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一首を切り裂く(047:警)

(緒川景子)
    ほっとするなんてことばで身動きをとれなくするとはさすが警察

 私を捕まえた警官は言う。 
 「本官はほっとしました。あなたが逃げなかったから。あなたのような美しい方を、本官は轢き逃げ犯人にしたくありませんからね」と。
 こうまで言われると、いくらスピード違反常習者の私も、今さら逃げるわけには行かなくなって、その場に自動車を止め、その警官の目を身動きもせずに見つめながら、調書を取らせざるを得なくなった。
 「さすが警察」、騙すのうまい。
     〔答〕 本当の気持ち漏らせば、逃げまくり大捕り物になるのもよかった  鳥羽省三


(花夢)
    幼少のころから母の警告は冷蔵庫にて冷やされている

 最初は、味も素っ気もない、即物的な解釈。

 母、「夢ちゃん、いらっしゃい。早く。早く。」
 夢、「なーに、お母さん。わたし、いま忙しんだけど。」
 母、「いくら忙しくたって、お母さんが買い物から帰って来たら、その品物を見るくらいは、娘としての最低のエチケットよ。どうだ、これが目に入らぬかー!」
 夢、「わーい、スイカだ。夢ちゃんのおっぱいより、ずーと、ずーと、ずーと大きいスイカだ。このスイカは、地球の子供みたいね。わたし、このスイカを井戸に吊るして冷やしてこよう。地球の子供を井戸に吊るして冷やしてこよう。ねえ、いいでしょう、お母さん。」
 母、「夢ちゃん、それはダメよ。スイカを井戸に吊るして冷やしたらダメ。だって、こないだだって、それで失敗したでしょう。ほら、焼き芋を井戸に吊るしてふやかしてしまって。だから、このスイカは、井戸に吊るして冷やすんじゃなくて、冷蔵庫に入れて冷やしなさい。スイカを冷やそうとして、井戸に吊るしたりしては絶対にダメ。これは、お母さんから、夢ちゃんへの警告。娘として、絶対に守らなければならない警告よ。」
 かくして、我が家の冷蔵庫には、あれからずーと、母の警告が冷やされている。

 次いで、もう少し増しな解釈。
 
 サッカーのイエローカードにしろ、一、二学期末に渡される通信簿の赤点にしろ、「警告」という行為に常に付き纏うのは「冷たさ」である。
 私は、高校教師として、幾多の怠惰な生徒に、五段階評価の<1><2>を与えて来たが、それは、私が本気になって怠け者の生徒を落第させようとしたのではなくて、あくまでも、「これ以上怠けたら、落第させるよ」という「警告」の意味を込めてのものであった。
 したがって、私が彼らに<1>や<2>を与えたのは、一学期か二学期に限られていた。
 それでも私は、彼ら、怠け者の生徒たちから、「鳥羽は爬虫類のように冷たい人間だ。彼は冷血動物だ」と思われていたらしい。
 彼らにそう思わせた原因は、一面的には、ドイツ人と見間違われる、研ぎ澄まされた私の顔のせいでもあろうが、究極的には、一、二学期末に私の与える警告点が、私以外の教師の数倍だったからに違いない。
 こうした「警告」という行為に伴う<冷たい>イメージから、本作の作者は、「警告は冷蔵庫にて冷やされている」という、やや奇矯な語句を導き出したのであろう。
 しからば、その「警告」が、「審判からの警告」でもなく、「教師からの警告」でもなくて、「母の警告」でなければならないのは、何故だろうか?
 それは、本作の作者<花嫁>さんならぬ<花夢>さんと彼女のお母さんとの、幼時からの不幸な関わり合いが原因となっている。
 花夢さんのお母さんは、わが子の花夢さんが未だオムツも取れない頃から、我が子に向かって、警告ばかりしていた。
 「夢ちゃん、ミルクを溢してはダメ。日本の食糧自給率の低さは、今や、先進国中ナンバーワン。
そんなことばかりしていたら、今にたちまち飢餓時代が到来します。警告一回」
 「夢ちゃん、いつまでもハイハイばかりしていてはいけません。自分で努力してタッチしないと、大きくなってからも花夢のままで、永久に花嫁になれませんよ。警告二回目」などと。
 そうしたことが積み重なって、お母さんからの「警告」は、いつの間にか、花夢さんのトラウマとなってしまった。
 かくして、「幼少のころから母の警告は冷蔵庫にて冷やされている」という、一見、前衛短歌風な傑作は、花嫁さんならぬ、花夢さんによって、巧まずして創作された。
 本作の作者・花夢さんは、決して才女なのではない。トラウマに脅える、ごく普通の女性なのである。
     〔答〕 右肩は<サロンパスA>で冷やしてる自転車事故で怪我をしてから  鳥羽省三

   
(伊藤真也)
    僕たちは言葉少なになってゆく刻一刻と 夕闇の泥警

 お母さんとの約束の、門限の五時がもう直ぐ。
 夕闇が刻一刻と深さを増す。
 「泥警」に興じる「僕たち」は、夕闇の深さに比例して、次第に「言葉少なになってゆく」。
 もう少し経つと、「泥警」の警察役の正哉君ではなく、本物の警察がやって来て、僕たちは、お目玉を喰らうかも知れない。
 もしかしたら、人攫いがやって来て、マドンナの眞子ちゃんを誘拐して行くかも知れない。
 帰りたいけど、帰れない。
 帰りたいけど、帰らない。
 
 映画『三丁目の夕焼け』の一コマか?
     〔答〕 二人とも言葉少なになって行く 君は<中ニ>で僕は<中三>  鳥羽省三


(天国ななお)
    ピピッ 美人婦警さんから警告をうける軽トラおやじの笑顔

 「ピピッ美人」「婦警さんから」「警告を」「うける軽トラ」「おやじの笑顔」と、句跨り、句割れの技法を巧みに用いた傑作。
 この「軽トラおやじ」にしても、私・鳥羽にしても、同じ「警告」を受けるなら、おやじ警官からよりは、「美人婦警さん」から受ける方がよい。
 「軽トラおやじ」も、<天国ななお>さんも、私・鳥羽省三も正直者。
 心中の思いを、つい顔に表わして、他の者に判られてしまう。
     〔答〕 ピピツ、尻の穴から漏れた爆音が腸の調子を知らせてくれる  鳥羽省三 


(春待)
    警報を期待するうち朝は来て悔しい青空台風一過
 
 台風の「暴風警報」「大雨警報」が予測される時の気持ちは、それほど単純ではない。
 我が居住区域が台風の真っ只中に立たされ、暴風が吹き荒れ、大雨が降り続くことを期待する思いが無いでもない。
 しかし、当然、それとは裏腹な気持ちにもなる。
 そんな複雑な気持ちのままに朝を迎えてしまった。
 風は、期待し、恐れていたほどには吹かなかった。
 雨も、恐れ、期待していたほどには降らないままに終わってしまった。
 そんな「台風一過」の朝空の青さは、何故か「悔しい」。
 人間誰もが抱く、深層心理を抉り出して表わした作品である。
     〔答〕 半鐘がおじゃんと鳴ればまた逢える八百屋お七は正直娘  鳥羽省三


(ジテンふみお)
    近づけば警官でなく警備員 俺も怪しい顔しているが

 「俺も怪しい顔しているが」が好い。
 この自覚有れば、名にし負う<埼京線>に乗っても、痴漢の嫌疑を掛けられることはない。
 それにしても、近頃の「警備員」の服装は、「警官」のそれとよく似ていることよ。
 かく言う私も、「警備員」を「警官」と見間違えて、びくついたことは一度や二度ではなかった。
 いえ、決して悪いことをしているわけではありませんよ、私は。
 それに「顔」も、<ジテンふみお>氏よりはよほど。
     〔答〕 近づけば桂冠でなく茨の冠(かん)ゴルゴダの丘喘ぎつつ行く  鳥羽省三


(原田 町)
    車間距離じゅうぶんあるに警笛を鳴らして過ぎる紅葉マークは

 「過ぎる」は<すぎる>とも<よぎる>とも読める。
 作者は、これをどう読ませたいと思っているのでしょうか?
 推測するに、作者の原田町さんは、これを、<すぎる>ではなく<よぎる>とご自身で読み、読者たちにも、そのように読ませたいと思っておられるのではないでしょうか?
 私のそうした推測の根拠は、一、二句の「車間距離じゅうぶんあるに」の存在。
 これは文語的な表現であり、これを口語的な表現に改めると、「車間距離がじゅうぶんあるのに」となる。
 いや、推測に基づいた、ここまでの私の説明は、十分な説明ではない。
 何故なら、一、二句の「車間距離じゅうぶんあるに」は、「口語的表現か?文語的表現か?」と、二者択一を迫られると「文語的表現だ」と言わざるを得ないが、<十分>の文語表記は<じふぶん>であって、<じゅうぶん>ではないから、一、二句を「文語的表現」と言い切った私の説明は、根本的な間違いを含んでおり、間違った言い方であるからである。
 このようにして考えると、一首の短歌を、<文語短歌なのか?口語短歌なのか?>と判別することは、それほど簡単ではない。
 さんざん遠回りして、読者諸氏の頭を困惑させた挙句、こんなことを言い出すのは可笑しいが、この一首は、口語短歌であり、「鳴らして過ぎる」の「過ぎる」は、<よぎる>ではなく、<すぎる>と読むのであろう。
 そして、私が<文語的な表現>と言い切った一、二句は、作者の原田町さんとしては、特別に文語表現を意識しての表現ではなく、この二句を、原田町さんが、「車間距離がじゅうぶんあるのに」とせずに、「車間距離じゅうぶんあるに」としたのは、単に、<字余り>を避けるための措置に過ぎないのであろう。
 文法学習が蚊帳の外に追い遣られた現在では、文語表現と口語表現との微妙な違いなどを言い出したら、「石をもて」叩かれ、たちまち、歌壇の外に追い遣られるのかも知れない。
 原田町さんの一首は、私に、このようなことを考えさせる機会を与えて下さった。
 これも亦、「一首の恩」であろうか?
     〔答〕 車間距離十分なのに警笛を鳴らされ通し姫トラックは  鳥羽省三  


(五十嵐きよみ)
    降る雨にヘッドライトも警笛も行き先さえもにじんで溶ける

 六月の雨に六月の花咲き、六月の雨は、六月の景色を溶かす。
 六月の雨はしゃぼんか?魔女か?
 六月の雨に降られて、「ヘッドライトも」「警笛も」行き先さえも」、「にじんで溶ける」。
 故に、諸君。
 六月の雨には要注意。
 特に、五十嵐吹き荒れる夜の雨には。
     〔答〕 降る雨にクリスマス・ツリーの光とけマッチ一本今夜は売れぬ  鳥羽省三


(ろくもじ)
    警報をかき鳴らせギター、これからもやっぱりひとりで生きるのだから

 「独身予測警報」というのが在るのかな?
 在るとすれば、その「警報」を鳴らすのは、気象庁でも消防署でもなく、独身が予測される、風采の上がらないギタリスト自身。
 〔答〕     
      君はギタリスト
      孤独なギタリスト
      
      今までも独り
      これからも独り
      ずーと、ずーと、独り
      永遠に独り
      ギター抱えて一人
      
      ギター爪弾け
      警報かき鳴らせ
      孤独なギタリスト

      夜は長いぞ
      孤独なギタリスト
      ロンリー・ギタリスト
      
      ギター爪弾け
      警報かき鳴らせ
      ロンリー、ギタリスト
      
      汝、孤独なる者
      たった一人の夜は長いぞ
      ロンリー・ギタリスト     
      
      ギター爪弾け
      警報かき鳴らせ
      ロンリー、ロンリー、ギタリスト
                    鳥羽省三詞 『ロンリー・ギタリスト』


(今泉洋子)
    わが知らぬ空襲警報ちちははの会話思ほゆ昭和の日なり

 一、二句の「わが知らぬ空襲警報」が、やや文意不明確。
 即ち、この一、二句は、「空襲警報が発令されたのにも関わらず、睡眠中か何かの理由で、作者は、そのことを知らなかった」とも解され、「未だ幼かった(未だ生まれていなかった)ので、作者は、空襲警報についての知識や実感がなかった」とも解される。
 一体、どちらでしょうか?
 それはともあれ、「<わが知らぬ空襲警報>のことを、生前の<ちちはは>がよく話していた。その<ちちはは>が、空襲に脅えて生き、そして亡くなったのは<昭和>。今日は、その<昭和>記念する<昭和の日>である」と、今は亡き御父母とその父母が生きて苦しんで亡くなった昭和時代とを回顧する、作者の心中がよく窺われる作品である。
 本作の作者が、「わが知らぬ」としてお詠みになられた「空襲警報」の記憶が、私には微かにある。
 昭和二十年七月のある一夜。
 空襲警報発令を知らせるサイレンに脅えながら、私たち一家は、裏山の防空壕に避難しようとした。
 家族の者を先に避難させた父は、幼い私を背負って避難しようとした。
 だが、その途中の雨に濡れた坂道で滑って転んで、肋骨骨折の重傷を負った。
 その重傷の父を、私はずるずると引き摺りながら、懸命に防空壕まで連れて行こうとしていた。 
 この事を、私は後々になってから、家族の誰かから聞いた。

     〔答〕 そのかみの昭和「天皇誕生日」今日「昭和の日」目出度さちう位  鳥羽省三
                            [注]  目出度さもちう位なりおらが春 小林一茶   


(Ni-Cd)
    水風船破裂粘液顔付着波浪警報瞬時勧告

 「みずふうせん・はれつ・ねんえき・かおふちゃく・はろうけいほう・しゅんじかんこく」と読むのでしょうが、下の句中の「瞬時勧告」は、「即時発令」と改めた方が宜しいかも?
     〔答〕 芹薺御形繁縷偽綸旨悪逆無道叡山法師  鳥羽省三
 を以って、一応の返歌とさせていただきますが、これも、作中の上の句を漢字表記とせずに、「せりなづなごぎやうはこべら偽綸旨悪逆無道叡山法師」とした方が宜しいのではなかろうかと思い、目下熟慮中です。


(磯野カヅオ)
    砂ぼこりまみれてオートリクシャーの言い値はなべて警戒すべし

 磯野カヅオの滞印中の作品がしばらく続く。
 「オートリキシャ」は、インドの街角の風物詩のような存在。
 本来は、後部客席にお客を二人乗せて走るのだが、時と場合によっては、五人も六人もの乗客を乗せて走るから、乗り心地はあまり良くない。
 インドと言えば、今や中国と並んで世界有数の経済大国として注目を浴びているが、一般庶民の生活レベルはまだまだ低い。
 したがって、典型的な一般大衆である、オートリキシャの運転手たちの中には、計算高く、日本人と見れば、法外な運賃を吹っかける輩もいる。
 と言うよりも、「オートリキシャには運転手の言い値で乗ってはならない」と言うことが、日本人旅行客にとっての常識。
 本作は、磯野カヅオの作品としては珍しく、一首中の何処を見渡しても、仕掛けらしい仕掛けが見当たらないから、かえって、そこのところを「警戒すべし」。
     〔答〕 黄塵を浴びつつ走るオートリキシャお客は磯野カヅオ氏以下五氏  鳥羽省三 
 

(理阿弥)
    日本間の障子格子は少年の人屋 祖母(おおば)の人形(でく)が警む

 寺山修司作・演出のアングラ劇を思わせる一首。
 祖母の形見の市松人形によって厳重に監視されている「日本間」。
 「障子格子」に囲まれた「日本間」。
 この「日本間」は、主人公の「少年」にとっては牢獄に等しい。
 母に捨てられ、病弱の身をかこつ少年は、この牢獄に繋がれている俘虜。
 「少年」はこの牢獄で欲情し、手淫に耽る。
 彼を捨てて家出した母に欲情し、手淫に耽る。
 浴場と手淫とは、この牢獄での彼の、たった二つの悲しい作業なのだ。
     〔答〕 市松の人形(でく)は虜に欲情し虜は母に欲情してる  鳥羽省三
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一首を切り裂く(046:常識)

(jonny)
    常識に振り回された一日の僕を壊してみる夜がある

 「今日という今日は、身も心もへとへとに疲れてしまった。朝から晩まで、くだらない<常識>に振り回され通しで。だから今夜は、この常識家の自分を徹底的に壊し、徹底的に痛めつけてみよう。今夜は思いっきり非常識なことをして過ごすのだ」などと思うことがあるだろうか?
 もし、あるとすれば、その日は、どういう常識に振り回され、その夜は、どういう非常識なことをして、自分自身を徹底的に壊すのだろうか?
 今日の午前中、私は病む右肩の治療の為に、Y総合病院のリハビリ室に行った。
 その途中の欅通りで、私は犬を連れて散歩しているS夫人に出会った。
 お犬様連れのS夫人に出会ったら、ご当人には勿論、お犬様にもお愛想しなければならない、というのが、常々家内から耳に胼胝が出来るほど聞かされている、我が家の憲法の一条であり、常識である。
 そこで私は、夫人の美貌に一応の敬意を表した上、お犬様の黒ちゃんにも、その豊かな毛並みを撫でながら、「まあ、黒ちゃん。そのおべべの、何とお体にぴったりですこと」などと、お愛想をべらべらと並べ立てた。
 すると、黒ちゃんは、私のそんな見え透いたお世辞を見透かしたような顔つきで、いきなり「ワン」と吠え、私の手に噛み付こうとした。
 かくして、家内に教わった常識通りに振舞おうとしたため、私の心は朝一番から傷付き、体も少なからず疲れてしまった。
 リハビリ室での治療が終わった後、私は、医療費を払おうとして自動支払機の所に並び、順番が来るのを待っていた。
 すると、私が並んでいるのとは反対の側から数人の人が割り込んで来て、その病院にたった三台しかない自動支払機を占領してしまい、世間様の常識に倣って並び、自分の順番が来るのを待っていた私は、二十分以上も待たされる結果となってしまった。
 私の心はまたまた傷付き、体の方も更に疲れてしまった。
 午後二時過ぎ、私は、家内と一緒に近所のスーパーに行った。
 夕食のおかずにと、一階の食品売り場に行き、焼き豆腐一丁、国産の霜降り牛肉ひとパック、下仁田ネギ三本などを買った。
 焼き豆腐と霜降り牛肉を買う時、家内はいつも通りに、陳列ケースの一番手前から品物を取り出してレジ籠に入れた。
 数年前の朝日新聞で、「スーパーの食品売り場で、日付の新しい品物を漁って、陳列ケースをやたらにかき回す輩が多いが、みんなでそんなことをしていると、日付の古い品物が最後まで残ってしまい、結局は廃棄処分しなければならなくなる。事が一スーパーの損失で済めばよいが、先進国中最も食糧自給率の低い我が国に於いては、それでは済まない。何故なら、そんな輩の存在を許すことは、我が国に食糧危機を齎すことになるからだ。したがって、スーパーの食品陳列ケースをかき回して、日付の新しい品物を漁る輩は、亡国の徒であり、常識を解しない輩である」という趣旨の投書を読んだ。
 それ以来、私の家内は、いつもその投書子のいう常識的なやり方で買い物をしているのだ。
 ところが今日に限って、彼女の常識的買い物は、エンゲル係数が異常に高い我が家に多大なる損害をもたらしてしまったのだ。
 何故なら、陳列ケースの最前列から買って来た、焼き豆腐と国産霜降り牛肉の賞味期限が今日だったからである。
 我が家では、すき焼きをする場合には、少し奢って、国産の霜降り牛を使う。
 その代わり、すき焼きの回数は毎月二回を限度とするという決まりが在り、この十年間、それを我が家の常識として守り、ただの一度として、その常識に逆らったことはない。
 その、毎月たった二回きりのすき焼きパーティのうちの一回が、今となってはその名すら忘れてしまった、朝日新聞の投書子から指示された常識に振り回されて、だいなしになってしまったのだ。
 私と家内とは、「今日の肉や焼き豆腐には大腸菌が入っているかも知れない。もしかしたら、新型インフルエンザのウイルスだって」などとこぼしながら、そのすき焼きを恐る恐る食べた。
 薄気味悪い思いをしながらの食事が済んだ後、私はトイレに駆け込み、その隙にと、連れ合いは珍しいことに私より早く風呂に入った。
 選りも選って、家内が入浴していて、私がトイレの中で、<大>の方を出そうとして懸命に唸っていた時、電話のベルが鳴った。
 たった二人だけの家族の片方が入浴中で、もう片方が用便中に電話のベルが鳴ったり、来客があったりした場合、男女を問わず、用便中の者がそれに対処する、というのが我が家の常識である。
 そこで私は、お尻の穴を窄めながら電話口に行き、受話器を耳に当てて、「もし、もし」と呼び掛けてみた。
 ところが先方は、「うん」でも「はい」でも無く、いきなりガチャンと音を立てて電話を切ったのだ。
 その電話は、間違い電話であったかも知れない。
 その電話に応えたのが男声であったため、先方は直ぐに間違い電話をしてしまったことに気付き、ものも言わずに受話器を置いてしまったのかも知れない。
 しかし、たとえ間違い電話であったとしても、夜間、他人の家の電話のベルを鳴らしてしまったら、「すみません」のひと言ぐらいは言うべきではないだろうか?
 それが常識というものではないだろうか?
 かくして、今日という今日は、私は一日中、<常識>というやつに振り回され、身も心もへとへとに疲れ果ててしまった。精も根も尽き果ててしまった。
 挙句、「誰が作ったかも判らないくだらない常識に縛られ、振り回されていた今日の私は馬鹿だった。こんな馬鹿な私は、この際、徹底的に虐められ、破壊されなければならない」とばかりに、私は、常識に振り回され続きの今日の自分を処刑するため、普段はコツプ一杯しか飲まないのが常識の、「吟醸・月の桂」の発泡濁り酒を、一升まるまる空けてしまった。
     〔答〕 常識的見地に立てばこの歌にこんな批評は非常識だよ  鳥羽省三

 
(ぽたぽん)
    「そのくらい常識だよ」が口癖の上司が上司に叱られている
(伊藤夏人)
    常識が毎日上司のあなたから創造されて行くんでしょうね

 <ぽたぽん>氏作と<伊藤夏人>氏作とを並記したのは、両者が呼応関係にあると判断されたからである。
 即ち、<ぽたぽん>氏が、「『それくらい常識だよ』が口癖の上司が上司に叱られている」と呼び掛けると、<伊藤夏人>氏が、「常識が毎日上司のあなたから創造されて行くんでしょうね」と応えるのである。
 したがって、私の下手な返歌は必要ないとは思われるが、一応は示そう。
     〔答〕 常識はかくして無能の上司らの頭の中で創られるて行く  鳥羽省三


(中村成志)
    常識の結界内に辛うじて収まりひらくブルーシートが

 「範囲内」と言えば済むところを、スタイリストの中村成志は「結界内」などと難しい言い方をなさる。
 だが、こうした表現の綾も亦、常識の範囲を大きく逸脱したものではないから、一首の観賞には、それほどの支障もない。
 とは言え、「結界」という語の本来の意味に拘って解釈すれば、本作は、上野公園のブルーシート・ゾーンの住民たちの暮らしに取材して詠んだのではないだろうか?
 更に想像を逞しくして申せば、中村成志氏は、その「結界内」の住人ではないだろうか?
 と思われるが、これは私の深読みでしょうか?
     〔答〕 常識の結界内に判ずれば中村成志は公田さんかも  鳥羽省三



(久哲)
    ピーマンに唇寄せて中にいる種の立場に言う非常識

 これは亦、「非常識」な久哲氏。
 「紅いりんごに唇寄せて」とは、ナツメロにも在るが、「ピーマンに唇寄せて」は、聴いたことも見たこともない。
 そもそも、あんな変なスタイルの植物に唇を寄せるなんて変態性欲の表れではないか?
 その奔放初演の、「ピーマンに唇寄せて」、「中にいる種の立場」に立って、我らが久哲氏は、どんな「非常識」なことを言おうとしているのだろうか?
 「おーい、ピーマンよ。お前の名前の一部が、<マン>だから言うのじゃないが、お前の形は○○に似ているな。そこで、お前の空洞の真ん中に巣食っている<種の立場>に立って、私はお前に尋ねるのだが、お前は一体、トンガラシの仲間なのか、それとも、茄子キュウリの仲間なのか。お前の種である私は、来年の春、トンガラシとして芽を出せばいいのか、それとも、茄子キュウリとして芽を出せばいいのか?」
     〔答〕 ピーマンは<ナス科植物>、トンガラシ、キュウリも同じナス科植物  鳥羽省三


(振戸りく)
    時刻表通りに汽車が来ることを常識とする国に生まれた

 本作の作者が住む地方では、未だ「汽車」が走っているらしい。
 「汽車」とは、今ふうに言うと<SL>。
 したがって、この一首は見せ掛けよりはかなり難解。
 もしかしたら、作者は津和野地方に住んでおられるのでありましょうか?
      〔答〕 うっかりと電車のことを汽車と言うお齢が知れます振戸りくさん  鳥羽省三
 
 と、ここまで記し、そのまま〔公開〕したところ、一読者の方から私に、次のようなメールが寄せられた。
 タイトルは「汽車のこと」。
 その内容は以下の通り。

 こんばんは。
 東北、北海道あたりの方言では、レールの上を走るものは、なべて「汽車」と言いますよ。
 電車という言い方は、私は東京にきてから身につけました(笑)
 (九州でも同様にいう地方があるとも聞いたことがあります)
 というわけで、そんな出自の私は、振戸りくさんのこの一首、気にせずにすーっと読んでしまいました。
 日本の常識を詠んだ歌に方言が適しているかどうかは、ちょっと判断に迷うところですが。

 お寄せになられたメールの内容から拝察するに、<振戸りく>さん作の短歌に対する、私の観賞文や返歌を、メールをお寄せになられた方は、「辛辣に過ぎる」と感じられ、「これでは作者の方に気の毒だ」と感じられたのかも知れません。
 しかし、私が、この「一首を切り裂く」で採り上げ、それについて、時に批評気味な、時に迎合気味な、時にからかい気味な観賞文と返歌を記す作品は、それに対する観賞文の文体や内容がどんなものであれ、その<お題>に寄せられた数百首の作品の中から私が佳作・傑作と感じて選び、このブログで採り上げて論じ、作者の方のご創意やご苦労を顕彰するに値する、と判断した作品なのです。
 私は、観賞対象の作品の内容や、その時々の私自身の気分に応じて、作品への切り込み方や文体を、時に自然に、時には故意に変えます。
 したがって、観賞文や返歌の内容が、例え、風刺気味であったり、揶揄気味であったりしても、それは、それぞれの作品に対する、私ふうな<誉め言葉>なのです。最上級な礼賛の詞なのです。
 ですから、この私の文章をお読みになられる方は、ここにこんな変なやつが居て、この名作に対して、こんな変な誉め方をしている。彼の感じ方や言い方は、私とはかなり異なるが、でも、少なくとも、彼はこの作品に、人並み以上の魅力を感じ、人並み以上に身を入れて読んでいる、とでも解釈され、表現上のご無礼は、枉げてお許し下さい。
 ここで、先の振戸りくさん作及び、その観賞文に対して寄せられたメールについて申し上げます。
 私は、メールを寄せられたお方と同様に、振戸りくさんの作品を、ごく自然に、「すーっと読んでしまいました」。
 したがって、作中の「汽車」という語についてを中心とする、私の揶揄気味の観賞文や返歌は、振戸りくさん作の良さを引き立てようとしての、一所懸命な、私の試みに他なりません。
 私は、メールを寄せられたお方と同様に、我が国に於いて、主要交通機関としての汽車の位置が、電車にとって替わられた後も、レールの上を走行する乗り物は全て汽車だと解し、或いは、そうとまでは解さないまでも、それを汽車と呼んでいる方々が数多くいらっしゃることを、十分に知っております。 何故なら、他ならぬ私自身がその一人だからです。
 それともう一言申し上げますが、電車を汽車と言うのは、どこの地方の<方言>でもなく、それは、そう呼んでいる人たちの習慣に過ぎません。
 更に申し上げますと、上記の観賞文で、私が、「本作の作者が住む地方では、未だ『汽車』が走っているらしい」と記し、「作者は津和野地方に住んでおられるのでありましょうか」と記したのは、振戸作品を引き立て、読者を作品世界に誘うための一工夫、言わば、言葉の綾に過ぎません。
 また、「うっかりと電車のことを汽車と言うお齢が知れます振戸りくさん」という私の返歌も、それと同質の礼賛詞ですが、「電車」を「汽車」と呼ぶのは、ほとんど、ある年齢層の方々に限定されますから、あながち<的外れ>でもないかとは思われます。
 何はともあれ、私の拙い観賞文に対して<間髪を入れず>にお寄せになられた一通のメールは、勉強不足の私にいろいろなことを考えさせ、このメールから私は、いろいろなことを学びました。
 本作の作者及びメールの発信者の方、いろいろと失礼致しました。そして、いろいろと有難うございました。
     〔答〕 ことさらに電車を汽車と呼ぶなどと振戸りくさん歌詠み巧者  鳥羽省三  
    
 
(bubbles-goto)
    少しずつ違う常識縒り合わせ親族たちは通夜に集うも

 「少しずつ違う常識」を「縒り合わせ」したのだから、まだ増し。
 同じ祖先から出ていながら、普段はめったに顔を合わせないのが、近頃の「親族」。
 その為、最初はそれほど違わなかった筈の「常識」が、時代が経つにつれ、家ごとに、人ごとに違ってくる。
 その、違う常識を備えた親族たちが一同に会して、「通夜」が行われ、葬式が営まれるのだ。
 喪主の家から、不幸の<知らせ>を正式にもらった親族・甲は、香典として、<金・参万円>を包んだ。
 正式な<知らせ>をもらわなかった親族・乙の包んだ香典は<金・伍千円>。
 正式な<知らせ>をもらいながら、親族・丙の包んだ香典は<金・壱万円>。
 正式な<知らせ>をもらいながら、親族・丁は、通夜にも葬式にも出席しなかった。
 親族共が、「常識」の「縒り合わせ」も碌々しないで対応したら、通夜や葬式の場は、たちまち修羅場と化してしまうだろう。
 一首全体から、「通夜」という、厳粛にして寂寞とした場面の雰囲気が、実によく感じられます。
 私は本作を、お題「常識」への投稿歌中の白眉として推奨したい。
     〔答〕 正式な知らせ受けたがわたくしは姉の葬儀に欠席しました  鳥羽省三
 

(内田かおり)
    昨日得た常識ひとつ更新し明日過去ログに落とす予感す

 昨日、メル友・Yさんからのメールで教えられた常識。
 「かおりさんさー。あんた歌手の<内田あかり>と名前が似てるからといって、いい気になってんじゃないよ。顔ならともかく、名前が似てるぐらいでは、最近は、そっくりショーにだって、出してもらえないじゃん。それが最近の世の中の常識ってもんさ。それに、内田あかりなんて歌手は、とっくの昔に、・・・・・」
 メールをもらった当初こそ、それが、この世の中の「常識」だと思っていたが、今夜、ベットに入って、じっくりと考えてみると、この常識は「常識」では無い。だいたいに於いて、あのメル友・Yが、あんなことを常識だとして、わざわざ私に教えたのは、親切から来るものでは無くて、嫉妬から来るものだろう。だから、このメールは、明日、「過去ログ」に落とそう。
     〔答〕 メル友が教えてくれた常識は常識的には常識でない  鳥羽省三
 

(近藤かすみ)
    常識の二つ手前は正直で 新明解の表紙くれなゐ

 そう、その通りです。
 「常識」の一つ手前が「定式」で、そのまた手前が「正直」です。
 但し、私の手元に在る、『新明解・国語辞典(第五版)』の表紙の色は「くれなゐ」ではありません。
     〔答〕 常識の五つ手前は情事にて私はそれに一瞥くれる  鳥羽省三


(葉月きらら)
    常識に捉われている私には海が青色にしかみえずに

 「海が青色に見えるのは、そう見る人の体に刷り込まれている<固定観念>が、そのように思わせるのであり、海そのものは、別に青色でも赤色でもなく、海は海でしかないのだ」といった説明を、最近読んだ本の中で、何方かが述べていた。
 とは言え、
     〔答〕 我もまた常識人であるためか海は青いと思うばかりだ  鳥羽省三


(村本希理子)
    常識の範囲の中で咲いてゐる向日葵畑の迷路ぢやないか

 昨今では、全国いたる所に存在する、「向日葵畑の迷路」は、意外感や恐怖感が感じられなくて、存外に面白くも可笑しくもない、ということでありましょうか?
 これが、秋になってからの、「コスモスの迷路」であったなら、いかに村本さんでも、歌に詠めずにキリキリ舞いをしてしまうでしょう。
 何故なら、コスモスの群落を、「畑」として捉える習慣も常識も、日本人には無いからです。
     〔答〕 常識の範囲を越えた傑作を詠んだ村本希理子じゃないか  鳥羽省三
 

(櫻井ひなた)
    常識の基準があたしになるような責任感を背負わされてる

 それはそれは、大変ご苦労様です。
 しかし、あなたご自身は、不動不変である必要はないし、「常識」を身につけるために特別な努力をする必要もないのです。
 何故なら、あなたはあくまでも「基準」に過ぎない。
 だから、仮にあなたが、あなたご自身が考えても少し「常識」に悖ると思われるような言行をとったとしても、それに伴って、常識人人口と非常識人人口との間に、多少の移動現象が生じるだけであって、あなたご自身は相変わらず「基準」のままで、世間の人々からは何ら非難されないからです。
     〔答〕 常識の基準の者の気がふれた。さあ大変だ、ぼく常識人  鳥羽省三

一首を切り裂く(045:幕)

(穴井苑子)
     くす玉が割れたら垂れ幕あらわれるしくみに今年も拍手をおくる

 お子様が通っていらっしゃる幼稚園の運動会風景でしょうか?
 昨今はマイナスシーリングとか経費削減とかで、過年度に作った諸道具を倉庫に保管して置き、翌年も、そのまた翌年も使用するといったことがよくある。
 したがって、開会式での最大のイベントである、「くす玉が割れたら垂れ幕あらわれるしくみ」も亦、数年間繰り返して披露されることになる。
 今年初めてその幼稚園にお子様を預けたご父母方や、他の地域から訪れた一般客の方ならともかく、自分の家の子供が昨年も一昨年もこの幼稚園に入っていた、といったお母さん方やお父さん方は、なにもかもお見通しなのだ。
 「間も無く、年少さんの中でいちばん可愛らしい女の子と、年長さんの中でいちばん元気な男の子が登場し、未だまん丸のままのくす玉の下に立つ。次に彼女と彼は結婚式の入刀式に臨むカップルのような表情をして、くす玉の紐を引く。するとくす玉が割れ、<お父様、お母様、今日は私たちの幼稚園によくいらっしゃいました。私たちは先生方の注意をよく守り、この青空の下をちからいっぱい翔け回り、今日の運動会を十分に楽しみます。だから、お父さん方やお母さん方も、私たちと一緒に今日一日を楽しんで行って下さい>との、メッセージが書かれた垂れ幕が下がる」ということを。
 事はご両親たちの予期した通りに展開する。
 それでも、地域ナンバーワンのこの幼稚園にご自慢の子を通わせている、学歴が高く、良識のあるお母さんお父さんたちは、あまりにも予想外で、あまりにも素晴らしい事の展開に驚いたような顔をしていっせいにパチパチパチと手を叩く。
 すると園児席の子供たちも、「してやったり」といった顔をして、小さなお手手をパチパチパチパチパチパチと叩いて止まない。
 そこまでは例年通りの展開で、別に問題は無かった。
 だが、その運動会が終わって数日経った頃、その年の運動会を巡って、一つの大問題が発生した。
 何と驚いたことに、その幼稚園の年長組にご自分のお嬢ちゃんを通わせているお母さんの一人が、
事の顛末を一首の歌に詠んで、今や国民的文化行事となっている「題詠2009」に、堂々と投稿したのだ。
 「くす玉が割れたら垂れ幕あらわれるしくみに今年も拍手をおくる 穴井苑子」などと。
 さあ、物見高いマスコミが寄って集って騒ぐこと騒ぐこと。まるで、慌て者の寅さんが熊ん蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
    〔答〕 小沢氏が裏で操る仕組みだと気づいた国民焼けっパチパチ  鳥羽省三 


(庭鳥)
    幕間にオケピ覗けば金管がものも言わずに見つめ返した

 近頃では、ネットで買える格安のチケット<オケピ・チケット>のことも「オケピ」と言うそうだから、「オケピ」と言っても二通りの意味が在ることになるが、ここは本来の「オケピ」、即ち、歌謡ショーやオペラなどでの「オーケストラ・ピット」を指して言うのであろう。
 作者が他ならぬ<庭鳥>さんであるから、大サービスをして、本作の舞台をイタリア・オペラ『トスカ』の公演会場・産経ホールと仮定して話を進めよう。
 東京・産経ホールで行われた、イタリア・オペラ『トスカ』(指揮:ニーノ・ヴェルキ演出:ブルーノ・ノフリ)の一幕目が終わり、十分間の休憩となった幕間に、動作主<庭鳥>氏は、舞台の興奮も冷め遣らぬまま、舞台下の「オケピ」を覗いてみた。
 彼・庭鳥氏にしてみれば、それほど他意は無い。
 せっかく大枚三万円を叩いて入場したのだから、この機会に、オケピ内の様子でも見学しておこうと思っただけのことである。
 ところが、そうは問屋は卸さない。
 彼が、オケピ内に目をやった瞬間、トイレにも行かずに、そこに居残っていた金管楽器奏者の男が、彼の顔を「ものも言わずに見つめ返した」のだ。
 その恐かったこと、恐かったこと。
 彼の視線は、まるで、奴隷女を見つめる暴虐帝・ネロのように輝いていた。
 そこで庭鳥氏は、「あんなヤツに全身の羽毛でも毟られたら大変だ」と思い、また、「あんなイタコウに掘られてもしたら、もっと大変だ」とも思って、所期の目的の果たさず、早々に自分の座席に引き上げた、ってだけのこと。
 ってだけのことなのに、この作品を鳥羽はどうして佳作として選び、長々と観賞文を書いているのか?
 と、そのような疑問を持たれる方も居られるだろう?
 そうした疑問に、答える術を私は知らない。
 でも、いいものはいい。この作品は断じていい。
 「金管が」ってところが特にいい。
 それまで。
 お題の<幕>を、「幕間」として扱った佳作が、他に山ほど在ったが、観賞はこの一首だけで十分だ。
     〔答〕 開票日に選挙事務所を覗いたら有象無象が自棄酒飲んでた  鳥羽省三
 と、私は書いてみたのだが、私の留守中に、このくだりを読んでしまった家内が言う。
 「あなたは、この一首の『金管』を金管楽器演奏者と解して、観賞文を書いているが、私の拙い解釈では、この一首の『金管』は、金管楽器演奏者ではなくて、あくまでも金管楽器そのものである。何故なら、幕間で休憩中のオケピを興味本位で覗いてみたら、演奏家たちは誰一人としていないが、演奏者の座る椅子の上に金管楽器が一丁、ちょこんと腰掛けていて、ものも言わずに、覗き見をした私を見つめ返していた、とでも解釈したら、この一首は、あなたの解釈よりもずっと良くなるわ。私の解釈、どうかしら」とこきゃがった。
 口に出して言うのも悔しいが、「私の解釈より、家内の解釈が桁違いにいい。負けた、負けた。門前の小僧、ならぬ大黒、習わぬお経読む」とは、このようなことを指して言うのか?
     〔答〕 金管のひらけた口がもの言わぬ男みたいでなかなかステキ  鳥羽省三 


(はづき生)
    おおきなおおきなひとが亡くなって海には鯨幕張ってあります
 
 一読しただけでは解らないだろうが、本作には、韻文としての短歌に相応しい内在律が感じられ、本来ならば、音読の障害になるはずの<字足らず>も<字余り>もほとんど気にならない。
 また、談林俳諧風のスケールの大きな詠風も素晴らしい。
 南国土佐の海になら泳いでいるのだろうか?
 その巨大な鯨の姿を 「鯨幕」に見立てての下の句は大きい。
 だが、その巨大な風景を背にしての、「おおきなおおきなひとが亡くなって」と言う、ゆったりとした、上の句の叙述も大きい。
 ところで、上の句中の「おおきなおおきなひと」とは、何方のことであろうか?
 例えば、釈迦とか、マホメットとか、キリストとか、孔子とか、かつて実在した聖人を、それに当てて観賞する人もいるだろう。
 が、私に言わせれば、そのいずれの観賞も的外れである。
 それでは、鳥羽説で言う、「おおきなおおきなひと」とは、どなたか?
 それは、人類の何方でも無く動物。
 自分自身の死に巨大な鯨幕を張って哀悼の意を表すことが出来る、大きな大きな動物。
 即ち、「鯨」なのである。
 あの巨大な鯨に較べたら、釈迦も、マホメットも、キリストも、孔氏も、小さい、小さい。
 この一首は、南国土佐の伝統的な鯨狩りの風景を、極彩色の日本画に仕立て上げてみせた、無辺大の狩野絵なのである。
     〔答〕 狩野絵の襖の枠をぶち抜いて抹香鯨が潮を吹いてる  鳥羽省三
 誉めてばかりいてもつまらないから、ひと言申し添えると、「おおきなおおきな」は大変宜しいが、後に続く、「ひとが亡くなって」がやや雑。
 私なら、こうする。
     〔答〕 おおきなおおきなお方が逝去され海には鯨幕が張られた  鳥羽省三


(振戸りく)
    なにもかもはっきり見せてしまってはつまらないねと紗幕を下ろす

 そう、「なにもかもはっきり見せてしまってはつまらないね」。
 だから、ご婦人方、お召し替えの時は、お部屋のカーテンを下ろしましょうね。
 せめてレースのを。
     〔答〕 紗幕閉じ<オフ・リミット>にしたはずが、透け透けルックでかえって悩まし  鳥羽省三


(龍庵)
    幕開けのブザーが僕にブーイング浴びせ掛けてるように聞こえる

 作者の<龍庵>氏は、きっと、気の弱い演出家か劇作家なのでありましょう。
 そう、私にも経験がありますが、自作の演劇舞台の幕開けのブザーの音は、観客たちがその作品の作家に、「ブーイング」を「浴びせ掛けてるように聞こえる 」ものだ。
 未だ何ひとつ始まってはいないというのに。
     〔答〕 幕開けのブザーの音に脅えつつ舞台の袖に僕が立ってる  鳥羽省三


(月下燕)
     暗幕の中で少女は顔をよせ「現像液の匂いが好きなの」

 鼻に「つーん」と来る「現像液の匂い」は、何かに似ている。
 月下美人の花の匂い。
 いや、昨夜、自分の体を通り過ぎた男の匂いに似ている。
 だから、その少女は危ない。
 月下燕氏よ、早々に作業を止めて、その暗室から出なさい。
                     (焼付けなど止めて、ホテルに行きなさい。)
     〔答〕 つばくらの雛にも似たる少女らが流し目しつつ群れる店先  鳥羽省三


(青山みのり)
     やさしくて手がおおきくて幕引きの上手な男だったとおもう

 作者の<青山みのり>さんは、かつては、日劇ミュージックホールの踊り子さんだったのか?
 踊り子さんが、ホールの幕引き係に恋をしてしまったのか?
 そして、その恋は、一年余りで幕引きとなってしまったのか?
     〔答〕 踊り子は裸芸より歌が好き寺山修司をいつも読んでた  鳥羽省三


(根無し草)
    尻軽が 仲間と創った アバズレ幕府 徳川よりも 続くといいな

 <鳩ぽっぽ内閣>のことでしょうか?
 でも、今からあたふたしているようでは、徳川幕府どころか、近江朝政権ほども続かない、と思いますよ。
 それに、あの女が鳩ぽっぽの脚を引っ張る。
     〔答〕 尻軽が金ネクタイで首絞めるいくら何でもこれじゃもたない  鳥羽省三


(みぎわ)
    花道の幕に風あり菊之助の花子狂ひてゆくしもぶくれ

 春爛漫の道成寺に、「花子」と名乗る白拍子が現れる。
 そこへ、もう一人の白拍子「花子」が現れ、大勢の所化たちに見つめられながら、鞨鼓、花笠、鈴太鼓を手に取っての華麗な踊り絵巻を展開する。
 平成十六年に歌舞伎座で初演された『京鹿子娘二人道成寺』は、菊之助・玉三郎の二大女形が競演する二人花子が、時には姉妹の如く、時には光と影の如く踊る、斬新な演出が話題となりました。
 本作は、この舞台を観ての一首でしょうか?
 下の句の、「菊之助の花子狂ひてゆくしもぶくれ」が、当日の舞台をよく写し得て絶妙。
     〔答〕 花笠を被りて踊るをんながた時にいんやう光と影為す  鳥羽省三


(夏実麦太朗)
    発車まで十五分とは長けれど幕の内の蓋開けず待ちおり

 私の子供の頃は、汽車(その頃はまだ電車では無く汽車でした。
 今風に言うと<SL>だが、そのSLに乗って旅行することなどはめったに無かったし、ましてや、駅弁を買ってもらったことなど皆無であった。
 それだけに、「幕の内の蓋開けず待ちおり」に込められた、動作主の気持ちはよく解ります。
 私が初めて買った駅弁は釜飯でした。
 その釜飯は有名な<横川>のそれでは無くて、東北地方の何処かの駅で売っていたものですが、私は、人生で初めて駅弁を買った記念にと、その容器を、その後ずっと捨てずに保存していたのですが、今の寓居にはそれが無い。
 とすると、その後数回に及んだ転居騒ぎの折にでも、あれはきっと捨てられてしまったんでしょうね。連れ合いの悪巧みで。
     〔答〕 小旅行の途路にて買った小鯛寿司結局食べずにお土産にした  鳥羽省三


(八朔)
    気がつけばキミのそばには煙幕をはるヤツがいて視界が悪い

 「キミ」が<鳩ぽっぽ>だとすると、本作中の<ボク>は副総理の某氏となる。
 それでは、「ヤツ」とは誰だ?
 「ヤツ」とは、あの権謀術数氏のことか?
 いや、事はそんほど単純ではない。
 今の政界の構造は、そんなに単純ではない。
 「ボク」が「キミ」で、「ヤツ」が「ボク」だったりすることもある。
 もちろん、「ヤツ」が「キミ」で、「キミ」が「ボク」のことを、「ヤツ」だと思っていることだってあるんだ。
     〔答〕 煙幕が透け透けだから見え隠れキミとボクとは遇えるよし無し  鳥羽省三


(蓮野 唯)
    幕の内弁当にある練りわさび切なく待つ身の哀しみに似て

 「幕の内弁当にある練りわさび」は、<わさび大根>の乾燥粉末を水で溶いたヤツなんでしょうか?
 それとも、本格派なんでしょうか?
 事と次第によっては、「切なく待つ身の哀しみ」も、ずいぶん安っぽくなったり、そうでなくなったりするから。
     〔答〕 粉末に水を加えた練りわさびそれでも辛く待つ身はつらい  鳥羽省三


(美木)
    幕張のビルの向こうは黒い海それでもいいよ一緒に行こう

 学生時代の夏休み明け最初の通学日のこと、私は、大勢の友人たちに向かって、聞かれもしないのに、「夏休み中はずっと、彼女と二人だけで幕張の海に出掛けてて、昼も夜も泳いでばかりいた」などと駄法螺をこいてみた。
 本当は、新橋の小さな運送会社で電話帳の配達をしていたのだが、せっかくの夏休みがそれだけで終わったとしたら、自分が自分を哀れに感じられてならなかったからだ。
 だが、せっかくの私の努力も無駄。
 私の話を聞いていた者の中に千葉県出身者が居て、「鳥羽くんよ。その話にはかなり嘘が混じってるんじゃないか。先ず第一に、幕張の海には、いちめん海苔そだが張られていて、泳げるとこなんか在るはずはないさ。それに君はそんな顔をしてて、彼女なんか持てるはず無いじゃないか。人にもの言う時は、自分の顔を鏡に映してみてから言えよな」と、高射砲の如くまくし立て、私に、反論の余地すら与えなかったのだ。
 私が、山本周五郎作の『青べか物語』を読み、東京湾岸の千葉県の海の実態を知ったのは、それからかなり経ってからのことだ。
 「幕張のビルの向こうは黒い海」。
 あれから半世紀も経って、今では、「幕張」の海には<海苔そだ>どころか、外れ馬券すら泳いでいないことであろう。
 でも、<美木>さんの彼女には、「それでもいいよ一緒に行こう」と言ってくれる人がいるからいいよね。
     〔答〕 幕張の海はいつわり仇(あだ)の海 「それでもいいさ、今があるから」  鳥羽省三


(ほたる)
    暗幕をひいた教室セーラーのリボンが揺れて秘密めく夏

 <ほたる>さんは若い。
 永遠に若い。
 つい、こないだ、お子様をふたりもママチャリに乗っけて、近所のスーパーに特価品の<生き生き新鮮赤殻卵>を買いに行ってたくせに、「セーラーのリボンが揺れて秘密めく夏」なんて、今どきは、女子高生だって詠まないような歌を詠んでるよ。
 <ほたる>さん、あなたの「夏」も、鳥羽省三の夏同様に、<まぼろし>の夏だったのではありませんか?
 「暗幕をひいた教室」では、ビキニ環礁の原爆実験の記録映画が上映されていた。
 「セーラー」服の女子高生たちは、汗疹だらけで、自分の皮膚を引っかくのに忙しかった。
 青春なんて、どうせそんなものです。
 青春がそんなものだから、<ほたる>さんたち、青春をとうの昔に通り過ぎてしまった歌人は、せっせせっせと、幻に過ぎない青春の歌を詠むのです。
 私の知る・寺山修二は、いつまでも青森訛りの抜けない中年男に過ぎなかった。
     〔答〕 暗幕を引いた舞台の袖口で寺山修司は汗疹掻いてた  鳥羽省三
         

(ジテンふみお)
    字幕には書けなかったが僕はまだそもそもつまり「だからなんなの」

 最近は映画の字幕を読める若者が少なくなって、映画配給会社の経営者たちの深刻な悩みとなっている、と聞く。
 本作の作者<ジテンふみお>氏は、そうした映画配給会社の一つ、「欧亜映画KK」の字幕書き担当社員で、時々は、彼女への思いのたけをフランス映画の字幕に書いたりもする。
 しかし、前述のような理由で、勤務先会社の経営が悪化し、社員の給料も少なくなったから、<ジテンふみお>氏は、「なあに、これも現物給付の一つさ。経営に行き詰った病院が、医師や看護士の薬品横流しに眼を瞑るような」と開き直っている。
 ところが、いつまでもそんなことはしていられない。
 ある時、役員の一人に試写会の席上でその点を指摘され、<ジテンふみお>氏の悪巧みは、露見してしまったのである。
 以来、彼と彼女との間は音信不通。
 作中の「字幕には書けなかったが僕はまだそもそもつまり」は、次第に冷えて行く彼女との仲を心配するあまり、昨日買ったばかりのケイタイで打った、<ジテンふみお>氏の彼女へのメールの内容。
 その後の「だからなんなの」は、それに対する彼女の返事なのである。
     〔答〕 「サヨナラ」は仏蘭西映画の字幕だけ、君と僕とに「再見(ツァイチェン)」は無い  鳥羽省三 


(祢莉)
    陣幕を張り出陣を待つような気持ちでバレンタイン当日

 「陣幕を張り出陣を待つような気持ちで」となれば、穏やかではない。
 ニコタマの<高島屋SC>のお菓子売り場のチョコを買い占めてしまったのは、<祢莉>さんですか?
     〔答〕 営幕で<謙信見参>待つ気分 チョコは来るのか義理ではないか?  鳥羽省三


(間遠 浪)
    幕間に前衛の少女が滅びましょうもういいでしょうと外す関節

 止めるつもりではあったが、「幕間」をもう一首。
 文意は、「(何かの公演の)<幕間に>、<前衛(派)の少女が>、『(わたしたちは)滅びましょう』『もういいでしょう』<と(言って)外す関節>」となるのでしょうか?
 私には、全く解りませんが、劇画世界の一コマなんでしょうか?
 それとも、中国の少数民族の雑技団での出来事でしょうか?
 雑技団での出来事としたら、その「少女」を「前衛の」と言ったのは、作者がその少女を、「彼女は密かに民族独立運動をやっているな」と睨んだからでありましょう。
 それにしても、「外す関節」が解りません。
 解りませんが、とても魅力的な五音です。
 その「前衛の少女」は、関節を外してから、密かに雑技団の楽屋を抜け出し、爆弾テロをやらかしに出掛けるのでしょうか?
     〔答〕 関節を外して抜けた檻の外やがて少女は闇に消えてく  鳥羽省三


(本田鈴雨)
    みんなみの東京湾やあさがほの幕を透かして遠花火みゆ 

 <鈴雨>宗匠は、俳諧の宗匠でもあられるのか?
 本作は、ほとんど俳句の境地である。
     〔答〕 みんなみの勝鬨橋の脚間から湾岸が見ゆ遠花火見ゆ  鳥羽省三


(今泉洋子)
    生の幕いつかは降りる寂しさよ酔芙蓉散る白きゆふぐれ

 「生の幕いつかは降りる寂しさよ」という上の句に、「酔芙蓉散る白きゆふぐれ」という下の句は、いくらなんでも、<付き過ぎ>ではないでしょうか?
 それに、「寂しさよ」などと言わずに、「生の幕いつかは降りる」などとも言わずに、「酔芙蓉散る白きゆふぐれ」の持つ寂しい雰囲気は、出せないものなのでしょうか?
 お題の「幕」から解放して、一首を成すべきではないかと、私は思いました。
 口が過ぎたらお許し下さい。
     〔答〕 頭髪を薄紫に染めてみる酔芙蓉散る白き夕暮れ  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    開幕のベルは優しく如月のふたりの耳を湿らせてゆく

 「如月」は、一年中でいちばん空気が乾燥する季節。
 だから、彼と彼女の耳の辺りもカラカラ。
 そのカラカラの「ふたりの耳を湿らせてゆく」のだから、「開幕のベルは」はあまりにも優しい。
     〔答〕 ステージで安田姉妹が歌ってる 「春は名のみの風の寒さよ」  鳥羽省三


(理阿弥)
    厨房で煮え立つような剣幕のシェフが地団駄 けむりがでてた

 スタッフの一人の見習い青年が、甘鯛の煮付けの砂糖加減を間違えたのかな?
 <板前>と呼ばれていた頃の彼らは、弟子たちの頭をよく殴ったものだが、「シェフ」と呼ばれるようになってからの彼らは、弟子の頭はおろか、尻を殴ることさえ止めた。
 その代わり、彼らは「地団駄」を踏む。
 出入りの魚屋の持って来た上トロ鮪の油の乗りが悪いからといって「地団駄」を踏む。
 若女将のものの言い方が生意気だからといって「地団駄」を踏む。
 禿げ上がった頭から「けむり」を上げて「地団駄」を踏む。
 スタッフの者たちにとってはそれが堪らない。
 剥げ頭の「けむり」と「地団駄」の音が堪らない。
     〔答〕 黄昏の厨の隅から煙(けむ)が出た 火元は何処だシェフの頭だ  鳥羽省三 


(佐山みはる)
    暗幕のしきりにゆれて隙間より幼なつぎつぎ小走りに出づ

 幼稚園の学芸会風景でしょうか?
 いよいよ、年少さんのお遊戯。
 舞台の袖の「暗幕」が「しきりにゆれて」、その「隙間」から、「幼な」たちが、「つぎつぎ」に、「小走り」しながら、舞台に登場しました。
     〔答〕 「まん中の可愛いあの子が美莉ちゃんだ」「私の孫は遊戯も上手」  鳥羽省三


(湯山昌樹)
    文化祭の日までわずかに二週間「稽古不足を幕は待たない…」

 新聞販売店を営む私の甥・Mの連れ合いのお名前はK子。
 K子さんは、花柳○○というお名前の、日本舞踊のお師匠さんでもある。
 K子さんは多趣味なので、踊りの発表会が近づいても、他の用事で出歩いて、碌々稽古もしない。
 そこで、その亭主のMの口癖は、「稽古不足を幕は待たない」「だからK子よ、外出を止めて稽古しろ。さもなくば、お弟子さんが逃げてしまうぞ」
 そのK子さんに、もう一つ別の意味で、「K子不足、K子不足」と言っていたのは、私の姉の亭主にして、K子さんの舅でもあったS。
 そして、Mの父親の連れ合いにして、K子さんの姑でもあり、私の姉でもあるAは、直接、「K子不足」を口にこそしないが、心中では亭主と同じ思いらしい。
  「K子不足」が口癖であった義兄が数年前に成仏し、その連れ合いも亦、この八月末、亭主の待つあの世へと旅立って行った。
     〔答〕 道行の稽古不足のまま逝った 黄泉路の鴛鴦道中いかが?  鳥羽省三  

一首を切り裂く(044:わさび)

(近藤かすみ)
    ギヤマンのつゆの器のうちがはをつうと落ちゆくわさび さみどり

 「つゆの器」とは<蕎麦猪口>のこと。
「ギヤマンの」とあるから、その<蕎麦猪口>は<ガラス製の蕎麦猪口>である。
 一首の意は、「ガラスの蕎麦猪口の内側をつうと滑り落ちて行く山葵。その山葵は鮮やかなさみどり色でとても美しい」といったところか?
 「わさび」と「さみどり」の間の一字空きを無視してはならない。
 「つゆの器のうちがはをつうと落ちゆく」と、<つ音><ち音>の五連続が耳に心地よい。
それから、これは、作者の近藤さんとしても、想定外のことではありましょうがもうひと言。
 「つうと落ちゆく」の「つう」から、私は、木下順ニ作の戯曲『夕鶴』に於いて、山本安英さん演じる、ヒロインの「つう」を思い出しました。
 「つうと落ちゆく」、─── 己の欲望が因を成して、愛妻<つう>を失ってしまった後の「与ひょう」の生活はどうなり、彼は何処に落ちていったのでしょうか。
 <つう>が去って行った夕空に向かって、「つう」「つう」と呼び掛けていた、彼・与ひょうの姿が、まざまざと思い起こされました。
      〔答〕 朝捕れの刺身の皿に添へられて山葵さみどり湯ヶ島の宿  鳥羽省三
          かりそめの幸に酔ひ痴れ「つう」と呼び「つう」と堕ち行くをとこのあはれ  同

(あみー)
    薬味など辞めて独立するというわさびはきっと前途多難だ
 
 こちらはまた、自由奔放な「わさび」くん。 
 私の知人の経営する山菜レストラン<碌さん>の人気のメニューは、安曇野直送の新鮮な山葵を用いての、「お刺身風スライスわさび」に「花わさびの胡麻和え」など。
 これらのメニューでは、「わさび」がただの薬味であることから脱却して、一人前の立派な食材になっている。
 だから、「わさび」くんの「独立」は、あながち「前途多難だ」とばかりは言えません。
      〔答〕 為せば成る為さねば成らぬ何事も茄子のならぬは芽欠き不足だ。  鳥羽省三


(jonny)
    わさびでも唐辛子でも入れてくれ どんなジョークも受け止めてやる
 
 <jonny>さんお得意の開き直り。
 さぞかし辛口のジョークが飛んで来るかと思いきや、「相変わらずの出来栄えです。あなた様は、今や、インターネット短歌界の至宝(いや、痴呆)です(jonnyへの伝言)」などと外されてギャフン。
     〔答〕 草鞋でも破れ傘でも入れてやれ今夜は闇鍋<jonny>に喰わそ  鳥羽省三


(西中眞二郎)
    わさび田に吹く風涼し安曇野の夏限りなく緑に染まる

 安曇野を旅したのは、十数年前の夏の日のこと。
 大王わさび農場の三連水車と、碌山美術館の静寂と、道端の道祖神と、それに名前は忘れたが、軒先に風鈴を吊るした硝子工房も訪ねた。
     〔答〕 安曇野の旅なつかしき道端の道祖神らも手を携えて  鳥羽省三


(わだたかし)
    「スイマセン、わさび抜きで」と堂々と言えるオトコに成長したい

 「わさび抜き」は子供のお寿司。
 なのに、「『スイマセン、わさび抜きで』と堂々と言えるオトコに成長したい」とは、なんという、ふざけた<成長願望>であることか。
 そのパラドックスが、堪らなく面白い。
 「スイマセン」にも幾通りかあるし、「成長」にも、いろいろある。
     〔答〕  「すいません、六百円なら吸わない」と言える男になりたい僕は  鳥羽省三
 <わだたかし>さんよりは、鳥羽省三の方が、よほどまともだ。


(久哲)
    じゃんけんで無敗を誇る沢蟹がイチクボさんのわさび田にいる

 またまた、まともでない人の歌を目にしてしまった。 
 「イチクボさんのわさび田」の所在地は、安曇野ですか?天城ですか?
 それにしても、この「じゃんけん」の相手は間抜け。
 チョキしか出せない「沢蟹」との勝負なら、グーを出し続けたら連戦連勝なのに。 
     〔答〕 かど番で陥落真際の大関がここ一番の奥の手を出す  鳥羽省三
 「奥の手」とは、あの奥の手。
 四十八手以外のあの手。
 <無気力相撲>などという曖昧な言葉でごまかして、彼を大関の座に置いている、相撲協会もまともではないのでしょうか?


(柚木 良)
    ぴかぴかに磨いた部屋でひからびたわさびを握りトラックをまつ

 引越し荷物を残らず玄関先に出し、床から天井まで部屋中をぴかぴかに磨き上げ、後は、<アート引越しセンター>のトラックの到着を待つだけ。
 「ひからびたわさび」は、きっと冷蔵庫の下にでも転がっていたのでしょう。
 声を上げて泣きたい夜もあった。
 この部屋での三年間の暮らしのことを思えば、この「わさび」にも、ひとしおの愛情が感じられてならないのだ。
 「わさび」も「ひからびた」が、私の涙も干乾びた。
     〔答〕 開け放つドアからの風涼しいね綺麗さっぱり忘れてUターン  鳥羽省三


(蓮野 唯)
    粉わさび捏ねる係に指名され涙こらえてボール抱える

 町内会の秋祭りの一コマか?
 そう言えば、作者のお住まいになられる県の隣県で、あの「カレーライス殺人事件」が起きたのも、町内会の秋祭りの時ではなかったっけ。
 容疑者として逮捕されたのは<カレー係>の主婦。
 同じく主婦の蓮野さんは「粉わさび捏ねる係」。
 その気になれば、チャンスはいくらだってあるよね、蓮野さん。
 でもねー、まさかねー。
 あれあれ、蓮野さんは、「涙こらえて」「ボール」なんか抱えているよ。
 あの様子では、「今日のメインの三輪そーめんのお汁に毒が入ったいた」なんてことにはならないな。
 パン屋がつぶれて昼飯抜きだったから、蓮野さんの「捏ね」た「わさび」を効かして、もりもり食べよう三輪ソーメン。
     〔答〕 「粉わさび捏ねる係」の監視役に任命されて食べる暇なし  鳥羽省三


(暮夜 宴)
    泣いたのはみんなわさびのせいだからもうかっぱ寿司なんか行かない

 作者は、字余りの破調を好むお方らしいが、「泣いたのはみんなワサビのせいだから河童寿司には二度と行かない」では、駄目なのかしら?
     〔答〕 宴会の盛りも過ぎたその暮夜にあの娘(こ)誘って出掛けた寿司屋  鳥羽省三
         泣いたのはワサビなんかのせいじゃないみんな貴方が悪いの 今夜  同


(五十嵐きよみ)
    気の抜けたわさびのような皮肉しか言い返せずによけい悔しい

 「気の抜けたわさびのような皮肉」にも、辛味は無いが色気はあるはず。
     〔答〕 気の抜けたビールのような歌詠んでゴマカス気かな五十嵐さんは  鳥羽省三
 
    
(磯野カヅオ)
    ヒンドゥの酷暑は若き日々に似て冷たいそばにわさび効かせり

 「ヒンドゥの酷暑は」とあるが、これは、「ヒンドゥ教寺院での酷暑に苦しんだ日々は」といった意味であろうか。
 或いは、「ヒンドゥ教の厳しい戒律は」の意味であろうか。
 もし、前者だとすると、一首の意は、「ヒンドゥ教寺院での酷暑に苦しんだ日々の生活は、日本での若い頃の私の生活に似ていて、例えば、あの冷たい蕎麦にわさびを効かせて食べる、といったような、パンチが効いて、刺激に満ちた生活であった。」とかなんとか。
 もし、後者だとすると、「ヒンドゥ教の戒律は、私が若い時に毎日食べた蕎麦の味に似て、ワサビが効いていて、かなり厳しかった」といった意味になろうか?
 磯野カヅオ氏の作品は、相変わらず難解。
 解ったようで解らない。
     〔答〕 満州の日々は凍えて口を閉じ流行唄(はやりうた)さえ歌わなかった  鳥羽省三
 磯野カヅオ氏の作品に較べれば、この鳥羽省三の返歌の素直さは、まるで汚れ無き少女の歌う唱歌のようだ。


(月下燕)
    初対面の男の人がことわりもなしにわさびを醤油にとかす

 中華街でのお月見の宴での出来事でしょうか?
 その「初対面の男の人」とは、円形テーブルを囲んでの相席だったんですね。
 いくら相席でも、いきなり誰に「ことわりもなしに」、「わさびを醤油にとかす」なんて失礼ですよ。
 それに、中華料理にわさび醤油なんて。
     〔答〕 初対面の女子高生にキスされた それもいきなりことわり無しに  鳥羽省三


(南 葦太)
    蕎麦つゆにわさびを溶かすことの意味 刺身醤油に溶かさない意味

 テレビのグルメ番組などでは、せっかくの特上の本マグロのトロに刺身醤油をちょっと付けて、その上に溶かさないままのワサビを少し載せて食べていますね。
 それから、食べ終わるや否や、きまったように深刻顔して、「うーん」とうなったりして。
 でも、そうした気取った作法には、フォークの上にライスを載せて食べるほどの意味も無い、と私は思っています。誰が何と言っても。
     〔答〕 おそらくは魯山人らの悪巧み溶くも溶かぬも僕らの勝手  鳥羽省三 


(虫武一俊)
    「もうええわさびしい老後やろうけど長所の捏造なんてできひん」

 近頃は、<茶飲み友達>とかと言って、還暦を過ぎた男女が結婚することが多いと聞く。
 この場合の男女とは、勿論、生き別れか死に別れかは別として、或いは、最初から独身だったりして、お互いに配偶者を持っていない男女のことである。
 本作は、そういうことで、いったんは再婚を決意した高年齢の男性が、再婚に至るまでのさまざまな手続きを面倒に感じて、せっかくの決意を枉げるに至る心境を詠んだものである。
 再婚の手続きに入るには、お互いに履歴書めいたものを交換しなければならない。
 その履歴書めいたものには、「(自分の)長所」を書く欄がある。
 この男性は、この欄を埋めることが出来ないのである。
 自分には、「長所」と呼べるものが無い。
 「長所」が無いのに、「長所」の欄を埋めるには、「長所」を「捏造」するしか方法がない。
 その男性には、それが出来ないのである。
 だから、せっかくの決意を枉げて、再婚を諦める。
 この一首、「もうええわさびしい老後やろうけど長所の捏造なんてできひん」は、笑うに笑えない悲喜劇である。
     〔答〕 「もういいよ。このレポートは出せないよ。だから進級、僕あきらめる。」  鳥羽省三
 こんな手合いの怠け者の生徒を、長い教員生活の中で、私は、いったい幾人、なだめすかして進級させたことであろうか。


(今泉洋子)
    わさびまでひとつに数へ目標の三十品目けふも喰ひたり

 何処の何方が言い出したことなのか?
 「人が健康に生きるには、一日、三十品目を食べなければいけない」と。
 近頃は、「一日三十品目」という名称のサプリメントまで売られていると聞く。
 そこで、私も、今朝の食事から、小昼、昼食、お三時、夜食と、自分の食べた品目を指折り数え上げてみたが、三十品目にはとうてい足りない。
 それとは別に、私は、「一日一万歩」を目標にしている。
     〔答〕 トイレでの足踏みまでも数え上げ今日の歩数は八千二百  鳥羽省三

  
(櫻井ひなた)
    ピーマンとわさびはクリアとりあえず大人認定初級合格

 「ピーマン」を食べない子供が多いと聞くが、私は、人参・南瓜・馬鈴薯などの芋類を好んで食べる人の気が知れない。
 生きる為に仕方なく食べる、と言うのならともかく、あんな、牛馬の飼料にでもすればいいものを、「美味しい、美味しい」と言って食べるやつが私と同じ人類である、とは思いたくもない。
     〔答〕 人参と南瓜はとうとう食べられずそれでも大人まもなく<古稀>だ  鳥羽省三


(tafots)
    ステーキをわさび醤油か味噌で食う妹流儀を父も真似出す
 
 それぞれの家庭には、それぞれの流儀が在って、他所から訪れた者は、急にはそれに馴染めない。
 かく言う私は、他人の奥方たちの調理した、お手作りの料理が苦手で、その為に、親戚の家などに行っても、そうした類の物は一切口に入れない。
 そうしたことで、数年前、結婚して新居を持った長男宅を訪問した折、長男の嫁は、「お父さんは、私の作った食べ物を、全然食べてくれない」と言って、急に泣き出した。
     〔答〕 とんかつに味噌を塗(まぶ)すは名古屋流 妻は好むが俺は嫌いだ  鳥羽省三


(市川周)
    パンの耳わさび醤油で食べてみる(ひいらぎ荘は日々こともなし)

 昨年、東京の東隣りの県の街で仮住まいをしていた時、パン屋の経営者の男性から、「私の店で大量に出るパンの耳は、この近所の縫製工場に研修生として中国から来ている人たちが買って行くから、直ぐに無くなる」という話を聞いた。
 今は昔、私が東京で学生生活をしていた頃、パン屋で一袋十円で買える「パンの耳」は、私たち貧乏学生の、格好の食物であり、それを買って来て、買い置きのマーガリンを塗って、昼食代わりにした。
 その美味しく大事な「パンの耳」を、近頃では食べる者がほとんど居なくなり、本作の作者の<市川周>さんご一家などは、そのうちに、<絶滅危惧生物>に指定されるに違いない。
     〔答〕 ミルミルにわさび醤油を加えてる(ひいらぎ荘は今日も辛口)  鳥羽省三


(佐藤羽美)
    幻影のドアが開きぬゆっくりと水田わさびの黒目の奥に

 お題の「わさび」を、食物のそれとして処理せず、「黒目」の女性<水田わさび>として詠んだのは、いかにも才女・佐藤羽美さんらしいアイデア。
 佐藤羽美さんは、私が密かにライバル視している、新鋭女流歌人。
 私が年齢も考えずに某短歌誌の「短歌新人賞」に応募し、最終選考通過作まで残った時、彼女の作品も亦、私と同じ最終選考通過作として、その短歌誌に掲載されていた。
 そこで私は、密かに、彼女を私自身のライバルとして注目していた。
     〔答〕 <水田わさび>主演ドラマに脇役で今日も出てます鳥羽省三は  鳥羽省三


(bubbles-goto)
    造反という言葉あり生醤油にわさびの山が崩されてゆく

 <謀反>と言えば、明智光秀の昔から聞き慣れているのに、インテリたちは持って回って「造反」などと仰られる。
 「造反有理」という言葉が、マスコミで盛んに使われていたのは、<紅衛兵>などという、ヒットラーユーゲント紛いの少年たちが、彼の国で暴れ回っていた頃であったろうか? 
     〔答〕 背反という言葉あり豆板醤かけて氷の天麩羅食べたい  鳥羽省三


(橘 みちよ)
    休日の前夜たのしも「わさび味かきのたね」食む今夜(こよひ)つまみに
 
 「休日の前夜」、「わさび味かきのたね」を「つまみに」して、<橘みちよ>さんは、どんなお酒をお召し上がりになられるのでありましょうか。
 お相手させていただきたいね。
     〔答〕 体調のいい夜許され<チョウヤ梅酒>コツプ一杯飲むのが楽しみ  鳥羽省三


(酒井景二朗)
    納豆にわさびを入れる冒險をしようよ 夏が終つてしまふ

 「冒険」にもいろいろある。
 次女の美莉ちゃんを「初めてのお買い物」に行かせるのは、私の長男の嫁の冒険。
 彷徨(方向でもある)音痴の連れ合いを東京・銀座の三越に行かせるのは、鳥羽省三の冒険。
 民主党に国家の舵取りを委ねるのは、私たち国民の冒険である。
     〔答〕 納豆に砂糖を入れて食べたいな今年の冬は秋田で冒険  鳥羽省三


(花夢)
    そのむかし祖父が好んだわさび抜きお寿司のなかにひそむ哲学

 お年を召された方々の為される事や、仰られる言は、何かにつけて示唆に富んでいる。
 そういうわけかあらぬか?
 昨今は、インターネツトのホームページの中にも、「おばあちゃんの知恵袋」といった類のタイトルを持ったのが幾つも見受けられる。
 そこで、つい先刻、その一つをクリックしてみたら、何と驚いたことに、そこに現れたのは、某風俗店の宣伝だったのだ。
     〔答〕 今は昔、舌切雀の爺さんの小さな葛篭(つづら)の語る哲学  鳥羽省三  


(松原なぎ)
    唐辛子わさびにからしトウバンジャン君をいためる用意をしよう

 「いためる」にも幾通りか在るが、本作の「いためる」は、「炒める」であると同時に、「痛める」か「傷める」の掛け言葉。
 まさか「悼める」ではないだろう。
     〔答〕 お位牌に木魚に鉦にお線香 君を悼める仕度は出来た  鳥羽省三


(天鈿女聖)
    大量のわさび醤油が残ってるみたいな私は結婚できない

 「大量のわさび醤油が残ってるみたいな私」という表現には、それなりの現実感と説得力が感じられる。
 そんな貴女なら、やはり、辛気臭くて、ばば臭くて、残り物臭くて、誰も振り向かないでしょう。
 だから、いっそ、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、
     〔答〕 大量のわさび醤油を捨てなさい天の岩戸でダンスも踊れ  鳥羽省三


(沼尻つた子)
    さび抜きのびんとろ回る わさびから抜かれたわの字の行方を思う

 春画や春本を意味する、<わじるし>という言葉は、私にとって日常語であるが、「わの字」という言葉はほとんど聞かない。
 そこで思うに、蕉風俳諧の<わび・さび>の「わび」とは、「わさび」から「わの字」を抜いた言い方なのであろうか?
 もし、そうならば、前掛け掛けた板さんの飛ばす、「中トロのさび抜きいっちょう」というセリフは、なかなかに芸術的な言い方ではある。
     〔答〕 転居の折<書肆・中嶋>に売って来た<わじるしの>行方この頃思う  鳥羽省三
         板無しの<板わさ>廻る 蒲鉾を乗せてた板は表札になる          同 


(珠弾)
    ワンポイントでわさび投入 切り札のタバスコ投手につなぐ形を
 
 監督の采配が見事に的中して、<1対0>で珠弾チームの辛勝。
     〔答〕 代打者の辛味だいこん大根切り 見事三振ゲームセットだ 


(みなと)
    親しくはなかったひとの追悼とつゆにわさびを多めに入れて

 「そうして、ご遺族の前で涙を流して見せ、ご香典の少なさを誤魔化そうとでも言うんですか?」
 「少し辛気臭くはないですか?」
 「でも、お清めの蕎麦は、お焼香が済んでからいただくものですよ。いくら涙を流してみても、もう、間に合いませんよ。」
     〔答〕 ついでにと、催涙弾をぶっ放しみんな泣かせる手もあるじゃない  鳥羽省三


(一夜)
    蕎麦つゆにたっぷりわさび溶かし入れ 痛い辛さを醍醐味と呼ぶ

 <一夜漬け>で覚えた知識をやたらにひけらかしてはいけない。
 「醍醐味」とは、「①醍醐の味、美味の最上のものとされ、仏の教法の形容とする。 ②素晴らしい味わいの食物。 ③ほんとうの面白さ。深い味わい。神髄。」と『松村明編・大辞林』は説く。
 序でに、同辞書の「醍醐」の項目を参照すると、「『仏』 五味の一。牛または羊の乳を精製した濃くて甘いとされる液汁。味の最高のものとされる。」とある。
 暇人であることをひけらかすみたいで申し訳ないが、自分自身の勉強の為、ぶ厚い辞書をひもといてみた。
     〔答〕 拠って知る、ヤクルトなどの乳酪の味をば指して醍醐味と言う  鳥羽省三


(お気楽堂)
    本わさび買うわけでなし鮫皮のわさびおろしを諦め切れず

 「鮫皮のわさびおろし」には、本来の用途以外に、次のような使い方もあるのでご注意を。
 「諦め切れず」に追っかけ廻すと、見事に嵌って、麻薬中毒になったりしますよ。
     〔答〕 鮫皮のわさびおろしで爪磨く女が誘う無間地獄よ  鳥羽省三


(本田鈴雨)
    ざる蕎麦のつゆにわさびを溶かす夏わびさびを知る少女となりき 

 「わさび」から発し、蕉風の「わびさび」に至るのは、さすがの<鈴雨>宗匠。
     〔答〕 炬燵(おこた)にて吟醸を酌む冬の夜に無理矢理飲まされ女となりぬ  鳥羽省三


(紫月雲)
    さびしいわさびしいわって言えるならいいのだろうか男性諸君

 何がさびしいのか、知ってるかい、諸君。
 月に群雲。花に雨。
 この世のことの全ては、決して、予定通りには運ばないのだ。
 だから、このさびしさは、己の全存在から来るさびしさなのだ。
 「実存」としてのさびしさ。
 いや、実存しないことに拠って生じるさびしさかも知れない。
     〔答〕 「悔しいわ!悔しいわ!」って云うだけで済むのだろうか?国民諸君


(キヨ)
    もう一度「ふにゃあ」って言わせるためだけにわさびを求めて長野に行くこと

 「ふにゃあ」とは、踏み甲斐の無い何かを踏んだ時に感じる感覚を表わす擬態語。
 そこで私も、その「踏み甲斐の無い」の「甲斐」に因んで、
     〔答〕 もう一度「キモイ」と言わせる目的で<ほうとう>食べに山梨に行く  鳥羽省三


(小林ちい)
    つんとしたところもいずれ癖になる わさびガールと呼んで頂戴

 「住めば都」、「惚れて通えば痘痕も笑窪」とも言う。
 ところで、同程度の価格の<チューブ入りわさび>でも、<S&B>のはあまり「つん」と来ない。
 嗅いで直ぐに「つん」と来るのは<ハウス>のチューブ入りわさび。
     〔答〕 つんとしたところはいずれ嫌になる<ハウスのわさびガール>使い捨て  鳥羽省三


(兵庫ユカ)
    切るとまだすこし凍っているちくわさびしいというよりはたのしい

 音数もぴたり。
 兵庫ユカ運動大成功。
 <ウルトラQ>の三回転全身捻りの超難度技ででピタリと着地。
      〔答〕 脱ぐと未だ私寒いわさびしいわ春まだ浅きペンション播磨  鳥羽省三


(空山くも太郎)
    わさびって題でもやっぱり君のこと詠もうとしているぐらい好きです

 それは、愛情に起因するものではなく、才能の枯渇に起因するものでしょう。
 どうせから、これくらい飛ばしてみたら。
     〔答〕 わさびって題でもやはり生姜のこと詠んでしまった生姜大好き  鳥羽省三


(鯨井五香)
    アボカドの種のくぼみをエスビーのわさびで埋めていいひとのふり

 「いいひとのふり」が効いている。
 更に言えば、同じ<わさび>でも、ハウスのよりエスビーのが<つん>と来ないから、その分だけ、彼への愛情が深いとも言える。
 でも、その程度の小細工で、「いいひとのふり」が出来るんですか?
     〔答〕 推して知る、アボガト刺身は連れ合いのオリジナルではないということ


(勺 禰子)
    とりわさは何故にとりわさびといはぬ行方不明の「び」を思ひ食む

 同工異曲とも思われる作品が数首ありましたが、それらの代表として選びました。
 <句割れ、句跨り>の技法が、一応、成功していると判断されたからである。
 短歌作法の常道の「五・七・五・七・七」に乗っ取って音読すれば、「「とりわさは・何故にとりわさ・びといはぬ・行方不明の・『び』を思ひ食む」となるが、意味を重視して句分けすれば、
    とりわさは
    何故にとりわさびといはぬ
    行方不明の「び」を思ひ食む
という、三行詩になる。
     〔答〕 蒲鉾にわさびを添えて<板わさ>と呼ぶことよりはいくらかましだ  鳥羽省三
         <板わさ>の場合は「び」が無く「板」も無い<板わさ>よりはかなり単純  同
         <板わさ>を食うとき我はふと悩む板が無いのに何故に板わさ?  同

一首を切り裂く(043:係)

(久哲)
    ペンギンは飼育係と連れ立って喫煙室に帰国しました

 本作は、あの塚本邦雄の著名な作品、「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」を頭に置いて詠んだものであろう、とは、一応は思われる。
 だが、それは、ほんの見せ掛けに過ぎず、作者・久哲氏の言わんとする、本作の内容は、いたって簡単、つまり、「それまで、ペンギンショウの主役を演じて子供たちを喜ばせていたペンギンが、その飼育係と連れ立って、ステージ裏に引っ込んでしまいました」というだけのことに過ぎません。
 それなのに、<ステージ裏に>を「喫煙室に」と言い換えたり、<引っ込んでしまいました>を「帰国しました」と言い換えたりするのは、彼・久哲氏の素直でないところであり、憎めないところでもあります。
 あの久哲氏のことだから、このような、持って回った言い方をするのが、歌人の歌人たる所以だ、などと不遜なことを考えているかも知れません。
 でも、評者の鳥羽省三は、久哲氏のそうしたご性格を軽蔑しつつも、深く敬愛してもいる。
 故に、久哲氏を弁護して言えば、ペンギンと連れ立って飼育係が引っ込んで行った<ステージ裏>は、飼育係らの「喫煙室」を兼ねているのかも知れません。
 また、その喫煙室を兼ねたステージ裏に彼らが引っ込んでしまったことを、久哲氏が、「帰国しました」と言ったのは、ステージを去る時の彼らの動作と表情が、まるで、巨人の助っ人・マルチネス選手がシーズンオフになって故国に帰国する時のように、大袈裟であったからなのかも知れません。
 と、弁護してみてもそれだけのこと。
 したがって、この作品を、「塚本邦雄作品の<本歌取り>の歌だ」などと構えて読む必要は、さらさらにありません。
     〔答〕 暇人の久哲さんが出でて行く、喫煙室に行くのでしょうか?  鳥羽省三 


(髭彦)
    <分かれ目>と涙でひとの歌ひ来しはたと気づかむ係り結びと

 髭彦氏作のこの一首を、私が無難に観賞出来るのは、私が過去に於いて、次に述べるような体験を持つ者であるからに違いありません。
 卒業式を前にした私の勤務校の職員室は、昨日、卒業生たちの討議に依って今年度の卒業式の<式歌>に決定した、唱歌『仰げば尊し』についての話題で盛り上がっていた。
 国語教師某曰く、「<思へばいと疾し><この年月>の<いと疾し>を、私のクラスの生徒たちは、その意味を知らないもんだから、<おととし>などと歌っている。明日、練習前に、意味を教えて、改めさせなきゃー」。
 校長曰く、「<いまこそわかれめ>の<わかれめ>とは、<ここが勝敗の分かれ目>などと言う時の<分かれ目>なんだよね。卒業式は、卒業生と在校生の分かれ目であり、卒業生と恩師との分かれ目でもあるから」。
 かく云う校長は、書道家として県連盟の会長を務めた人物であるが、かつては、国語教師として、教壇に立った経験を持つ者なのである。
 当該の高校は、その頃、雨後の筍のようにぞくぞくと生え出た、新設校・底辺校ではありません。。学区のトップ校として、世間に名の通った高校なのであります。
 笑うに笑えない話ではありますが。
     〔答〕 「別れめ」を「別れ目」と云う校長は、<係り結び>を知るや知らずや  鳥羽省三  


(井手蜂子)
    うさぎからはじまり今は伯父の身体拭くわたしはずっといきもの係

 私が知っている三人組の音楽グループのバンド名は、「いきもの係」ではなく、「いきものがかり」である。
 彼のグループのバンド名は、「メンバー中の水野良樹と山下穂尊の二人が、小学生時に<生きもの係>であったことに由来する」と聞く。
 「うさぎからはじまり今は伯父」が、本作の<分かれ目>ならぬ<利き目>。
 作者の井出さんにお尋ねしますが、この一首を、「うさぎから始まり今は伯父を拭くわたしはずっといきもの係」としたら、いかがなものでしょうか。
 作者の井出さんとしては、三句目の字余りは、どうしても必要なんでしょうか。
     〔答〕 冬物のラシャ地に始まり今は絽だ 妻はワンコの衣装係だ  鳥羽省三  


(磯野カヅオ)
    遠慮など微塵も見せぬ福耳の持込荷物検査係よ

 「持込荷物検査係」が「遠慮」などしていたら、たちまち「ダグラス機乗っ取り事件発生」と相成る。
 「福耳」のあの「検査係」も共犯と疑われ、たちまちご用。
 各々方、ご用心なされ。遠慮など微塵も要らぬ。
 とは言え、いつものことながら、さすが磯野カヅオさん。
 余人とは着眼点が違うね。
     〔答〕 油断など微塵も見せぬターバンの男はサリバン乗っ取り犯だ  鳥羽省三
         手抜きなど微塵もしない磯野さんいつもながらの見事な歌だ    同

一首を切り裂く(042:クリック)

(陸王)
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 久しぶりです。かつては陸王を轟かせて日本中を駆け回っていた私でしたが、この数ヶ月、病床に臥し、ブログの更新もままならぬほど憔悴しておりました。
 健康状態はイマイチですが、思い立って今日から更新を再開しました。陸王さんのブログも拝見し、「拍手」ボタンのクリックもさせて頂きました。どうぞ、また宜しく。
     〔答〕 訪(と)め行きて[拍手]ボタンを押しにけり陸王さんのブログ懐かし  鳥羽省三


(星野ぐりこ)
    「今すぐにココをクリック!」ばかり言う女にろくな奴はいません

 「星野ぐりこワールド」も健在でした。相変わらずの大胆なエロティシズムは、病み上がりの私には少しきついようですが、そのうちにきっと慣れることでしょう。
 「ここ」とは<あそこ>のことかしら、 「~~ばかり言う女」とは、他ならぬ星野ぐりこさんのことかしら、などと様々に想像を膨らませて、ひさしぶりに「星野ぐりこワールド」の気分に浸らせていただきました。
 これからも宜しく。
     〔答〕 セロハンを破ればオール剥き出しで星野ぐりこのおまけはすごい  鳥羽省三


(穴井苑子)
    クリックしてねって響きでなんとなくクリックしたくなっちゃうしくみ

 試みに、穴井さんのブログ「猫のように純情」を訪問したら、<拍手してねっ>という「しくみ」にはなっていましたが、「クリックしてねっ」という「しくみ」にはなっていませんでした。
     〔答〕 クリックをねだるしくみのブログには碌な情報載っていません  鳥羽省三


(只野ハル)
    チョット待て そのクリックで 人生が 狂ってしまう 考え直せ

 その昔、三原山の火口に「チョット待て」という書き出しの立て札が立っていたそうです。インターネット上では、振り込め詐欺顔負けの悪巧みが行われていて、「なんとなくクリック」してしまった人々を、底知れない落とし穴に嵌めてしまうのですね。 
     〔答〕 チョット待てその一押しが善良なあなたを地獄の底にいざなう  鳥羽省三 


(久哲)
    かたつむりクリックしたら取れちゃった非常口から緑の人が

 久哲短歌は、相変わらず難しそうで難しくない。
 解らなそうでよく解る。
 上句と下句との関係も、「ありそでなさそでありそで」。
 歌人久哲は、徹頭徹尾感性の人なのである。
 感性を磨くのは宜しいが、慣性という陥穽に陥らないように。
     〔答〕 かたつむりフランス語ではエスカルゴ漢字で書けば蝸牛(かぎゅう)ともよむ  鳥羽省三


(あみー)
    繊細なマウスさばきがたまらない クリックすると拡大します

 PC用語のマウスの原義は、ハツカネズミの意の「MOUSE」であろうが、本作の作者の<あみー>さんは、そこを意図的に「口」を意味する「MOUTH」と曲解されたのであろうか? 
 繊細かつ濃密なマウスさばきでやられたら、どんな○○だつて、たちまち拡大し、怒張し、噴出させてしまうに違いない。
 男性か女性か定かではないが、本作の作者の<あみー>さんはかなりいけない人だ。
 こういう人とお友達になってはいけない。
     〔答〕 繊細なマウスさばきはたまらない あみーアミーゴなむあみだぶつ  鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
    クリックの果ての世界を知らざりき少年けふも鹿の肉裂く

 マウスさばきもクリックも知らないで、栗を拾い鹿の肉を裂いていた頃の人類が慕わしい。
 今となっては叶わぬ夢だが。
     〔答〕 おとといの木の芽田楽旨かった木綿豆腐に山椒味噌の  鳥羽省三


(水口涼子)
    投稿のクリックすればその刹那推敲案が浮かぶ悲しさ
 
 それもそうですが、「推敲案」であれ何であれ、ネット短歌に反応を寄せて下さる人は極めて親切にして奇特な心掛けのお方です。
 その典型とも言える、この私が申し上げるのもなんですけれど。
     〔答〕クリックし投稿すると反応がいつもあるなら嬉しいけれど  鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
    やみくもにクリックしても開かない隠しファイルが心の隅に

 五十嵐さんの手にかかると、こんなハイレベルの作品が、いとも簡単に出来てしまうから悔しい。
 ここは潔く白旗を揚げておこう。
     〔答〕 やみくもに叩いてみても開かない歌人きよみの心の扉  鳥羽省三

一首を切り裂く(041:越)

(イマイ)
    越える気ははじめから無く伝票を大きな音で捲り続ける

 「越える」の対象は、MS銀行本店のエリート営業部長とその女性秘書との、上司と部下との男女一線か?
 どこでどう自信をつけたのか、近頃は、取締役、いや、その頂点の頭取の椅子までも狙って、密かに策謀をめぐらしているイマイ部長にとって、小生意気で少しばかり美しいだけの小娘との火遊びなどは、「はじめから」ものの数ではない。
 「君と僕との昨夜の出来事は、ただのゲームに過ぎないよ。」と言わんばかりに、先程から「大きな音」をたてて「伝票を」「捲り続ける」ばかり。
 いやいや、主人公の<イマイ>氏を、巨大銀行のエリート部長に見立てるなんて、病み上がりの鳥羽の見立て違い。
 <イマイ>氏は、羽田界隈の町工場のオヤジに過ぎない。
 剥げ頭でケチで助平な中年男なのだ。
 したがって、「越える」べきなのは、男女の一線などではなくて、わずか五人しか居ない従業員への給料の支払いと、城南信用金庫への借金の支払い期日なのだ。
 この構造不況の最中、彼は、その二つの負債の支払い責任を果たす気など「はじめから無く」、さきほどから、事務兼掃除係りのパートタイマー嬢の前で、これ見よがしに「(出金)伝票を大きな音で捲り続ける」だけなのさ。
 パートタイマー嬢と<イマイ>氏との間に、愛憎関係があるかどうかは、私の関知しないところである。
 余談ではございますが、何事でも、一線を越えることは当事者以外には語ることが出来ないほど困難なことと思われます。
 私の連れ合いの妹の愛犬<クロ助>は、何かある時、庭の一角に円形の線を引いて、「いいですか、クロ助。この線よりこっちに出たら、おやつを絶対にあげませんからね」と、飼い主が言うと、お許しが出るまで、絶対にその線より外に出ることがないのだそうです。
     〔答〕 はじめから越える気は無く勝家は栃の木峠の絵図に見とれる  鳥羽省三
 
 作中の「勝家」とは、織田信長の家臣・柴田権六勝家。少し気取って、戦国の合戦絵巻を題材にして、お返しの歌としました。 


(jonny)
    さわやかに追い越してゆくチャリンコはこの春からの制服少女

 百キロの大台を越えんとする巨体を持て余しがちな<jonny>氏と氏の巨体を乗せた哀れなママチャリ。
 そうした邪魔者を巧みにかわしながら、多摩川土手のサイクリングロードを、若鮎が泳ぐようにスイスイと、「さわやかに追い越してゆくチャリンコはこの春からの制服少女」。
 「さわやかに」とは、若鮎の如き「制服少女」のサイクリング姿への形容であって、それに見とれる、我らが<jonny>氏の視線からは、「さわやか」さなどは微塵も感じられない。
     〔答〕 「痴漢的視線」とまでも申したら、「それは酷い」と怒るでしょうか?  鳥羽省三
         寛大な歌人<jonny>のことだから、にたりと笑いそれでお終い    同


(西中眞二郎)
    長きもあり短きもありさまざまな髪形の娘(こ)がわれを追い越す

 辛口の評者から、「痴漢的視線」とまで揶揄された前作の作者の視線に較べれば、本作の作者<西中眞二郎>氏の視線からは、邪念のかけらも感じられない。
 「青春時代の我輩は、<緑なす黒髪>の女性に憧れたものだが、近頃の娘たちの髪は、長かったり、短かったり、実にさまざまであるなあ。<題詠2009>の選歌に一区切りをつけたら、『若き女性の髪型と我が国経済の関わりに就いての一考察』とでも題して、小論文でも書いてみようかしらん」などと、実にさわやかで、実に罪のないことを考えながら、西中氏は、ご自宅最寄りの那珂川土手を散策中なのである。
     〔答〕 長きもあり短きもあり、さまざまな老後残して我ら退職  鳥羽省三  
 
  <追伸> 西中さま
 最近、私の手元に届いた「K県立高校職員退職者会会報」を目にして、私は唖然としてしまいました。
 何と驚いたことに、過去一年間の物故会員欄に掲載された百名余りの中に、私の元同僚が十ニ人もいたのです。
 私は、今年の五月から六月に掛けて大病を患い、ブログの更新を中断して、入院生活を送っていたのですが、その状態から解放され、こうして、皆様方の作品についてのあれこれをものしていることさえ、実に奇跡的に幸運なことだ、とすら思うようになりました。
 西中さまにも、くれぐれもご自愛のほどを。


(庭鳥)
    流されし夫(つま)が住いし越前を弟上娘子嘆きて仰ぐ

 本作に関係する、あの万葉の情熱純情女流歌人の名前が、「狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)ではなく、「狭上弟上娘子(さののおとがみのおとめ)」であると教えてくれたのは、今から五十年前、私が在籍していた大学の国文科の老教授であった。
 <茅上娘子説>が主流であったその頃、頑固一徹な彼は、「いいですか。彼女の名前は、<さののちがみのおとめ>などではなく、<さののおとがみのおとめ>なのですよ。彼女の名が、<狭野茅上娘子>として伝播してしまったのは、後世のの愚かな万葉研究家の誤記が原因なのです。私は、最近、その確たる証拠を入手したのです。だから、期末試験の解答用紙に、<狭野茅上娘子>などと書いたら落第させますからね」と、不勉強な私たち学生相手に一所懸命に吼えまくっていた。 
 近頃益々不勉強になってしまい、この度の転居の際、彼の頑固一徹教授の著『万葉集新考』も、土屋文明著の『万葉集評釈』を廃棄してしまった私なので、この際、本作の作者<庭鳥>氏にお尋ね致しますが、近頃は狭野弟上娘子説が学会で認知されたのでしょうか。
 もし、そうだとすると、彼の頑固一徹教授の霊も浮かばれることでしょう。
 どうかご教授下さい。
     〔答〕 君の名は大伴宅守 ほとほと死にき君還らずて  鳥羽省三 


(蓮野唯)
    お喋りをすみれとしたくて蝶たちは垣根を越えて今日も舞い来る

 <蓮野唯>さんの御作にも久方ぶりに接する。<蓮野唯>などと、かわゆいお名前からすると、可憐な女子高生姿が想像されますが、本当はそれ相当のご年配の女傑だったりしして?
 でも、作品はすごく可愛い。
 そして、その中に<040:すみれ>と<041:越>とを折り込んだ、作品自体の意味もばっちりと通っている。
 この作品を詠み得た時、作者の蓮野唯さんは、「私だって、まんざら捨てたもんでもないわ。平成の狭野弟上娘子とは、わたしのことではないかしら。」などと、作品と鏡とを合わせ見て、にんまりとされたのではないかしら。
 「お喋りをすみれとしたくて蝶たちは垣根を越えて今日も舞い来る」。
 麗らかな春の庭で、生え揃ったパンジーの花と戯れる蝶たちの仕草を、ご自身とそのお仲間の少女時代の「お喋り」に見立てたのは、作者・蓮野唯さんの御年の為せるわざでありましょうか。
     〔答〕 唯さんとお喋りしたく わんさかとコメント寄せる男ブロガー  鳥羽省三


(久哲)
    ガムテープで緊縛されて諦念の殉教者めく引越荷物

 この度の引越しに当たっては、私も、引越し荷物のあれこれを布製のガムテープで雁字搦めに「緊縛」しました。
 思わざる事態に遭遇し、退職金のほぼ全額を叩いて建てた<終の住処>を、二束三文の捨て値で人手に渡し、何物かに追われるようにして首都圏へ転居(Uターン)した時は、本当に、本作に詠まれた、「諦念の殉教者」にでもなったような気分でした。
 転居先の寓居で、近隣の人々が寝静まってから妻と二人で聴く、さだまさしさんの『転宅』の一語一語は胸に滲み入りました。
 そうした体験を持つ私だけに、本作の下句・「諦念の殉教者めく引越荷物」には、<言い得て妙>と脱帽しております。
 本作こそ、久哲短歌・畢生の傑作かと拝察申し上げます。どうか末永く記憶され、今はの際には、墓碑銘としてお刻み下さい。
     〔答〕 『転宅』のギター縛れるガムテープ 涙に濡れて音弾けたり  鳥羽省三


(髭彦)
    越前と越後の響き越中とかなりの差あるゆゑぞおかしき

 「越前」と言えば、昨今なら、あの不気味な<越前くらげ>。もう一つ二つ挙げれば、<越前かに>と、水仙で名高いが、荒波洗う<越前海岸>であろうか。
 「越後」と言えば<角兵衛獅子>と、頼まれなくても越後からはるばる徒歩(かち)でやって来る、風呂屋や米屋の従業員たち。
 かくして、私のイメージする「越前」「越後」は、必ずしも明るくも華やかでもない。
 次に、「越中」と言えば、先ず何よりも先にイメージするのは、<越中褌>と、万病に効く<越中富山の萬金丹>である。
 こちらの方も、華やかさや明るさには決定的に欠ける。
 しかし、私の尊敬する髭彦さんが、取り立てて歌に詠み挙げるのだから、この両者のイメージには、決定的な差異が必ず存在するに違いない。
 そうだ。たった今気が付いた。
 <越中褌>や<越中富山の萬金丹>から感じられた滑稽さやユーモアが、越前・越後からは全く感じられない。
 その微妙な差が、越前・越後と発音する時と、越中と発音する時の、音韻や響きの差異を生み出すのであろうか。
     〔答〕 ひたすらに越後・越中・越前の真夜(まよ)を貫く特急日本海  鳥羽省三 
 
 
(野州)
    出征の兄を送りし嫂に夜這ふ越中ふんどしの父

 汗と垢と○液の臭いで汚れた「越中ふんどし」。
 自身の息子を戦地に見送った後、汚い越中ふんどしを怒張させて、嫁の寝屋に忍び居る助平爺が居た話は、私も幾例か耳にしております。
 その中でも最も悲酸なのは、終戦になって戦地から帰った息子が、父親と妻とに加え、父親と妻との間に生まれた赤子をも鉞で斬殺し。自分自身も首吊りをして死んだ、という話です。
 日本人が、そんな悲惨で悲酸なことをしていたのは、そんな昔のことではない。ほんの六十年ほど前のことです。
     〔答〕 戦場で死ぬのは悲惨さればとて生きて還ればこれまた悲酸  鳥羽省三 


(磯野カヅオ)
    水秤たつたひとつを携へておほよそびとは国境を越ゆ

 旧約聖書の『出エジプト記』の世界を描こうとしたのか?
 『出エジプト記』」とは、残虐なファラオのために奴隷として虐げられていたエジプトのユダヤ人たちを、モーゼが率いて国外に脱出させる、という物語である。
 モーゼに率いられたユダヤ人たちは、着の身着のまま、と言うか、裸同然のスタイル。
 それでも、その剥き出しの胸に、<嘆きの涙>を量るための<水天秤>ひとつを抱えて、やっとの思いで、死の国・エジプトの脱出に成功したのであろうか。
 <磯野かつお>氏ならぬ<磯野カヅオ>氏は、大の悪戯好き。
 自作の中に必ず何かからくりを設けて、読者を眩惑させようとなさる。
 そこのあたりのご事情を、氏ご自身が、「読んで欲しいけど、簡単には読まれたくない」みたいな言い方で、私宛のメールで語られている。
 本作の場合、作中に設けられた<からくり>とは、一般的にはあまり聞きなれない、「水秤」や「おほよそびと(大凡人)」といった語であろうが、それを理解し、作品を批評しなければならない立場に立つ私とて、それらの語の正確な意味や、それらの語が作中で果たす役割りを完全に理解しているわけではない。
 しかし、その仕掛けを自分なりにクリヤーして、作品世界の真っ只中に潜入し得た時、鑑賞者たちの多くは快哉を叫び、カタルシスを感じるのであろう。
     〔答〕 塚本の末裔・磯野カズオ氏は<おほよそびと>の目を眩ませる  鳥羽省三
 「おほよそびと」という珍しい語は、あの『源氏物語』にも出て来るのですね。


(nnote)
    窓越しに産んでしまったものたちの叫びを聴いて過ごす風の日

 「窓越しに」聴こえる「産んでしまったものたちの叫び」の正体は何か?
 野良犬アカに犯されて、今年もまた、雑種の子犬を三匹も産んでしまった飼い犬のメリーの悲痛な叫び。
 産めば直ぐに飼い主に奪われてしまう卵を産んでしまった鶏の、けたたましい叫び。
 鼠の額ほども隔たっていない隣家の主婦が、ご亭主に出産の苦しみを再現してみせる時の叫び。
 その他もろもろ。
 それらのいずれを指すのか、評者の私には全く判らないが、「風の日」には、寓居の安物のサッシを通して、屋外のいろいろな叫び声が聞こえて来る。
 「ご家庭でお楽しみのところ、毎度ご迷惑さまではございますが、こちらは、美味しいお豆腐の宣伝販売車でございます。東京築地の豆増の販売車でございます。ざるどーふ、ごまどーふ、お刺身どーふ、厚揚げ、あぶら揚げ、とさまざまでございます。................................。」
 <お楽しみのところ>と思うなら、そんなに大きな声で叫ぶな、ちゅーのだ。
 「こちらは、不要物の回収車でございます。パソコン、クーラー、自転車、テレビ、ゲーム器械、健康器具など、ご不要になった物なら、何でも回収させていただきます。分からないことがございましたら、どうぞお気軽に、担当者にご相談下さい。」
 <不要物の回収車>と言うから、要らなくなった物を、なんでも無料で持って行ってくれるのかと思ったら、殆んどの物が有料であった。
 年若い女性の声だったから、窓を開けて覗いてみたら、運転していたのは、<むくつけきおのこ>であった。
 それはともかくとして、その喧しいこと。喧しいこと。
 沖縄の米軍基地の騒音もかくやと思われる。
     〔答〕 窓越しに鶯のこえ聴きながらブログを記す春よ来い来い  鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
    抜かれてはまた追い越して海までを少年たちの自転車が行く
 
 「海までを」が効き目。
 まさかつけて行って確かめたわけではあるまいが。
 さすがプロの五十嵐きよみさん、上手な嘘をつく。
     〔答〕 抜かれてはまた追い越すのが大変だ。箱根駅伝ここが勝負だ。  鳥羽省三


(村木美月)
    雑踏にまぎれて歩く越えられぬ課題をひとつ蹴飛ばしながら

 目の前に転がっていたジュースの空き缶は、作者にとって、「越えられぬ課題」の象徴。
 その空き缶を「蹴飛ばしながら」「雑踏」を歩いていたら、とても、「まぎれる」どころではなく、蹴飛ばした空き缶が前を歩くオヤジの剥げ頭を直撃して、こっぴどく怒られちゃった。
 そのオヤジが、私を怒ろうとして、迫って来た時の、オヤジの体の加齢臭のくさいこと、臭いこと。
 本当に、<鼻が曲がる>とはこのこと。
 佳人才人美人歌人・村木美月さん、絶体絶命のピンチ。
 貞操の危機だ。
     〔答〕 雑踏に紛れることが出来るのは胸に課題を抱かない時だ  鳥羽省三


(みぎわ)
    若さゆゑの自惚れつらつら浮き上がり腰越状は哀しき手紙

以下に、「腰越状」の原文を記すので、そのどのあたりに「若さゆゑの自惚れ」が「つらつら浮き上が」っているかを感得し、「腰越状は哀しき手紙」であることを、各自確認されたし。

 元暦二年五月二十四日/廿四日戊午。源廷尉(義経)如思平朝敵訖。剰相具前内府参上。其賞兼不疑之処。日来依有不儀之聞。忽蒙御気色。不被入鎌倉中。於腰越駅徒渉日之間。愁欝之余。付因幡前司広元。奉一通款状。広元雖披覧之。敢無分明仰。追可有左右之由云云。彼書云。
 ここまでは、書状を受領した時の事情を、仲介役の大江広元が説明している。書状の内容は、これ以下。
  左衛門少尉源義経乍恐申上候。/意趣者。被撰御代官其一。為 勅宣之御使。傾朝敵。顕累代弓箭之芸。雪会稽恥辱。可被抽賞之処。思外依虎口讒言。被黙止莫大之勲功。義経無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘気之間。空沈紅涙。倩案事意。・良薬苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者実否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送数日。当于此時。永不奉拝恩顔。骨肉同胞之儀既似空。宿運之極処歟。将又感先世之業因歟。悲哉。此条。故亡父尊霊不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懐。義経受身体髪膚於父母。不経幾時節。故頭殿御他界之間。成無実之子。被抱母之懐中。赴大和国宇多郡竜門牧之以来。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命許。京都之経廻難治之間。令流行諸国。隠身於在在所所。為栖辺士遠国。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而為平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。為責傾平氏。或時峨峨巌石策駿馬。不顧為敵亡命。或時漫漫大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之為甲冑於枕。為弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之外無他事。剰義経補任五位尉之条。当家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非仏神御助之外者。争達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王宝印之裏。全不挿野心之旨。奉請驚日本国中大少神祇冥道。雖書進数通起請文。猶以無御宥免。其我国神国也。神不可稟非礼。所憑非于他。偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之余慶於家門。永伝栄花於子孫。仍開年来之愁眉。得一期之安寧。不書尽詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。
 /義経恐惶謹言/元暦二年五月日 /左衛門少尉源義経 進上 因幡前司殿

 この和臭漢文を読解され、「若さゆゑの自惚れつらつら浮き上がり腰越状は哀しき手紙 」という一首をものされた<みぎわ>氏のご識見とご努力とに対して、深甚なる感謝と尊敬の意を表す。
     〔答〕 「功有りて誤り無し」とは小生意気。九郎判官苦労が足りぬ。  鳥羽省三
         「犯す無く、咎蒙る」も言い過ぎだ。小冠者義経口が過ぎたぞ。  同


(駒沢直)
    日曜の銀座に立って三越のライオン目線で見る人の群れ

 今日は連れ合いが久しぶりのお出掛け。
 最寄駅・たまプラで田園都市線の電車に乗り、表参道で銀座線に乗り換え、銀座駅で下車し、銀座三越のライオン前で同郷の友達と十時半に待ち合わせるのだ、と言って、朝食をもそこそこに、いそいそと出掛けて行った。
 「世界第二の経済大国・日本の、イの一番の目抜き通りとも言うべき、東京銀座四丁目の交差点に真向かう、三越銀座店の正面玄関の台座の上に鎮座する、あのライオンの鬣あたりに掌を置き、四丁目交差点を行き来する車馬や人間の姿を眺望したら、一体どんな心持になるのだろうか。そこのあたりのことをよくよく感じて来るように」と、私は、出掛け間際の家内に、そのようなことを話した。
 そもそも、銀座三越の<ライオン目線>の高さを私は知らない。
 察するにそれは、銀座通りを闊歩する、普通の人間のそれよりもかなり高く、その目線で眼下を見下ろす時、少なからぬ羞恥心と共に、それに数倍する優越感を抱くことが出来るのではないだろうか。
 作中の「ライオン目線」とは、単に高さのみを言ったのではなく、そこに立って辺りを眺める時の気持ちをも含めて述べたのであろう。
      〔答〕 三越のライオン像に寄り掛かり三愛ビルの汚れを見てた  鳥羽省三
          四丁目のホコ天を行くぼくたちをライオン目線で視るのは誰だ  同

一首を切り裂く(040:すみれ)

(月下燕)
    目をおおいたくなるほどの空虚にはかつてすみれが咲いてたという

 一見ミスマッチとも思わせながら、「空虚」と「すみれ」とは、斬新かつ絶妙な取り合わせです。「へたうま」とでも言うべきこの作品を読みながら、私は、西脇順三郎氏のあの著名な詩の世界を思い出していました。

 黄色い菫が咲く頃の昔
 海豚は天にも海にも頭をもたげ
 尖った船に花が飾られ
 ディオニソスは夢みつつ航海する
 模様のある皿の中で顔を洗って
 宝石商人と一緒に地中海を渡った
 その少年の名は忘れられた
 麗(うららか)な忘却の朝
                         西脇順三郎『皿』
 
 私は、この詩から、爽やかで健やかな美しさを感じると共に、果てし無い空虚と倦怠をも感じます。本作の作者の月下燕さんもまた私同様に、西脇順三郎氏の詩の愛読者であった過去を持っておられるのでしょうか。
     〔答〕 すみれ咲く多摩川土手を過ぎしより果てなく続く我の空洞   鳥羽省三


(月原真幸)
    かいだんのおどりばのすみれんあいのただしいかたちなんてしらない

 鹿鳴館の階段の踊り場の隅に彼女の華奢な体を押し付けて、無理矢理、唇を奪った日から一年過ぎた。あの日、燃え滾る彼女の体から私のハートに乗り移ったほてりは、未だ醒めようにもない。恋愛の正しい形式などというものは在るのだろうか。仮に、そのようなものが在るのだとしても、今の私には全く関わりのないこと。
     〔答〕 月原の果て無き光(かげ)に消えし女(ひと) 真幸(まさき)くあらば雁に告げ越せ  鳥羽省三


(斉藤そよ)
    空ばかりみてるね九月 四月にはすみればかりを見ていた野原

 四月 
 すみれ咲いてた野原
 五月 
 赤く色づいたスカンポの穂を撫でて吹き過ぎる風が涼しかった
 六月 
 幾日も幾日も続く雨 鬱陶しい雨      
 七月・八月 
 蝉時雨かまびすし
 そして九月 
 私は、台風一過の抜けるような青空ばかりにみとれてた
     〔答〕 チョコばかり食べてる9月 4月にはジャムパンばかり食べてたベランダ  鳥羽省三
 

一首を切り裂く(039:広)

(西中眞二郎)
    六本木 ビルの広場の夏祭 田楽踊りしずしずと出づ

 「六本木ビルの広場」と「田楽踊り」との取り合わせが面白い。
 現代科学や建築技術の粋を尽くして創出された「六本木ビル」の「広場の夏祭」の中に、中世の農民の間で行われた「田遊び」が起源とされる「田楽踊り」が「しずしずと出づ」。
 このミスマッチ。このアンバランスな光景の持つ意味をいち早く感知して、それを、このユーモラスな一首に仕立て上げた、西中眞二郎氏の慧眼と文章力とに深く敬意を表したい。
 この場合の「田楽踊り」は、魂を持った一個の生命体なのである。一人格なのである。
 実景としての「田楽踊り」は、笛、太鼓、鐘などを手にした囃子方と、木と木を打ち合わせて鳴らす古楽器・ビンザサラを、「シャラリ、シャラリ」とうち鳴らしながら踊る、幾人かの<踊り手>から成る集団であろうが、それを観て、「田楽踊りしずしずと出づ」と詠んだ時の作者の頭の中では、その集団は、魂を備えた一個の生命体、即ち<一人格>として捉えられているのである。。
 その一人格が、観客の一人である・作者・西中眞二郎氏に語り掛ける。
 「あなたから視ると、この私は、このビルの、この夏祭の登場人物として、最も相応しくない人物のように思われるでしょう。だが、それはあなたのとんだ思い違い。このビルの、この広場の、この夏祭りの主役として、最も相応しいのは、この私なんですよ。これは、このビルが完成する前からの約束事。歴史的、運命的な<定め>というべきものなんです」と。
 田楽や田楽踊りは、かつては寺社に属し、その庇護を受けて存続していたものであるが、現在では、財界や財界人たちの拠出金で以ってその経費が賄われ、細々とその生命が保たれている、とも聞いている。
 森ビルのオーナーは、伝統芸能「田楽踊り」の存続に力を貸している、財界人の一人なのではないでしょうか?
 この作品を読みながら、私は、かつて、新宿の花園神社の境内で行われていた、アングラ芝居を思い出した。
     〔答〕 新宿の花園神社の境内の「腰巻お仙」いまも懐かし  鳥羽省三
         標的は花園神社の紅テント状況劇場撃ちてし止まむ   同


(小早川忠義)
    この部屋は独り住むには広くありされば出で行くなと諭されぬ

 「この部屋は独り住まいに広過ぎるだから出て行くなと諭された」と言えば済むところを、「これはなんとまあ、苔の生えたような言い方をしたものだ」と、作者の一徹さと、その言語感覚に感動している。
 作者は、他ならぬ名人上手の小早川忠義氏であるから、そこの辺りの計算は、とうの昔にお済みでしょうが。
 否定しようとは思うのだが、一概には否定し切れない、不思議な魅力を湛えた作品である。
     〔答〕 この国は独り立ちには脆過ぎるだから結んだ安保条約  鳥羽省三


(星野ぐりこ)
    広すぎる部屋に住んでるせいだろう今年の風邪が治らないのは

 私の愛する歌謡曲、「私鉄沿線」「積木の部屋」「神田川」などの主人公である恋人たちは、四畳半や六畳といった狭い部屋に寝起きして、愛を紡いでいた。
 だが、彼・彼女らとは異なり、未だ、<恋に恋する人>である、我らが<星野ぐりこ>さんは、五十疊間、百畳間の住人であられましょうか?
 その故かあらぬかは知らねど、ぐりこさんの風邪はなかなか治らない。
     〔答〕 台風の被害者収容体育館、あまり広くて風がびゅうびゅう  鳥羽省三


(チッピッピ)
    亡くなった父の形見を分け合えば箪笥の広い隙間が哀し

 亡母の形見の着物を、残された姉妹が分け合うという話はよく聴くが、亡父の形見を分け合うという話はあまり聴いたことがない。
 して、空になった箪笥に入っていた物は、何だったんだろう?
 刀・掛け軸・尺八・古銭・危な絵・責め具・借金証文の下書きなどは、亡父の形見の箪笥の中身として、よく聴く話ではある。
 今から四十年ほど前に亡くなった、私の父の場合は、その形見のガタピシの箪笥の中に、売れない絵師が怨念を込めて書いたと思われる地獄絵二十五枚と、祭灯篭一張と、虫食いだらけの道中記一冊を残して行った。
     〔答〕 亡き父の形見の品の道中記 明治伍年と角書(つのがき)にあり  鳥羽省三


(水口涼子)
    広場には馬蹄隊形とりながらカブスカウトが集う日曜

 評者の学童時代の同級生の中にも、地域のボーイスカウトに所属している少年がいた。
 で、彼らは一様に、何か異様な雰囲気をその身辺に漂わせていたのだ。
 エリート意識に似て、それとも少し異なる。
 衛生思想に似て、それとは少し異なり、危険思想と言っては当たらずと言えども遠からず。
優しそうだが、どこやら厳しく恐そうな面もある、といった、一種独特で、近づき難い何かが、彼らの身辺には漂っていたのだ。
 水口さんのこの一首に接して、私の脳裡には、先ず、私自身のそうした少年時代の記憶が甦って来た。
 そこで私は、インターネット辞書『Wikipedia』の「ボーイスカウト」の項目を参照してみた。
 すると、そこには、
 「スカウトとは斥候のことである」
 「第一次世界大戦が終わり、誰も予想できなかった莫大な戦死者の数によってヨーロッパ中に厭戦的な気分が蔓延しため、『少年の斥候兵(スカウト)』というやや戦争翼賛的な方向を修正し、国際的で平和的な野外活動に手直しされた」
 「しかし、本家であるスカウト運動には軌道修正がおこなわれたものの、この発想はその他の国々でさまざまなイデオロギーに転用されることとなった。第二次世界大戦以前のナチス・ドイツではヒトラーユーゲント(14~18歳男子)・ドイツ小国民団(10~14歳男子)・ドイツ少女連盟(14~18歳女子)・少女団(10~14歳女子)、ムッソリーニ政権下のイタリアではバリッラ少年団・戦闘ファシスト青年団(後に統合されリットリオ青年団となる)、エスタド・ノヴォ(新体制)下のポルトガルではポルトガル青年団、ルーマニアでは鉄衛団下部青少年組織のスタラヤ・タリ(祖国の歩哨)、ソ連ではピオネール、北朝鮮では朝鮮少年団、中華人民共和国では少年先鋒隊として、2,000万人からの子どもたちが赤いスカーフを首に巻いて活動した。また米国においてはボーイスカウト運動は優生学的施策を推進するのに貢献をなした。米国優生学協会会長のスター・ジョーダン博士は米国ボーイスカウト団の副団長に就任している」などなど、
 少年時代の私が、ボーイスカウトに所属する同じ年頃の少年たちに対して、本能的に感じていた何かが、必ずしも的外れではなかった事をうかがわせる説明がなされていた。
 そこで私は、この一首に対して、少なからぬ疑問を感じるのだが、この一首に描かれた光景は、ただ単なる平和な都会の、平和な日曜日の、平和な「広場」の光景なのだろうか?
 一見、長閑で平和そうにも感じられる、「広場には馬蹄隊形とりながらカブスカウトが集う日曜」という言い方を通じて、作者・水口涼子さんは、私たち読者に、何か特別な「日曜」を伝えたかったのではないだろうか。
 例えば、その「日曜」とは、2001年9月11日のことを指し、「馬蹄隊形とりながらカブスカウトが集う」「広場」の上空を、やがて某国のゲリラたちに乗っ取られた航空機が過ぎり、その航空機は、その「広場」からいくらも離れていない所に位置する、ワールドトレードセンターの北棟と南棟、及びアメリカ合衆国国防総省本部庁舎ペンタゴンに突っ込んで行く、といったような。
     〔答〕 広場にはドレス召されたワンちゃんが交尾するでもなく集う 朝  鳥羽省三


(野州)
    測られる広さのやうに鎮まりぬかの日の夏の雲映す水

 「かの日」と言ったって、人さまざまだから、それは、七月六日のサラダ記念日を指すこともあろうし、十一月三日の我が子の誕生日を指すこともあろう。
 だが、本作に於ける「かの日」とは、紛れもなく、広島に原爆が投下された日、即ち、昭和四十五年八月六日を指す。
 私の推測の正しさは、その前後の語句、「測られる広さのやうに鎮まりぬ」「夏の雲映す水」に依っても証明されることだろう。
 広島市は、広島湾に面し、太田川の三角州上に市街地が形成された<水の都>である。
 私は、過去三回ほど広島市を訪れたが、その一度は、一日中、太田川の堰堤に座り、水に映る夏雲の影に見とれていた。
 その日の太田川の水面にはさざ波も立たず、「かの日の夏の雲映す水」は、まさしく「測られる広さのやうに鎮ま」ってゐた。
 一首の意は、「この広島が炎々と燃え上がったあの日から、延々と流れ続け、今も尚、あの日と同じ夏の雲を浮かべて遠々と流れ続けている、この太田川の水面は、思えば、私の掌に載せて測ることが出来るほどの広さでしかない」と、悲劇の街・広島を流れる太田川とその水面に対する、慈しみと愛しさと哀しみの情を述べたものであろう。
 下の句の「かの日の夏の雲映す水」を、「かの夏の日の雲映す水」などとしたら、重大な失着であろう。
     〔答〕 太田川の水面に臨む社にて出雲神楽を観し日なつかし  鳥羽省三
 広島市を訪れた三回のうちの一回は、太田川近くの神社の境内で行われた出雲神楽の舞いと楽の音に痺れて半日を過ごしました。
 あの神楽は、単なる神社の祭礼の余興として行われたのではなく、何かの魂を鎮め、何かの実現を願うための催しに違いない、と感じながら、私は、見物者席に紛れていました。


(はづき生)
    広島は世界の言葉ヒロシマになってしまった あの一瞬で

 普段はほとんど言挙げなどしない、私の連れ合いが、ある日、突然、「原爆で亡くなった広島の人々は、あまりにも悲惨な代償を支払いはしましたが、今になってみれば、この世にかけがえが無い遺産を残してくれました。広島や長崎は、自分たちの命と引き換えに、人類に尊い遺産を残してくれたのです」などと言い出した。
 連れ合いのこの弁に接した時、私は、我が連れ合いは、全くとんでもないことを言い出したものだ。私の暴言癖が災いして、私の連れ合いも亦、平気で暴言を放つようになってしまった。この責任は私に在る、と感じたものである。
 でも、戦乱で亡くなった人々の数は、広島・長崎の原爆の犠牲者の、おそらく数千倍、或いは数万倍も居られよう。
 そういった多くの戦乱の犠牲者たちの中にあって、核問題の解決が人類の最大の課題となった今日、ただ、広島・長崎の原爆の犠牲者たちだけが、その名を地球規模で永遠に記憶され、平和希求への永遠のシンボルとして、その名を人々の脳裡に刻むことができる。
 そのように思えば、我が連れ合いの暴言の罪も少しは軽くなり、我が肩に背負わされた責任も、幾分かは軽減されるのでないだろうか?
 そう、あの瞬間、日本の広島は、世界の<ヒロシマ>、いや、地球の<ヒロシマ>、いや、いや、全人類の<ヒロシマ>として再生されたのである、と思うのは、被爆国民としての私の、思い上がりであろうか?
     〔答〕 広島が未だ<広島>であったころ日本は世界の悪餓鬼だった  鳥羽省三


(中村成志)
    突っ伏せるだけの広さがあればいい個室の中はまだ午前2時

 動作主は、きっとネット喫茶かカプセルホテルの一室に居るのだろう。
 住めば都。
 「突っ伏せるだけの広さ」の、その「個室」は、動作主にとっては天国。
 時刻は「まだ午前2時」、たっぷりとお眠りなさい。
 明日はまた職探しですよ。
 靴の底をすり減らして、朝から晩まで、また職探しをしなければならないのですよ。
     〔答〕 明日泊まるだけのお金があればいい残金十円また職探し  鳥羽省三


(磯野カヅオ)
    夕暮れの神宮球場B席に修学旅行の子ら広がれり

 読売ジャイアンツのホームグラウンド・東京ドームのスタンドには、修学旅行生らしき集団は殆んど見受けられない。
 それなのに、ヤクルトアトムズのホームグラウンド・神宮球場のスタンドには、毎晩、決まったように、大勢の中学生、高校生の修学旅行生集団が陣取っている。
 これは何かの間違い。
 東京に修学旅行に訪れる生徒たちは、我が不滅な読売ジャイアンツより、あのチンケなヤクルトアトムズを好いているのかしら?
 だとすれば、彼らは、良く言えば<判官贔屓>、悪く言えば<マゾヒスト>に違いない、と私は思っていた。
 だが、そうした私の思いは、少し皮相な見方。
 彼らを神宮球場に連れて来るのは、旅行業者である。
 彼・旅行業者らが、数十枚、数百枚の入場券を、簡単に、安価で入手出来るのは、東京ドームでは無く、神宮球場なのだ。
     〔答〕 たそがれて空飛ぶカラス二羽三羽ヤクルトアトムズ今日も大敗  鳥羽省三


(志井一)
    六畳の特徴として六畳のわりに広いと感じてしまう

 着眼点が素晴らしい。
 それがどうしたと言う人は、眼も心も持っていない人だ。
     〔答〕 六畳の特徴としてもう一つ 六畳ひと間は歌にならない  鳥羽省三
    
  三畳一間の小さな下宿
  貴方は私の指先みつめ
  「悲しいかい」って聞いたのよ 
 

(近藤かすみ)
    消息を聞かぬは無事の証しなり八十九歳竹山広

 そう言えば、被爆者歌人・竹山広氏のお噂を最近はとんと聴かない。
 総合誌を見開いても、竹山広氏の作品にはお目にかかれない。
 第九歌集・『眠つてよいか』が、<ながらみ書房>から上梓されたのは昨年の出来事。
 総合誌「短歌往来」(ながらみ書房)が、「竹山広特集」を組んだのも昨年の出来事。
 竹山広さんは、確か1920(大正九)年のお生まれだから、今年で御齢八十九歳。
 竹山広さんは、私の連れ合いの母親の貞子と同年齢だ。
     〔答〕 短脚を今さら恥じる我がために妻上げくれしGパンの裾  鳥羽省三

 「歩む日を疑はず妻が上げくれしズボンの裾のこの三センチ」(『眠つてよいか』より)は、最近の私の愛唱歌の一つです。


(今泉洋子)
    いつまでも生きざるゆゑに広沢の池の面(も)の月ほうと眺むる

 人は何故、広沢の池の水面に浮かぶ月を、「ほう」と声上げ、「ほう」と心澄まして、眺め入るのか?
 それは、その月が、いつまでも広沢の池の水面に浮かんでいるわけではないことを知っているからである。
 満ちては欠け、満ちては欠けするのが、月の定めであることを知っているからである。
 ある時は水面に影を映し、ある時は闇に沈むのが、月の定めであることを知っているからである。
 つまりは、月が無常であることを知っているからである。
 そして、また、「ほう」と声を上げ、「ほう」と心を澄まして、その月を眺め入っている自分の命もまた、眺められる月と同じく、無常であることを感じているからである。 
 五句目の冒頭の感動詞「ほう」が絶妙な働きをしている。
  広沢池の水面に浮かぶ月を見て感動して上げた、動作主の肉声を表わし、「ほう」と声上げた動作主の、澄み切った心の内をも表わしている。
 今は未だ、後期高齢者という、真に無機質で、真に失礼な言葉が生きているのでしょうか。
 その言葉で以って表わされるご年齢の方々は、「ほう」という感動詞をよく口にされる。
 夏の夜空に花火が弾けるのを観ても「ほう」。冬の朝、自宅の庭を白く染めた雪を視ても「ほう」。お孫さんの通信簿を見ても「ほう」と声上げる。
     〔答〕 今は未だ生きているから電飾に輝くビルを「ほう」と眺める  鳥羽省三

  「ほうと眺むる」の「ほう」を、私流の漢字で書くと、放下(ほうげ)の「放」であり、痴呆の「呆」である。
 何事も放下し、水面に揺れる月に酔い呆(し)れるのが、これからの私の仕事なのかも知れない。
 未だ十一月だというのに、新宿や汐留のオフィス街のビルは、クリスマスカラーの電飾に彩られ、煌々と輝いております。
     〔答〕 神持たぬ我が窓辺まで光(かげ)寄せて虚飾電飾メリークリスマス  鳥羽省三

一首を切り裂く(038:→)

 <お題>として、記号など、文字以外のものを用いたい、というご希望を述べられた方が居られると見受けられ、毎年、PC記号などが<お題>になっているようである。
 しかし、こうしたアイデアも、場合によって、出詠者を尻込みさせることになりかねなく、現に、この種の<お題>の詠進歌には、読むに耐えず、意味も解せないような愚作・凡作が多いのである。
 そこで、主催者へのお願いでありますが、今後、こうした催しを継続され、こうした類の<お題>を出題なさる場合は、その是非をよくよくお考えになられる必要があると思われる。
 また、ご参加になられる歌人の方々にもお願いしますが、もしも、こうした<お題>が、来年以降も出題された場合は、何かにつけ、保守的・閉鎖的な短歌界に革命を齎そうとされる、主催者の意図をご理解され、歌人としてのご自身のご見識とご力量とを、十分に発揮された作品をご出詠なさるようにお願いしたい。 


(月下燕)
    駅からは→どおりに辿り着きとにかく焼香だけは済ませた

 「→」は、「やじるし」と読むのであろう。
 記号などが<お題>として出された場合は、それを作品の中で<どう読ませ、どう位置づける>かが勝負所となるであろう。
 しかるに、その<お題>に、あまり奇抜な読み方を付与したり、あまり重要な役割りを与えたりすると、作品内容に破綻が生じ、意味が通らない作品になる恐れがある。
 そこで、短歌を読みなれた方々は、せっかくの記号を、極く平凡に読み、その働きにも、多くを求めないような作品を作りがちになる。
 「題詠2009」に参加された方々の中でも、指折りの歌巧者と目される、<月下燕>さんも亦、お題<→>を、「やじるし」と読ませ、文意の破綻を避けられる道を選択された。
 出来上がった作品は、鬼才<月下燕>さんの作品としては、やや物足りなさを感じさせないでもないのであるが、これも致し方の無い、利口なご処置でありましょう。
 さて、その文意であるが、「どなたかが亡くなって、その知らせを受けて、焼香に出掛けた動作主が、駅からの道の途中のあちらこちらに貼られた道案内の矢印(→)を頼りに、なんとか葬儀会場に辿りつき、とにもかくにも最低の役目である、焼香だけは済ませた」というのでありましょう。
 一見すると、そこには、感動もドラマも無く、詠まれている事柄は、極めて平凡な日常茶飯事のように見受けられる。
 だが、そこは、鬼才<月下燕>さんの腕の見せ所。
 月下燕さんは、「とにかく焼香だけは済ませた」という下の句で以って、俗世間にありふれた、この平凡な物語に陰影を与え、深みを齎し、日常茶飯事を日常茶飯事で無くした。
 作者の意図を推測するに、本作中の仏様と動作主体とは、それほど深い関わりがないのであろう。
 通夜か葬式かは判然としないが、もしかしたら、当日の仏事には、どなたも出席したくないのではないだろうか。
 例えば、作中の仏様は、某運送会社の無軌道運転手が犯した交通事故の被害者。
 あるいは、儲け本意の食品会社が会社ぐるみで犯した食品中毒事件の被害者。
 また、過激な労働を強いられる生産工場で、数ヶ月に亙る深夜勤務をした結果の過労死者、などなど。
 そして、当日の仏事に赴いた動作主体は亦、被害者を被害者たらしめた会社の、最も要領の悪い窓際職員、という位置づけではないかと思われる。
 あまり意味の無い<お題>「→」を使うことを強いられた作品、「駅からは→どおりに辿り着きとにかく焼香だけは済ませた」は、鑑賞者たちに、最低でも、そのようなことを示唆してくれ、大きな感動を与えてくれさえする。
 作中の一語、「ともかくも」は、決して見逃してはいけない。
     〔答〕 ともかくもこの歌だけは鑑賞し、次の<お題>に進みたいのだ  鳥羽省三
 
 
(ほたる)
    路面には消えぬチョークの→とねじ曲げられた時間が残る

 前作一首を観賞し、<以下省略>と行きたいところであったが、数ヶ月ぶりで<ほたる>さんの作品に出会ったので、本作についても、あれこれと申しておく。
 マイブログを中断するまでの私にとって、<ほたる>さんは、前作の作者、<月下燕>さんなどと共に、私の期待の星であった。
 <ほたる>さんの作品は、闇夜を行く蛍のように輝き、私にも、幾首かの観賞文を書かせた。
 <ほたる>の灯す<星>。哀れな星、と言っても、私は、<ほたる>さんが「哀れ」だと言っているわけではない。
 本作の場合も亦、<お題>の<→>は、「やじるし」と読むのであろうか。
 もし、そうならば、<ほたる>さんもまた、無難で賢明な線を狙って、意味文明にして、深みと重みのある一首をものたれたことになる。
 自動車事故があって、何方かが死亡した。
 もしかしたら、加害者は逃亡したのかも知れない。
 そうなれば、その事故は、単なる交通事故では無く、轢き逃げ殺人、人殺しとも言える。
 犯人がどこかに消え、被害者の亡骸が警察に運ばれていった後、現場の「路面には」、くっきりとして永遠に消えると思えない、「チョークの→」が残された。
 そして、それは同時に、被害者と加害者との「ねじ曲げられた時間」の象徴として、<ほたる>さんや、道行くの人の胸の中に、消えることなく、永遠に残った。
 感性の人<ほたる>さんは、悪戯とも思われる、お題「→」を苦にもされず、真夏の闇に引く源氏蛍の灯し火のような、哀れにして印象鮮やかな一首をお詠みになられた。
     〔答〕 「→」は直線でなく曲線だ源氏ぼたるの消えにし後は  鳥羽省三 

一首を切り裂く(037:藤)

(夏実麦太朗)
    藤づるで花篭うまく編んだとて写真の賀状をよこす者あり

 そうそう、本当にいるんですね。そういう人が。
 私んちにも、そういう年賀状が毎年四、五枚は来る。
 今年来たのは、藤づるで編んだ花籠ではないが、自作のパッチワークのベットカバーのが一枚と、縮緬のブラウスのが一枚。それに、ビニール素材のひまわりの造花のが一枚。
 ひまわりの造花の年賀状を送ってくれた人は、それから間も無く、そのひまわりの実物を送ってくれた。
 でも、いくら松が取れたからといって、真冬の床の間に、ビニール製のひまわりの造花を飾るってわけにもいかないから。
 あれにはほとほと困り果ててしまいました。
     〔答〕 とは言えど、それよりもっと困るのは、ご家族写真の賀状の始末  鳥羽省三


(ぽたぽん)
    藤棚の上からふわりと飛び降りたあの日がすべてのきっかけでした

 山家(やまが)育ちで、木登りが得意。
 田舎の高校を卒業して、東京に出て来てからも、休日は必ずどこかの公園に行って、木登りしてました。
 ニ、三度お巡りさんに捕まり、きつくきつくお灸を据えられました。
 東京では、木登りすることが法律違反なんだそうですね。<器物破損予備罪>とかなんとかいう罪名の。
 でも、私がやったのは、ただ、公園の木に登って、涼しい風に当たっていただけのことなのです。
 別に、その木の下で繰り広げられてるカップルたちのあれを見ていたわけでもないのです。
 そりゃー、時々は視線ぐらいはやりましたよ、そっちに。私だって人間ですからね。
 それに、「器物損壊」の下についた「予備罪」ってのはなんですか。
 私が、鉞でも持って木に登り、登った木を切り倒そうとした、とでも言うんですか。
 そんなこと、ただのいっぺんだってしたことがありませんよ。
 完全な濡れ衣ですよ、それは。
 で、それからは、木登りが生き甲斐の私も、木登りを止め、その代わり、公園なんかの藤棚の上に乗っかって、本を読むことにしました。
 ところが或る時、近所の神社に出掛け、境内の藤棚に乗っかって、うとうととしていたら・・・・・・・・。
 いえ、最初から居眠りしていたわけではないんです。
 最初は藤沢周平の、ほら、私みたいな根暗の中年侍がいて、その根暗侍が、或る時急に・・・・・するって、筋書きの小説があるでしょう。
 最初は、あれを読んでいたんです、文庫本の。
 そのうちに眠たくなって、ついうとうととしてしまいました。
 うとうととしていたら、藤棚の下から女の叫び声が聞こえて来ました。
 それに驚いて目を覚まし、窮屈な姿勢のまま、叫び声のする方に目をやったら、透け透けのワンピを着た年頃の女が、中年の男に襲われている様子なんです。
 そこで私は、それまで居眠りしていた藤棚からひらりと飛び降りました。
 その頃の私は、既に三十を過ぎてましたから、木登り少年であった昔ほどは体の自由が利かなかったのです。
 ですが、その時はそう出来ました。藤棚の上から、ふわりと飛び降りることが。
 昔取った杵柄というやつですかね。
 で、藤棚からふわりと飛び降りて、そこいらへんにいくらでも転がっている棒っ切れでも振り回して、その女を、中年男の魔の手から救ってやろうと思いました。
 でも、棒っ切れを探す手間も、それを振り回す必要も、最初からいりませんでしたよ。
 なにしろ、奴は、私が藤棚の上からふわりと飛び降りただけで、どこかに逃げて行ってしまったんですから。
 それがきっかけで、私はその女と知り合いになりました。
 そして、さんざんこき使われ、稼がせられ、貢がせられました。
 あげくの果に、子供を二人も置いて、どろんですよ、あの女。
 えっ、子供。
 この子たちは別に、私とあの女がなにして作った子供ってわけではないんです。
 そうそう、つまり、連れ子ってわけです。この子たちはあの女の。
 そう、私は、安さん。
 「はぐれ刑事純情編」の安浦刑事です。
 東京で木登りしてて、痴漢と間違えられ、お巡りさんにとっちめられた私が、同じ東京都内で刑事をしているなんて、誰も信じられないでしょうが。
     〔答〕 そもそもの初めは亀戸天神(かめいどてんじん)の紫匂う藤棚の下  鳥羽省三
      


(伊藤夏人)
    伊藤です本当なんです本名です先祖代々伊藤なんです

 田舎風でありふれた、伊藤って苗字が、イケメンの私に相応しくない、とでも思うんでしょうか?
 「まさかー、うそー。伊藤ってのは、芸名か、ペンネームなんじゃーないですかー。夏人さんの苗字が伊藤だなんて、わたし絶対に信じないからー」とかなんとか、付き合ってる女性たちからは、よく言われるんですけど、でも、私は、正真正銘の伊藤夏人です。
 そして、私の家の苗字は、先祖代々、伊藤なんです。
 信じて下さい、本当です。私は先祖の名にかけて、嘘を言いません。
     〔答〕 てなことを、仰いますが、それは嘘。伊藤の姓はあなたにぴったり  鳥羽省三


(髭彦)
    ふるさとの馬フンでさへもなつかしき佐藤・鈴木を喩へて言ひし

 今どき、「馬フン」の歌を詠む歌人が居るとは思わなかった。
 しかも、あのダンディーな髭彦さんが、こともあろうに馬糞の歌を詠むなんて。
 馬糞などは、今でこそ、北海道の競走馬の放牧場に行っても見られないようになってしまったが、私が小学生の頃は、ほかほかと湯気のたった馬糞が、幹線国道のあちこちにいくらでも転がっていた。
 でも、その馬糞は、それから立ち上がる湯気が冷める間も無く、塵取りと箒を持って走って来た、近所の百姓家の爺さん婆さんたちに拾われて行くんです。拾われた馬糞は、屋敷の片隅に詰まれた稲藁や草に混ぜられて、やがて上質な堆肥になるんです。
 その頃は、自動車も少なく、陸上輸送の担い手は、夏は馬車、冬は馬橇であったから、私の故郷の田舎町では、至る所でそのような光景が展開されていたんですよ。
 そうそう、その私の田舎では、「佐藤・高橋、馬の糞」と言うんです。
 「佐藤・高橋」という苗字が、それくらいありふれていた。私の田舎では。
 私の田舎とは異なる、髭彦さんの田舎では、「佐藤・鈴木は馬の糞」と言うんでしょうね。
 何方かの田舎では、「鈴木・田中は馬の糞」と言うそうです。

  「おーい、そこ通るのは、仁右衛門(ニンモン)のあんちゃではないかー。もし、そうならば、おら家(え)さ寄って、お茶でも飲んでいけ。なんだったら、濁酒でもいいべし」と、屋根の雪下ろしをしていたオヤジが、道行く人に呼びかけるのは、村の九割九分以上の家が高橋という苗字の、秋田県横手市増田町の旧西成瀬村・狙半内(さるはんない)地区での冬の出来事。
 狙半内(さるはんない)地区は、『釣りキチ三平』の作者として有名な、漫画家・矢口高雄氏の故郷。矢口高雄氏の本名は「高橋高雄」である。
     〔答〕 釣りキチのあんちゃと呼ばれた三平が今では故郷の名誉村民  鳥羽省三


(暮夜 宴)
    藤棚のしたに零れたひかりだけあつめてあそぶ春のてのひら

 咲き盛りの藤棚の、花房と花房の隙き間からわずかに零れて来る春の陽の光。
 その陽の光が、藤棚の下に佇む人の掌にあたる。
 麗らかな春の日に、藤棚の下に佇む人は、まるで、藤の花房の隙き間から零れて来る陽の光を、てのひらに集めて遊んでいるようだ。
 明るく美しくかぐわしい光景ではあるが、その背後からわずかに覗かれる、翳とアンニュイ(倦怠)とを見逃してはならない。 
 その翳とアンニュイとは、彼を歌人(うたびと)にし、悲しみを知る人にする。
     〔答〕 春の陽の光を詠う君なれど心の闇は隠すよしなし  鳥羽省三


(新田瑛)
    思い出にどこか似ている藤の花 流れゆくほど綺麗になって

 藤の花の色は「藤色」。
 紫でもないし、ピンクでもないし、藍色でも空色でもない。
 その微妙な色合いが「思い出にどこか似ている」。
 「どこか」で逢ったような気もするし、未だ逢ってはいないような気もする。
 
 風に吹かれて、藤の花が流れて行く。
 花房から離れて、藤の花が流れて行く。
 花房の束縛から解き放たれて、藤の花が、ひとひら、またひとひらと流れて行く。

 藤の花びらは、流れれば流れるほど綺麗になって、ひらひらと一片ずつ流れて行く。
 その美しい藤の花びらの流れは、どこか私の思い出に似ている。
      〔答〕 思い出と何処か異なる藤の花 藤は流れて吾(あ)を離れ行く  鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
    色の名の豊かなることあかるきを藤色濃きをむらさきと呼ぶ

 「紫」と「藤色」との違いは、微妙な差でしかない。
 その微妙な差を無視せずに、私の先人たちは、「藤色・藤紫・青紫・菫色・鳩羽色・菖蒲色・江戸紫 ・紫・古代紫・茄子紺・紫紺」と、藤色から紫までのわずかな色相の差を区別し、呼び分け、染め分けた。
 色の名のなんと豊かなることよ。
     〔答〕 短脚の夫のズボンの裾上ぐと妻は糸屋で色糸を選る  鳥羽省三


(南 葦太)
    田で終わり濁らない「た」の名字なら中田藤田のふたつだけです

 まだまだ在るよ、南さん。
 「柴田・堀田・青田・城田・杉田・瀬田・刈田・菊田・栗田・沼田・見田・三田・鎌田・蒲田」と、いくら挙げてもきりが無いから、ここらで止めますが。
     〔答〕 田という字、濁って読む名の男性で、私と寝たのは権田常務だ  鳥羽省三

 権田常務と鳥羽とが「寝た」となると、二人はホモ関係にあると疑われますが、そうではないのです。この歌は、さる商事会社に勤めるOLに仮託して詠まれた作品なのです。


(振戸りく)
    箪笥には母が選んだ藤色の小紋が出番を待ち続けてる

 藤色の小紋を着て行く場面とは、どんな場面かしら。
 まさか、結婚式ではあるまい。
 お茶会や踊りの会や句会や歌会。
 還暦祝いの席。同窓会。勤務先の会社の新社屋の上棟式。
 そして、バツイチ同士のお見合いの席。お友達との会食の席、などなど、いろいろと考えられます。
 「母が選んだ」と「出番を待ち続けてる」とが、謎を解く、ヒントになるのであろうが、本作の場合は、かえって、それが、謎解きの邪魔になりそうにも思われます。
 もしかしたら、本作の作者<振戸りく>さんは神楽坂の芸者さんで、藤色の江戸小紋を着て、これからお座敷に出掛けるのかも知れません。
     〔答〕 ユニクロのセールで買ったフリースが慈善バザーの日を待っている  鳥羽省三 


(村本希理子)
    蔓先があたまのうへで揺れてゐる 左巻きなら山藤だつて

  「左巻きなら山藤」、「右巻きなら(庭)藤」と言うのは、ただの俗説かと思っていたが、名の通った辞典にもそう書いてあるから、きっと根拠のあることなのだろう。
 ところで、本作の「藤」は、「山藤」だったのでしょうか、「庭藤」だったのでしょうか?
 上の句で、「蔓先があたまのうへで揺れてゐる」と言い、下の句で「左巻きなら山藤だって」とまでは言っているが、それ以上のことは言っていないから、その藤について、それ以上のことは知り得ない。
 でも、「それ以上のことを知り得ない」から、この歌は駄目だと、私は言いたいのではない。
 むしろ逆なのである。
 「左巻きなら山藤だつて」とだけ言うことに拠って、その藤について、それ以上のことを知りたい、と思っている、動作主の心の姿勢を示す。
 それと同時に、読者にも亦、「山藤だったのかしら、庭藤だったのかしら?私も知りたいわ。希理子さんにメールでもやって、作中の藤の秘密を尋ねようかしら」などと疑問を抱かせる。
 ところで、希理子さん。
 本作について、そんな内容のメールが届きませんでしたか?
     〔答〕 「左巻き?」それとも「蔓は右巻きか?」 やらせのメールをやろうかしらん(笑)  鳥羽省三
 とは思うが、まさか、私もそこまでは暇人でない。


(EXY)
    藤が丘 東山線 始発駅 地下鉄なのに ホームは高架

 拙者ご用達の東急「田園都市線」にも「藤が丘」駅が在って、わが連れ合いは、その駅前に在る、「有田焼の店」の顧客となり、せっかく買い求めた高価な磁器を、せっせせっせと割って、その店の経営者を喜ばせている。
 本作の作者、<EXY>さんご用達の「東山線」にも、「藤が丘」駅が在るとお見受けする。
 東急「田園都市線」は、南町田駅から、藤が丘」駅や、寓居の最寄りの<たまプラーザ駅>を経由して、多摩川を渡った二子玉川駅まで。
 通称<ニコタマ>の二子玉川駅から先は、地下に潜って、東京メトロの「半蔵門線」となりますが、その半蔵門線の<九段下駅>の駅前にも、名にし負う「花田」という有田焼焼きの店が在り、この店の経営にも、我が愚妻は甚大な協力をしています。
     〔答〕 藤ヶ丘 田園都市線 途中駅 ニコタマから先「半蔵門線」  鳥羽省三


(酒井景二朗))
    藤棚の下で莨をふかすのが贅澤だつた日を忘れない

 私が新米教師だった頃の同僚に、<A・H>という男がいた。
 この男が、ある時、私に向かって、こう言うのだ。
 「鳥羽さん。私が教師になっていちばん嬉しいのは、これからは、自分が稼いだお金で煙草が吸えることだ。煙草は大学生の頃から吸ってはいるが、これまでは、親父から送られて来たお金をちょろまかして吸っているような気がして、罪の意識に苛まれ、せっかくの煙草が、ちっとも美味しくなかったからね」と。
 その問い掛けに、私は答えるすべを知らなかった。
 何故なら、その男は、「我が県の教育の将来をリードするのは<A・H>だ」と、自他共に許す、自信満々のエリート教師であったからだ。
 私にしてみれば、「彼にして、この弁有り」という気持ちがしたからだ。
 あれから四十六年。
 私が定年退職してから九年余り経ち、<A・H>氏は教員生活を退いた後、どこかの団体に天下りをし、今春になって、その天下り先からも退いて、今は悠々自適の生活をしているらしい。
 鳩山内閣の手によって、煙草の価格が六百円にもなろうかと噂される今日。
 <A・H>氏は、今でも未だ、煙草を吸っているだろうか。
 私は、酒井景二朗さん作のこの歌を読んで、久しぶりに、私自身と<A・H>氏との新米教師時代のことを思い出した。
 昨年の秋、奥湯河原で、教師仲間の寄り合いがあり、私は久しぶりに<A・H>氏と出逢い、久闊を叙したが、彼は、追い詰められた溝鼠のような剥げ頭だった。
 私の頭髪は自他共に許すロマンス・グレー。
 この頃の私は、東京のさる芸能プロダクションに席を置き、テレビ・ドラマの殺され役として、極くたまには、皆さんの御宅の薄型画面にも、悶絶する私の姿が映ることでしょう。
     〔答〕 そのかみのエリート教師の剥げ頭 天網恢恢疎にして漏らさず  鳥羽省三 


(sora)
    飴色の籐のチェアの軋む音は黄昏時に半音上がる

 今回の<お題>は「藤」であって「籐」ではない。
 したがって、本作は、早晩、投稿条件を満たしていない、という理由で削除される運命にあるが、それはしては、この作品の上々の出来栄えが惜しまれる。
 因って、字数を費やして、干渉記事ならぬ観賞記事を書くことにする。

 実を申すと、我が家のリビングにも、目黒区柿の木坂の「マダムロタン」から買った籐製の円形テーブルと椅子三脚のリビングセットが置かれている。
 転居前の我が家は、今の寓居の五倍もの広さの戸建であったので、そのリビンクには、件のよりも三倍も大型の、椅子六客付きのリビングセットが置かれていた。
 これも亦、柿の木坂の「マダムロタン」から買ったものであるが、購入当時は、今と違って、輸入物をありがたがる時代だったから、購入価格は六十万円余りであった。
 でも、大きさが半端ではなく、転居先のリビングにはとても入り切らない、と分かっていたから、こちらのセットは、今回の転居に際して、生家を継ぐ兄夫婦に呉れてやってしまった。
 私が、いくら「呉れるから持って行け」と言ったって、せめて購入価格の十分の一くらいのお金を置いて行くのが、某運輸会社の専務にして、私の実兄たる者とその妻のエチケットではあろうと思われる。
 だが、ケチの上に「ど」がつくくらいの倹約家である兄夫婦は、無情にも、ビタ一文も置かずに、それを、自社のトラックにつけて自宅に運んで行った。
 兄夫婦の非常識憎さに、思わず脱線してしまったが、そういうわけで、我が家のリビングにも、一応、籐製のささやかなリビングセットは置かれているのだ。
 陶磁器を集めることを趣味としている、我が連れ合いは、そのテーブルの上に、常時、ヘレンドのティカップをセットして置き、自分の妹などが訪れた際は、それにハーブティなどを注いで出すことにしている。
 そうそう、ヘレンドのティカップと言えば、それを巡って、つい先日、面白いことがあった。
 私の長男は、今は大阪に単身赴任しているが、その連れ合いと娘二人が、田園都市線・溝の口駅から徒歩十分のマンションに居住している。
 私たち夫婦は、女三人だけの長男の留守宅の生活について、それなりの心配はしているのだが、先方の迷惑も考えて、留守宅訪問はなるべくしないようにしている。
 だが、先月半ばに、久しぶりに長男の留守宅を訪ねた。
 私にすれば、なるべく行きたくなかったのだが、「この頃、夢見が良くない。あの子たち(二人の孫娘)が、流行り風邪にでも罹っているのではないかしら。その事で、○子さん(長男の連れ合いの名)が、四苦八苦しているのではないかしら」などとしきりに言う、連れ合いの言葉に抗し切れなかったからだ。
 で、連れ合いの姉の家から送られて来た林檎をどっさりと持って、私と連れ合いとは、女たち三人の住まいに出掛けた。
 久しぶりとの挨拶を交わし、林檎と一緒に持って行ったケーキを食べ、長男の嫁が用意してくれていたナポリタンも食べ、孫娘たちが大好きなゲームも一緒にやって、「暮れるまでは、時間が未だかなりあるけど、そろそろお暇しようかな」と、私が言うと、連れ合いもOKの合図をしたので、私は座席を立った。すると連れ合いが嫁に声をかけた。
 「○子さん。私たち、まだ時間が早いから、帰宅前に、ニコタマのデパートを覗いてみようかしら、と思っているの。お暇でしたら、一緒に出掛けませんか。もしも、お忙しかったら、○乃ちゃん(長小学三年の長女)を借りていきたいわ。お父さんと二人だけでデパート歩きをしても、ちっとも面白くもおかしくもないから。帰りは、○子ちゃんを溝の口駅でタクシーに乗せるから心配ありませんよ」と。
 連れ合いの言葉が終わるや否や、「行く、行く。わたし、前々からニコタマのデパートに行きたいと思ってたんだ。帰りのタクシーはいいから。わたし一人で、駅前からバスに乗って帰るから心配しないで。その代わり、ニコタマのデパートで、美味しいお寿司を食べたいの。わたし、エンガワが大好きなの」と言って、○乃ちゃんが身を乗り出してきた。
 で、孫娘の○乃ちゃんを借りて、私たちは、ニコタマのデパートに行き、先ず、一等先にと、○乃ちゃんと一緒に特上寿司を食べて、それから、いつものようにデパート内の陶磁器売り場に足を運んだ。
 連れ合いがあれこれと吟味している間に、私と○乃ちゃんとは、売り場内のソファーに腰掛けて休んでいた。
 だが、ふと視線を移すと、ハンガリー製の磁器・ヘレンドを並べている一廓が眼に入った。
 そこで私は、○乃ちゃんと一緒に、そこに足を運んで、ざっと見渡した。
 すると、あるはあるは、そこに並んでいる食器の殆んどが、連れ合いが趣味で集めている、私の家の普段使いの食器・ヘレンドと同じものであった。
 そこで私は、「この店のヘレンドはたいしたことがないや。私の家では、これらと同じヘレンドを、普段使いの食器として使っているんだぞ。私の家で普段使いをしているヘレンドは、洋食器の最高級品なんだ」と、○乃ちゃんに少し自慢してみた。
 すると、○乃ちゃんは、「そんなことないわ。Uくん(私は、○乃ちゃん姉妹に、おじいちゃんとは呼ばせずに、Uくんと呼ばせている)ちのお茶碗が最高級品だなんて、そんなことないわ。わたしんちのお茶碗こそ最高級品よ。私たちが、学校とか幼稚園とかに行っている時、ママはよく、近所のお友だちを集めて、お茶するんだけども、その時使うティーカップは、最高級品だと、ママが言ってた。だから、そんなデタラメなこと言わないで。お寿司はごちそうになったけど、そんなデタラメなことを言う、Uくんは大嫌い」と言って、私の自慢話を耳に入れようともしないのだ。
 それから十日ほど経った、三連休の中日に、「出張の序でに帰宅してたから」と言って、○乃ちゃんを連れて、長男が寓居を訪れた。
 予めそのことを知っていたので、私は、食器棚からヘレンドのティカップだけを六客ほど選び出して、件の籐製の円形テーブルの上に並べて置いた。
 そして、大人げなくも、○乃ゃんに向かって、「どうだい、○乃ちゃん。Uくんちのヘレンドはいいだろう。Uくんちのヘレンドのティカップと、○乃ちゃんちのママのご自慢のティカップと、とちらが高級品だと思う。そして、どちらが、数多いと思う。どうだ、まいったか。」と言った。
 すると、負けず嫌いな○乃ちゃんは、「お茶碗はまあまあだけど、お茶碗を並べたテーブルが良くない。飴色に染まっていて、おんぼろみたい。こんな、ママのと同じくらい高級品のティカップを、こんなおんぼろで汚らしいテーブルに並べて置くなんて、Uくんのセンスは最悪!」と言ったきり、その後は、<うん>でも<すん>でもないのだ。
 またまた、横道に入ってしまい、何がなんだか解らなくなったが、話を本筋に戻そう。
 真夜中になると、そのリビングセツトの椅子が泣き出すのだよ。
 ○乃ちゃんに嫌われた、件のリビングセツトの椅子が、ギューとか、キューとか言って、泣き出すのだよ。
 眠れぬまま、寝室の隣りのリビングルームから聞こえて来る、籐椅子たちの泣き声に耳を傾けている、私の心境は複雑だ。
 籐椅子たちは私に、「お前は、わたしたちの仲間を、あのドケチの兄夫婦たちに呉れてやったのだな。この恨みは一生忘れないぞ」と、訴え掛けているようにも思われるし、また、「わたしたちは、いささか齢を取り過ぎてしまったから、お前たちを掛けさせるのが重いのだよ。特に、お前の連れ合いの尻を乗せた時の辛さには、耐えられないのだよ」と語り掛けているようにも思われる。
 泣き声は、日によって違うが、濁ってギューと泣くのは、昼間、雨が降った日が多く、キューと泣くのは、昼間、晴れていた日が多いから、これは気圧の関係だろうか。
     〔答〕 黄昏の飴色椅子の泣き声は、天気によって、キューともギューとも  鳥羽省三 
         飴色の籐製椅子の泣き声に耳を傾けものをこそ思へ            同         

(佐原みつる)
    藤棚の道を歩いて来たことも回り道だと言われてしまうか

 動作主が、「藤棚の道を歩いて来た」のは何故だろうか?
その謎を解くために先ず考えるべきなのは、その「藤棚の道」の在る辺りが、どういう地域であるかということである。
 仮にそこが、アフガニスタンのタリバン出没地帯であるとしたならば、、それ(藤棚の道)以外の道を歩いて来たら、誘拐の憂き目に遇う危険性があると思ったからだろう。
 仮にそこが、タイとカンボジアとの国境紛争地帯であるとしたならば、それ以外の道を歩いて来たら、地雷原に踏み込んでしまう危険性があると思ったからだろう。
 仮にそこが、フランスのパリーであるとしたならば、それ以外の道を浮き浮きしながら歩いていたりすると、パリー名物の犬のウンチを踏んでしまいかねないと思ったからであろう。
 仮にそこが、鳥羽省三んちの庭だったりすると、「俺んちに来たら、必ず藤棚の下の道を歩け。それ以外の道を歩いたら罰金・百万円」と言われると思ったからであろう。
 でも、其処まで考えた結果、それ以外の方法は無いと判断して、「藤棚の道を歩いて来た」としても、誰かから、「(藤棚の道は、)回り道だと言われてしまうか」も知れないし、また、「藤棚の道を歩いて来た」としても、それらの危害に遇わないとも限らない。
 だから、人生は決断が肝心。
 他人が何と言おうとも、自分の気持ちが大事なのだ。
     〔答〕 藤棚の下道行こうと行くまいと僕の勝手だ文句言わさぬ  鳥羽省三


(珠弾)
    飛び加藤 大政小政 坊や哲 長く生きてりゃ見知り置く名も

 「飛び加藤」「大政小政」「坊や哲」の三人、四人は、いずれも、本作の作者<珠弾>氏、お気に入りの小説の登場人物の通り名であろう。
 「長く生きてりゃ見知り置く名も」忘れて、作者の知人の何方かがお亡くなりになった、と言うのでありましょうか?
 それかあらぬかは判らないが、評者は一時期、阿佐田哲也氏の麻雀小説『麻雀放浪記』に熱中したので、「坊や哲」の名が登場する、本作に魅力を感じた。
     〔答〕 <飛び加藤>またの名<加藤段蔵>は戦国の世の一匹狼  鳥羽省三


(笹本奈緒)
    歯を見せて笑う重役 どの顔も山藤章二の似顔絵のよう

 笹本さんの仰る通りです。
 会社の業績が上がったと言っては笑い、下がったと言っても笑い、窓際の誰かが退職したと言っても笑い、官僚の誰かが我が社に天下りして来ると言っても、「山藤章二の似顔絵のよう」に、「歯を見せて」笑ってばかり居る、彼ら重役どもの笑顔につける薬はない。
     〔答〕 このビルは山藤商事の社屋です。笑ってばかりの重役が居る。  鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
    貴女には相応しくなし冷静と情熱配分たがへし藤色

 「藤色」が「冷静」と「情熱」との配分を間違った色である、との作者のご主張には納得が行く。
 しかし、そんな色である「藤色」は、「貴女には相応しくなし」と断じる、作者と、作者からそのように断定される人物のイメージが、私にはイマイチ湧かない。
 湧きそうでイマイチ湧かないところが、本作の魅力であろうか。
     〔答〕 ご婦人の紫色の頭髪を見る時われは哀しと思う  鳥羽省三


(今泉洋子)
    老いること嘆かないでね藤色のヘアーカラーが似合つていますよ

 前掲作の文意に反するが、広い世の中には、「藤色のヘアーカラーが似合つて」いるご夫人もいらっしゃるのでしょうね。
     〔答〕 だとすれば、老いは嘆くに値せぬ 我も染めなむ胡麻塩頭  鳥羽省三
 

(お気楽堂)
    歳三の実務能力頼みとはいえど近藤勇の人望

 生き延びて五稜郭まで行った、彼・土方歳三の境涯に、時折り私は茫然とします。
     〔答〕 新撰組・鬼副長の歳三の胸に浮かんだ豊多摩(とよたま)の日々  鳥羽省三 


(桑原憂太郎)
    1組の藤田に指導を入れたあと2組の藤田に謝罪を入れる

 本作の作者<桑原憂太郎>氏は、我が同業者。
 その気持ち、解る、解る、解る。
 「指導を入れたあと」に「謝罪を入れ」なければならないことへの侘しさ空しさは、当事者以外には、到底解り得ないものではあろうが、「謝罪を入れる」のが「指導を入れたあと」の出来事だから、本件は、歌材となり得るのだ、とも言い得る。
     〔答〕 三組の麻生を落第させたとて県教委からお目玉喰らう  鳥羽省三


(岡本雅哉)
    江ノ電に藤沢駅で乗り換えて海に行くふりだけはしてみた

 「ふりだけはしてみた」が効いている。
 動作主は、小田急で箱根に行こうとした。たまの休みだから、温泉にでも浸かって、体をゆっくり休めようと思ったからである。
 ところが、そうは問屋が卸さない。
 相模大野駅で、飛びっきりの美人ながら、社内一のうるさ型の同僚・南野園子さんが動作主の乗っている車両に乗って来たからだ。
 彼女は、彼のことを、「彼こそ真の海の男だ」と勝手に思っていて、密かに彼を尊敬し、思慕の情をも寄せている様子である、とは、社内の専らの噂でもある。
 そして、彼も亦、彼女に好意を持っている。
 そこで、彼は、<ふりだけ>ではなく、結局は江ノ電に乗ってしまった、が、実は、
     〔答〕 江ノ電に藤沢駅で乗り換えて鎌倉大仏拝んで帰る  鳥羽省三


(キヨ)
    藤井寺出身の子がやってきて「そこにおじゅの?」とのらねこを呼ぶ

 「おじゅの」は、藤井寺地方の方言だろうか。
 だとすれば、本作はなかなかの傑作。
     〔答〕 滋賀出身の男来て「未だ居くさる」とオバマ氏を指し言う  鳥羽省三 

一首を切り裂く(036:意図)

(うたまろ)
    集団の意図を象るマスゲーム 位置はあっても実存はない
 
 幼稚園や小学校の運動会でやる「マスゲーム」。
 あれは、あれをやる「集団」が、その「意図」を形象化して、誰か他人に見せようとしてやるものである。
 例えば、それをやる「集団」が「やまゆり幼稚園年長組集団」であったとする。
 彼らは、本当は、教育という名の下に彼らを支配する、「やまゆり幼稚園の先生及び先生を支配する経営者集団」に、あの難しいゲームをやらせられているのだが、そこは、年端の行かない彼らのことだから、彼らは、そのゲームを、他集団の意志でやらせられているのだ、とは思わず、自分たちの意志でやっているのだ、と思っている。
 この場合の、彼らの「意図」とは、「この難しいゲームを上手にやって、何かと言えば怒ったり叱ったりして、恐いだけが取り得の先生集団及び、その先生を支配する、この幼稚園の経営者集団から及第点を貰い、自分たちの父母から、誉めてももらいたい」というものである。 
 マスゲームが行われた、運動会当日、かの「集団」を構成する「やまゆり幼稚園年長組」の一人一人は、その「意図」を「象る」べく、マスゲームに真剣に取り組み、仲間と手を繋いだり、頭の上の冠が飛びそうになるのを抑えたり、輪になったり、列を作ったりして、それほど広くはない幼稚園のグランド中を、懸命に動き回り、走り回り、先生から指示された自分の「位置」を完璧に保持し、役割りを十分に果たした。かくて、彼らは、彼らの演じるマスゲームに込めた彼らの「意図」を、形象化することに成功したかに見えた。
 だが、園児たちが、その「意図」の形象化に成功したと思ったのは、そのゲームを演じた園児自身と、彼らにそのゲームを強いた「やまゆり幼稚園の先生及び先生を支配する経営者集団」だけであって、当日、朝早くから会場に詰め掛けて、そのゲームの展開の一部始終を視ていた、園児の父母や一般観客の目は、意外にも厳しかった。
 そうした観客の中の一人に、ブログ「見沼田圃の畔から」の取材記者・鳥羽省三がインタビューした。
 「あなたは、この素晴らしいゲームを演じて私たちを感激させたお子様のお父様でしょう。失礼ですが、お名前は?」
 「<うたまろ>です。私の職業は、歌舞伎町の風俗店のマスターで、息子は、今のゲームに出た、この幼稚園の年長組所属です。」
 「これはこれはご丁寧に、ご職業までも。」
 「で、息子さんや息子さんのお仲間である、可愛い園児たちが演じた、今のゲームの出来を、あなたはどう評価されますか?」
 「はい、ゲームが終わった後、観客席の隅々から万雷の拍手が沸き起こり、今でも未だ、その興奮が冷めないことから判るように、息子や息子の仲間たちは、確かに良くやりました。先生から指示された、自分の位置を完璧に遵守し、自分自身の役割りを十分に果たして、あの難しいゲームを見事に演じてくれたとは思います。でも、私は、このゲームが始まってから終わるまで、息子たちの目や表情をじっと見ていたので判るのですが、息子たちは、先生たちから与えられた自分の役目を果たすのに懸命なあまり、自分自身が、このゲームを楽しむ余裕がなかったのではないですか。学校教育法で定められた、教育機関である幼稚園で行われるものだとしても、マスゲームは、たかが<ゲーム>です。ゲームとは<遊び>。息子たちは、何よりも先ず、このゲームを楽しむべきだったのではないでしょうか。今日のゲームにはそれが欠けていた。つまり、私の息子と息子の仲間たちが演じた、このマスゲームには、息子たちの<位置>は在っても<実存>が無かったのです。人間は誰でも、子供でも、楽しい時にいちばん充実感を感じ、<自分は確かに自分であり、自分は確かに生きている>と実感するものです。息子たちの今日の演技には、その実感が無かったのです。これは何も、子供たちの遊びに限らず、生きていくために大人たちが行う、仕事についても言えますよ。私の店のナンバーワンの女性は、お客様を十分に楽しませ、恍惚とさせますが、それ以上に、その仕事をすることに因って、彼女自身が楽しんでいるのです。」
 「まあ、そこまで仰いますか。有難うございました。それでは、お子様と一緒に、気をつけてお帰り下さい。」
 「いーえ、私こそ、言いたいことを言わせてもらって、ありがとうございます。そのうちに、お店の方にもお出掛け下さい。ナンバーワンに、超スペッシャルなサービスをさせますよ。」

 それにしても、<うたまろ>氏は、「実存」などと、まるで蒸し風呂に入って、麹菌の生えたような古臭い言葉を持ち出して来たものだ。彼は、女性たちを働かせながら、白水社から出版された『サルトル全集』でも読んでいるのかしら。
 でも、今は実存主義を否定した構造主義の時代。いや、ついせんだって、構造主義の親玉みたいな、あのお方がお亡くなりになったから、それもお終いになって、ポスト構造主義の時代なのだ。いや、それももうお終いかな。
     〔答〕 <うたまろ>がマスゲームなどと言ったから我はあちらのマスかと思った  鳥羽省三
 

(庭鳥)
    意図せずに君と出会いし昨日より再会する日意図して探す

 偶然、ばったり、選ばれて真っ赤な鶏冠を被っている雄鶏さんと出会ったのは昨日。
 その昨日から、雌鳥のわたしは、「今度、雄鶏さんと会えるのはいつかしら」と、嘴でつつくようにして、神宮暦に見入っているのだ。
 私見に過ぎませんが、文語文法の過去の助動詞「き」を用いたスタイルは、この内容に相応しくないように、私には思われました。
     〔答〕 意図せずに君と出会った昨日から意図して再開する日を探す  鳥羽省三

 「し」を止めて口語調にしたのですが、そのついでに、助詞「より」を「から」に替えてみました。「より」よりも「から」の方が軽く、より<口語的>だからです。
 それともうひとつ、御作では、最終句の頭に在った「意図して」を、私は、四句目の頭に持って来たました。
 その理由は、この位置にこの語句を置くと、「(今度は君と)意図して再開する」という意なのか、「再開する日を(今度は)意図して探す」意なのか、よく判らなくなり、読み手を困惑させる効果がある、と思ったからなのです。


(眩暈丸)
    蜘蛛の糸垂らした意図を汲み取れず再度地獄へ落ちるカンダタ

 悪人・カンダタの前に、一本の蜘蛛の糸を垂らした、お釈迦様の真の意図は何か?
 あの童話を、遠い昔に読んだきりの私には判りません。
 カンダタの行った一善に免じて、カンダタを地獄の底から救い出そうとしたのか?
 それとも、カンダタを試そうとしたのか?
 そこのあたりのことは、案外明確に、芥川自身が書いているのかも知れませんが、転居の際に、芥川龍之介全集を捨ててしまったので、今となっては読みようがないのです。
     〔答〕 案の定糸を揺らしたカンダタの意図明らかな筋の貧しさ  鳥羽省三

 それにしても、<眩暈丸> とは、芥川龍之介の別の小説の登場人物を連想させて、この作品の作者に相応しいペンネームですね。まさか本名では。


(根無し草)
    意図的に 仕組まれている 騎馬戦で ポロリポロリと お乳を晒す

 昨今は、女子の騎馬戦も在るのでしょうか?
 もし、そうならば、暇を持て余している私も見物に行きたいと思います。
 そこで、根無し草さまにお願い。
 女子の騎馬戦が行われる運動会の会場と日程とを、他の方々には内緒で私にご教授下さい。
 もし、その情報が他の方々に漏れてしまったら、先日行われた、元タレント某の裁判の傍聴券漁りのような大騒動を引き起こして、世間様に大迷惑を掛けてしまうことでしょうから、連絡は、どうぞ内緒で。


(ことり)
    スーパーの裏口あたりに夕暮れが意図したようにまちぶせている
 
 この作品を読んで私は、先日来、世間で大騒ぎの島根県立大学生殺人事件を思い出して、ぞっとしました。
 あの女子大生が殺されたのも、スーパーでのアルバイトが終わって、アルバイト先のスーパーの裏口から出た直後とか。
 「夜は悪魔の司る世界」と、彼のシャルル・ボードレールが言っています。
 夜間外出の際は十分に注意なさるように、作風から推測するに、妙齢の美女かと察せられる、<ことり>さんに、本ブログの管理者から切に切にお願い申し上げます。
 ところで、本作は、「意図したように」の配置が効き目。
 この位置に、この語句を置くことに依って、一首の意味に陰影が生じ、深みが出て来る。
 即ち、「アルバイトを終わって、スーパーの裏口から出ようとした時、予め彼女が意図し、予想し、願っていたように、夕暮れがスーパーの裏口あたりに立ち込めていて、未知への探求に胸をときめかせている彼女をまちぶせていた」とも解釈され、また、「アルバイトを終わって、スーパーの裏口から出ようとした時、まるで、彼女が恐がりであることを知っている魔人か何かが、暗くなったら彼女が恐がるに違いないから、彼女がスーパーの裏口から出て来るタイミングを狙って、そのあたりを暗がりにしておこうと、意図していたように、彼女が出て来たスーパーの裏口あたりに暗がりが立ち込め、彼女を待ち伏せていた」とも解釈される。
 と言うのは、何事も大騒ぎをして、観客や読者を驚かせ、面白がらせようとする、私・鳥羽省三のサービス精神を十二分に発揮しての解釈。
 本当のところは、本作の動作主は、作中のスーパーのアルバイト店員などではなく、仕事や通学の帰りに、いつも、そのスーパーの前を通るだけの女性かも知れない。
 でも、彼女が無類の恐がりであることは事実で、日の暮れが早まったこの頃の彼女は、帰り道でいちばん恐いのは、この郊外スーパーのあたりを通る時だ。恐いもの見たさに、そっと視線をやったら、私の心中を見通し、私を恐がらせることを意図したように、そのスーパーの裏口あたりに夕暮れが立ち込め、私を待ち伏せていたかのように思わせた、というのが、まっとうな解釈であろう。
     〔答〕 夕暮れは<ことり>とも音立てず少女<ことり>を待ち伏せていた  鳥羽省三


(水口涼子)
    胴長に悩む貴女にアングルの描くオダリスク見せたその意図

 「文化会館の前で待つから。」と比呂志。
 否応も無く、命令口調の言葉であったから、少しむかついた律子が、「と言われても、その範囲は広いから、もう少し狭く指定して。」と言うと、比呂志は、「なら、東京文化会館の、国立西洋美術館の入り口に面してる側だ。時間は午前十一時だぞ。絶対に遅れるなよな。」と、前よりもっと声高な口調で言った。
 翌日の十時半頃、少し早目にと、東京文化会館の前に、律子が立っていたら、後ろから肩を叩く者がいる。そこで、ひょいと振り向いたら、そこには、いつもの一張羅に身を包んだ比呂志が、ぶすばった顔をして立っていた。
 その場で、二こと三こと言葉を交し合った後、比呂志は、後ろを振り返ることもなく、上野公園の奥の方に入って行った。
 律子にすれば、そうした比呂志の態度は、憎憎しい以外のなにものでもなかったが、抵抗しても、所詮無駄。その後を黙ってついて行くしかなかった。
 行き先は東京国立博物館。
 何処で手に入れたかは知らないが、その時、新装間もない「昭和館」で行われていた、「ルーブル美術館展」の入場券を二枚、比呂志は持っていて、それをもぎり嬢に渡すと、半券も受け取らずに、黙って俺について来い、と言わんばかりの強張った態度でエスカレーターに乗り、第一展示室の暗がりの中に入って行った。
 少し遅れて、律子が入って行くと、比呂志は、展示室の正面に展示されている、裸婦を描いた横長の油絵の前に腕組みをして立ち、絵の中の裸女に向かってぶつぶつと何事かを呟いていた。
 その絵とは、アングル描く「横たわるオダリスク」。
 古ぼけた額縁の中では、頭髪にターバンみたいな布巻いた、異常に胴長の裸女がクラシカルなベットに身を横たえ、田舎育ちの律子の装いを軽蔑するようにして睨みつけていた。
 自分の胴長を恥じている律子にとって、気難しい比呂志と一緒に、その絵の前に立ち尽くし、自分と同じような胴長な女に見入られている数分間は、とても耐え難かった。
 そんな律子の気持ちも知らずにか、比呂志は相変わらず、身を横たえて、自分の女を睨みつけるオダリスクに向かって、何事か、ぶつぶつと口を動かしていた。
     〔答〕 胴長が胴長を視る美術館 見られているのか見入っているのか?  鳥羽省三 


(原田 町)
    意図したるごとくに子らは離れゆきつんつんつばめ巣作り始む

 生まれ故郷の村役場に勤続四十年。
 税務課長の椅子を最後に、その春、定年退職をした父が、自在鉤のかかった囲炉裏端で、「先々代の、その亦お爺さんが建てた家と聞いているから、この家も百年以上の歴史を刻んだわけだ。この頃は、元の馬小屋の雨漏りも酷くなり、役場に四十年も勤めた者が、こんなあばら家に住んでいるのも、親戚や町の人たちに示しがつかない。だから、この際、私の退職金を崩して、少しは見栄えがするように、この家の、リフォームとやらをしてみないか。台所にシステムキツチンを入れたら、お前も少しは楽になるだろうし、お蚕(かいこ)部屋だった二階を三つに分けて、洋間にでも改装したら、少しは住み良くなり、子供たちの勉強にも熱が入ることだろう」と言い出した時、意外なことに、母は猛烈に反対した。
 「あなたは、一体、いくら退職金を貰って、そんなことを言い出すのですか。この家を改造するとしたら、最低でも三千万円。リフォームに三千万円掛けて、その後、いったい幾らお金が残るって言うんですか。その後の生活費はどうするんですか。子供たちだって未だ親掛りだし、それに、第一、二十一世紀の今ごろ、軒先に燕が巣を掛けたり、天井裏にスズメバチの巣がぶら下がっているような家に、子供たちが何時までも住んでいるわけがありませんよ。学校を出て、自分でお金を稼げるようになったら、重行だって、晴之だって、信行だって、こんな家や私たちを捨てて、すたこらさっさと出て行くに決まっていますから、家の改装なんて金輪際、やめやめ。」と言って。
 そうした母の意図のごとくに、その翌年、いちばん上の兄の重行が、県庁所在地の長野市に出て行った。
 次の年は、直ぐ上の兄の晴之が、ある銀行の松本支店に職を得て、私たち残り家族の手を振り払うようにして出て行った。
 そして、その二年後の今年、私も亦、二人の兄たちのように、父と母とを、築百年余のこの家に捨てて、東京に出て行こうとしている。
 生まれつき頭脳明晰な二人の兄たちとは違い、松本の三流大学を出たばかりの私には、未だ職が無く、お金も無いが、高校時代に深い仲となってしまった律子を連れて、来月にでも、この古い家を出て行こうとしている。
 先週、燕の番いがやって来て、また、いつもの年のように、見ざる聞かざる言わざるの彫刻が施された、玄関の欄間の隙間に巣を掛けた。
 この燕たちは、そのうちに、この巣で子育てを始めることだろう。
 そうすれば、三人の子供たちから見放された、父や母の淋しい生活が、少しは紛れることだろう。
 一昨日、鎮守の森に出掛け、二十日振りに恋人の律子としのび逢ったが、律子は、「この頃、つわりが酷いうえ、お腹の膨らみが目立って来たから、この町にいつまでも居られない」と、私に言い、泣きながら私の体にしがみついてきた。
 昨夜、父が町内の常会に出かけ、母が入浴している隙に、私は、内蔵に忍び入り、先祖が残していった慶長小判十枚を、フリースのポケットに、こっそりと入れて来た。
 そして、今日の昼、母がへそくりを入れている小箪笥を開けて、その中から、預金高、五百万円の預金通帳を持ち出した。
 しかし、このままでは、母の預金を引き出せないから、そのうちに、母の目を盗んで、印鑑も盗み出さなければならない。
 仮に、私のこうした行為を母が知ったとしても、母は私を怒らないだろう。そう、母は、父には滅法強く、私たち子供には、滅法弱いのだ。二人の兄に較べて、頭の悪い私には特に。
 しかし、そんな母にも、律子とのことは話せない。
 そんな私の心をせかすように、軒先の燕たちの巣作りは、急ピッチで進んでいる。
     〔答〕 このお腹どうしてくれると泣く娘(こ)いて、軒の燕は巣作り急ぐ  鳥羽省三


(A.I)
    神さびた茅葺屋根の集落にすべての意図は繋がっていた

 『合掌集落殺人事件』、名探偵、神山翔太郎の登場です。
     〔答〕 茅葺の曲がった梁に突き刺さる血濡れた鑓が語った謎は  鳥羽省三


(伊藤真也)
    丹念に編み込まれてる夏マフラー 見え隠れする縦横の意図

 「一ヶ月も掛けてこれを編み、雅弥にプレゼントしてくれた律子の意図が、丹念に編み込まれている夏用のマフラーの、縦糸・横糸に、見え隠れしている」という訳だが、その律子の意図とは何か。
 遊び心から、たった一度の関係で、この女を孕ませてしまった雅弥にとって、このマフラーに込めた、律子の、この意図はあまりに辛い。
 律子が、彼との関係の継続を、このマフラーに託していることは、遊び慣れていて、女心の隅々まで知り尽くしている、と自負する雅弥にとって、あまりにも明らかであったからである。
 でも、都会育ちで、イケメンを自負している雅弥にとって、田舎育ちの女としてはいくらか増しな顔の律子との関係などは、休日の新宿のホコ天で未だに<いか焼き>をしている、小学校時代からの悪仲間、庄次郎との関係程にも価値の無いものだった。
 「そうだ、このマフラーは、意外に役立つかも知れない。これで首を縛って、ぎゅーぎゅーに絞めてしまえば、あの女もイチコロだ。自分で編んだマフラーで、首を絞められて死んだら、あの女にとっても、本望というものだろう。善は急げ」とばかりに、雅弥は、その朝に律子から指定された、東京文化会館前に出掛けて行った。
 彼の肩には、律子から送られて来た、あの夏用のマフラーがひらひらと掛っていた。 
     〔答〕 八月の上野の森にマフラーを締めて出掛けた悪ガキの意図  鳥羽省三 

一首を切り裂く(035:ロンドン)

(暮夜 宴)
    呼んだのは母さん?それとも桜鱒?あれはロンドン橋じゃないよね?

 三十五歳と三十四歳の女性の結婚詐欺事件の話題で持ちきりの昨今では、人々の記憶から遠く去ってしまったであろうが、数年前、東北の田舎町で、現在の郵政改革及び金融担当大臣の某氏や冬季オリンピックのフィギュアスケート競技で金メダリストとなった某選手とファーストネーム中の一字を同じくする女性が、自分の娘である女児と、その女児と仲良しの近所の家の男児を殺害した事件があった。
 下の句の「あれはロンドン橋じゃないよね?」で以って、その印象は朧化されてはいるが、上の句の「呼んだのは母さん?それとも桜鱒?」から推測するに、本作は明らかに、あの悲惨な事件に取材したものである。
 自らの母親によって橋上から突き落とされ、殺害された哀れな女児の亡骸があった、あの川の、あの橋の下には、毎年、春になると、桜鱒が遡上するそうだ。
 下の句に出て来る、イギリスのロンドン橋下にも、桜鱒は遡上するのだろうか。
 先に私は、本作の下の句「あれはロンドン橋じゃないよね?」は、あの哀しい事件と本作との関わりを「朧化させている」と述べたが、そのことは必ずしも本作の欠点ではない。
 いや、この下の句在ってこそ、本作は、文芸性高い、短歌作品と成り得るだ、と断言したい。
 そして、私は、本作を、<お題>〔ロンドン〕に寄せられた作品中の最高傑作として推奨したい。
     〔答〕 呼んだのは母さん 桜鱒じゃない ここは藤里 大沢橋だ  鳥羽省三
         欄干から突き墜とされる瞬間に 見たか少女は 巨(おお)魚を  同
         「お母さん、サクラマスなど見えないよ」闇に少女はそう呼びかけたのか?  同


(蓮野 唯)
    ロンドンに序(つい)でに寄ると電話あり聞き返したらパン屋の名前

 「もののついでに」の「ついで」を、「序で」と書くのはなかなか苦しい。
 語法的には正しいのだが、「序で」と書いて、「ついで」と読んでくれる人はそれほどは居ないからだ。 
 ものは試しと、元総理の麻生くんに読んで頂いたらどうかしら?
 尻取り短歌のセカンドランナー、蓮野唯さん目下絶好調です。
 でも、国内に居て、毎日、家と職場とを往復しているだけのご主人から、「序でにロンドンに寄る」と電話があったら、それが英国のでは無く、駅前のだ、と、たいがい判りそうなものでありましょう?
 ところで、フランスパンは私の大好物だが、イギリスパンを私は食べたことがない。
 イギリス留学した知人の話を依ると、イギリスは食べ物が美味しくなく、特にイギリスのパンを食べている時の気持ちは、まるで石か砂を噛んでいる時のような気持ちだ、とのことであった。
 本当のところはどうでしょうか?
 蓮野さんなら、世界中を股にかけてご旅行なさったことでありましょうから、どうぞご教授下さい。
 でも、ご近所の<パンの店・イギリス>のそれと、本場のそれとでは、その味がかなり異なると思いますよ。
 何故なら、三年前、私が、ローマとミラノのレストランで食べたパスタは、一昨日、最寄駅・たまプラにオープンしたイタリア料理店で食べたパスタより、格段に美味しくなかったから。
 それとは別に、焼きたてのフランスパンをつまみにして、甲府駅前のサド屋の赤ワインをやるときの気持ちは、何とも言えませんね。
 蓮野さん、ご存じですか。甲府駅前のサド屋の赤ワインを。あの一升瓶に入ったやつを。
  〔答〕 「ニューヨークにたまには行くよ」と友が言う。よくよく聞けば近所の風呂屋  鳥羽省三
      「アンカラで乗り換えする」とオヤジ言う。仔細に聞けば餡辛餅よ         同    


(日向弥佳)
    乾杯はウーロンドンペリシャンパンでみな祝いたい二人の門出

 あの高価なドンペリを、ウーロン茶で割って飲む馬鹿が居るのですか?
 新婚カップルの門出に当たっては、「人生、贅沢は敵だ」ということを教えてやって下さい。
     〔答〕 乾杯は甲府のサド屋の赤ワイン 安価で美味く酔い覚めも佳し  鳥羽省三


(久哲)
    捕まえた親指姫をひん剥いてロンドンフリルのリボンで縛ろ

 幼児虐待、いや成人前の女性への猥褻な行為は、刑事罰に処せられます。
 荒縄で縛ろうと、ロンドンフリルのリボンで縛ろうと、女性を捕まえて縛るのは、立派な犯罪。
 いや、犯罪は<立派>ではない。
 久哲氏は立派でも紳士でもなく、破廉恥な痴漢に過ぎない。
     〔答〕 愛妻に着せて上げたいワンピース<オリオンロンドン、フリルのワンピ>  鳥羽省三
         「<足なが>に見せる効果が抜群」と、オリオンロンドン、ワンピの広告     同


(伊藤夏人)
    ロンドンは楽しいトコと決めつけるキャッチコピーのようだね君は

 明解そうで難解な一首。
 「『ロンドンは楽しいトコと決めつけるキャッチコピー』のようだね君は」ですか?
 それとも、「『ロンドンは楽しいトコと決めつける』キャッチコピーのようだね君は」ですか?
 テクニシャンの伊藤夏人さんのことだから、そこのあたりの混沌は、計算づくのことでしょうが。
 文意明解な短歌は面白くも可笑しくもない。
 あの健康食品・イトウ納豆のように、タテ・ヨコ・斜め十文字に糸引いて、ぐじゃぐじゃで、何がなんだか解らない短歌にも、魅力がある。
     〔答〕 「ロンドンは霧の都と言われてる。百均コートを持って行ってね」  鳥羽省三
 と、言って、私の鞄に百円均一の店で買った、ビニールコートをそっとしのばせてくれたのは、私の愛妻でした。 


(水口涼子)
    スキップで3週半目過ぎましたロンドン橋は僕には落ちず

 誤字発見? 
 「3週半目」の「週」は、「周」の誤記ではないかしら?
 それはそれとして、「ロンドン橋落ちた」という、「子取りゲーム」がある。
 遊び方は、地方によって少しずつ異なると言うが、一般的には、「向かい合った二人の子供が、両手を出し合ってアーチを組む。アーチ役以外の子供たちは、そのアーチの下を一列に並んでくぐり抜けて行く。くぐり抜けの行列が何周かした後、アーチ役の二人が、アーチを閉じ、誰か一人を捕まえる。
 これは、日本で古くから行われている、「かごめかごめ」にも通じる楽しいゲームではある。
 このゲームで、アーチ役の二人に捕まえられるのは、可愛い女の子であることが多い。
 だから、少女時代の水口さんは、たびたびアーチ役の男の子たちに捕まえられ、もみくちゃにされたのではないですか。
 「この種のゲームの特徴は、必ず、男女混合で行われ、いつも捕まえられる子と、絶対に捕まえられない子がいること」。「アーチ役をするのは、高学年の男児であることが多い。」「いつも捕まえられる子は、そろそろ猥褻の味を覚え初めた少年の、擬似性行為の対象とされるのだから哀れであるが、絶対に捕まえられない子も亦、それはそれで、哀れである。」とは、少女時代に、絶対に捕まえられなかった、という哀しい経歴を持つ、某大学、某准教授の弁。
 作中の「僕には落ちず」の「僕」とは、もしかしたら、水口さんのご主人かも知れない。
 でも、今の「僕」にとって、そんな過去のことなどは問題ではない。
 何故なら、彼は、自ら一人二役でアーチを作り落とし、涼子さんという美しい犠牲者を檻の中に独占しているのだから。
     〔答〕 ミスターが倫敦橋落としミセス捕る 水口夫妻に子供はお邪魔  鳥羽省三
         「お邪魔かしら?」娘はそっと部屋を去る。水口夫妻がロンドン橋する時    同


(磯野カヅオ)
    定職を離れロンドン行きたがるホルン奏者の友引き止めり

 動作主の「友」が、「定職を離れ」てまでも「ロンドン」に「行きたがる」のは、何故だろうか。
 彼の希望する行き先が、ニューヨークやパリーではなく、ましてや、ソウルや北京ではないのは、何故だろうか。
 そのヒントにはならないかも知れないが、イギリス民謡やイギリス人の音楽家の作品の演奏会では、ホルンなどの金管楽器が活躍する場面が多い。
     〔答〕 定食を食べずトイレに行きたがる未婚のアラフォーあまりに多し  鳥羽省三


(祢莉)
    ロンドンで会いましたねとナンパされ東京タワーでお茶を飲む午後

 私の姉や弟の家の馬鹿娘たちさえ、ロンドン留学に出掛ける昨今である。
 ロンドンでたまたま出会い、挨拶も交わさなかった男性と、帰国後また、東京タワーの近辺で出会い、「貴女とは、ロンドンでお合いしましたね。ほら、ロンドン塔の下で。そうしたご縁ですから、なんでしたら、お茶しませんか」とナンパされ、 東京タワーの喫茶室に入った。といったことは、さもありなん、話である。
 この場合、その男性のセリフの中に、「ロンドン」という地名が出て来たことが、相手の女性が、そのナンパに応じて、その男性と<お茶する>原因になろうこともまた、さもありなん、ことではある。
 ところで、この一首の登場人物たちは、本当に、ロンドンに行ったのだろうか?
 そんなことを考えていてもつまらないから、早々に筆を擱くことにする。
     〔答〕 両国で会いましたねとナンパされ、チャンコ料理をあつあつで食う  鳥羽省三 


(じゃみぃ)
    ロンドンで野球・ソフトが無くなってヨーロッパの人心狭いね

 野球(男子競技)及び野球から派生した球技のソフトボール(女子競技)が、次期オリンピック・ロンドン大会から行われなくなった。
 これらの競技は、イギリスなどのヨーロッパの主要国ではほとんど行われていないことから、その原因は、ヨーロッパの国々の人々の心の狭さにあると思い、その思いを一首にしているのである。
 ヨーロッパの国々の人々が、日本人に較べて狭量であるかどうかは別として、特定の地域で盛んに行われ、それ以外の地域ではあまり盛んではない競技が、オリンピック競技になるかどうかは、当該大会の会場国が、その競技を盛んに行っているかどうかに左右されることは事実である。
 したがって、この作品に込めた作者の思いは、それほど的外れではない。
 それはそうとして、私が、この作品の出来栄えにあまり感心しないのは、この作品の上の句と下の句が、順接の接続助詞「て」によって結ばれ、句切れ無しの一首を成しているからである。
 試みに、「ロンドンで野球・ソフトは行わぬヨーロッパの人こころ狭いね」としたらどうだろうか。
 句切れが出来て、原作よりは少しは良くなるが、これまた私のハートを射るには至っていない。
 そもそも、こうした傾向の作品は、私の性格に合わず、その原因は、あながち私の心の狭さにある、とは、私には思われないのだが、本作の作者の<じゃみぃ>さんにおかれては、その点を、いかにお考えになられておられるのでしょうか。
     〔答〕 横浜の犬はステキなドレス着る横浜の人とても優しい  鳥羽省三


(あみー)
    ロンドンはグレートブリテン及び北なんとか連合王国の首都

 試みに、本作を、「ロンドンはグレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国の首都」と改作してみた。
 作者<あみー>さんは、「北アイルランド」の部分を「北なんとか」にすることによって、ある種の効果を狙われたのでしょうか。
 その効果とは、
 ① 俗に「イギリス」と言って済ませている国の、正式な名称の複雑さと長ったらしさを風刺した。
 ② 「北アイルランド」を「北なんとか」にすることによって生じる<遊び心>を狙うと同時に、そうすることによって、作者<あみー>さんご自身のの物臭さで大雑把な性格を示して、この<お題>や、この<お題>を折り込んだ自作に対する、複雑な自分の姿勢を占めそうとした。
 ③ 「北アイルランド」と言わずに、「北なんとか」と言うことに拠って、韻律の破綻を避けた。
などが挙げられ、その他の理由や効果も考えられるが、そのうちの、効果「①」は、「北アイルランド」と明確に言っても、それほど、減少しないと思われる。
 また、効果「③」は、「北アイルランド」と正式に言っても、わずか一音節の差であり、その上、改訂作「ロンドンはグレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国の首都」からは、韻文として必要な、<内在律>も十分に感じられる。
 そして、「②」の二つの効果は、「北アイルランド」にするよりは、「北なんとか」にする方が上がることは確かであるが、「北アイルランド」にした方が、それとは別の効果が上がることも考えられる。
 
 それでは、改訂作のように、「北アイルランド」と正式に言うことに依って生じる別の効果とは、何か。
 ④ 物臭さそうに「北なんとか」と言わず、生真面目に、「北アイルランド」と言うことに依って示される、作者の生真面目な人生観とその実直な短歌観。
 ⑤ 一見すると、「④」とは裏腹に見えるが、熟慮すると、必ずしも裏腹とは言えない、<お題>「ロンドン」や、そのお題を折り込んだ自作に対する曲折した思い。

 このように考えると、短歌観賞とは、なかなか大変なものです。
 作者の<あみー>さん、「なにを、そーんなぁ。私はただふざけて、そう詠んだだけですよ」なんて、決して言ってはいけませんよ。
    〔答〕 ロンドンはグレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国の首都」  鳥羽省三
 
 冒頭に掲出した改作案を以て、<あみー>さんへの返歌としたのは、私が、この改作案に愛着を持っているからである。
 もしも、<あみー>さんが、この改作案をご自身の作としてお受け入れになられないならば、私は、これを自作の歌としていつまでも記憶しておきたい。
 その場合でも、勿論、そのアイデアは、<あみー>さんの作品から盗んだものではあるが。 

一首を切り裂く(033:冠)

(水口涼子)
    冠の親王雛を「おやだま」と読む子になごむ春のデパート

 早春にお詠みになられた作品の観賞文を、秋深まった今頃になって記していることに、いささかならぬ戸惑いを感じつつ、拙文をものしております。
 「親王」雛を「おやだまと読む子」、可愛いですね。
 お雛様に限らず、「おやだま」格の者は、たいてい冠めいたものを被っていますから、この子は、いち早く、親王雛を「おやだま」だと感じたのかも知れません。
 「王」と「玉」との違い、<テン>の有る無しを見落としたのは別として、あるいはこの子は、もう既に漢字の読解能力を有しているのかもしれません。
 いずれにしても、とても可愛く、将来有望なお子様です。
 「おやだま」という、その子の声が響いた瞬間、デパートのお雛様売り場全体に「春」が訪れたのでしょう。
     〔答〕 天皇を「てんちゃん」と呼ぶ歌人居て、結社誌「K」の歌会は侘し
 と申しても、私は特別な皇室ファンではありません。


(夏実麦太朗)
    気がつけば娘二人の名の中に草冠が被さっており

 この作品を読んで、名前の一字に「草冠」を戴く女の子の名前をいろいろと考えました。
 薫、葉子、蓉子、菜穂子、菜摘、華子、美花、美華、花子、茉里、茉莉、花梨、藍子、蘭子などといろいろさまざまですが、還暦を遙かに過ぎて、半ば呆けてしまった私の頭の中に浮かぶのは、一時代も二時代も前の子供の名前で、今の若い夫婦が聞いたら、「なにー、これー」って、奇声を発するに違いありません。
 ところで、離れて暮らす私の孫の名は「美莉」です。
     〔答〕 気がつけば孫娘の名も草冠 大地に根を張りすくすく育て  鳥羽省三
 夏実さまの愛娘様たちの御名はどんなお名前でしようか。


(庭鳥)
    あの後を初冠の男君如何に生きたか知りたく思う

 「初冠」の後は、さる高貴な女性に通じたことが発覚し、権門に睨まれて都外追放の憂き目に遇い、東国放浪の旅に出た。
     〔答〕 名にし負はばいざこと問はむ在原の昔男の在りや無しやと  鳥羽省三
         鳥が鳴く東の国のさすらひはいかにさびしきものとかは知る  同   


(久哲)
    お願いがあるの冠鳩のあの頭の羽でくすぐって 今

 こんな変なことを「お願い」するとは、才人<久哲>は、変態性欲の所有者なのであろうか。
 そもそも、「冠鳩の頭の羽でくすぐる」のは、どこの国の風俗のスペッシャルサービスなのでしょうか?
     〔答〕 お願いは聞いた いま直ぐパンツ剥ぎ、君の股座(またぐら)どついてやろうか  鳥羽省三


(ひぐらしひなつ)
    選ばれて赤い鶏冠を持つ者が喉ふるわせて解体を待つ

 雄鶏の「赤い鶏冠」は、選ばれた者のみが戴く、名誉ある冠なのですか。
 選ばれて冠を被せられた者が、今また選ばれて、殺戮され、解体され、食肉にされる様はあまりにも惨たらしい。
 「喉ふるわせて」が効き目です。
     〔答〕 選ばれて頬に青痣持つ打者がバット一振り空しく凡退  鳥羽省三
 先日の日本シリーズを視ていて、私は、巨人ファンながら、日ハムの敗北に一抹の哀れを感じました。


(野州)
    刳りぬきし眼窩にファンタの王冠を嵌めて帝都を彷徨ひあるく

 ひと頃、ファンタの王冠集めが大流行しましたね。
 あの騒動は、今、何処に消えたのでしょうか。
 その「ファンタの王冠を」、「刳りぬきし」「眼窩に」「嵌めて」、「帝都を彷徨ひあるく」者は、劇画か何かのダーティーヒーローなのでしょうか。
 もし、そうならば、その劇画のタイトルと彼の名をご教授下さい。
     〔答〕 痩せこけし口の内らに銀の歯を嵌めて教授は万葉を説く  鳥羽省三
         「<万葉>は<まんよう>でなく<まんにょう>だ」と、老いし教授は義歯を飛ばして
                                             鳥羽省三

(近藤かすみ)
    太郎冠者がけさも自転車漕いでゆく烏丸通をまつすぐ北へ

 男の子が「太郎冠者」「次郎冠者」なら、女のお子さんは「瓜子姫」でしょうか?
 お隣りの静香さんちの瓜子姫・美里ちゃんは、放課後のアルバイトに、横浜高島屋の「売り子」をやっているご様子です。
 最近の太郎冠者・次郎冠者たちの最大の特徴は、自動車を欲しがらなくなったことではないでしょうか。
 我が家にも、離れて暮らす二人の冠者がおりますが、彼らはいずれも、大枚叩いて買った中古車を売却し、最近は、多摩川土手のサイクリングロードで自転車を飛ばしています。
 でも、その自転車も、私が愛用しているママチャリとは違って、二十数万円のスポーツ車なのです。
 同じ自転車を乗り回すのでも、京都住まいの方なら、「烏丸通をまつすぐ北へ」と、何かと風雅なことですね。
     〔答〕 次郎冠者が土曜の午後に来るという母の顔見にPEUGEOT(プジョー)を漕いで
                                                    鳥羽省三
 太郎冠者や次郎冠者は、昔も今も変わらず、母を泣かせ父を怒らせます。


(蓮野 唯)
     雄鶏の冠を見るひよこ達世界で一番強い父さん

 本作については、作者の蓮野唯氏ご自身から、「この回で、鳥羽(さん)が、私のこの作品をとり上げようとしていたのを、私(蓮野氏)が、事前に覗き見しちゃったので」との、コメント付きの<拍手>をいただいた。そこで私は、 一度は断念した、本作の観賞を再度試みることにした。
 評者が、この回の詠進者の作品をざっと見渡した段階で、この作品を今回の鑑賞対象作品のひとつにしよう、と思ったのは事実である。そう思ってはみたが、最終段階では、これを観賞対象から外した。その理由は、この作品のある一点に、私は不満と残念さを覚え、それをそのまま口にして公開したならば、全国の蓮野ファンや蓮野氏ご自身から、「辛口も度が過ぎると、それを口にしたお前自身の命取りになるのだぞ」などとの、厳重な抗議や脅迫を受けるに違いない、と思ったからである。
 でも、よくよく考えてもみれば、蓮野氏は、鳩山内閣の花、<泥中に咲く蓮の花>とも申すべき、あの福島のおばちゃんと比較しても決して劣らない、優しく節度ある御心を有しておられる方であり、それを支える、蓮野ファンの方々も亦、然り、である。だから、ここは、後々のことなど心配せず、この作品について思ったことを、一切、隠し立てせず、堂々と述べてみよう。
 能書きが長かったが、いよいよ本論。
 雌鳥が卵を産み落とすや否や、お腹をすかした飼い主や野良猫がそれをくすねたり飲み込んだりするすることなどが無く、産み落とされた卵が、百発百中、ひよことしてこの世に表れ出ることが出来た頃の昔。
 孵化したばかりのひよこたちが、お父さんたる雄鶏の後によちよちとついて行き、「私のお父さんって、なんてカッコいいんだろう。だって、あの赤くて立派な鶏冠(とさか)は、選ばれた者だけが、神様から与えられて被っているものなのよ。うちのお父さんは世界一のお父さん!」などと思っているかの如き表情で、雄鶏を見上げている光景は、神童(?)と言われていた時代の私が、ほとんど毎日目にしていた、今となってはあまりに懐かしく哀しい光景である。
 私は、この一首を見て、久しぶりにこのことを思い出した。そして、蓮野氏こそ、この鳥羽と時代を共にする者だ、とさえ思った。そして、そして、次の瞬間、その切ない思いと、蓮野作品への共感とを、蓮野氏ご自身や、全国の「見沼田圃の畔から」の読者諸氏に、観賞文を通して伝えようと思った。
 だが、次の瞬間、私は、「だが、待てよ。作中の『冠』は、<とさか>では無く<かんむり>と読むのかしら。雄鶏のいとし子たる、ひよこ達にとって、尊敬するお父さんが戴く<鶏冠(とさか)>は、解剖学用語の<鶏冠>などではなくて、まさしく赤々と輝く<冠(かんむり)>に違いない。だから、そこのあたりのことを配慮して、作者の蓮野氏は、ここを、<鶏冠>とせずに、<冠>としたのであろう。だが、考えてみると、<鶏冠>という二字の語の中にだって、ひよこ達の憧れる<冠>ていう文字が組み込まれているのだから、ここはどうしても、<冠>では無く、<鶏冠>にすべきだ。そうだ、この作品は、『雄鶏の鶏冠見上げるひよこ達 世界で一番偉い父さん』とすべきだ。」と思ったのである。
 申し述べてみると、本作に対する私の不満とは、たったそれだけのことである。たったそれだけのことで、愛すべきこの作品を、鑑賞対象から外した私が馬鹿だった。私は、本当に<うましか>だった。蓮野氏及び全国の蓮野短歌ファンよ、許されい。
 作者ご本人から、先付けメールを頂いて、評者の私が、その後を追いかける、という、今回の事態を通じて、私が考えたことが一つある。
 それは、「一首を切り裂く」という、私の試みは、その対象を私が選定し、選定した私自身が<切り裂>いていたのは、少し横暴過ぎたのではなかったか、ということである。
 全国の短歌作者の中には、「私のこの作品は、私自身としても、決して傑作とも佳作とも思わないけど(或いは、大傑作だと思っているけど)、せっかく苦労して創ったのだから、誰かに読んでもらいたいわ。そして、辛口でも甘口でもいいから、どちらかと言うと甘口がいいけど、誰かに批評してもらいたいわ。」と思っている方が居られるに違いない。
 いや、短歌作者のほとんどの方は、そういう思いの所有者に違いない。特に、「題詠2009」に参加表明して、それほど上手いとも思われない歌(数在る中には、あまりに上手すぎて、私が脱帽してしまうのも在るよ)を、わざわざ投稿している方々は、そういう思いの権化となって居られる方々に違いない。
 だから、もしも、そういう思いに捕らわれているお方が居られたら、その方は、「私のこの傑作を取り上げ、思いっきり<切り刻>んで下さい。」あるいは、「私のこの駄作を採り上げ、思いっきり誉めて下さい。」などと、私宛に、メールをお寄席下さい。
 つい慌てて、「お寄せ下さい」を「お寄席下さい」としてしまったが、考えてみると、マイブログ「見沼田圃の畔から」での、私の、的外れな短歌観賞文などは、最近成り上がりの真打ちたち(特に誰とは言わない。故林屋三平氏の二人の息子などとは決して言わない)の演じる、下手な落語のようなものであった。それでも構わないなら、どうぞ奮ってメールをお寄せ下さい。辛口・甘口、どちらでも自由自在に言い分け、書き分けます。
 蓮野さんの作品をだしにして、自分の言いたいことを、つい、口にしてしまったが、思ってもみれば、蓮野さんからのメールは、私の勝手な申し出の口火となったのだ。ジャンヌダルクになったのだ。蓮野さんも、福島のおばちやんと比較されたり、ジャンヌダルクにされたりで、それはそれは大変だ。
 失礼致しました。
     〔答〕 蓮野氏をうっとり見上げる子供たち この世でいちばん偉いおばさん  鳥羽省三
         母上がおばさんになりばばになる これを称して<子離れ>という     同

一首を切り裂く(032:世界)

(磯野カヅオ)
    フラクタル曲線終はりますやうに あなたのゐない世界はさびし

 「ぎざぎざの上に小さなぎざぎざがあり、その小さなぎざぎざの上にさらに小さなぎざぎざがあり、そのさらに小さなぎざぎざの上にさらにさらに……、とどこまでも複雑な構造を持っている。」「コッホ曲線は、マトリョーシカ人形に少し似ています。ただし大きな違いは、マトリョーシカ人形には最後の人形があるのに、コッホ曲線には最後のぎざぎざというのがないということです。 コッホ曲線はどこまでもぎざぎざなのです。もし、最後の人形がないどこまでも続くマトリョーシカ人形があれば、それはフラクタルとなります。」
 これは、代表的なフラクタルである、コッホ曲線と呼ばれる図形の説明です。
 「題詠2009」(032:世界)に寄せられた、百首余りの短歌を読んでいて、その余りの不出来さ加減に幻滅を感じ、観賞文執筆を止めようと思った時、たまたま上記の磯野カヅオ氏の作品に出で遇い、これらの作品群の中から、私が取り立てて論じるとしたら、この作品をおいて無い、と思った。
 しかし、肝心要のフラクタル曲線についての知識が足りない。そこで、私は、「Google」の検索窓に、「フラクタル曲線」と入力し、早速、検索ボタンを押してみた。
 その結果、得たのが上記の説明で、その説明文の上には、ご丁寧に、図形まで示されていた。
 無知な私に、フラクタル曲線について、懇切丁寧にお教え下さり、私に<磯野カヅオ>の難解歌を鑑賞させる勇気をお与え下さり、ブログ「そらはうたたね」の管理者の方、篤く篤く御礼申し上げます。そして、解説記事の無断引用を、深く深くおわび申し上げます。
 
 と、そこまでは良かった。磯野氏以外の詠進者の方のあまりの不振には失望したが、ともかく、観賞するに足る、磯野氏の一首を得て、私はひとまず満足していた。
 だが、その日から、私の肛門から真っ黒な大便が排出されるようになり、数日経つと口からも黒い液を吐き出すことになり、深夜、救急車で運ばれた名も知らぬ病院で、私は、十日余りも病床に臥す身となった。
 妻子や親戚の者は、日を置かず見舞いに訪れたが、入院中、病室の天井板に、私は幾度、果ても無いコッホ曲線を描いたことか。
 だが、真っ白な天井板にいくらコッホ曲線を描いても、私の侘しさは紛れようもなく、私の健康は一向に回復しそうにもなかった。
 生命の危機からは一応脱出し、私の入院生活は十日余りで終わったが、それからも身体の異常は続き、あの後、あの病院の在った街から、東京都を挟んで反対側の街に転居したが、住居を改めた今になっても、私は相変わらず、毎週三日の病院通いを続けている。
 その後、中断していたブログの更新を再開出来るまでの状態となり、こうして、今夜もPCのキーを叩いているが、真っ白い天上のクロスに、果てし無いコッホ曲線を描くのは、夜毎の私の哀しく空しい作業となってしまった。
 という訳で、今の私には、「フラクタル曲線終はりますやうに あなたのゐない世界はさびし」と呟いた時の、磯野カヅオ氏のお気持ちが、手に取るように解る。
 「フラクタル曲線終はりますやうに」という上の句と、「あなたのゐない世界はさびし」との繋がりは、論理的には今ひとつ不確かではあるが、これは、俳諧で言う「匂ひ付け」のようなものであろうか。
 「フラクタル曲線終はりますやうに」という、祈りとも呪詛ともつかない言葉が、「あなたのゐない世界はさびし」という、侘しい情念を導き出し、同時にまた、「あなたのゐない世界はさびし」という貧しく侘しい情念は、呪詛と祈りとを伴った、「フラクタル曲線終はりますやうに」という言葉を呼び起こすのであろう。 
 かくして、フラクタル曲線を描くという、磯野カズオ氏の空しい作業には終わりがなく、私の寓居の天上の真っ白いクロスの上のコッホ曲線も、果てし無く描き続けられる。
 
 ところで、磯野カヅオ氏の言う「わたし」とは、ど゜なたか特定の女性を指すのでありましょうか?
 私の場合の「あなた」は、入院中、日を置かず見舞いに訪れた妻子や親戚の者を指すのではなく、ましてや、他のいかなる人間や動植物、私たち夫婦が空しく二束三文で人手に渡した東北のさる街の山小屋風の旧居を指すものでもなく、さりとて、日々失われて行く、私の健康や若さを指すものでもない。
     〔答〕 果てし無きコッホ曲線の如くにて何処まで続く己(おの)が空洞 


(五十嵐きよみ)
    受け継いだ良識に似て古びても捨て得ぬ『世界文学全集』

 プロ歌人・五十嵐きよみ氏の手馴れた技に学ぼうとして引用させていただいたが、五十嵐氏のいつもながらの手わざは、破綻が無いだけに、魅力にも乏しい。
     〔答〕 着馴らした更紗にも似て日々読めど飽きることなき五十嵐短歌
 私も、少しは丸くなって、胡麻磨ることを覚えたのかな。
 先日の朝日新聞の記事に依ると、「人間が丸くなるということは、鬱病に一歩近づいたこと」であるそうだ。
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