼻息を感じる程に近付けたそこで一気に行くべきだった

 ボクシングの内藤選手の反省の弁ですか。
 それとも、・・・・・・・・。
     〔答〕 鼻息を感じる程に近づけてそこで肘鉄喰らわす女  鳥羽省三 


(五十嵐きよみ)
    鼻と鼻こっそり合わせてみたかった従兄をまねて従兄の犬と

 詩人の<まどみちお>氏が、百歳のご高齢に達せられたとかで、松の内のNHKテレビに出ておられましたが、この一首を読み、先ず、最初に思ったのはそのことでした。
 「鼻と鼻こっそり合わせ」となると、ぞうさんとぞうさんとの象舎でのご挨拶みたいですね。
 でも、それを童話的世界に止まらせずに、「鼻と鼻こっそり合わせてみたかった」としながらも、すぐさま、「従兄をまねて」と、少し隠微な味わいを添える。
 そして最後に、「従兄の犬と」と、ウルトラW級の捻りを入れるところなどは、さすが五十嵐きよみさん。
 私如き凡才の及ぶところではありません。
 脱帽。
     〔答〕 くちびるを耳に近づけ伝へたし不倫の味も幽かに在ると  鳥羽省三


(近藤かすみ)
    鼻のわきの毛穴の脂を取るといふ黒き紙売るドラッグストア

 インターネツト・サーフィンをしていると、実に多くの<脂取りの紙>に出会いますが、その一つに次のような商品がありました。

 「あ-7.リトマス的あぶらとり紙」

 <レギュラーサイズ(左)>
 寸法:72×100ミリ
 入り数:50枚
 価格:350円(税抜き)
 
 <ビッグサイズ(右)>
 寸法:100×100ミリ
 入り数:50枚
 価格:380円(税抜き)

 吸って、判定して、笑顔になれる。
 あぶらを吸うことによって浮き上がる隠れキャラ(全60種類)の数で皮脂量をチェック。
 小学校の理科の時間にタイムスリップしたような
 リトマス感覚で…。
 あぶらを取るのが楽しくなります。

 私は、脂取りの紙を使ったことがないから解りませんが、脂取りの紙の広告に必ず書いてある「<レギュラーサイズ(左)>・<ビッグサイズ(右)>」などの「左」「右」には、どんな意味があるのでしょうか?
 どなたか、ご存じの方ご教授下さい。薄謝は<作品のべた褒め>。
 ところで、脂取り紙の<脂を取る側の紙面>は、本作では「黒」と特定していますが、黒に限らず、緑、ピンク、純白と、さまざまな色の品が在ります。
 それは只の装飾で、効能には関係が無いのでしょうか。
 この点についても、何方かご存知の方のご教授を請う。薄謝は<作品の添削及び改作>。

 そろそろ本題に戻りましょう。
 体から分泌される脂肪は、何も「鼻のわきの毛穴」からだけ分泌されるわけではないでしょうのに、本作の作者は、分泌する箇所を敢えて「鼻のわきの毛穴」と限定している。
 その理由は、お題「鼻」にあるとも思われますが、それ以外の理由として、「鼻のわきの毛穴の脂を取る」と述べることによって、熟年女性の醜悪な面貌を連想させる効果があるとも思われます。
 つまり、本作の作者・近藤かすみさんは、「肉を斬らせて骨を斬る」という捨て身の戦法に出たわけでありましょう。さすがだ。
 それから、もう一点。
 下の句の、「黒き紙売るドラッグストア」もなかなか上手い。
 このドラッグストアでは、脂取り用の黒い紙に限らず何でも、白いお粉なども密かに販売しているように見受けられます。
 脂取り用の黒い紙や白いお粉を売っていそうなドラッグストアと言ったら、渋谷ではあの店。
 そうそう、近藤かすみさんは東京住まいではなかった。京都住まいだった。
 上方の人に箱根の関所の外側の話をしても、なんのことやらお解りになられないでしょう。
 ものの序でにもう一言。
 つい先ほど、私は本作について、「下の句」という言葉を使いましたが、その点については、「本作は、その重みの全てが、末尾の『ドラッグストア』に係って行く句切れ無しの作品だ。鳥羽の短歌知らずにも程がある」などとお思いの方も、きっといらっしゃることでしょう。
 でも、それはその方の認識不足です。
 「鼻のわきの毛穴の脂を取るといふ黒き紙売るドラッグストア」というこの一首は、実は、「鼻のわきの毛穴の脂を取るといふ」という上の句と、「黒き紙売るドラッグストア」という下の句から成る、二句切れの作品なのです。
 それなのに、これを、麺棒のようにやたらに長い<句切れ無し>の作品と誤解している人は、「取るといふ」の「いふ」の終止形が、連体形と同形であることを忘れているのです。
 もう少し詳しく説明すると、この一首の話者は、「鼻のわきの毛穴の脂を取るといふ」という所で少し立ち止まり、自分とは異なって、生まれつきの脂性体質のために「鼻のわきの毛穴」からいつも「脂」を吹き出しているような女性の顔を想い浮かべ、それから徐ろに視線をスクランブル交差点の向こう側にやる。
 すると其処に、彼の有名なドラッグストア<KS>があった。
 そこで、「鼻のわきの毛穴の脂を取るといふ黒き紙売るドラッグストア 」という一首全体の構想が纏まるのである。
 先ほどの説明を訂正するようではあるが、「取るといふ」の「いふ」は、終止形とも取れるが、連体形とも取れる。 だから、この一首は、「取るといふ」の所で、切れるようにも見えるが、切れずにその後に係って行くようにも見える。
 つまり、この一首は、<二句切れ>のように見せかけた<句切れ無し>の作品、<句切れ無し>のように見せかけた<二句切れ>の作品なのである。
     〔答〕 醜悪な女性の顔を強調し脂取り紙を黒と決め付け  鳥羽省三


(村本希理子)
    鷲鼻の父魔女鼻の母にして小さき鼻の三姉妹われら

 「鷲鼻の父」「魔女鼻の母」とあるから、本作の作者・村本希理子さんのご両親は、原っぱ系ではなく、ヨーロッパ系の顔立ちをした、その昔の美男美女であったことでしょう。
 その美男美女のご両親から産まれて、「小さき鼻の三姉妹われら」。
 作者は、「三姉妹われら」を「小さき鼻の」と言っているだけで、特別な醜女と言っているわけではない。
 つまり、作者たち「三姉妹」もまた美人なのだ。
 「鷲鼻」と「魔女鼻」を父母として産まれ育った、「小さき鼻の」美女「三姉妹」。
 わーい、これは小説のテーマにだってなるぞ。『若草物語』みたいな。
     〔答〕 鷲鼻も魔女鼻もみな欧州系ヤマトンチュウは鼻が低過ぎ  鳥羽省三  


(佐山みはる)
    目鼻立ち整ひしをとこ懐に黒皮かぼちゃまるまる抱けり

 「まるまる」の位置が大変宜しい。
 副詞「まるまる」を、この位置に置くことによって、「まるまる」とした「黒皮かぼちゃ」の形状のみならず、「目鼻立ち整ひしをとこ」の、「まるまる」とした風姿面貌、そしてその「をとこ」の「懐」の温かさまで解るのだ。
     〔答〕 目鼻立ち整はざりし鳥羽くんが半額弁当抱きてうろちょろ  鳥羽省三 
 

(ほたる)
    限界で溢れてしまう泣くことは鼻の奥だけなら許されて

 「題詠2009」に参加された<艶色四人熟女>、即ち、五十嵐きよみさん、近藤かすみさん、村本希理子さん、佐山みはるさんの後ろに配置すると、この頃は少し薹が立ち気味ではあるが、本作の作者<ほたる>さんの、ご年齢や作品の若さと清楚さとが強調される。
 それにしても、インターネットは便利だ。
 だって、インターネットで短歌を詠んだり、論じたりしている限り、ご本人のご年齢は勿論、ご容貌も、ご体重も、何もかも、少しも判らないんですからね。
 実物の<ほたる>さんは、本名・山中熊子、年齢・七十五歳、体重・75㎏、趣味は餅搗きだったりして。
 それは冗談、冗談、冗談、冗談ですよ。
 それと無く気品の漂う作品を見れば、この鳥羽省三には、何もかも一目瞭然ですよ。
 「限界で溢れてしまう」のは涙。
 決して、涎や鼻水ではない。
 「泣くことは鼻の奥だけなら許されて」ということは、ほたるさんはご両親から、「女はひと前で涙を流して泣いてはいけない。泣く時は、人に隠れて、鼻の奥だけで泣け」と、厳しく躾けられたわけである。
 素晴らしい。
 このご両親在りて、この娘在り。
 でもねー、ほたるさん。ご理解あるご主人でしたら、必ず、こうおっしゃると思いますよ。
 「ほたるー、泣きたい時は俺の胸にすがって泣けー。激しく声を出して泣いていいから」と。
 なんだか、倉本聰作のドラマ『北の国から』みたいになってきたから止めよう。
     〔答〕 泣く時は俺の胸にて思い切り涙流して声張り上げて  鳥羽省三 

一首を切り裂く(092:夕焼け)

(村本希理子)
    つぎつぎと発火する窓 夕焼けの空を巨きな船底がゆく

 上の句の「つぎつぎと発火する窓」とは、西日を受けて輝くマンションなどの窓を指しているのだとは思うのですが、「夕焼けの空を巨きな船底がゆく」の意味が、今ひとつ分かりません。
 「夕焼けの空を」ゆく「大きな船底」とは、或いは、夕焼け空を流れて行く大きな雲を指すのであって、それを「巨きな船」としないで、敢えて「巨きな船底」としたところに、本作の作者の工夫が見られるのであって、それは修辞学的な解明の対象にされるよりは、精神分析学的な解明の対象にされる方が、より相応しいのではないでしょうか。
 作者・村本希理子さんの浪漫的、瞑想的な姿勢が覗われて、大変魅力的な一首に仕上がっております。
     〔答〕 雷鳴はごろごろごろと転がりて友情たちを壊してしまう  鳥羽省三 

   
(佐藤羽美)
    遠慮なく夕焼けは来て僅少の文芸部誌を溶かしてしまう

 「遠慮なく」にやや違和感を覚えます。
 舞台となっているのは某高校の文芸部室。
 わずか三人しか居ない文芸部員の懸命の努力に、理解ある顧問教諭の協力なども手伝って、PTA予算から印刷費用の半額を補助させるという確約も取れたので、毎年一回発行の文芸部誌の刊行にこぎつけることが出来た。
 そして、その後、女生徒だけ三人の部員の更なる奮闘の甲斐あって、刊行時、三百部もあった文芸部誌も残りあとわずか数冊となった。
 その、残り数冊となってしまった部誌を囲んでの三人の部員の談話は、いつまで経っても尽きようとしない。
 そんな三人の気持ちを余所に、今日の日の「夕焼け」は「遠慮なく」やって来て、三人が囲んだ机の上に置かれた 「僅少の文芸部誌を溶かしてしまう」ような感じで、容赦なく輝く。
 何時まで話しても名残は尽きないが、さあ、夕方だ。
 そろそろ最終下校の時刻だ。
 残り三冊となってしまった、三人の部員の汗と涙の結晶の文芸部誌は、それぞれ一冊ずつ自宅に持って帰り、三人の友情の証とし、今日の日の永遠なる記念品としよう。 
     〔答〕 遮断機は遠慮会釈も無く閉まり少女のままに残れる三人  鳥羽省三 


(流水)
    夕焼けの踏切待ちで二人して轢かれ続ける影を見ていた

 「夕焼けの踏切待ちで二人して」「見ていた」「轢かれ続ける影」は、一体誰の「影」なのでしょう。
 その「影」とは、他でもなく、彼と彼女の二人の影なのだ。
 轢かれる前から既に傷んでいた二人の影は、かくして永遠に轢かれ続け、彼と彼女は、永遠に轢かれ続ける自身の影を、永遠に開かない「夕焼けの踏切」に立って、永遠に見つめ続けて行くしかないのだ。
     〔答〕 踏み切りの向こう側には何も無い二人は夢も希望も持たない  鳥羽省三
 

(八朔)
    我が裡に色づくものの衰えてふいに冷えたり夕焼けの空

 「我が裡に色づくものの衰えて」とは、身につまされる。
 ところで、「我が裡に色づくもの」とは何なんでしょうか?
 最も難しい言葉で言えば、「もののあはれ」。
 少し難しい言葉で言えば、「風情を愛する心」。
 最も易しい言葉で言えば、「助平根性」。
     〔答〕 我が家に色づくもののありとせば それは小判だ山吹色の  鳥羽省三


(梅田啓子)
    静脈の浮く手に黒き日傘さし夕焼けのなか橋わたりゆく

 道具立てを揃え過ぎてはいませんか?
 「静脈の浮く手」「黒き日傘」「夕焼け」「橋」、主役級の言葉が目白押しで、おのおの自己主張していて、なかなか纏まりがつきません。
 そして、「静脈の浮く手に→黒き日傘さし」という連文節と、「夕焼けのなか」という連文節とが、互いに対立しながらも同時に、「橋わたりゆく」という連文節に係って行くのだが、これでは、「橋」に懸かる重量が余りに重くて、「橋」が崩落してしまいます。
 この一首の基本構造は、要するに、この作品の<話者>が「橋」を「わたりゆく」と言うだけのことです。
 でも、それだけではもの足りないから、話者が橋を渡って行く背景として「夕焼け」を添えた。
 でも、それでももの足りないから、「夕焼けのなか橋わたりゆく」話者に「黒き日傘」を差させた。
 でも作者は、もっともっと欲張りだから、「黒き日傘さし夕焼けのなか橋わたりゆく」話者の手を、「静脈の浮く手」にしてしまった。
 短歌には<五七五七七・五句・三十一音>という長さの制限が在るから、いくら欲張りの作者でも、これ以上付け加えることは出来ませんが、もし、付け加えたとしたら、「伝へ来しDNAで肺を病み静脈の浮く手に黒き日傘さし夕焼けのなか橋わたりゆく」となりましょうか?
 ご希望とあらば、もっともっと長くして差し上げても宜しいのですが。
 雰囲気だけの歌は、作者ご自身はともかく、作者以外の鑑賞者には、あまり大きな感動を与えませんよ。
 そして、もう一点。
 底意地の悪い評者の挑発に乗ってはいけませんよ。
 冷静に、冷静に。
     〔答〕 鬱病に苦しむ者が二人して神経衰弱やってもつまらん  鳥羽省三
          

(近藤かすみ)
    熟し柿ほろろほろろとやはらかし二人並んで夕焼けを食む

 歌壇の一部には、擬態語や擬声語の、実験的、効果的使用に、積極的に取り組んでいる歌人たちがいらっしゃるが、
未だその成果が十分に上がっているとは言えません。
 本作の「ほろろほろろと」などは、まずまず成功した事例として讃えられましょうか?
     〔答〕 栗の実のばさらざさらと落つるとき伊賀か甲賀かとばかり思ふ  鳥羽省三


(中村成志)
    夕焼けにおびえたようなまなざしの君を見捨てて橋を渡った
 
 ムンクでしょうが、でも、イマイチですね。
 橋は出会いの場所でもあるが、別れの場所でもあるのでありましょうか。
 「君の名は」世代に少し不足している私としては、数寄屋橋の下を川が流れていたことまでは知りませんが。
     〔答〕 夕焼けに脅えて叫ぶ女居て<エドヴァルド・ムンク>のモデルとなりき  鳥羽省三


(nnote)
    謝ってしまいたかった夕焼けに缶コーヒーは冷えてゆくだけ

 「謝ってしまいたかった夕焼けに」謝らないままで居たが、その宙ぶらりんの時間の中で、復縁の仲立ちとなるはずだった「缶コーヒーは」「冷えてゆくだけ」であった、というだけのことであろう。
 <二人の仲が冷えて行く>と言わずに、そのことを表わしたのが手柄か?
     〔答〕 謝ってもらいたかった朝食時 夫は食べずに会社に行った  鳥羽省三

一首を切り裂く(091:冬)

(西中眞二郎)
    灯の点きしビルを背にして冬枯れの欅の古木泰然とあり

 私の散歩道の途中にも、古木とは言えませんが、かなり太い欅並木が在ります。
 散歩と読書とブログ逍遥だけを主な日課として私ですから、時には、一日二万歩以上も歩いてしまいますが、その欅並木の下を通る数分間は、生きていることをしみじみと実感します。
 つい先日まで、黄色く色づいた葉を地上にはらはらと落として、病気がちな私に命の短さを知らせてくれた、その欅並木も、今はすっかり冬木立となってしまった。
 その冬樹の細い枝々の一つ一つに、針のような新芽が密やかにしがみついていることを、昨日の病院帰りに、欅並木の下にしばらく立ち止まって、私は確認致しました。

 元・筑波大学教授の桑原博史氏のご監修になる、「新明解古典シリーズ・10・『徒然草』」の<第八十一段>以降は私の若書きですが、その<第百五十五段>に、彼の兼好法師は、「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて、芽ぐむにあらず。下より兆しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたるゆゑに、待ちとるついで甚だ速し。生・老・病・死の移り来ること、また、これに過ぎたり」と書いて居ります。
 もう間も無く、欅の新芽が膨らみ、赤く色づき、新緑の季節となり、緑陰の恋しき頃となり、それも束の間、黄葉した葉っぱが地上に散り敷いて、私をまた悲しませることでありましょう。
 私のいつも通る欅並木は、本作の欅とは異なって、「灯の点きしビルを背にして」いるのではありません。
 でも、ビルを背にした欅並木の美しさは、また一段と異なった風情が在るに違いありません。
 特に、葉のすっかり落ちた冬樹の頃は。
     〔答〕 故郷の一里塚なる欅古木降りしく雪に埋もれ居るらむ  鳥羽省三
 

(野州)
    乗換えの列車待つ間の長ながし冬の旅ならホッターを聴く

 ハンス・ホッターの歌う「冬の旅」は、私もLPレコードとして持っていて、盤が擦り切れるほど度々聴いた。
     〔答〕 汽車を待つ間合ひに聴きし「冬の旅」 郵便馬車のラッパの音す  鳥羽省三


(髭彦)
    通勤の途次に聴きけりiPodでフィッシャーディスカウの<冬の旅>をば

 こちら髭彦さんは、「iPodでフィッシャーディスカウの<冬の旅>」ですか。
 私の次男は、私の音楽好きを知っているのか、この頃、頻りに、「iPodを持っていると、車中でも、散歩中でも、音楽が聴けるから便利だ。お金が無かったら、自分が出してやるから、iPodを買いなさい」と言うのであるが、私は未だに、そのiPodとやらを買う気になりません。
 音楽というものは、アナログレコードで聴くのが一番だと思っているからです。
     〔答〕 「哀愁のトロイメライ」を観る今宵ディスカウの弾くピアニッシモせつなし  鳥羽省三
 

(青野ことり)
    柊の赤い実灯る路地裏に冬の白さを確かめにゆく

 「柊の赤い実」を燈火に見立てたのが手柄か?
 「柊」の燈火と対比されるのは雪景色の白さであろうが、雪が降らなくても、澄み切った冬の空気もまた「柊の赤い実」と対比される時、「冬の白さを確かめ」るに相応しい条件であろう。
     〔答〕 「ひいらぎ」に点る赤い灯 今宵またママが目当ての客集ふらむ  鳥羽省三 


(水風抱月)
    冬枯れる舗道の木立人気無く都会の肋からからと鳴る

 「冬枯れ」た「舗道の木立」を「都会の肋」とした隠喩は珍しい。
     〔答〕 煌々と燈火またたく肋骨冬の外苑ひと一人だに無し  鳥羽省三 


(近藤かすみ)
    菅直人が岸部一徳にふと見えて冬の窓辺は煙草のにほひ

 事の順序としては、菅直人がふと岸部一徳に見え、その瞬間、「冬の窓辺は煙草のにほひ」に満ちていることに気付いたのであるから、喫煙癖の持ち主は岸辺一徳の方だろうな?
     〔答〕 あの岸辺一徳ほどの悪相の政治家が欲し超絶不況期  鳥羽省三 
 

(鳥羽省三)
    伝承の最も酷き一つにてネズミ音せぬ天保の冬

 お題「冬」の末尾に自作を並べる気になったのは、この名作が、「題詠2009」に並み居る三百人余りの歌人の誰一人からも注目されていないからである。
 この作品を措いて鳥羽省三を語ること無かれ。
 哀れ、鳥羽省三は語る一方で、永遠に語られることが無いのであろうか。
 山背の吹く三陸地方を旅行していると、未だに、「天保の大飢饉」の悲惨さを語る古老に出会うことがある。
 飢饉続きであった天保年間には、蛇や昆虫は勿論のこと、ネズミやモグラまで人間に食べられてしまい、冬になってもネズミの走る音もしない年が、幾年も続いたそうである。
 親から子へ、子から孫へと伝えられた悲しい伝承が、現代まで脈々と流布されているのである。
     〔答〕 わたくしの歌に合せてわたくしが歌詠むことの酷さ悲しさ  鳥羽省三

一首を切り裂く(090:長)

(jonny)
    どんよりと視界の曇る極東ですこし長めの竹やりを持つ

 「極東」とあるから、あちら方面の極東かと思った。
 そしてその後を見たら、「すこし長めの竹やりを持つ」とあるから、益々その意を強くした。
 だが、よくよく考えてみると、すこし長めでも短めでも、あちら方面の方々が、今どき「竹やり」などを持っているはずが無い。
 そこで、もう一度考えたら、やっとその意味が分かって来た。
 「どんよりと視界の曇る極東」とは、極めて厳しい国情認識かと思われます。
 その「どんよりと視界の曇る極東で」生き抜いて行く為に「すこし長めの竹やりを持つ」お方は、他ならぬ<jonny>さんご自身でありましょう。
 で、その<jonny>さんの持っておられる「すこし長めの竹やり」とは何ですか。
 持ち前の寛容心に富んだ御性格ですか。
 それとも深慮遠謀のお知恵ですか。
 で、で、それらで以って対抗すれば、「どんよりと視界の曇る極東で」生きて行くことが保証されるのですか?
 それとも、それとも、<jonny>さんの仰る「すこし長めの竹やり」は、あの、<出た出た山賊が、長い長い槍持って、おんなのあそこを突っ付くた>の<槍>ですか。
 まさか、まさか、まさか、まさかり担いだ金玉の、それは無いでしょー。

     〔答〕 燦々と光り輝く山口でお神酒徳利を捻りなどする  鳥羽省三
 向こうが極東で来たからこちらは山口で、と言うわけではありません。 
 拙作中の「山口」とは、あちら方面の山口ではなく、萩焼で有名な萩市のある山口なのです。


(夏実麦太朗)
    町長は女性と子供と老人を選んで話す笑みをつくって

 昨年の初秋に亡くなった私の長姉は、大の田舎政治家嫌いであった。
 その姉の生前に私は、「今度選ばれたY町長の評判はどうですか?」と訊ねてみた。
 Y町長とは、姉の居住地である北東北の田舎町の町長であり、彼はまた、私の知り合いでもあった。
 すると姉は、「世間の評判はどうか知らないが、私にとって、あの町長ほどいけ好かない人間は居ない。何故ならば、つい先日行われた町の老人クラブの忘年会で、私が出来るだけ目立たないようにしようと思って、いちばん下座に座っていたら、あの町長は、つかつかと私の前にやって来て、跪いてお辞儀をし、『さあ、お姉さん。どんどんお空け下さい。さあさあ、どうぞ、ご遠慮無く』などと言って、嫌がる私に、無理矢理ビールをなみなみと注いだんだよ。今までの町長なら、いちばん上座の会長の席に行ってサービスをして、それから徐々に下座に下って来るのに、あの町長は、最初から下座に足を運んでサービスを始める。しかも、この年寄りをつかまえて『お姉さん』だってよ。魂胆が見え見えだよ」と言うのだ。
 私の姉の観察眼も、私とは違って、なかなか厳しいが、Y町長の処世術もなかなかである。
 本作の作者の夏実麦太朗氏は、「子供と老人を選んで」「笑みをつくって」「話す」「町長」を、私の姉と同じく、処世術に長けた、いけ好かない人物として見ているのでありましょうか? 
 それとも、その逆でありましょうか?
     〔答〕 この鳥羽は歌詠み巧者に厳しくて歌人ちゃんには優しくしてる  鳥羽省三


(梅田啓子)
    長女ゆゑ譲りゆづりて生きて来ぬおほきな苺は夫のくちに

 歌詠み巧者と言えば、私の考えるところ、本作の作者・梅田啓子さんは、「題詠2009」に参加されている歌人の中で十指に入るような歌詠み巧者である。
 そういうことで、このぼんくらの鳥羽省三は、ある時、さほどの理由も無いのに、梅田啓子さんの作品について、かなり手厳しく評価を下したことがあった。
 冷静さを欠いた私の、論評にあらざる論評に愛想づかしをされたのでありましょうか?
 それ以来、梅田啓子さんからは梨の礫。
 お怒りの程は深くお察し申し上げます。
 何卒、平にご容赦下さい。
 <093>のお題は「鼻」であるが、そのお題について、梅田啓子さんは、「全共闘世代で五黄の寅うまれ鼻つぱしなら誰にも負けぬ」という作品を投稿されたいた。
 私は、この作品を、お題「鼻」に基づいて投稿された作品中、十指に入るような傑作と思ったのであるが、敢えて、「一首を切り裂く」の対象作品として選び、論評しようとは思わなかった。
 そこに、ある種の気負いを感じ、痛々しさをも感じたからである。
 上掲の作品は、一見すると、前述の「全共闘世代で五黄の寅うまれ鼻つぱしなら誰にも負けぬ」という作品とは裏腹な関係にあり、作者・梅田さんの御性格の優しさを表わした作品のようにも受け取れるが、よくよく考えてみると、前述の作品と同根から発した作品であると思われ、好むと好まざるに関わらず「長女」としてこの世に生を受けた、梅田啓子さんの、矜持と気概とを表わした作品であろうと思われる。
そうした、矜持と気概とを持って居られる作品の話者(=梅田さん)の前では、彼女のご夫君も、ただ「くち」を開けて、「おほきな苺」を食べるしかないのでありましょうか。
     〔答〕 我が妻も気位高く吾もまた大きな苺を食ぶるしか無し  鳥羽省三
 気位の高い女性は、痛いところがあっても、決して「痛い」とは言わないから要注意。
 彼女らが「痛い」と言った時には、彼女らは半ば<遺体>になっているのである。

 と、ここまで書いてみた時、私が梅田啓子さんに嫌悪される(?)原因となっただろうと思われる一文をものした時の、私の気持ちが甦って来た。
 その気持ちは、前述の「全共闘世代で五黄の寅うまれ鼻つぱしなら誰にも負けぬ」という作品を、一定のレベルに到達した佳作と認めながらも、敢えて、論評に及ぼうとは思わなかった時の気持ちとも共通しているのだが、例の作品に出会った時に感じた私の、歌人・梅田啓子さん観は、「この方はそれなりの結社歴を経て手馴れていらっしゃる。そのためにするするするすると、まるで金太郎飴のような短歌作品をいとも容易く捻り出してしまう。在り合わせのお粉とお砂糖とお塩と、それに、わずかばかりの香料で以って」というものであった。
 でも、あの時、そうした激しい感情を、梅田啓子さんの例の作品を前にしてぶっつけたのは、私の失敗であった。
 何故なら、短歌作品を前にして、私がそうした感情を抱くのは、何も、梅田啓子さんのあの作品に対した時だけでは無く、他の歌人たちの作品に対した時の同じ、例えば、「題詠2008」の主催者、五十嵐きよみさんの作品に対したときも、全く同様であるからである。

 と、此処まで書いてみた時、私は、突然あることを思い出した。
 私は先刻、「この方はそれなりの結社歴を経て手馴れていらっしゃる。そのためにするするするすると、まるで金太郎飴のような短歌作品をいとも容易く捻り出してしまう。在り合わせのお粉とお砂糖とお塩と、それに、わずかばかりの香料で以って」などと、またまた心ある歌人たちの逆鱗に触れるようなことを書いてしまったが、その文中に登場する「飴」について、この松の内に、朝日新聞朝刊の「声」欄に於いて、興味深い思い出話の応酬が交わされていたのである。
 その発端は、「母にだまされた甘い思い出」と題する、5日付けの秋田県在住の方の投稿。
 その主旨は、「幼い日に、飴を買って欲しいとせがむ私に、『飴というもものは、それを造る人が唾をつけて造るものだから大変不潔だ。だから、あんな不潔なものを食べたいなどと思ってはいけない』と母が言った。今にして思うと、その頃の我が家は大変貧しかったので、子供の私に飴を買って食べさせる余裕が無かった。その頃の母と同じ年代になってみて初めて、母のそうした苦労がしみじみと偲ばれる」というもの。
 それに対して、昨日、8日付けの同紙・同欄に、「『アメつば』は多分ホント」というタイトルで、埼玉県越谷市在住の男性からの投書が掲載されていた。
 その主旨は、「アメを造る人がその製造過程で、自分の唾をつけて造るというのは真実」ということで、投稿者はそれを自分が実見したこととして、語って居られるのである。
 子供たちの欲しがるアメ一つにしても、唾をたっぷりとつけて仕込んだアメとそうでは無いアメとでは、その値や味がそれぞれに異なることでありましょう。
 ましてや、芸術作品たる短歌の場合は、第三者から見ると、「手馴れた手わざで以って、在り合わせのお粉とお砂糖とお塩と、それに、わずかばかりの香料で以って、するするするすると、まるで金太郎飴のように、いとも容易く捻り出してしまう」としか見えないような作品だとしても、その創作過程に於いては、唾はともかくとしても、涙や汗や、時には鼻水まで注ぎ込むこともあるに違いないから、それぞれに独特の風味と味わいが存在するに違いない。
 それを、十把一絡げにして、「金太郎飴のような短歌」として退けたり、貶したりするのは、利口な評者の遣ることではなかろう、と反省すること頻りである。
     〔答〕 金太郎飴に酷似の作品をかく言ふ鳥羽も創り居り候  鳥羽省三


(理阿弥)
    長月の今という時美濃菊の頭がほとと日記に落ちて

 「美濃菊」の花見頃は、陰暦「長月」であろうか。
 待ちに待った、その花見頃の「今という時」、作者のお手植えにして、ご自慢の「美濃菊」「の頭がほとと日記に落ちて」しまった。
 残念無念、遣る方なし。
 私は本作を、格別優れた作品とは思っていない。
 作者・理阿弥氏が精魂込めて創った作品とも思っていない。
 「題詠2009」に投稿した理阿弥氏作・百首の中に、「美濃菊」を詠んだ作品がもう一首在る。
 それを傑作と感じて選び、その観賞記事を書いて作者にご披露に及んだところ、作者は、「美濃菊を詠んだ歌を、私はもう一首投稿しましたよ」とのコメントをお寄せになられた。
 今回、この一首を選んで、軽くご紹介申し上げたのは、「そのコメントをありがたく頂戴し、しみじみと拝読させて頂きましたよ」と申し上げて、理阿弥氏の律儀さに敬意を表したい、という思いからなのである。
 二句目は、「今という今」とした方が、臨場感と切迫感がより増大するのではないでしょうか?
 一句の中に、同じ文字を使うのは良くないとして、避けて居られるのでしょうが、時には、その逆を行くことも必要でしょう。
 ところで、本作の作者の理阿弥氏は、故中山義秀氏作の『厚物咲』という小説をお読みになられたことが御座いましょうか。
 もし、未だお読みになって居られないようでしたら、この際、是非、ご一読下さい。
    
     〔答〕 長月に帰ると言ひし約束も空しく咲ける菊花の契り  鳥羽省三
 返歌は、中山義秀氏の作品に取材したものでは無く、ご存知の江戸文学の傑作に取材したものです。


(野州)
    夏至に咲くあさがほ一輪軒下のゴム長靴はねこが倒しぬ

 かなり難解な作品である。
 「夏至」という時期は、「あさがお」の咲く季節としては、早いのだろうか、遅いのだろうか。
 それについて即答することは出来ないが、一般的には早いと言うべきであろうか?
 その夏至に朝顔が咲いた。
 夏至という時期は朝顔の最盛期ではないから、咲いた朝顔はたった一輪。
 ちょっぴり嬉しくもあり、侘しくもある初夏の朝である。
 その嬉しくもあり、侘しくもある初夏の朝に、冬の頃から軒下に置きっ放しにしていたゴム長靴が倒されている。
 <軒下のゴム長靴転倒事件>の犯人は、この家の飼い猫。
 その飼い猫にとっては、たった一輪だけど、美しい朝顔の花が咲く夏至の朝に、ただの死に損ないに過ぎない、ゴム長靴如きが、軒下に突っ立っているのは許せなかったのだ。
 季節柄、場所柄も弁えていない、無風流な行いに見えて、仕方がなかったのだ。
     〔答〕 仏壇の干菓子を食った犯人は天井裏のねず公たちだ  鳥羽省三


(藻上旅人)
    石筍が鍾乳石と出会うよな静かで長い一日終える

 藻上旅人さんとは久しぶり。
 どこか遠くへでもお出掛けでしたか。
 あっ、そんなことを言ってはいけない。
 どこか遠くに出掛けていたのは、藻上旅人さんでは無くて、この鳥羽省三でした。
 この鳥羽省三は、藻上さんとお会いしてない間、遠くも遠く、地獄の玄関の三途の川の手前まで行って来ました。
 ところで、あの山口県は秋吉台の鍾乳洞などに見られる、下から上へと伸びていく石筍と、上から下へと垂れ下がって行く鍾乳石とが、洞内の空間で出逢って石柱になるまでには、われわれの想像を絶した長い長い時間が必要とされるのでしょう。
 その長い長い時間を要する石筍と鍾乳石との出逢いの瞬間、その舞台である鍾乳洞内は、神の齎した深い深い静寂に支配されているに違いない。
 作者は、その石筍と鍾乳石との出逢いの瞬間に鍾乳洞内に生じる深い静寂のような一日を過ごし終え、そして今は、夜を迎えた、と言うのである。
 「石筍」や「鍾乳石」の独特の質感が、「静かで長い一日」という叙述を導き出したのであろう。
 藻上旅人さん、久々の傑作である。
     〔答〕 出会ふ時こそりと音を立てもせず意思と意思とは鎮もり合へり  鳥羽省三
 

(冥亭)
    カタカナの名も垣間見ゆ甲子園長き残暑も半ばゆきたり

 カタカナ名前の甲子園球児と言えば、誰でも知っているのは、あの東北高校のダルビッシュ有投手。
 彼以外にも、2006年夏の香川西高の主将、ウラム・エフェレディン選手など、毎年ちらほら「垣間見」られるようになりましたね。カタカナ名前の甲子園球児が。
 その夏の甲子園大会が酣となる頃には、選手を苦しめ、観客を苦しめた「残暑も半ばゆきたり」ということになるのである。
     〔答〕 イチローの球児の頃のお名前は鈴木一朗カタカナならず  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    あげましょう 木場少年に画用紙を色鉛筆を長い日暮れを

 この一首に寄せた、作者ご自身のコメントに拠れば、「京極夏彦著の小説『百鬼夜行(京極堂)シリーズ』の主要登場人物のひとり、木場修太郎をイメージした歌です」「本当にねぇ、少年時代の木場さんに会って、思う存分、絵を描かせてあげたいよ、おねえさんは」とのことです。
 ご自分の年齢は今のままだから「おねえさん」。
 一方の木場修太郎はぐっぐっぐっと若返らせるから「木場少年」となる。
 佐藤羽美さんの作品は、空想の世界を翔けることがしばしばである。
     〔答〕 あげましょうこのおねえさんのなにもかも色鉛筆のこぼれる芝生で  鳥羽省三


(お気楽堂)
    さかさまに立てし箒の効き目など微塵もあらで叔母の長尻

 京極堂さんのお次はお気楽堂さんです。
 こちらの堂上人の作品は、前述の佐藤羽美さん作とは異なって、より現実的なはず。
 「長尻」のお客を追いたてようとして、「さかさまに立てし箒」。
 数年前に観たNHKの大河ドラマにも、確かそんな場面がありましたが、その場面でも「効き目など微塵もあらで」、結局はお客の「長尻」という結果になってしまっていた。
 そのように考えると、この作品の作者の堂上人も、あまり現実的なお方とは申せませんな。
 お気楽堂さんはやはりお気楽だ。
 青森の堂上人と少しもお変わり御座いませんね。
     〔答〕 さかさまに帽子被らぬジェロさんの帽子のマークはNYヤンキース  鳥羽省三

一首を切り裂く(089:テスト)

(チッピッピ)
    寝過ごしてテスト勉強できてない今も夢見るこんな歳でも

(髭彦)
    亡き母の八十路を過ぎてうなされきあはれあはれよテストの夢に

 ご本人とご本人のご尊母様との違いはあるが、二首とも「テスト」「テスト」、「テスト」にまつわる「夢」の話である。
 お勉強が出来る者でも出来ない者でも、テストに苦しむ夢を見るのは古今東西少しも変わらないらしい。
 ああ哀れ、哀れ哀れよ、テストの夢よ。
 学生生活からおさらばしてから半世紀近くにもなるが、私もまたテストの夢をよく見る。
 但し、それはテストをされる側の者としての夢では無く、する側の者としての夢である。
 自慢では無いが、私はテスト問題を創ることが大好きで、かつ上手であったことを自負している。
 定期テストの実施時期が近づくと、どの学校でも職員室の中が急に慌しくなる。
 数多い教師の中には、自前のテストを創るような能力が無くて、生徒に買わせている問題集の中から、その時期の学習進度に適合した問題を探そうとして躍起となっている者や、かねてよりストックしてある過去問などから出題するに相応しい問題を探すのに四苦八苦している者が居るからである。
 私は国語担当教師であったが、私と同じ国語教師の中には、「問一」は<書き取り>の問題、「問二」は<振り仮名>の問題、「問三」は<接続詞や副詞などの穴埋め>問題、そして、「問四」もまた形を変えた<書き取り>問題、それで合計点数・百点満点、などというような無能を絵に描いたような教師も居たのだ。
 しかも、長い教員生活の中で、そうした教師と一人か二人出逢ったと言うのならまだしも、一つの高校に数年勤務して別の高校に転勤すると、其処にも亦、そういう教師が一人か二人居て、三十五年の教壇生活の中で、そういう国語教師を十人以上も、私は同僚として持っていたのである。
 比較的に文章を書くことが上手なはずの国語教師にして、このテイタラク。
 他の教科担当の教師は推して知るべし。
 数学担当の教師の中には、生徒に買わせている問題集の中から、適当な問題を探し出し、その中の数字を少し換えて出題したら、正解が無くなってしまい、テスト終了後に生徒から吊るし上げを食った挙句、「その問題は全員正解」などという狡い手を使って教師の面目を保った、などという奇特な先生様も決して珍しくは無かったのである。
 そうした環境に棲息していて、私は悠々自適の毎日を送っていた。
 何しろ、テスト問題を捻り出すことが「好きで好きで大好きで、死ぬほど好きな」テストと心中しようとさえ思ったくらいなのだから。
 そんなテスト好きの私ではあったが、定年退職後しばらくして、夜寝て見る夢の中にテストが現れるようになったのだ。
今日の二時間目に、私の担当する現代国語のテストが実施されるが、肝心の作問がまだ未完成で苦しんでいる。
 やっと終わって、朝一番に飯も食わずに勤務先の学校に行って印刷しようとしたら、印刷機が壊されていた。
 そんな夢をこの数年間に十数回も見たのである。
 やはり、何処かに無理が在ったのかも知れません。
 上掲の作品について述べると、二つの作品とも、作者としては、「ここは軽く流しておこう」という気分で創った作品のようではあるが、それなりのリアリティーが感じられ、作者たちの安定した力量も窺われる。
     〔答〕 夕べ見た夢の中にも現れて用紙の裏に糞(ばば)がついてた  鳥羽省三


(石畑由紀子)
    教室の窓からすらり離陸したテスト用紙が彼女の答え

 こちらもまた<テスト恐怖症候群>の患者さん。
 しかし、こちらは、夜に寝て見るそれでは無くて、白日夢のそれ。
     〔答〕 天空から大きな翼が現れて紙飛行機を銜えて去った  鳥羽省三


(マトイテイ)
    本日はテステスこちら大丈夫マイクテストに気持ち隠して

 毎年、体育会や文化祭の時期になると、普段は準備室の中で昼寝ばかりしている物理教師が鎌首を擡げて活躍する。
 「えー、テステス。こちらは体育祭本部。本日は晴天なり。本日は晴天なり。エー、テステス。ただいまマイクのテスト中です」などと。
 あの物理教師も、「テステス」という、とぼけたような寝ぼけたような声の中に、何らかの気持ちを隠していたのだろうか?
     〔答〕 「テステス」とマイクに向かって叫ぶヤツ テスト作りの苦手な教師  鳥羽省三 


(羽うさぎ)
    おだやかなプロテストとしてワイシャツに白マジックでハートを描く

 「おだやかなプロテストとして」と言うよりも、「穏やか過ぎて」何を主張したいのか分からない「プロテスト」では御座いませんか?
 でも、一口に「ワイシャツ」と言ったって、最近の「ワイシャツ」は、色色さまざま。
 黒い布地や赤い布地の「ワイシャツ」に、「白マジックでハートを描」いたら、「私たち、後期高齢単身者介護施設の利用者にも、恋愛の自由、結婚の自由を認めよ。コチコチ頭の介護福祉士はこの施設から去れ。友愛の尊さも弁えていない理事は、この施設の経営から手を引け」といった「プロテスト」の内容は十分に読み取れることでしょう。
     〔答〕 爽やかなプロテストとして白シャツにみどりのインクで新緑を刷る  鳥羽省三


(おっ)
    いつまでもサシスセソだけ言えなくていつもお風呂でテストされてた

 <サ行音>は確かに発音し難い。
 いつも一緒にお風呂に入って、「サシスセソ」テストをして呉れたのは、お母さんでは無く、きっとお父さんだったに違いありません。
 「おっ、でかした、でかした。お母さん、<おっ>君が、<サシスセソ>を、早口で間違いなく言えるようになったぞ。<おっ>君の今夜のおかずに、もう一枚、コロッケを加えてやれ。<サシスセソ>を早口で言えるようになったお祝いだから。」
     〔答〕 晩熟(おくて)にて<アイ>は言えても<サシスセソ>さしも出来ずに掻いてばっかり  鳥羽省三 


(桑原憂太郎)
    ナイターを英語科備品のラジカセで聴きつつテストの採点をする

 「英語科備品のラジカセ」で「ナイター」を聴いている教員が、私の過去の同僚にも一名居ましたよ。
 その教師は、某国立大学の付属高校から某国立大学の英語専攻科を出たことを誇りにしていて、定期試験の他に、隔週一度は必ずテストをやり、その結果を廊下に張り出すというアナクロいことをやっていたから、勉強嫌いの生徒たちからは、蛇蝎の如く嫌われていた。
 で、その教師は、三十歳を過ぎても母親と二人暮らしであった。
 そこで、彼は自宅から小型の冷蔵庫や電気炊飯器や寝袋まで持って来て、英語科の準備室を自分の塒のようにして使っていたのだ。
 放課後になると、彼は買い物袋を抱えて街に出かける。
 レタスやハンバーグやトマトなど、今晩食べる食料の買い出しに行くのだ。
 そういう訳で、彼の評判は、生徒からも教師仲間からもさんざんであったが、私だけは、彼の悪口をただの一言も言ったことが無かった。
 何故ならば、彼が担当すると、受け持ちクラスの生徒の英語力が確実にアップするからである。
 ある年の二学期の中間試験期間中に、教員が二チームに分かれてソフトボール大会をやった。
 その大会で、私はクリーンヒットを三本も放ち、自分では密かに、この大会のMVPは自分だと思い込んでいた。
 ところが、試合後の宴会の席上では、そうした私の活躍振りは少しも話題とならずに、出場した者がそれぞれ、「あの試合のMVPは俺だ。何故ならば、俺の速球には誰も手が出なかったからだ」「いや、この私こそ最高殊勲選手だ。何故なら、あの時の好走塁が勝利打点に結びついたのだから」などと、飲んだ勢いで勝手に気炎を上げているのだ。
 そうしたことで宴会の座がかなり乱れ始めた頃、例の英語教師が急に立ち上がって、「チャンチャカチャーン。皆様方のご機嫌は益々お麗しいようにお見受けしますが、ここらで、本日のソフトボール大会のMVPを発表致します。本日のMVP選手は、国語科の鳥羽省三選手。鳥羽選手には主催者を代表して、大会快調の私から素晴らしいフレゼントを差し上げます。それでは、鳥羽省三選手どうぞ」と叫んだので、私がにやにや笑いながら彼の前に進んだら、彼は私の胸に、月桂冠の一升瓶の王冠を貼り付けてくれた。
 その一件以来、私の彼贔屓はますます激しくなり、その頃、学年主任をしていた私の受け持ち学年の進学実績は開校以来最高であった。
     〔答〕 リールからカセットテープにCDと移りにけりな聴覚機材  鳥羽省三

一首を切り裂く(088:編)

(ゆき)
    今朝がたの雨の雫を編みこみて銀に光れりささがにの巣は

 「ささがに」とは<蜘蛛>のこと。
 「折からの陽に当たって、今朝方まで降っていた雨の雫が蜘蛛の巣の網目の中で銀色に輝いている」と言うだけのことであるが、雨の雫が蜘蛛の巣の中に止まっている状態を、「雨の雫を編みこみて」としたところが、この一首の手柄であろうか?
     〔答〕 蜘蛛の巣の一つ一つの網の目の中に光れる今朝の白露  鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
    父親のゴルフ雑誌のそこだけは楽しみに読む編集後記

 「編集後記」が面白いのは、「ゴルフ雑誌」に限ったことではありません。
 経済誌にしろ、医学誌にしろ、短歌誌にしろ、「編集後記」は興味深い。
 そこには、生身の人間が生息し、その息遣いが聞こえて来るからです。
     〔答〕 姉の買う婦人倶楽部の桃色の綴じ込み記事の興味深さよ  鳥羽省三


(今泉洋子)
    遺歌集を編む木染月(こそめづき)列島にからくれなゐの秋くだりゆく

 「北上する」のは春のサクラ前線で、「南下する」のは秋の紅葉前線である。
 北の北海道から南の九州へと、山々の木々が次第次第に「からくれなゐ」に紅葉して行く「木染月」に、本作の作者は、何方かの「遺歌集」を「編む」のである。
 紅葉前線の進行の仕方は、線的な進行ではなく面的な進行であるから、「編む木染月」という表現が生きて来る。
 山々の木々が「からくれなゐ」の錦を編む「木染月」に、今泉洋子氏は「遺歌集」を編むのである。
 「紅葉(もみぢ)す」とは、<木々の葉っぱが赤や黄色に色づいて行く>様を表わす道詞である、と同時に、<人間が老いて死んで行く>ことを表わす動詞でもある。
     〔答〕 紅葉してからくれなゐに染まるとき山の木の葉は息つめてゐる  鳥羽省三 

今週の朝日歌壇から

 今週もまた、公田氏及び郷氏へのオマージュ作品、都合三首あり。
 四十首中の三首は多いか少ないか?

○  三万の兵を増やして六千を棺とともに帰す国なり        (アメリカ) 西岡徳江

 オバマ大統領としては苦渋選択であろうが、しかし。
 選者・永田和宏氏の評言、「結句、『国なり』に単なる批判だけではない強い思いがこもる」に同感。
     〔答〕 大戦の幕を引かむと原爆を二発落とせし国ぞアメリカ  鳥羽省三


○  葦の間に鳩笛を吹くひとありて風にテグスのきらめく夕べ    (東京都) 倉地克次

 「風」の働きに注目しなければならない。
 「テグス」をきらめかせるのも「風」であるが、その背景となっている「葦の間に」吹く「鳩笛」を流し、響き渡らせるのも、その同じ「風」なのである。
     〔答〕 川の面にテグスきらめくこの夕べ葦の葉越しに鳩笛聞こゆ  鳥羽省三

 
○  君の呉れしライターにまだ火の鳥を一羽飼ひをり西日に点す   (東京都) 保坂 満

 「西日に点す」と「火の鳥」との関わりに注目。
 折からの「西日」の中に燃えるライターの火の赤さと輝きとが、「君の呉れしライターにまだ火の鳥を一羽飼ひをり」という、斬新なイメージを導き出したのである。
     〔答〕 ポケットに未だ籠もれる火の鳥の折に羽ばたく西日に向かひ  鳥羽省三


○  相続の話ながなが聞きながら鍋の大根時どきいじる       (瀬戸内市) 児山たつ子

 囲炉裏端で交わされる財産相続を巡っての長話に呼応するが如く、ブリ大根はぐつぐつぐつと音を立てて煮えている。
     〔答〕 相続の話ながなが続く時ブリ大根は煮崩れて行く  鳥羽省三


○  仙覚の万葉注釋畢へし跡テニスコートとなりて久しき      (埼玉県) 澤野朋吉

 選者・佐佐木幸綱氏の評言をそのまま写す。
 「埼玉県小川町の中城址と呼ばれる城跡に、仙覚律師の記念碑と律師堂がありテニスコートがある。仙覚は鎌倉時代の天台宗の僧で、万葉集研究に大きな業績を残した人物。一首、ゆったり無常感をうたって心に残る。」
 補足すべき事項無し。
     〔答〕 仙覚の名を知りにしは二十歳過ぎ小林教授の国語学特講  鳥羽省三


○  ときながく光あつめし黄葉の地におちてなほひかりをたもつ   (ひたちなか市) 篠原克彦

 作者・篠原克彦氏は、冬樹、新緑、緑陰、黄葉、落葉と、一日に幾度と無く、この樹下に佇み、過ぎり、この樹の巡りの景色の変遷と、その葉を揺るがす光陰とを見つめ続けて来たのである。
     〔答〕 地に落ちて光失せにし公孫樹葉の一つ一つに置ける朝露  鳥羽省三   

一首を切り裂く(087:気分)

(穴井苑子)
    とぶように歩いてるのは気分ではなくてそういう仕様だけどね

 自動車にも、雪国仕様というのが在って、そうでない仕様のものに較べると少し割高になるという。
 人間にも自動車同様、○○仕様というのが在って、本作に登場する人間は、予め<かっ飛び仕様>に造られているのであろう。
     〔答〕 父親は早漏気味の者なりて生まれた子供は<かっ飛び仕様>  鳥羽省三


(理阿弥)
    キャメル手に禁煙席に来た彼奴の金的めがけてキックの気分
 
 私は喫煙しないので、つい先日まで知らなかったのですが、コンビニなどでは煙草に背番号を与え、「はい、27番を一カートンですね」などと言って売っているのですね。
 あの番号は、その店だけに通用する番号だそうですが、いっそのこと、煙草のそれぞれの銘柄に、全国に通用する背番号を背負わせれば、何かと便利に思われますが、いかがでしょうか?
 「彼奴は、俺の乗った電車の禁煙席にわざわざやって来て、嫌がらせみたいな顔をして、49番を吸いやがったから、俺は彼奴の金的にキックを食らわしてやったよ。彼奴ときたら、いきなし俺のスパイク付きの靴で蹴られたもんだから、あそこを抑えて通路で跳ね上がっていたよ。それなのに、彼奴ったら、口から49番を離そうとしないのさ。よっぽど好きなんだね49番が」などと。
     〔答〕 いにしえのタバコ<金鵄>が在ったなら背負った番号<001>番  鳥羽省三


(ひいらぎ)
    雲眺め気分転換してるって言い聞かせてる予定のない日

 ケイタイを二つも抱えていて、電車の中だろうがトイレの中だろうが、ところ構わずにメールを打って、デイトの予定作りをしている、昨今の若い女性にとっては、ほんの時たま生じる「予定のない日」は、大空を行く<はぐれ雲>のように、ふわふわしていて所在無いものでありましょう。
 そこで彼女は、「今日は一日じゅう雲を眺めて過ごしました! 近頃のわたしは、友だち付き合いに、すごい疲れているみたい!」なんて、自分のバックに入っている二台目のケイタイ宛てにメールを打ったりする。
 と言っても、それは別に<ひいらぎ>さんのことではありませんよ。
 ひいらぎさんは、それほど若くはなく、亭主持ちこぶ付きですから。
     〔答〕 「おーい雲、どこへ行くんか」「おれ様は、いわき平に、ひいらぎ伐りに」  鳥羽省三


(髭彦)
    柄になく太郎引きけりアランをば<悲観は気分、楽観は意志>と

 作中の「太郎」とは、元職場の若手教員のお名前でしようか?
 それとも、ご長男さまのお名前でしょうか?

 『悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入りがちなものだ』(アラン『幸福論』より)
 何処ぞのお方かは存じ上げませんが、<アラン>とか申すお方は、株屋みたいなことを仰る方ですね。
     〔答〕 楽観は医師に拠るとて年明けの早々病院通いしてます  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    気分屋のお時間様があらわれて春を指先確認なさる

 ラーメンズのコント「お時間様」、インターネットの動画で大人気です。
 本作の面白さは、その「お時間様」と、ブルーカラー社会の習慣である、「指先確認(指差し確認)」とを結びつけた点にある。
 私が、ある工業高校に勤務していた頃、私のクラスの生徒は、工業教科の教師の方々から、この「指差し確認」という習慣を徹底的に仕込まれていた。
 「旋盤のスイッチを切ったか? はい、指差し確認!」「フライス盤の電源を切ったか? はい、指差し確認!」「定期券の日付は大丈夫か? はい、指差し確認!」などと。
 そんな生徒たちの日常に付き合っていると、いつの間にか、私にもその習慣が身についてしまった。
 そして、その頃、結婚したばかりの妻に向かって、「お風呂は沸かしたか? はい、指差し確認!」「今日は安全日か? はい、指差し確認!!」などと言って、すっかり嫌われたものでした。
     〔答〕 「由良之助はまだか? はい、指差し確認!」『仮名手本忠臣蔵』判官腹切りの場  鳥羽省三
 

(磯野カヅオ)
    顔役の馬場あき子氏に指し棒で厳しく咎められたい気分

 仕舞いで鍛えた馬場あき子氏のお顔は、「顔役」というだけの価値はある。
 その「顔役の馬場あき子氏に指し棒で厳しく咎められたい気分」とは、どんな気分ですか?
 夫婦喧嘩の後始末を、厳粛な歌会の場に持ち込んではいけませんよ。
     〔答〕 顔役のこの頃めっきり衰えて朝日歌壇の選歌怪しき  鳥羽省三


(今泉洋子)
    ネットより君を喚(よ)び出したき気分秋の底(そこひ)に揺れながらゐる

 今泉さんの作品としてすこぶる甘い作品。
 その自信の無さが、「ネットより君を喚(よ)び出したき気分」などと、無用なことを言わせるのだ。
 結社歴数十年の今泉洋子氏が、今さらネット歌人たちに媚態を示す必要はさらさらに無いはずだ。
 二箇所の振り仮名、「よ」「そこひ」も無用。
 「『この作品は、このように読むしか読みようがないのだ』という確信があれば、読み仮名の大半は不要なのだ」とは、今は亡き我が師・森田悌治氏の教えである。
     〔答〕 ニットにて君を締めたくなる気分冬の夜長に背中向け居り  鳥羽省三
 冗談、冗談、冗談ですよ。

一首を切り裂く(086:符)

(西中眞二郎)
    風に飛びし切符拾いて渡したる女と並び改札を出る

 邪念の塊のような者(鳥羽自身のこと)から見ると場面展開はこうなる。
 電車から降りた途端に吹いて来た風に煽られて、前を行く美人が手にしていた切符が飛ばされてしまった。
 そこで、ここぞとばかりに追いかけて行ってそれを拾い、持ち主の美人に渡してやったお助けマンがいる。
 そのお助けマンにすれば、それなりの計算があってのことなのだが、拾ってもらった美人にすれば、風に飛ばされた切符が風に飛ばされたままであると、自分は永久にこの駅の構内から出られないことになるのだから、お礼の言葉の一つも掛けたくなる。
 「まあ、何処の何方かご存じ上げませんけれど、大変有り難うございます。本当に助かりました」と。
 通常ならばお助けマンが、「いいえ、どう致しまして。武士は相み互いですから」と答えて、それでお終いになるのであるが、そのお助けマンが切符を拾ってやった動機が動機ですから、事はそんなに簡単には済まない。
 拾ってもらった美人のお礼の言葉が済むや否や、そのお助けマンは、「いえ、いえ、どう致しまして。おや、ついぞお見かけしないお方ですが、貴女はこれからどちらにお出掛けになるのですか?」
 「ちょいとそこまで」
 「ああ、そうですか。そうですか。ちょいとそこまでですか。かく申す、私の行き先も、ちょいとそこまでですから、なんでしたら、ご一緒しましょう。まあ、まあ、重そうなお荷物ですこと。あなたのような美人が、こんなに重い荷物を持つなんて法律は、この国にはありません。ですから、それはこの雲助にお任せ下さい。どうぞ、どうぞ、こ遠慮無く」などと言いながら、その美人の細くて白いお手手から強引に荷物を奪い取って、すたこらさっさと改札口の方に行ってしまう。
 細くて白いお手手の美人にしてみれば、以外な事の展開に驚き呆れ、かなり大きな恐怖感と、それの数十萬分の一ほどの期待感をも抱いたのであるが、荷物を奪われた以上その雲助について行くしかなく、結果的には、「風に飛びし切符拾いて渡したる女と並び改札を出る」という運びになってしまったのである。
 と、そこまでは、この私、鳥羽省三レベルでのお話であり、これからが本題である。
 風に飛ばされた切符を拾ってやった、親切な男性にすれば、風に飛ばされた切符を拾うという行為そのものが、親切と言うよりも、本能的、条件反射的に、ついやってしまったことであったので、拾った切符を落とし主の女性に渡す時も、極く自然に、「いやぁー、ひどい風ですねー」といった程度の言葉を掛けて渡してやったか、あるいは、言葉など一言も掛けもせずに、さりげなく渡してやったに違いありません。
 したがって、改札を出る時に、自分がささやかな親切を施してやった女性と並んで出ることになってしまったのは意外なことであり、「おや、おや、これは変な具合になってしまったぞ。もしかしたら、さっきの私のささやかな親切が、下心あってのことだと、この女性や他の人から思われているのかも知れないぞ」といった気持ちが、この男性の心の中に去来しているのかも知れません。
 もう一点追加すると、切符を拾ってもらった女性は、美人どころか十人並み以下の容貌の女性であって、したがって、この女性と並んで改札を出ることになるのを知った時、例の親切な男性は、こう思ったのかも知れない。
 「おや、おや、これは嫌なことになってしまったぞ。さっきの私の行為は、つい条件反射的にやってしまったのに過ぎないのに。そんなことも知らずに、この女はこの私を、もってのほかの親切男と誤解してついて来るのかしら。この分ではこの女は、私が駅前からバスに乗ったら、私と同じバスに乗って来るかも知れない。たとえ偶然にしても、そんなことは、よく在り得るから」と。
 事の展開の意外さに少し驚き、かなり当惑しているらしい男性の様子が、一首全体のさりげない表現を通して、ユーモラスに描かれている。
     〔答〕 たまたまの風に煽られ女男二人(めをににん)地獄の底へ道行きとなる  鳥羽省三
 人の世は、何時、何が起きるか分かりません。私は、昨夜の藤井財務大臣の辞任騒ぎに接して、そのことを切実に感じました。お互いに健康には、十二分に留意しましょう。


(花夢)
    部屋じゅうに散らかっている感傷を音符の絵柄の靴下で踏む

 少し行き遅れた感じがしないでもない女性の「感傷」とは、どんなものなのでしょうか、と、この一首を観賞しながら、作者・花夢さんの「感傷」に、つい干渉してみたくもなりそうな鳥羽省三ではある。
 「部屋じゅうに散らかっている感傷を」という上の句は、作者ご本人としては、少し気取っての文学的な修辞に過ぎないのでありましょうが、花夢さんの作品を八十首余りも読んで来た鳥羽からすると、作者ご自身が感じて居られる以上の現実感が感じられてなりません。
 嫁ぎ遅れた怨念を<五七五七七>に託している女性の生息する「部屋」には、その隅々まで、畳や絨毯の裏までも、「感傷」という始末に困るゴミが「散らかっている」いるものですよ。
 それを掃除するためには、「音符の絵柄の靴下で踏む」ぐらいでは、とても不可能でしょう。
 部屋の掃除などしないで、<婚活>に専念しましょう。
     〔答〕 十六分音符模様のネクタイを締めて今夜は歌会に行こう  鳥羽省三
 音符模様のネクタイは、銀座の田屋で本当に売っています。
 価格は二万円前後でしたか。


(みつき)
    符合する人のない夜はコンビニの棚に並んで売られたくなる

 「符合する」の意味をあれこれと考えていたら、二時間があっという間に経ってしまった。
 「符合」という語からして先ず思いつくのは、「?」や「!」や「♥」などのメール通信に欠かすことの出来ない「符号」を沢山盛り込んだ携帯電話でのメール。
 それと、もう少し深読みすれば、「符合する」は、「キスする」「咬合する」「交合する」「合体する」などの意とも解釈されるから、この一首は、「ベットを共にする人に逃げられた今夜は、あまりにも淋しくて悲しくて、いっそのこと、こんな私などは、あのファミリーマートの商品棚に並べられ、賞味期限切れ寸前の弁当と一緒に、50%引きで売られて行けばいい」と解釈されるだろう。
 でもねえ、<みつき>さん。
 超絶不況の真っ只中にある昨今は、賞味期限切れ寸前の弁当などは50%引きどころか90%引きでも引き取り手が無くて、結局はゴミ箱行きらしいですよ。
 あなたには、その覚悟がありますか?
     〔答〕 符合する人の無い夜は苦悩して『人生論ノート』を読んだらいかが  鳥羽省三
         符合する人の無い夜は灯り消しグスタフ・マーラー聴いたらいかが    同


(ほたる)
    感情をいくつも押し殺して送る感嘆符のない静かなメール

 一首を<カタカナ書き>してみよう。
      「カンジョウヲ/イクツモオシコロ/シテオクル/カンタンフノナイ/シズカナメール」。
 次に、原作のまま、<分かち書き>してみよう。
      感情を
      いくつも押し殺して送る
      感嘆符のない静かなメール
 或いは、
      感情をいくつも
      押し殺して送る
      感嘆符のない静かなメール
 或いは、
      感情をいくつも押し殺して送る
      感嘆符のない静かなメール

 <ほたる>さんは、短歌を「五七五七七の五句・三十一音」の形式という捉え方をしているのではなく、「三十一音の形式」として捉えているものと思われる。
 だが、詠歌に際しては、指折り数えながら詠んでいるらしくて、一首のリズムにはほとんど破綻が無く、本作の場合も、苦労なく音読できる。
 しかし、この句割れ句跨りを伴った一首は、本質的には短歌では無く、口語自由詩として発想されたものであろう。
     〔答〕 感情をいくつ殺して詠んだのか感嘆符の無い非情のメール  鳥羽省三

      
(磯野カヅオ)
    読み終へし官能小説三箇所に栞代はりの切符挟まり

 鬼才・磯野カヅオ氏もインドから帰ってからは、あらぬ妄想に耽ったり、官能小説を読んだりして暮らして居られるのでしょうか?
 だとすれば、印度亜大陸はやはり魔物だ。

 それとは別に、古書店から購入した本には、実にいろいろなものが挿まれていますね。
 鋏入りの切符、映画の入場券の半券、満洲國の紙幣、風俗嬢の名詞、鼻毛・陰毛などなど。
 そうした中でも、最も哀れを止めるのは、ほとんど自費出版に近い形で刊行された、有名無名の歌人たちの歌集に挿まれた「献呈」という文字が印刷された栞である。
 なかには、作者ご自身と思われる筆文字で、「○○○○先生へ」などと書かれたものもあり、刊行部数の大半を、先輩歌人たちや関係者たちに配るという、歌壇の悪しき習慣の虚しさを物語っている。
 私が上京した頃の、東京神田の日本書房には、そうした献呈歌集が、宛名入りの封書に入ったままで山積みされていたものである。
     〔答〕 ブックオフの105円棚に晒された『夏鴉』に挿める<謹呈>しおり  鳥羽省三
 
 歌集『夏鴉』は、歌人を名乗る者ならば、当然、その名を知っているはずの新鋭女流歌人の第一歌集である。
 先年、角川短歌賞を受賞されたその歌人は、万年筆で記した「謹呈」の栞を、その歌集の表紙裏に挿んでいた。
 私は、横浜市青葉区内のブックオフで、この歌集とたまたまめぐり会ったのを一種の邂逅と考え、大枚壱百五円を支払って購い求め、目下愛読中である。
     〔答〕 私歌集を献呈する馬鹿しない馬鹿おなじ馬鹿ならするのは損そん  鳥羽省三
         歌集など刊行する馬鹿しない馬鹿おなじ馬鹿ならどちらを選ぶ   同

 私、鳥羽省三は、他人様から頂戴した歌集を、開封もしないままに、「くずや、お払い」に葬ってしまうような事は一切致しません。
 日本橋・木屋から三千百五十円購入した鋏で以って丁寧に開封させて頂き、夜を徹して熟読させて頂き、著者宛に、コピー用紙数枚に亘る批評文をお送りさせて頂きます。
 お望みならば、その批評文を、当ブロクに掲載させて頂きます。
 よって、「題詠2009」に参加されている皆様方の中で、歌集を刊行なさった方は、何卒、私宛にご恵送下さい。
 その具体的な方法・送り先などは、このブログのコメント欄にメールアドレスをお書き頂きますと、メールにて指示させて頂きます。
 どうぞ宜しく。

  
(美木)
    さりげなく交わす言葉の端々に秘密の符号を入れる快感

 「さりげなく交わす言葉の端々に秘密の符号を入れる」には、どうしたらいいのでしょうか?
 「あのね、今夜ね、家にね、帰ったらね、テレビをね、観てね、お風呂にね、入ってね」という具合に、一文節の末尾に、暗号となる特定の音韻を入れて、第三者には判らないが、話し相手には解るようにするのだろうか。
 因みに、前述の、文節の末尾に<ね>を入れた会話に於ける<ね>の意味は、「新年おめでとうございます」という意味だったりして。
     〔答〕 さりげなく交わす会話のその合い間目配せをして思い伝える  鳥羽省三   


(今泉洋子)
    どこまでも続く刈田の電線に音符のやうな月のぼりゆく

 まだ現役教師の頃、修学旅行の付き添いで佐賀県を訪れたことがある。 
 一日の行程を終えた夕方、私は宿泊先の武雄市内の温泉旅館から、佐賀市内在住のソフトボール仲間のM氏に電話を入れた。
 M市は佐賀県園芸連の幹部職員であったが、その頃は東京事務所から佐賀市内の営業本部に派遣され、単身赴任中だったのである。
 私の電話を受けた後しばらくして、M氏は両手に余るほどのお土産と懐かしい髭面を抱えて私の宿泊している温泉旅館にやって来た。
 そして、「日が暮れるまでまだ間があるだろう。なんだったら、生徒さんの世話は他の先生方にお願いして、私と一緒に夕食でも食べに出よう」と、外出を促した。
 そこで私は、「いくら何でも夕食までは」と、そのお誘いを一旦は辞退したものの、せめて一緒に武雄市内を案内しようというお誘いには抗し切れなくて、結局、小し一時間ほど武雄市郊外の農村地帯を、彼の運転する自動車に乗ってドライブした。
 その途中、彼は私に話し掛けて来た。
 「鳥羽さんよ。私の郷里の佐賀県は、あなたの郷里の東北と少しも変わらないのだよ。こうしてどこまで行っても田圃ばかりで。あなたの故郷と少し違ったところがあるとすれば、農道沿いに並んで立っている電信柱の所々にカササギの巣が見えるくらいのものだ」と。
 そう言われて、私は初めて沿道の電柱に視線を向けてみたのであるが、なるほど、その所々に唐傘を逆さにしたような異物が認められたので、それに指差しすると、「そうそう、あれがカササギの巣だよ。あんたの処の電柱には、カササギが巣を掛けていないだろう」と、M氏は運転する手を休めずに答えてくれた。
 本作の上の句は、「どこまでも続く刈田の電線に」となっているが、その「電線」を支える電信柱の所々にもカササギが巣を掛けているのだろうか。
 もしそうだとすると、その巣の中のカササギたちは、「音符のやうな月のぼりゆく」風景を夢見心地に見ているに違いない。
 今泉洋子さんのロマンティズムが余すところなく発揮されているこの一首は、今となっては遠く過ぎ去ってしまった、M氏と私との交友の一齣を思い出させて下さった。 
     〔答〕 どこまでも続く田圃の沿線の電信柱に棲めるカササギ  鳥羽省三


(久野はすみ)
    感嘆符疑問符ハートにぎやかなメールをくれるときはあやしむ

 作中の「メール」は、別居していらっしゃるご子息様やご息女様からのメールでございましょうか?
 「ママお元気? こないだ雅子叔母さんに会ったんだけど、あんまり若く美しかったんでわたしびっくりしちゃた!
そこで、思いっ切り持ち上げてやったらお小遣いを十万円もくれたのよ!ママにはあれほどの美貌も若さも期待してないけど、でも、いつまでも元気で居てね。わたしママをとっても愛してるからね♥♥♥♥♥♥♥♥」。
 ご子息様からでもご息女様からでも、この手のメールが来たら要注意。
 「あやしむ」も何も、敵さんの狙いは見え見えですからね。
     〔答〕 感嘆符疑問符ハート賑やかなメールの趣旨は「お金送って」  鳥羽省三
 

(木下一)
    天国に行く切符です真っ白な君のパンティつかんで走る

 木下一氏の<パンティ短歌>を読み、選び、論評するのは、評者としての私の見栄であろうか?
 本作の作者は徹頭徹尾パンティに拘り、そのままゴールまで駆け込む覚悟の持ち主らしい。
 「真っ白な君のパンティ」を「つかんで」走りながら、「(これが)天国に行く切符です」と叫ぶ男が居たとしても、昨今の世相では何ら不思議ではなく、そのような狂態を示すご本人も、案外真面目なのかも知れない。
 でも、それはあんまりだ。
 作者の木下一氏も、ご自身をそこまで卑下して表現する必要はさらさらにありません。
 年も改まったことですから、今年はもう少し真剣に詠歌に取り組みましょう。
     〔答〕 刑務所に行く切符です真っ白なパンティ掴んで走るの止めよう  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    いくつかの符合を確認した後にわたしを捲りはじめるおとこ

 教員生活を退いた私が生まれて初めて短歌新人賞に応募し、最終選考通過作品として某短歌誌に掲載された年に、本作の作者・佐藤羽美さんの作品もまた、最終選考通過作品として同じ短歌誌に掲載されていた。
 その年の最終選考通過者は受賞者も含めて二十人ほど居たと記憶しているが、その中で、三十首連作を通してスイーツを詠った佐藤羽美さんの作品が、私の作品の次に輝いて見えた(笑い)。
 あれから幾年経ったのでしょうか。
 あの頃、二十歳を過ぎたばかりの彼女も、いつの間にか、こんな悩ましげな歌を詠むような年頃になってしまっていたのだ。
 年齢は遥かに隔たってはいるが、彼女を良き同窓生として、良きライバルとして敬愛する私の心境は、いささかならず複雑である。
 でも、いくら女性だからといって、いつまでもスイーツや漫画の歌ばっかり創っては居られないですからね。
 ところで、「いくつかの符合を確認した後に」の「いくつかの符合」とは、あの、何する前の<何>でありましょうか?
 その<何>の後は、いよいよ本番ということになる。
 いざ本番となったら、お相手の「おとこ」は「わたしを捲りはじめる」。
 おや、おや、少し話が変になってきたようだ。
 <捲る>とは、何するお相手の女性の衣服を捲ることでしょうから、本番はこれから先のことであり、何する前の<何>は、これから先もまだまだ続くのではないでしょうか。
 それにしても、いささか呆れてしまう。
 彼女の身体から彼の手によって捲られ、剥がされる対象物の中には、当然、彼女のお召しになっているランジェリーも含まれているでしょうから、それでは佐藤羽美さんの短歌は、木下一氏の<パンティ短歌>と本質的には何ら変わらないものになってしまうのではないでしょうか。
 いや、いや、それは近視眼的見方というもの。
 作品中に殊更に<パンティ>という語を詠み込まなければエロティシズムを表わせないのが、私の言う<パンティ短歌>なのであり、<パンティ>という語を詠み込まないでもパンティを感じさせ、エロティシズムを表わせるのが芸術作品としての短歌なのである。
 となると、私のライバルの佐藤羽美さんは、歌人としてはまだまだ正常。
 でも、一個の女性としては落花狼藉の振る舞いを受ける寸前の状態なのである。
     〔答〕 符合とは胸や唇合わすことその後捲られそして何され  鳥羽省三

 と、ここまで書いて来たが、此処で少し心配になって来た。
 この一首の内容は、<何すること>などでは無く、作中の「いくつかの符合」とは、少年漫画誌の記事や付録の確認のことであり、その「いくつかの符合を確認した後にわたしを捲りはじめる」とは、読んで字の如く、連載記事や付録の有無を確認した後で、その少年漫画誌のページを捲ることではないでしょうか、と、気がついた。
 と、すれば、作中の「おとこ」は<色魔>では無く<マンガ魔>ということになる。
 あんまり馬鹿なことばかり書いていると、佐藤羽美さんに笑われ、嫌われますから、ここら辺りで筆を擱こう。
 佐藤羽美さん、今日の青森市は猛吹雪とのこと。
 羽毛のようなお美しいお身体を、吹雪に飛ばされないようにして下さい。
 と、書いてしまったが、佐藤羽美さんは、案外、お名前に相応しからぬ<百貫デブ>だったりして。
 佐藤羽美さん、マンガの読み過ぎはいいけれど、スイーツの食べ過ぎにはくれぐれも注意して下さい。

一首を切り裂く(085:クリスマス)

(詩月めぐ)
    似合わない花言葉持つクリスマスローズ 清楚な顔してるのに

 ものの本によると、「クリスマスローズ」の「花言葉」として挙げられているのは、「追憶・私を忘れないで・スキャンダル・私の不安を取り除いてください・慰め・いたわり・中毒・悪評」・誹謗・発狂」などなど。
 一つの花にこんなに沢山の花言葉が在るのは異例ではあるが、これも、「一見、華やかそうで華やかでない。一見、侘しそうで侘しくはない。一見、優しそうで優しくはない。一見、刺々しそうで刺々しくはない」といった、見る人や見る時によっていろいろ変わる、この花の複雑なイメージがそうさせているのだろうと思う。
 NHKラジオ深夜放送の人気番組「ラジオ深夜便」に於いて、司会者は、歌人の鳥海昭子さんの作品として、「思いでは少しさみしく さはあれど 今日の窓辺のクリスマスローズ」という作品を紹介したのを、私は記憶していますが、鳥海作品の場合は、この花の持つイメージとしての<寂しさ>と共に<労わり>の情が注目されているのかと思われます。
 本作の作者は、この花のことを「清楚な顔してるのに」と詠み、それなのに「似合わない花言葉持つクリスマスローズ」と詠んでいる。
 本作の場合もまた、クリスマスローズという花の、全く矛盾した二つのイメージに着目しての作品であろう。 
     〔答〕 猛毒のキンポウゲ科の類といふクリスマスローズ思へば恐ろし  鳥羽省三


(近藤かすみ)
    祝福を受けて生まれし吾とおもふクリスマス・イヴの賑はひのなか

 「クリスマス・イヴの賑はひのなか」に居て、「祝福を受けて生まれし吾とおもふ」と歌うのは、本作の作者ご自身でありましょうか。
 だとすれば、本作の作者<近藤かすみ>さんは、この世に類例の無い幸せ者であり、寛大な心の持ち主であると拝察される。
 通常、人間という者は、華やかさや賑わいの中に身を置いて、我が身の孤弱と侘しさを感じるものではないでしょうか?
 「地球の人々がみんな幸せだから私も幸せ」といった気持ちには、なかなかなれない私である。
     〔答〕 選ばれて孤弱に生ひし吾と思ふクリスマス・イブの賑はひのなか  鳥羽省三

 と、此処まで記して公開したところ、ガードの固い近藤かすみさんから、我がブログに早速コメントを頂戴した。
 そのコメントに曰く、「あけましておめでとうございます。種明かしをしますと、わたしの誕生日は12月24日です。それで祝福(これはイエスキリストの誕生を祝ってるわけですが)のなかに生まれた吾なのです。クリスマス、お正月などにぎやかなことは余り好きではありません。まあこういう日に生まれたのも運命です。これからもよろしくお願いします。」とのこと。

 今さら申し上げるのも何ですが、私は、上掲の作品を読んだ当初から、近藤かすみさんのお誕生日が、クリスマス・イブの12月24日であることを予測していた。
 予測していたのにも関わらず、何故、あのような揶揄めいた感想記事を書いたのだろうか。
 それは一重に、嫉妬、嫉妬、嫉妬、七割五分の嫉妬と、そして二割五分の憧憬のの気持ちから発したものである。
 近藤かすみさんは、現在、短歌結社「短歌人」の同人として、同結社の歌誌『短歌人』を主たる場として詠歌活動を展開されて居られるのですが、その他に、総合誌『短歌研究』などへのご投稿も怠らず、私の見るところ、歌人・近藤かすみさんは、今や、短歌人幹部の栗木京子さんに次ぐほどのご力量を備えていらっしゃるのである。
 卑しくも歌人を名乗る以上、そんな近藤かすみさんに嫉妬心を抱かないで居られましょうか。

 拙い我がブログの中に、歌巧者・近藤かすみさんの御作を拝戴して、「『クリスマス・イヴの賑はひのなか』に居て、『祝福を受けて生まれし吾とおもふ』と歌うのは、本作の作者ご自身でありましょうか。/だとすれば、本作の作者<近藤かすみ>さんは、この世に類例の無い幸せ者であり、寛大な心の持ち主であると拝察される。/通常、人間という者は、華やかさや賑わいの中に身を置いて、我が身の孤弱と侘しさを感じるものではないでしょうか?/『地球の人々がみんな幸せだから私も幸せ』といった気持ちには、なかなかなれない私である。」と記さなければならなかった、私・鳥羽省三の屈折した気持ちを、選ばれてイエジス様のご生誕日の前日にご誕生なさった近藤かすみさんはご理解下さるでしょうか。

一首を切り裂く(084:河)

(西中眞二郎)
    五月雨や大河を前に家二軒 蕪村もかかる景色を見しや

 いやはや、驚嘆させていただきました。
 西中眞二郎氏にして、この手抜き在り。
 察するに、一題遅れで「憂鬱」をお詠みになったのでしょう。
 私も、前題「憂鬱」の選定をしながら、すっかり憂鬱になってしまい、本題に於ける西中さんと同じような心境になりました。
 「憂鬱」などという大段平を振りかざしたような題では、碌な歌を読めませんよね。
     〔答〕 「極寒の塵もとどめず岩ぶすま」政治家かくも居住まひ正せ  鳥羽省三


(原田 町)
    葛和田とう利根の河岸あり亡き父の故郷へ小舟で渡りし記憶

 作中の「葛和田とう利根の河岸」とは、埼玉県大里郡妻沼町俵瀬から群馬県邑楽郡千代田町赤岩に渡る利根川の渡し場である。
 一般的には、群馬県側の地名に因んで<赤岩の渡し>と言うが、埼玉県側の人々は<葛和田の渡し>または<葛和田の河岸>とも呼んだそうだ。
 その歴史は古く、永禄年間(1560年頃)の上杉軍の渡河に使われたという記録も残っている。
 この渡し場の大規模な施設は、陸上交通の発達に伴って昭和初期に廃止されたが、<渡し>そのものは地域の生活道路として現在もなお細々と運営されているそうだ。
 本作の作者<原田町>さんが、そのご尊父様に連れられて、この「河岸」に立ち寄ったのは何時の頃であったでしょうか?
 より美しかれとの願いを込めて、小野小町に因んで<町>と名付けた我が娘の手を引いたご尊父様にとっては、この渡しは、生活道路というよりも郷土の自慢の観光施設のようなものであって、掌中の玉のような我が娘には、何がなんでも見せて置かなければものであったらしく、わざわざ回り道をして立ち寄ったのかも知れない。
 ところで、この一首は、原田町さん作には珍しく、文語的発想に基づいた作品である。
 レトロ風な作品内容に加えて、初句「葛和田とう」の「とう」が重要な役割りを担っているからである。
 ならば、この句は「葛和田とう」では無く、「葛和田とふ」に正すべきであろう。
 口語短歌が文語短歌に三行半(みくだりはん)を突き付けた時、彼は潔く「とふ」などと言う遺物を打ち捨てるべきであった。
 勇ましいことは遠慮会釈なく言うが、自分にとって都合のいいことはちゃっかり頂戴するのが口語短歌の不徹底かつ節操の無いところである。
 <と言ふ>の省略形である<とふ>を<とう>と改めて、乞食よろしく拝借するよりは、ここはあっさりそれを棄却するべきであった。
 「と言う」或いは、それよりももっと斬新な、引用を指示する語句の誕生を強引に摘み取ってしまった、「とう」の罪業はそれほど軽くは無い。
     〔答〕 葛和田といふ渡し場を過ぎりにき盆の休みに父に手牽かれ  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    やわらかな蔓や少女が棲むという河下水希の引く流線に

 作中の「河下水希」とは、イラストレーターから出発し、現在は『週刊少年ジャンプ』(集英社)などを活動の場としている女流人気漫画家である。
 2002年から2005年までの約三年半に亘って連載した『いちご100%』は、彼女の出世作であるそうだ。
 私は、漫画事情についてはまるで不案内なので、これ以上のことは分からないが、「やわらかな蔓や少女が棲むという河下水希の引く流線に」というこの一首に、彼女の描く漫画の手際と魅力とが余すところ無く描かれていると思う。
     〔答〕 あさがすみ河下水希の描くとき山田花子も妖精となる  鳥羽省三 


(五十嵐きよみ)
    サンマルタン運河が窓から見えるならあとはワインがあるだけでいい

 さすが五十嵐さん。
 天の時、地の利、才の力を得て、上手くまとめたものです。
     〔答〕 飲む酒はボルドーの赤 窓に寄りサンマルタンの運河眺めつ  鳥羽省三   


(ほたる)
    泥の河を裸足で渉る窮屈な靴はきちんと岸に揃えて

 宮本輝原作の小説『泥の河』を意識しての発想ではあったが、その理想は脆くも潰え、結局は、夏休み中のガキンコの<泥んこ遊び>のスケッチなのか、水死願望の独身女性のスケッチなのか判らない作品になってしまった。
     〔答〕 濁り水に棲めぬ蛍の命なら泥の河には足踏み込むな  鳥羽省三 


(おっ)
    就職の氷河期が今やってきたマンモス校は凍るしかない

 時節柄、この一首を無視するわけには行かない。
 就職の超氷河期が訪れて凍結してしまうのは、どちらかと言うと、マンモス校よりバクテリア校の方ではないでしょうか。
 マンモス校中のマンモス校である「日本大学は生き残りの見通しが立った」という報道が為される一方、ベビーブーム、進学ブームを当て込んで全国各地に設立された地方大学や短期大学が、軒並み廃校や募集打ち切りの憂き目に晒されているとのことです。
     〔答〕 弱き者小さき者が凍る世ぞ友愛政治凍結するな  鳥羽省三


(bubbles-goto)
    密告に怯えて窓を閉ざせども運河の水が夜更けに匂う

 ここは東京都品川区、北品川橋辺りの麻薬密売某組織のアジトである。
 得体の知れない汚物を浮かべた運河を隔てて斜め向かいのカラオケバーが対立組織のアジトであることは、警視庁当局に潜行している末端組員からの情報によって明らかである。
 麻薬密売業者にとって、本当に恐ろしいのは、麻薬Gメンや警視庁当局では無く、対立組織の密告である。
 そこで、ここ数日、取り引き中は勿論、取り引きをしていない深夜でも、運河に面したこのアジトの窓は閉めっぱなしである。
 兄貴分から寝ずの番を任されている、青森生まれの<ヤッパの政>にとって、東京の夏の夜は暑苦しく、運河を渡って来る風が恋しい。
 しかし、運河に面した窓の一枚でも開けようものなら、明日の朝を待たずに対立組織からの密告を受けた麻薬Gたちに踏み込まれるのは必至。
 夜の深まりと共に、ああ、この密室に運河の水の匂いが漂って来た。
 その匂いは、水の匂いと言うよりもドブの匂いと言った方が正しく、<ヤッパの政>の故郷を流れる奥入瀬川の清流の匂いとは明らかに異なる。
     〔答〕 束の間の浮き寝の覚めぬ暁にGメン踏み込みアジトは壊滅  鳥羽省三

一首を切り裂く(083:憂鬱)

(ほたる)
    口紅の輪郭暈ける月曜の朝の鏡に潜む憂鬱

 俗に言う、「月曜ボケ」ってヤツです。
 鏡に映った自分に顔の醜さを、口紅のせいにしたり、曜日のせいにしたりしてはいけません。
 それはあくまでも自分自身の問題。
 恨むなら、自分をそんな顔にして生んだ、お母さんを恨みなさい。
 それに、「月曜ボケ」は遊び過ぎが原因で起こる、単なる「月曜ボケ」であって、「憂鬱」とは何ら関係ありませんよ。
 「憂鬱」とは、フランス文学の世界の出来事なんですから。
     〔答〕 三ケ日のテレビに映るお笑いの顔に浮かべる幽かな憂鬱  鳥羽省三

一首を切り裂く(082:源)

(はこべ)
    源氏香つどいて囲む香之図をみつけてうれしきょうの香席

 「源氏香つどいて囲む香之図」は、「香席」当日の床の間を飾った軸絵でありましょうか?
     〔答〕 正客の聞くはまさしく蘭麝待殿上香席いましたけなは  鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
    もう夏も終わりというのに砂浜を震源として広まるうわさ

 「 もう夏も終わりというのに」とあるから、「震源」となった「砂浜」には、ちらほらとしか人は居ない。
 それなのに、その「砂浜」から広まった夏の日の「うわさ」は、今やもう日本中に、いや、世界中に広まってしまった。
 「あのねー、<鳩ぽっぽ>とこの奥様の美紀さんは、もとヅカガールなんて格好のいいこと仰ってるけど、ほんとは、浅草で特出しやってらしたんですって。それを拾って来て、自分の女にしたのは、今の都知事の石田の慎ちゃんなのよ。でも、美紀さんのご性格が、今も昔も変わらずあの通りなもんだから、慎ちゃんはすっかり持て余しちゃって、弟さんの裕ちゃんに押しつけちゃったんですって。ところが裕ちゃんも持て余しちゃって、従兄弟の阿部の晋ちゃんに押し付けちゃったんですって。阿部の晋ちゃんも晋ちゃんで持て余しちゃって、更に福山のぼんぼんに押し付けたんですって。福山のぼんぼんもまた、麻薬取締官の息子の鉄砲撃ちに押し付けたんですって。鉄砲撃ちは漢字も空気も読めないけど、性格はまあまあだから、誰にも押し付けたりはしなかったけど、今度は美紀さんの方が退屈になって、アメリカのオクラホマに逃げちゃったのよ。鳩ぽっぽと美紀さんが知り合ったのは、オクラホマの砂漠のど真ん中でなのよ。蠍だらけの砂漠のど真ん中で出会えば、どんな女だって優しく美しく見えるよねー」とか何とかの噂が。
     〔答〕 門松がそろそろ取れる頃なのに阿呆くさいこと書いてばっかり  鳥羽省三


(ほたる)
    泣き声の音源オフにできるのは頭を撫でる厚いテノヒラ

 <掌>を<てのひら>と書くと、厚さはともかく柔らかさが目立って、やさしそうな男性のそれを連想させるが、「テノヒラ」と書いてしまうと、薄くて冷たくて骨ばった感じで、いくら頭を撫でられても「泣き声の音源」が「オフ」になりそうもない。
     〔答〕 ほたるさんのお尻に灯りを点すのは草食系の柔き<てのひら>  鳥羽省三


(斗南まこと)
    どうしても決められなくて初夏の源平ウツギは風に揺られる

 その「源平ウツギ」は、あの筒井順慶が日和見した<洞ヶ峠>か、小早川秀秋が布陣した<松尾山>に咲いているのであろう。
     〔答〕 風吹けば風になびいて咲くウツギ今日は源氏で明日は平家か  鳥羽省三 


(蓮野 唯)
    源を目指して上る鮭たちの「早く!早く!」と立てる水音

 蓮野さんはまたもや「早く!早く!」ですか。
 いくら笑わせ上戸の鳥羽とて、もう<候文>は御免です。
 そこで、文語体で。
     〔答〕 産み場所を求めて遡(のぼ)る鮭たちの「早く!早く!」と立つる水音  鳥羽省三


(磯野カヅオ)
    通説に背けば薪を焚くごとく眠れぬ夜の源となり

 磯野カヅオ短歌ですから、何か有りそうですが、その<何か>が判りません。
     〔答〕 通説に沿へば頗る温かく生木に煙る炉端の如し  鳥羽省三


(emi)
    源流を下るカヤック見とどけてブナの森にて深呼吸する

 作中の<わたし>は、白人の侵略者たちの魔の手から我が一統を無事逃がしてやったカナダ原住民の酋長でしょうか。
     〔答〕 風上に香る硝煙確かめて我が一統をカヤックに載す  鳥羽省三

一首を切り裂く(081:早)

(西中眞二郎)
    年齢の上限既に超えておれば献血車の脇足早に過ぐ

年齢から想像してみると、本作の作者の西中眞二郎氏は文語調短歌を専らにされると思われるが、意外なことに口語調短歌を得意とされているご様子である。
 だが、氏とて一首の中にまるきり文語を用いないわけでも無い。
 例えば、本作の場合は、末尾の「過ぐ」は文語動詞である。
 一首全体は明らかに口語調なのだが、終句を「足早に過ぎる」とせずに「足早に過ぐ」として、字余りになるのを防いでいるのである。
 然らば、西中氏は、口語使用を旨としながらも、口語にこだわっていると字余りになってしまうような場合にだけ文語を使用するのであろうか?
 もっと端的に言うならば、西中氏は口語と文語をごちゃ混ぜに使用するご都合主義者なのだろうか?
 そうである、と答えることも可能だが、そうでない、と答えることも可能である。
 その矛盾を克服して西中眞次郎短歌の神髄に迫るため、本作を例にとって説明してみよう。
 前述の通り、西中氏は終句を「足早に過ぎる」とせずに「足早に過ぐ」とすることによって字余りを回避した。
 その伝で行けば、「超えておれば」という三句目も、文語の複合動詞を用いて「超えをれば」とすることによって字余りを回避するはずである。
 ところが、そうはせずに、投稿作は上掲の通りなのである。
 「何が彼女をそうさせたか?」
 否、何が原因で彼はそうしたのであろうか?
 察するに、西中氏は三句目の字余りをほとんど気にかけて居られないのだ。
 いや、三句目を「超えをれば」とせずに「超えておれば」とすることによって、この作品の独特の味わいが増すだろう、と西中氏は考えたのであり、口語文語に拘泥することなく、一首全体を総合的に判断してその局面に相応しい言葉を選択して歌作りをしているのである。 
 そこに、西中氏の教養と短歌観が感じられる。
 短歌作者に口語派も文語派も無い。
 ものに触れて一首を成そうとした時、その時その場で、万葉時代の宮廷歌人の言葉から現代の若者の言葉まで、時には、カタカナ語や外国語をも含めて、広く深く流れる言語の大河の中から、より相応しい言葉を掬い上げて来て一首を成すのである。
 これが、西中眞二郎氏の短歌観であろうと思われるし、私・鳥羽省三の短歌観でもある。
 私は、原田町氏などの作品を論評する場に於いて、「口語と文語のごちゃ混ぜ使用はいけない」と盛んに叫んで来た。
 それなのに、ここではこういうことを言う。
 そうした私の短歌観を矛盾だと指摘し、食って掛かって来られる方も居られるに違いない。
 そういう方に、私は申し上げたい。
 「あなたは、滔々と流れる言葉の大河の中に身を浸して短歌をお詠みになって居られるのか」と。
     〔答〕 滔々と流るる水に溺れつつ時に歌詠み時には読まむ  鳥羽省三


(今泉洋子)
    どれだけの時間をもつているのだらう六道の辻を足早に過ぐ

 本作の作者はコチコチの文語調短歌の読み手なはず。
 それなのに、「もつてゐるのだらう」を「もつているのだらう」としたりする。
 「百日の説法オナラ一発」とはこのことか?
 察するに作者は、「持っている」という言い方は口語的な言い方であるから、この一首は最初から首尾一貫した文語短歌を創ろうとして創ったのではありません、などと仰るのでありましょうか。
 もし、そうならば、「もって」を「もつて」としたり、「だろう」を「だらう」としたりする必要も無いはず。
 それなのにそうするのは、奥さま歌人たちの装飾的な文語癖が原因なのだ、などと甚だ失礼なことさえ申し上げたくなる。
 でも、いくら人格者の作者とて、そこまでも申し上げたら、その激しい怨念の情を六道の辻までも引き摺って行かれるでありましょうから、それは申し上げなかったことにする。
 ところで、一口に文語と言ってもその範囲はすこぶる広く、文語文法の基準となっている平安中期とその終点の江戸末期とでは、言葉の体系が大きく異なっている。
 高校のの文語文法の教科書を開いてみるとよく解ることであるが、文語動詞「持つ」の連用形には、「持ち」という形と共に、その音便形である「持っ」という形もあって、その形に、助詞の「て」や「たり」を接続させて、「持って」「持ったり」という言い方をするのは、文語表現でもあり、口語表現でもあるのです。
 したがって、本作は、徹底的な文語短歌として意識されるならば、「どれだけの時間をもつてゐるのだらう六道の辻を足早に過ぐ」とすべきであり、どうでもよければ「どれだけの時間をもっているのだろう六道の辻を足早に過ぐ」としても宜しいかと思います。
 いずれにしても、「だろう」を「だらう」としながら、「もっている」ないしは「もつてゐる」を「もつている」などとしたら、口の悪い鑑賞者に、「奥さま歌人たちの装飾的な文語癖」と言われて笑われるのみならず、所属結社や主宰先生の恥を晒すことにもなりましょう。     
     〔答〕どれほどの時間を持っていようともが急いで行くな六道の辻  鳥羽省三
        どれほどの時間を持つてゐやうともが急いで行くな六道の辻    同
 

(髭彦)
    児らあまた早とちりなし彼の山の兎美味とて唱ひ想ひき

 このギャグを、私は飯の種としてよく使わせていただいた。
 「私は、教員生活から退いたら故郷に帰って山や川を駆け巡って暮らしたいと思います。『うさぎ追ひしかの山、小鮒釣りしかの川』。私の故郷には、<かの山>と言って兎が沢山棲んでいる山があります。<かの山>で捕れる兎は美味しい。とても美味しい。兎という小動物は、今でこそ小学校で飼われていて、夏休みになれば<いきもの係>の小学生たちがみーんな外国旅行に出かけちゃって餌をやる者が居なくなるから、その始末に困った校長と教頭が相談して、校長より偉くない教頭が、校庭の隅に穴を掘って埋めちゃった、などというニュースが、こないだのNHKのテレビで流されていたが、私の子供の頃は、よく兎を食べたものですよ。まだよちよち歩きのひよこの頃に友だちの家から貰ってきた兎を育てるために、私たち田舎の子供は、朝早く野山や田圃の畦などに出掛けて、兎の餌になる草を刈ってくる。しかし、<みみちゃん>とか<うさちゃん>とかという可愛い名前まで付けて育てた兎が、ある日突然、お父さんの手によって首を絞められて殺され、家族の者の餌にされてしまうのだ。あなた方はその残酷さに耐えられますか。その殺戮に耐えられますか。その残酷さに耐え、その殺戮に耐え得た者のみが、世界平和の美酒に酔い痴れる資格を持つことが出来るのだ。名前まで付けて可愛がった兎の肉はあまり美味しくないが、<かの山>で捕まえた兎はとても美味しいですよ」などと、どこかの国の大統領みたいなことを言って、生徒を笑わせたり、困惑させたりした。
 本作の作者もまた、私と同業者。
 髭彦氏もまた、私と同じギャグを口にして、行き詰った授業の難局を凌いでいたのであろうか。
 この一首の前に作者は、これとほとんど変わらない、「児らあまた早とちりなし彼の山の兎美味とて想ひ唱ひき」という作品を投稿し、その後すぐさま、上掲の作品を再投稿していた。
 そのどちらがより良い作品なのかは私には解らないが、作者・髭彦氏は、再投稿作品を以って決定稿とされたのである。
     〔答〕 かの山に兎走れる冬来たりかの川雪に埋もれてをらん  鳥羽省三


(ウクレレ)
    感覚は「早」ではなくて「遅」生まれ同級生のなかに混じれば

 早生まれではありませんが、わたしもまた<ウクレレ>さんと同感。
     〔答〕 早生まれとて自慢する亜紀ちゃんはクラスで一ニを争うちびっ子


(佐藤羽美)
    早春の出来事などを話すとき舌にじんわり滲みし訛り

 同郷者同士が集まって話す時に、いちばん多く話されるのは、早春の、雪解け頃の故郷の風景の美しいことについてである。
 そんな時は、みんな故郷訛りで話す。
 本作の作者の佐藤羽美さんは、今でこそ『未来』の<彗星集>で羽ばたいていらっしゃるが、元々は北東北生まれの方なのでありましょうか。
     〔答〕 この頃はお菓子の歌を詠まぬのか故郷訛りの佐藤羽美は  鳥羽省三


(田中ましろ)
    永遠にあいまいなもの 早漏は何秒からが早漏ですか

 <田中ましろ>さんは、顔を赤らめもせずにこんなことを仰って。
 でも、問われて逃げるも見苦しいから、<候文>にて答えてあげましょう。
     〔答〕 早漏は相手次第で御座候 相対的なことにて候  鳥羽省三


(蓮野 唯)
    「早く行こ」急かしてくるのは三歳児午後の散歩は楽しい冒険

 蓮野唯さんも<田中ましろ>さんと同じ話をなさっているのかと思いきや、こちらは児戯に類する内容の御歌。
 でも、こちらの答も候文にて。
     〔答〕 「早く行こ」とせかしてるのは五十歳早漏癖の者にて候  鳥羽省三


(久哲)
    謀反とかするタイミングにはちと早い深夜にたぬき蕎麦でいいかな?

 「謀反」と言えば、織田信長に謀反を起こした者は、明智光秀と荒木村重。
 この男たちの生き方は凄いよ。特に荒木村重の行き方は凄い。
 「凄い」という形容詞は彼の生き方を形容するための言葉だと思われるくらい、荒木村重の生き方は凄い。
 本作の作者・久哲氏も、この際じっくりと荒木村重の生き方について考究されたし。
 すると、簡単に「義憤」などという物々しい言葉を口にしなくなりましょう。
 明智光秀の場合は、タイミングを見計らっての謀反であったが、荒木村重の場合は、タイミングを計るも何も無く、そうせざるを得ない局面まで追い込まれての挙句の、言わば義憤に駆られての謀反であったのだ。
 謀反をしようかどうかと思案する深夜に食べる食物として最も相応しいのは「たぬき蕎麦」。
 そのことに気付いただけでも久哲氏は、歌人を名乗る資格が有る。
 しかし、久哲氏が真の歌人となるためには、他人の言葉にもう少し身を入れて耳を傾けなければならない。
 特に、私の言葉には。
 本作をまともな作品として評価してくれる鑑賞者が、いったい何人居るだろうか。三百人に余る「題詠2009」の中に。
 仮にニ、三人居たとしても、それは本作の言葉使いの珍妙さと、これから想像される作者の恍けた風貌とに惹かれてのことに過ぎないだろう。
 本作の魅力はそこにもあるが、それ以上に佳いのは、一見関係なさそうに思われる、「謀反」という言葉と「たぬき蕎麦」という言葉との深い繋がりなのだ。
 「謀反」しようかどうかとタイミングを計っているのは、徳川家康みたいな狸親父であろうが、それだけではなく、揚げ玉の他には何も入っていない、あの「たぬき蕎麦」を深夜に食べる時のじっくりとした味わいと趣きとは、「謀反」の「タイミング」を見図る時の趣きと何か通うものが在るのだ。
 本作への評価は、そこまで気が付いての評価でなければ、あまり意味の在る評価とは言えないのだ。
 この際じっくりと、深夜にたぬき蕎麦でもすするような謙虚な気持ちで、あなたの作品について私が述べて来たことを再読してみなさい。
 あなたご自身が既にお気づきになって居られるように、私はあなたの作品について、それを読んだ他人が義憤に駆られて抗議をするようなことは、ただの一度たりとも述べていない。
 そして、水田涼子さんが私に寄せられた、「久哲様の一首を私は全く不快には思っておらず、むしろ好きですよ。うるさ方の私が何故そう思うか、説明しだすとうまく纏めるのに時間がかかりそうなので・・また」というコメントもまた、あなた同様に、あなたの一首に寄せた私の観賞文が、決して悪意に基づいたものでは無いことを知っての上でのコメントだったのです。
 水田涼子さんご自身は未だにお気づきになって居られないようですが、彼女と私とは、彼女も私も別のハンドルネームを使っていた当時からの知り合いで、彼女のブロクには、作者名の異なった私の作品が、数十首掲載されているのです。
 彼女の発言の仕方は、一見すると「義憤型」のように見受けられますが、決してそうではありません。
 水田さんはご自分自ら「義憤型」を装って居られるから、あのような言い方をなさいますが、見るべきところは確かに見て居られるのですから、久哲さんがご心配なさることは何もないのです。
 それとは別に、私が何方かの作品に悪口紛いの論評をする。
 すると、当該作品の作者でも作者以外の方でも、「義憤に駆られた」紛いのコメントを寄せる。
 するとまた、どなたかがコメントを寄せる。
 「一首を切り裂く」というタイトルから推してお解りになられるでしょうが、私は、そのような展開を期待し、予想して、このブログを飽きずに更新しているのです。
 そういうわけですから、水田涼子さんも久哲さんも、また、ご両名以外の方も、ご自分の作品に関係されたコメントのみならず、他の方の作品についても、どしどしコメントをお寄せ下さい。
 勿論、その前提として、作者・作品のみならず、その展開に関わる方々への敬意と愛情とを失ってはいけませんが。
     〔答〕 久哲にお似合いなのはナポリタン朝でも昼でも夜でも食べよ  鳥羽省三
 久哲氏の一見軽薄そうでハイカラでイタ公的な詠風と風貌とが、ナポリタンスパゲッティに似通っているのです。

一首を切り裂く(080:午後)

(西中眞二郎)
    若き娘(こ)に引かれて午後の道を行く犬のふぐりの左右に揺れる

 本作に感動し、私が、「拝啓、西中眞二郎様」で始まる拙文をものしたのは昨年の二月十七日のことであり、思えば私が「一首を切り裂く」の執筆を思い立ったのは、それが発端であった。
 そこで、それに誤字などの若干の訂正を加えた上で再録し、併せて、それに対する現在の自分の意見なども記してみようと思う。

 拝啓 西中眞二郎様

 日頃は拙作を多々ご選歌いただいたうえ、再三に亘ってご無理なことまでお願い申し上げ、真に恐縮に存じます。
 さて、「題詠2009」のお題「080:午後」に対する御作、「若き娘(こ)に引かれて午後の道を行く犬のふぐりの左右に揺れる」は、投稿作品中、稀に見る傑作と拝察申し上げます。
 つきましては、百首一巻の投稿を終え、完走報告をし終えた心安さから、無謀とは知りつつも、その解釈と鑑賞を試みましたので、以下に記させていただきます。

 詠い出しの「若き娘に引かれて」の「若き娘」は、人間の「若い娘」を指すのではなく、動物の「若い娘」、即ち作者・西中氏とは等号で結ばれる関係の作中の<私>の愛犬の、雌犬を指すのであろう。
 以下、そうした前提で、一首全体の解釈を試みる。
 麗らかな春の午後、作中の<私>即ち西中眞二郎氏は、折からの春風に誘われて、愛犬を散歩に連れ出そうとする。
 愛犬は若い雌犬。生来の出不精に加えて、遣らずもがなの「題詠2009」の選歌の忙しさにもかまけて、最近私は犬の散歩を怠っていたので、運動不足気味のこの犬は、私が犬舎の施錠を解く前から、まるで女の子がお気に入りの伊勢丹のケーキー屋に出掛ける時のように、「早く、早く」とばかりに、狭い犬舎の中で跳ね回っている。
 屋外に出た。予定コースは定番の○○川土手のウォーキングロードだ。運動不足のせいか、今日はなんだか身体が重い。そんな私とは関わり無く、犬は私を引くようにして、どんどんどんどん先へ先へと進んで行ってしまう。
 いい歳をして、若い娘ならぬ若い雌犬に引かれての散歩とは、いささか恥かしい。誰に観察されているわけでもないが、私は少し照れてしまう。
 まだ少し冷たいのか、と思って出て来たのだか、身体全体を撫でて行く風が意外に心地よい。そこで、さっきまで塞いでいた私の心も少しは軽くなる。春風が私の身体を押すようにして吹き過ぎる。私は、心だけではなく、身体までも軽く感じる。
 道の畔には、枯れ草に交じって、その下から萌え出た新芽がちらほら見えている。枯れ残りの「犬のふぐり」が道の左右で揺れている。植物の「犬のふぐり」だけでは無く、動物の「犬」の「ふぐり」も、オーナー様の歩みにつれて「左右に揺れる」。

 調子に乗って、つい書き連ねてしまったのだが、「植物の『犬のふぐり』だけでは無く、動物の『犬』の『ふぐり』も、オーナー様の歩みにつれて『左右に揺れる』」と書いた瞬間、私は、「あっ」と気がついて、恥かしくなった。
 そうだ、作品中の<私>を引いてゆく「若い娘」は雌犬だから、彼女の股間には「ふぐり」などぶら下がっていないのではないか。ぶら下がっていないはずの「ふぐり」が「左右に揺れる」はずはない。 あの<たんたん狸のキンタマ>だって、彼の股間にぶら下がっていればこその<風もないのにぶーらぶら>なのだ。
 すると、詠い出しの「若い娘」を、作品中の<私>の愛犬の雌犬と解したのは、間違いではなかったのだろうか?  私の考え方は根本から間違っていたのではなかったのだろうか?
 否、否、私のあの解釈は絶対だ。第一、私よりご高齢のはずの西中眞二郎氏が、人間の「若き娘(こ)に引かれて午後の道を」行ったりするはずがないではないか。それなら、昼下がりの情事ではないか。そんなことは許されるはずがないではないか。たとえ奥方様が許してもどなたが許しても、この鳥羽が許さないぞ。もし、そんなことが在ったとしたら、それは、ほとんど犯罪ではないか。西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか。『元高級歌人の犯罪』、これは立派な小説ネタになるぞ。
 待て、待て、「西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか」とは言い過ぎだ。話を面白くしようとするあまり、つい、言い過ぎてしまうのは、君にごまんと有る性格的欠陥の中でも最たるものだ。第一、作品中の<私>と作者の西中眞二郎氏を等号で結ぶのは、お前の信条に反するのではないか。
 いや、いや、つい口を滑らしてしまった<西中眞二郎氏犯罪者説>は取り消すとしても、その他のことは絶対に取り消さないぞ。作品中の<私>と実在の西中眞二郎氏とを等号で結んでしまったのもこの際は無視しよう。大事の前の小事だからな。
 それより何より、上の句の冒頭の「若き娘」を雌犬とし、下の句の「犬のふぐり」を、道端の枯れ残りの「犬のふぐり」と愛犬の「ふぐり=陰嚢」との掛詞とする、私の考え方は絶対に正しい。
 いやいや、雌犬の股間に陰嚢がぶら下がっているはずがないじゃないか。ぶら下がってもいない「ふぐり」が「左右に揺れる」はずがないじゃないか。
 いや、いや、作品中の<私>の目には、その時確かに、犬の「ふぐり」が見えたのだ。枯れ残りの「犬のふぐり」が「左右に揺れる」のと重なって、雌犬の「ふぐり」が「左右に揺れる」のも見えたのだ。この考えは、絶対に譲らないぞ。作品中の<私>の頭の中で、一瞬の間に、犬の雌雄の性転換が行われることだって、在り得るからな。
 お前はどこまでも我を張る。上の句の「若き娘」が雌犬であることは認めるにしても、下の句の「犬のふぐり」は、やはり、道端の枯れ残りの「犬のふぐり」に過ぎない。下の句は散歩の途上の道端の風景のスケッチなのだよ。
 西中眞二郎氏の短歌を馬鹿にするな。下の句が道端の風景の単純なスケッチに過ぎないとしたら、それではあまりにも、下の句の語句の働きがなさ過ぎるではないか。君の言い方は、単に西中作品に対する侮辱に止まらず、短歌文学全体に対する侮辱だ。だから、君の考えは、絶対に認めるわけにはいかない。

 いやはや、その五月蝿いこと、五月蝿いこと。在るか無きかの雌犬のキンタマを廻っての論争は、この後も果てし無く続くことであろう。
 
 そこで、この秀作の作者の西中眞二郎氏に質問致します。
 貴方は、この「犬のふぐり」論争が読者の間でやかましく交わされることを予測して、この作品を「題詠2009」にご投稿なさったのですか。
 もしそうならば、御作は<御作>ならぬ<御策>、<秀作>ならぬ<秀策>でしょう。
 とにもかくにも、歌壇の片隅のインターネット上で、今、全く新しいスタイルの短歌が呱呱の声を挙げようとしていることは確かです。
 そのニュースタイルの短歌とは、「読者を論争に巻き込んだ挙句、混乱の極に陥れて、突き放す」スタイルの短歌、 ポスト・前衛、ポスト・ライトヴァースの短歌。
 掌に付着したチューインガムのようなスタイルの短歌。チューインガムという奴は、見た目が甘そうなだけに始末に負えないからね。
 西中眞二郎様、おめでとうございます。
     人麻呂に茂吉に邦雄そして万智、そして今また西中眞二郎      鳥羽省三
 末筆乍ら、御作を無断で引用させていただいたことを、深くお詫び申し上げます。また、この戯作が、西中様に御目文字致さないことを祈念して居ります。万が一、御目に留められましたら、平にお許しあれ。                                                    敬具
          平成二十一年二月十七日                      鳥羽省三

 〔追い書き〕

 拙稿をものしてから間も無く、本作の作者の西中眞二郎氏からメールを頂戴した。
 そのメールによると、作中の「犬のふぐり」とは、動物の「犬のふぐり」であり、その「ふぐり」をぶら下げた犬は、散歩している西中氏の前を歩いて行く、年頃の娘が連れている犬だったそうだ。
 かくして、私の「犬のふぐり」論争は空振りに終わったようにも見受けられるが、作中の「犬のふぐり」を巡って、読者たちが「あれかこれか」と思案するだろうことを、本作の作者の西中眞二郎氏は、最初から計算に入れていたことだろう、という私の推測は決して的外れではないと、私は今でも信じている。
     〔答〕 空振りの犬のふぐりのあれこれは「一首を切り裂く」動機なりけり  鳥羽省三


(梅田啓子)
    冬の陽に微熱の残る身をさらす神を信じてみたくなる午後

 「冬の陽に微熱の残る身をさらす」となると、つい、そうした気にもなろう、とは思われないでもないが、短歌の出来を考えてみると、「神を信じてみたくなる午後」というこの下の句は、やや安易に過ぎた表現とも思われる。
 「神を信じてみたくなる午後」という<七七>は、「それにつけても金の欲しさよ」という<七七>同様に、どんな<五七五>とも繋がる、<黄金の七七>だからである。
     〔答〕 古池や蛙飛び込む水の音それにつけても金の欲しさよ  鳥羽省三
         金魚大鱗夕焼けの空の如きあり神を信じてみたくなる午後   同
上記二首の上の句には、それぞれ人口に膾炙した名句を使わせていただきました。


(迦里迦)
    かぶきたる午後は過ぎにき変性(へんじゃう)の生の身ひとつ水へ降りゆく

 『京鹿子娘道成寺』の続編であろうか?
     〔答〕 入相の花に見紛ふ蛇の化身「鐘に恨みは数々御座る」  鳥羽省三
 
 
(行方祐美)
    午後からの雨やわらかな音を立つ最後の切り札潜めるらしき

 三句目の「音を立つ」が「音を立てる」の意味ならば、「立つ」は、下二段活用の文語・他動詞であるはず。
 もしそうならば、二句目中の「やわらかな」は「やはらかな」としなければならないし、四句目中の「潜める」は「潜むる」とならなければならない。
 何も知らない「なんちゃって歌人」ならばともかく、行方祐美さんクラスの歌人は、仮名遣いや文法が出鱈目であってはいけない。
 「題詠2009」が、「なんちゃって歌人」さんたちの交歓パーティーになることは、どなたも望んでは居られないでしょう。
     〔答〕 潜めたる最後の切り札生臭し「わたしの勝手」の開き直りか  鳥羽省三
 

(原田 町)
    発言の機会なきまま会議すみ午後の日差しの街中に出る

 厳しいことを申せば、「午後の日差しの街中に出る」がやや安易。
 もっと厳しいことを申せば、二句目を「機会ないまま」ではなく「機会なきまま」としたら、この一首は、それで文語短歌と決まってしまうわけだ。
 すると、末尾の「出る」は「出づ」にした方がよくなるというわけ。
 原田さんの短歌は、発想の根本が口語なのだから、徹底的に口語調にした方が好い。
 なまじっか、かっこ良く見せようとして、「ないまま」を「なきまま」としたりするからボロを出す。
 誤解してはいけませんよ。
 この一首は、なかなか見所があるから採り上げたのです。
 欠点として指摘した以外のところは、全ていいところです。
 第一に、「発言してやろうと手薬煉ひいて会議に出席したら、司会者の詐術にしてやられ、発言の機会を見つけられなかった。そこでがっかりして議場を出たら、時刻はいつの間にか午後になっていて、街路には午後の陽射しが射していた」なんてことは、現代短歌の題材にするに相応しい素晴らしい情景ではありませんか。
 それを発見したのは、原田さんの経験と知識との賜物なんですよ。
 大いに自慢しても良いことなのです。
 あとは詰めの問題なのです。
     〔答〕 発言の機会なきまま会議終ゆ議場出づれば陽射し身を刺す  鳥羽省三
         発言のチャンス無いまま議事終わる議場を出たら身を刺す陽射し   同
 のっぺらぼうにしないで、適当に区切ることも覚えましょう。


(今泉洋子)
    妄想が膨らみてゆく夏の午後 青銅の指しづかなりけり

 初句は、「妄想が」でもいいが、「煩悩が」としてもいいでしょう。
 それは「笑い」としても、下の句の不備は笑って済まされない。
 「青銅の指しずかなりけり」と言われても、何のことかさっぱり解らない。
 ここは、具体的に「阿修羅像の指しづかなり」とするべきではないでしょうか。
 新年早々申し上げたくはありませんが、詠歌歴数十年の今泉洋子師にして、この失策あり。
 縁って、短歌の奥深さを知るべし。
     〔答〕 懊悩の鎮まりて行く春の午後み仏阿修羅の掌(て)のやはらかし  鳥羽省三
 

(村本希理子)
    レプリカの胸像並ぶギャラリーに深く伸びをり午後の日差しは

 「レプリカの胸像並ぶギャラリー」とは、これまた安直なギャラリーですこと。
 そこは、ギャラリーというよりも、画材屋ではありませんか。
 そんなギャラリー紛いの画材屋に、いや、画材屋紛いのギャラリーに、「深く伸びをり午後の日差しは」。
 私は、銀座裏辺りのギャラリー巡りや、青山骨董通り辺りの徘徊を趣味としている者ですが、東京・銀座も目抜き通りから一本外れると、そんなギャラリーが確かに在りますね。
 油絵も胸像も半ば色褪せて。
     〔答〕 レプリカのヴィナス像の色褪せて骨董通りの陽の斜めなり  鳥羽省三

一首を切り裂く(079:恥)

 あけましておめでとうございます。
 旧年中は、皆様には一方ならぬお世話になりましたが、本年も宜しくお願い申し上げます。
 さて、年が改まっても相変わらずの「一首を切り裂く」ですが、残す所わずか二十題ですので、元旦早々、始めさせていただきたいと存じます。
     〔答〕 あらたまの年の初めに切り裂けば己が心も破れむとする  鳥羽省三
 

(髭彦)
    なに恥じてなに誇るかを品性の目安となして人世渡りぬ

 昨年末に、二日連続で我が連れ合いが熱視していたテレビ番組は、帰国した中国残留孤児の次女に当たる方の原作になる、日中二ヶ国に亘る親子関係の愛憎を主題にしたセミドキュメンタリードラマであった。
 そのドラマの中に、突然のソ連軍参戦に追われて引き上げて来る途中、牡丹江で家族から逸れた少年が、子供を持たない貧しい中国人夫婦に拾われて小学校に入るのだが、中国語を話せないために学業成績が振るわず、中国人の養父から責められる場面があった。
 その養父は、自分の成績の悪さを恥じ入っている少年を鬼のような形相をして責め立てる。
 「恥かしくはないか。恥かしいと思え。お前は赤椅子をもらったんだぞ。赤椅子をもらったお前は俺の子じゃない。家から出て行け」と叫んで。
 終戦後間も無く小学校に入った私のような者にとって、「恥かしさ」とは、貧困と貧相と腕力や学力の無さであった。
 昨今の少年や少女にとっての「恥かしさ」とは何だろうか?
 ケイタイが旧型だから恥かしい。
 カレがいないから恥かしい。
 カノジョがいないから恥かしい。
 自家用車が国産だから恥かしい。
 自分の入った高校が底辺校で、おまけに制服を着用しなければならないから恥かしい。
 
 私たち旧世代の者と彼ら新世代の者とには、「恥かしさ」を巡って、どんな考え方の違いがあるのだろうか。
 貧困がケイタイに変わったり、貧相がカレ・カノジョの欠如に変わったりしてはしているが、私たち旧世代の者の感じる恥かしさと、彼ら新世代の者の感じるそれとは、本質的には何ら相違ないと思われる。
 考えてみると、第二次世界大戦後六十年余りになるが、人間と言うか私と言うかは判らないが、私たち日本人の「恥」感覚は、ほとんど変化してはいないと言うことに気付く。
 本作の作者・髭彦氏は、「なに恥じてなに誇るかを品性の目安となして人世渡りぬ 」と仰る。
 これは、相当の覚悟と自信とを持って「人世」を渡って来られた方の仰る言葉である。
 ところで、他人のことはさて置いて、この鳥羽省三自身は、昨年、何を誇りとし、何を恥として「人世」を渡って来たのであろうか。
 誇りとするものは何一つ無いが、強いて申せと言われて挙げるならば、「題詠2009」に投稿された皆さんの作品を、人並み以上の情熱を持って読んで来たことである。
 恥とするものは幾らでもあるが、敢えてその中の一つを挙げるならば、「題詠2009」に投稿された皆さんの作品の中で、私が読み落としてしまった傑作が、一首や二首では無かったであろう、ということである。
 今日から新年である。
 不肖、私も亦、本作の作者・髭彦氏の半分ぐらいの品性を持って生きて行きたい願うものである。
     〔答〕 何を食べ何を食べねば体重を六十㎏以下に保てるだろうか  鳥羽省三

 
(梅田啓子)
    恥骨とふやさしき骨をもつ少女 立ち漕ぎをして坂道をゆく

 「恥骨とふやさしき骨をもつ少女」という表現は、私如き老齢の男性には到底理解し得ないような、格別に感性に優れた女性だけが感得し得る感覚なのであろうか?
 私の連れ合いは、還暦を二つ三つ過ぎてはいるが、それでも一応は女性なので、私が本作を示して、その上の句についての感想を聞き出そうとしたら、「この馬鹿者。今日は正月で、もう直ぐ可愛い孫娘たちが遊びに来るというのに、何を言い出すのだ。あんたは私に、可愛い孫娘たちの前で、正月早々それを言わせる気か」と言ってお尻を叩くのだ。
 博識で名を鳴らした、我が連れ合いでさえ口にすることを憚る、「恥骨」「とふやさしき骨をもつ少女」が、自転車の「立ち漕ぎをして坂道をゆく」風景。
 そうした風景は、本作の作者・梅田啓子さんの少女時代の風景とは一線を画した、開放的、健康的な風景ではあろうが、何故かエロティシズムの微風が漂っているような風景とも感じられる。
 このレベルの作品が、あともう十首も在ったならば、「題詠2009」は天下に誇れる歌会になるのだが。
     〔答〕 冷や水の立ち漕ぎをしてかっ転び週に三日のリハビリ通い  鳥羽省三


(理阿弥)
    常連と認められたが恥ずかしく食前サラダの胡瓜抜かれて

 これはどうやら、高級レストランでの出来事ではなくて、ファミレスでのことだな。
 瓢亭だろうが藍屋だろうが、「常連」ともなれば、だまって座ればいつものメニューが出て来る。
 本作の作者・理阿弥氏は、ごく最近になって、藍屋クラスのファミレスの「常連」として「認められた」のだが、「常連」に昇格する前の理阿弥氏が、「食前サラダ」の「胡瓜」だけを食べなかったことを知ってる店員が、常連然として理阿弥氏がその店を訪れると、何も言わないのに、「胡瓜」抜きの「食前サラダ」を出すので、それが恥かしい、と言うのだ。
 それこそ、自業自得と言うべきであろうが、理阿弥氏は、どういう理由で、何方に対して、恥かしいと言うのだろうか?
     〔答〕 本当は胡瓜の類が好きなのに贅沢めかして食べなかったの  鳥羽省三 


(羽うさぎ)
    恥ずかしいと言いつつパフェを食べるきみ言い訳してもイチゴは赤い

 <羽うさぎ>さんも大の恥ずかしがり屋さん。
 「イチゴパフェ」は必ずしも子供だけの食べ物とは決まっていないし、誰が何を食べようが、鳥羽省三がフランスのミニ国旗を立てたお子様ランチを食べようが、ちゃんとお金を払って食べる限りに於いては、何ら恥じるべき理由は無いはずではあるが、「子供みたいでしょう、わたし。でも、これ安いから食べるんですよ。特別なイチゴパフェ党、というわけでもないんですけど」などと、懸命に「言い訳」し、顔を赤らめながら、二人前も食べてしまう。
 それを見て、「どんな言い訳しようとも、君の顔は赤いし、君の可愛いお口に入ったイチゴも赤いよ」などと言ってからかったのは、元カレの<禿げうさぎ>なのである。
 そんな悪質な悪戯をしたのが原因で、<禿げうさぎ>は「羽うさぎ」さんの元カレになってしまったのである。  
     〔答〕 恥ずかしも言わずブタ饅十個喰う<禿げうさぎ>めは百貫デブだ  鳥羽省三


(ひいらぎ)
    恥じらった分だけ氷は溶けだして好きと言えずにアイスコーヒー

 「恥らった」時間が格別に長かったのか、それとも、恥らう時には格別な情念が発散されるからなのか、その理由は判然としないが、「恥じらった分だけ」アイスコーヒーの「氷は溶けだして」しまった。
 そこで、可哀そうにも彼は、その水入りの「アイスコーヒー」を「ひいらぎさん、私はあなたが好き」とも言えないまま、黙って飲んでいた。
 「好きと言えず」に<愛す>コーヒーを、ただ黙って飲んでいるだけ。
 ひいらぎさん、男って、大概そんなものですよ。
 ご主人だって、そうだったでしょう。
     〔答〕 愛すとも言えずにアイス亭主飲む直ぐに飲むからアイスは溶けず  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    その時の気恥ずかしさの手触りを確かめながら無花果を食む

 本作の作者・佐藤羽美さんは確か女性だったはず。
 その女性が、「その時の気恥ずかしさの手触りを確かめながら」とは、なんだか雰囲気が怪しくなって来た。
 手で触られるのは当然女性であろうが、この作品の表現からすると、手で触るのも、女性の佐藤羽美さんということになる。
 旧約聖書から取材しているとは言え、この一首の人間関係はかなり怪しい。
     〔答〕 感情を触感に換え歌を詠む佐藤羽美はやはり技巧派  鳥羽省三 


(花夢)
    破廉恥という語のリズムでステップを踏んで男と女が踊る

 本作の大筋が客観写生から成立しているのであるならば、作者の花夢さんは、「ステップを踏んで踊る男と女」の観察者に過ぎない。
 「リズム」の形容語句として歌い出し部分に置かれている「破廉恥という語の」は、激しい嫉妬心から発したものに違いない。
     〔答〕 嫉妬とふ心のままにステップを見つめる者のまなこギラギラ  鳥羽省三
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