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一首を切り裂く(025:氷)

(久哲)
   氷上に放り出されたワカサギに閉じるまぶたが無くてよかった

 氷結した湖面に穴を開けてするワカサギの穴釣り。
 その穴釣りで釣るワカサギは、釣り上げられるや否や冷たい湖面に放り出されてたちまち冷凍になってしまう。
 その可哀想なワカサギが、針にかかって釣り上げられ、湖面に投げ出されて凍りつくまでの過程で、どんな哀しい思いをするだろうか、と、博愛主義者の久哲さんは優しく思い遣っているのである。
 ワカサギだって生き物だから、針に掛けられ引き上げられたら痛いと思うだろう。
 湖面に投げ出され凍りつく瞬間には、恐くて目蓋を閉じたくなるだろう。
 だが、ワカサギには、その閉じる目蓋が無いから「よかった」と、久哲さんは言うのである。
 でも、「ワカサギに閉じるまぶたが無くてよかった」のは何故だろうか?
 また、ワカサギという魚には、本当にまぶたが無いのだろうか。
 何事につけても大雑把な久哲さんは、そこの辺りのことについては、何一つ言及しない。
 そのこだわりの無さ。
 換言すると出鱈目さ。
 「他人に解ってもらおう」などというケチな考えは端から放棄している野放図さ。
 そこの辺りが、久哲短歌のたまらない魅力なのである。
    〔答〕 警官に捕まえられたクサナギの剣が尖っていなくてよかった 


(梅田啓子)
   腎を病む母は氷を舐(ねぶ)りつつのどの渇きに堪へてゐたりき

 腎臓病に苦しむ人は、喉が渇くのだろうか。
 その「のどの渇き」を和らげるべく、「氷を舐りつつ」病床にあった「母」の姿が、作者・梅田啓子さんの脳裡に今でも焼き付いているのであろう。
 お題「氷」を前に四苦八苦して、観賞に価しない作品を投稿された多くの作家たちの中に在って、いつもながらの梅田啓子さんの安定した作風が目立つ。
    〔答〕 腎を病む母に添い寝の小夜更けは風の音にも泣いたであろう


(八朔)
   全身に墨施して吃音の若者ふたり鎮まる氷室 

 「氷室」というのは、都会の街中の製氷会社の製氷室のことであろうか。
 それとも、雪国の田舎で、天から降って来た雪を積み上げて踏み固め、その上を稲藁などで覆って作った、昔ながらの氷室のことであろうか。
 その辺のところは、作中の表現からは読み取れない。
 また、「全身に墨施して」とは、その「吃音の若者」たちが、身体全体に刺青を施しているのであろうか、それとも、若者たちの日焼けした様子を誇張して言うのであろうか。
 その辺りのことについても全く不明であるが、投稿作品の多くが、無気力としか言いようの無いレベルであった中にあって、本作に漂っている不気味さには、それなりの魅力が感じられた。
    〔答〕 半身をタトゥーで染めてこの夏を氷室の氷切り出す青年
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一首を切り裂く(024:天ぷら)

(西中眞二郎)
   遠き縁の葬儀の帰路の空港で湿りけ多き天ぷらを食う

 初句を「遠き縁の」と、字余りにしたのは何故だろうか。
 凡百の作者ならば、単なる手抜きとも考えられるが、作者が西中さんとあっては、それなりの理由があってのことに違いない。
 「遠き縁の」の「縁」は、「えにし」と読むのだろうか。もしそうならば、初句は七音となる。
 「湿りけ多き天ぷら」が効いている、と言うか、むしろ、効き過ぎの感もある。
    〔答〕 北極回りロンドン行きのアンカレッジで饂飩食ひにき砂噛む如く 


(小早川忠義)
   どんぶりの蕎麦の上なる天ぷらにつゆのしむるを待つ夕まぐれ

 作中の<わたし>は年金生活者と思われる。
 二人の息子がそれぞれ伴侶を得てこの家から巣立って行ったので、現在、彼は奥方と二人暮しである。
 その奥方が、かつての同級生たちと温泉泊まりのグルメ旅行に出掛けた。
 そこで、彼は自分一人の侘しい夕食をと、行きつけの蕎麦屋に電話し、天麩羅蕎麦を出前させた。  『断腸亭日乗』から抜き出したような作品。
 ところで、四句目「つゆのしむるを」の「しむる」は、「しみる」としなければならない。文語動詞「滲む」は四段活用であり、完了の助動詞「り」が四段活用の動詞に接続する時は、その未然形に接続するからである。
 短歌形式で閑寂の境地をよく詠み得ている作品だけに、こうした些細なミスが惜しまれる。
    〔答〕 睦月尽天麩羅蕎麦を伊勢屋にて仲居の口唇げに生々し


(森山あかり)
   息子たち結婚したら知るだろう野菜ばかりが天ぷらじゃない

 西中眞二朗さんの作品を読み、小早川忠義さんの作品を読んだ後、森山あかりさんの作品を読む。
 老練の男性・お二方の作品と、森山あかりさんの作品とでは作風が異なるし、失礼を承知で申せば、作品の完成度にもかなりの隔たりがあるかとも思われる。
 しかし私はいま、お題「天ぷら」に寄せられた数々の作品の中から、稚拙としか申しようの無い森山あかりさんの作品を選び出し、観賞しようとしている。
 こうした私の行動は、一見、不可解ではある。
 だが、私は、結局のところ、森山あかりさんの作品が好きなのである。その発想や内容ばかりでなく、その稚拙な言葉の運びをも含めて、森山あかりさんの短歌の持っている何かに、私は魅せられてしまうのである。
 非難でもない、賞賛でもない、森山短歌へのこうした感想は、本作を観賞するに当たって初めて抱いたものでは無く、かなり以前から抱いていた。
 お題「煮」に、森山さんが、「話し終え靄がかかった夕暮れをやり過ごすためシチュー煮てみる」という作品をお寄せになり、それを私が巻頭に選んで観賞したが、その時期よりももっともっと前から抱いていた感想なのである。
 作中の<わたし>は四十代半ばの主婦であろうか。
 彼女は、決して裕福とは言えない農家の娘として生まれたが、幸いご両親に愛されて成長した。
 しかし、片田舎の農家の食事の常、毎日三度の食事のおかずは自家産の野菜料理が中心で、例えば、夕食の定番の天麩羅の具材は、人参、玉葱、ピーマン、隠元、サツマイモ、大葉といった野菜ばかり。稀に野菜以外の天麩羅に出会えたとしても、それは魚肉ソーセージとか烏賊とか鶏肉ぐらいのものであった。
 その彼女が結婚生活に入り、二人の息子にも恵まれた。だが、愛する息子たちのために彼女が揚げる天麩羅は、相変わらず、母親ゆずりの野菜天麩羅。
 格別に貧しいからそうしているわけではない。彼女自身、野菜天麩羅が好きだから、ご主人も、息子二人も、彼女の揚げる野菜天麩羅を美味しい美味しいと言って食べるから、そうしているのである。
 だが、今はこのままでいいが、やがて、それぞれに良き伴侶を見つけて、この家から巣立って行くはずの息子たちに、彼女は、こう言って教えたいのだ。
 「息子たちよ。私の愛する息子たちよ。あなたたちは、私の上げた野菜尽くしの天麩羅をよく食べてくれるね。美味しい美味しいと言って、よく食べてくれるね。だが、この世の中の天麩羅の全てが、野菜天麩羅というわけではないのだ。あなたたちはこれから、すばらしい女性にめぐり合って、この家を出て、その女性と一緒に新しい家庭を持つに違いない。そうした時、その女性たちは、天麩羅が大好物のあなたたちのために、天麩羅を揚げてくれるだろう。その天麩羅の具材は、この母が揚げて、あなたたちに食べさせていた、野菜もあるだろうが、田舎育ちで質素な生活に慣れた私が、あなたたちに一度も食べさせたことの無い、大きな海老や新鮮な江戸前の鯊や鱚や穴子といった魚類もあるに違いない。この母の揚げたサツマイモの天麩羅も美味しかっただろうが、あなたたちのお嫁さんが、あなたたちのために揚げてくれる海老や穴子の天麩羅は、もっともっと美味しいに違いない。だから、その日を楽しみに勉強に励みなさい」と。
 おっと、失礼。「勉強に励みなさい」は余分だったか?
    〔答〕 お刺身はいつもマグロの大トロと決まっていない鳥羽省三よ


(ことり)    
   天ぷらを白いご飯にのっけたら天丼だって信じてたのに

 なーんだ、<ことり>さんと<森山あかり>さんとは姉妹だったのか。
 作風から推すと、森山さんが姉さんで、ことりさんが妹さんなのだろう。
 「天ぷらを白いご飯にのっけたら天丼だって信じてたのに」と言っているところから判断すると、ことりさんは、南魚沼産のこしひかりを炊いたご飯の上に、江戸前の特大海老を揚げて作った海老天を三尾も乗っけて、秘伝の天汁をたっぷりとかけた天丼を食べたことがないに違いない。
 そうした質素なところは、姉さんとそっくりで、私にはとても好感が持てるのだ。
 それに、消費時代であり、飽食時代でもある今日、「(野菜の)天ぷらを白いご飯にのっけたら天丼だって信じてたのに 」と言う女性も珍しいけど、現代社会に於いて最も期待され、最も要請される人間像は、そうした素朴な発想と質素な生活体験の持ち主なのかも知れない。
 がんばれ、がんばれ、野菜てんぷら姉妹。鳥羽省三は、野菜てんぷら姉妹を応援しているぞ。
    〔答〕 トロ鮭とイクラを乗っけたどんぶりが親子丼だと僕信じてた


(ひいらぎ)
   天ぷらにするなら海老が一番で食べる相手は君が一番

 作中の「君」とは誰か? 次の①~⑤の人物の中から、作中の<わたし=ひいらぎさん>が海老天を食する時の相手として最適な人物を一人選べ。
 
   ① 草剛   ② 中居正広   ③ 木村拓哉    ④ 稲垣吾郎   ⑤ 香取慎吾
    〔答〕 敢えて言えば<草剛> と言いたいが実の所は正解が無い
        スマップの草剛はころも脱ぎ海老天麩羅はころも脱がない


(久哲)
   天ぷらの油の温度読む指よ今はわたしに触れてください

 学生時代から通い慣れた、神保町の天麩羅定食の店「いもや」の板さんは、百八十度に熱した天麩羅油の中に指を入れて平気な顔をしている。
 適温かどうかを調べるためにそうするのかと思っていたら、実用的な意味はなく、来客に見せびらかしたくてそうするのだそうだ。一種の職業病か性癖とでも考えなければならない。
 本作の上の句に、「天ぷらの油の温度読む指よ」とあるが、その「指」の持ち主はどなたであろうか。
 また、そのどなたかは、「天ぷらの油の温度読む」ために、一体、何度℃の油に指を入れるのだろうか。
 温度はともかくとして、その「指」の所有者は、あの気色悪い水原紫苑よりは三百倍も美人だという、久哲夫人であろうか?
 もし、そうならば、それは極めて危険。「いもや」の板さんでも無い、素人の久哲夫人が、そういう挙に出でるのは極めて危険。第一、そんな性癖を持った女性と同衾していたら、大事なところをちょん切られて、天麩羅にされてしまうよ。
 だから、「今はわたしに触れてください」などと、馬鹿げたことを言っていないで、奥方のそうした危険で奇矯な行為を即刻止めさせなさい。
 さもなくば、異能の歌人・久哲さんは、自殺幇助罪で「タイホになるのだぞ!」と、天才バカボンに登場するお巡りさんは言っている。
    〔答〕 久哲の機嫌の良し悪し読むためにくちびる突き出す久哲夫人
 これなら、夫婦円満で宜しい。久哲さんも、奥方の可愛い唇を、思いっ切り吸って吸って吸いまくりなさい。


(水口涼子)
   天ぷらの油吸い取るためだけに白い和紙折り竹籠に敷く

 本作の作者・水口涼子さんに告ぐ。
 天麩羅を盛る器としての「竹籠に」「白い和紙を折り」「敷く」のは、何も、「天ぷらの油」を「吸い取るためだけに」するのではない。
 そのためにするのでもあるが、何よりも、そうすることによって、原価数十円の天麩羅に付加価値が付き、数百円、数千円、場合によっては、数万円で売り付けることが出来るからそうするのである。
 それともう一つ、あの<白い紙>は、何も「和紙」である必要は無い。多くの天麩羅屋では、書道練習用のパルプ半紙。和紙に似ているが、実は低価格の洋紙を使っているのである。
 因みに申すと、我が家の奥方は、天麩羅を揚げる前に、私の部屋にそっとに入って来て、パソコン用品の棚から、PPC洋紙を数枚引き抜いて行く。
    〔答〕 晩菜は天麩羅五品の盛り合わせ。印刷用紙を五枚下さい。


(花夢)
   天ぷらを揚げてるときのジュッという音を残して記憶が消える

 格助詞「の」の用法として誰にでも知られ、短歌表現などにも頻繁に用いられるのは、連体格用法と主格用法の「の」であるが、その他に、歌人として是非知っておかなければならないのは、「さ夜更けに咲きて散るとふ稗草のひそやかにして秋さりぬらむ」という長塚節の歌に用いられている「の」、即ち<比喩の用法>の「の」である。この「の」は、これ一語だけで「~のように」の意味があり、前掲の花夢さんの作品中の「の」が、この用法の「の」であるとすると、この作品は、「天ぷらを揚げているとき(ジュッという音がするが、そのときの)のように、ジュッという音を残して、(わたしの)記憶が消える」と解釈される。
 作者・花夢さんは、格助詞「の」のこうした働きを十分に意識して、この作品を創作されたと思われる。
    〔答〕 スマップの草剛の泥酔し丹下左禅の大立ち回り
 
 〔クイズ〕 上記「スマップの~」という短歌中に用いられている三つの「の」のうち、<比喩の用法>の「の」、及び、<主格用法>の「の」は、それぞれどれでしょうか? 三十秒以内に答えなさい。


(新田瑛)
   天ぷらの衣ぐらいの確かさで剥がれずにいる君への想い

 名人上手の揚げた天麩羅の衣は、口に入れるとパリッとした触感がありながら、舌に乗せるとトロリと溶けるそうだ。
 また、天汁に漬けたぐらいでは具から離れないが、具の持つ、色彩や風味を殺しているわけではないそうだ。
 本作中の<わたし>が、作中の「君」に抱いている「想い」の「確かさ」は、名人上手の揚げた「天ぷらの衣ぐらい」の「確かさ」なのである。
 つまり、本作の作者・新田瑛さんとイコールの関係にある、作中の<わたし>は、作中の「君」の持ち味を生かし、「君」の足手纏いにならないように十分に注意しながら、「君への想い」を保持している、ということになる。
 評者・鳥羽は、このカップルに別離の危機が訪れることは永久に無いと判断する。
    〔答〕 お向かいの惣菜店の掻き揚げは揚がる前からばらけているよ


(マトイテイ)
   揚げたての厚めの衣に隠されて天ぷらなんて信用できない

 一流料亭の板前さんの揚げた天麩羅の衣は、薄からず、厚からず、それぞれの具の持つ風味や色彩を隠さず殺さずといった、程好い厚さなのである。
 したがって、江戸前火消し料理専門店<纏亭>のオーナーである<マトイテイ>さんが、「揚げたての厚めの衣に隠されて天ぷらなんて信用できない 」と思っているとしたら、あなたのお店の板前が、仕事に手抜きをしているのである。
 そうした不埒な板前の揚げた天麩羅をお客に食わせたら、創業三百年の歴史を持つ老舗<纏亭>の信用に関わる。その板前を、即刻、首にしたまえ。
    〔答〕 脱ぎたての草剛のシンボルは擦らないのにピンピンしてた  


(伊藤夏人)
   それとなく例えば天ぷら蕎麦の海老一尾あなたにそっとあげるの

 <海老で鯛を釣る>とはこのこと。伊藤納豆に粘られたら、どんなに固い女も結局陥落。あのねばねば地獄に落ちてしまうのだろう。
 女性を陥落させる手管にもいろいろあるだろうが、
    〔答〕 それとなく例えば一顆の檸檬など彼女のバックに忍ばせてみよ 


(日向弥佳)
   おだやかな晴天ぷらぷら散歩する君と並んで土手沿い歩く

 空が真っ青でも強風が吹いていたら「晴天」とは言えない。したがって、「おだやかな晴天」という言い方は、過剰表現、無駄な表現である。
 本作の作者・日向弥佳さんは、お題外しを狙っているようだが、まだまだ、その域に達していない。
 お題を「天ぷら」と知り、「晴天ぷらぷら」という語句の運びに気が付いた時、「してやったり」と思ったのであろうが、これでは脇が甘すぎる
 お題外しを試みようとしている者は、先ず、お題をまともに受けた佳作を二、三首作ってみる。そして、それから、お題をさらりと外した気の利いた作品を作るのである。
    〔答〕 本日は晴天ぷらぷら出歩こう君と手つなぎ麻布辺りを
        そのかみの天ぷら学生Mくんが今は銀座の天麩羅店主
 銀座の老舗・天麩羅屋と言えば、あの店とあの店。そのうちの一つの店の現在の店主が、碌々勉強もせず、某大学に席を置いていたということは、知る人ぞ知るお話。


(磯野カヅオ)
   憂き事に天ぷら喉を通らざり 空を仰いで春雨を食ふ

 「天ぷら」が「喉を通ら」ないのに、「春雨を食ふ」ことが出来るのは何故だろうか?
 その理由を、本作の初句「憂き事に」及び、四句目「空を仰いで」を手掛かりにしながら、短歌形式(三十一音)で述べよ。
    〔答〕 天ぷらは油っこいから食べられぬ春雨サラダは油っこくない
        と言うのは、磯野カヅオ氏胃弱にて油っこいもの摂食禁止


(ほたる)
   てんぷらの油のはねた手の甲の小さな痕を撫でられている

 作中の<わたし>とイコールの関係にある、本作の作者の<ほたる>さんは、ご主人にべた惚れ。
 ご主人はまた名代のテクニシャンだから、そこの辺りをよく心得ていて、彼女の痛かろうところを目ざとく探し出して、撫でたり摩ったりしてくれる。
 因みに言うと、昨晩、ほたるさんのご主人は、奥さんの輝くお尻を、「ここがイタイタするんだろう。ここがイタイタなんだろう。イタイのイタイの、鳥羽省三に飛んで行け」などと囁きながら、一晩中、摩っていた。
    〔答〕 奥さんの火傷の跡を摩っても自分の手の皮減るものでなし


(nnote)
   アカシアの天ぷら揚がる春に病む君を連れ出すための口実

 「(アカシアの花の咲く)春に病む君を(病室の外に)連れ出すための口実」は、どんな内容だろうか、といろいろ考えてしまった。
 その結果、作中の<わたし>が、作中の「君」に話し掛ける内容として、次のようにセリフを考えてみた。
 「今日の昼ね。君がすやすやと眠っていたから、僕つまらなくなって、散歩に行ったの。そしたらね。そしたら、公園のアカシアの花が、真っ盛りだったの。でも、誰も見ていないから、僕その花を二房失敬して来ちゃった。だって、アカシアの花って、天麩羅にして食べると、とても美味しいと聴いていたからさ。僕にそのことを教えてくれたのは、今、上砂川の住宅に一人住まいしている、君のお母さんだよ。君のお母さんは、アカシアの花の天麩羅の揚げ方も、僕に教えてくれたんだよ。昨日、メールでね。だから僕は、今日の夕食のおかずに、アカシアの花の天麩羅を揚げて、君に食べさせようと思うんだ。だから、君も、このベットから下りて、キッチンに来てみなよ。準備はバッチリだから、美味しくて綺麗な、アカシア天麩羅が直ぐに出来るよ。だから、思い切って、そのベットから起き上がって、キッチンに来てみなよ。寝てばかりいると身体に毒だからさ。君が元気になったら、上砂川のお母さんの所にだって行けるからさ。」                             (『昨日、夕張にて』より)
 いやはや、純情可憐で純白な、アカシアの花みたいな夫婦ではある。と見るのは早合点。この後、
このドラマは急展開を遂げ、夫は妻の遺体をこの廃屋のベットの下に残したまま、東京へと旅立つ。
    〔答〕 アカシアの花咲く春に病む妻にアカシアの花揚げて召させむ

一首を切り裂く(023:シャツ)

(夏実麦太朗)
   腕に肩に胸に冷たい白シャツに次第にわれの温度が移る

 裸身に肌着の袖を通した後、身体の各部の皮膚と布地とが馴染んで行くまでは、しばらくの時を要する。
 本作は、そんな時間の推移につれて変化する皮膚感覚と着衣との関わりを詠んだ作品かと思われる。
 冬の早朝、寝床から這い出て、眠い目を擦り擦りハジャマを脱ぎ、外出着に着替えたばかりの頃は、皮膚と肌着の布地との間に違和感が有り、身体全体が冷や冷やするばかりで、人心地がしない。
 しかし、少し時間が経ち、心臓から新しい血液が身体の各部に送り込まれるにつれて、腕、肩、胸と徐々に温かくなって行き、遂には、それまで皮膚と馴染まなかったアンダーシャツの布地にまで体温が移り行き渡り、身体と着衣とが完全にフィットして、人心地が付いて来る。
 寒い冬の朝、人間の身体はこのようにして目覚めて行き、人間はこのようにして、仕事にスタンバイといったになるのである。
 久々に出会った夏実麦太朗短歌ワールドである。彼の言葉遣いは相変わらず無愛想で、一見したところ、味も素っ気も無いような歌と思われる。しかし、よくよく熟視していると、その表現の肌理の細かさに気付くようになり、それを解し得た時の快感は常に無く大きい。
 この文章を読む人には笑われるかも知れないが、私は、本作を傑作と断じ、このような観賞文を綴ることが出来た、自分自身の今朝の感性の鋭さに大きな満足感をも覚えている。
    〔答〕 Yシャツに己(おの)が温みの滲み渡り彼は会社に行く人となる 


(小早川忠義)
    脱ぎかけのTシャツに秘所を隠しゐる写真の男の訃報今朝聞く

 どうせフィクションなら、並み居る歌人ちゃんたちも、小早川さんくらいの嘘をつきなさい。
    〔答〕 Tシャツに秘所を隠せる慎みも持たずスマップ草剛


(虫武一俊)
   母さんがおれのサイズのYシャツをいつも買うから話せなくなる

 息子のことなら、チンポコの毛の本数まで知っている、といった母親が居たりする。
 そんな母親だから、食品の買出しにに出かけたついでにと、息子に着せる衣類まで買って来たりもする。
 母一人子一人の家庭の息子にとって、そんな母親の存在は、ある時期までは便利この上無し、大変有り難い母親であるが、その時期を過ぎると、急に、「家付き、カー付き、ババ抜き」の「ババ」に変わってしまう。
 作中の「おれ」は、そんなババ母を持ったが故に、婚期を逸しかけている三十男であろうか?
 最近、彼は、そのババ母に隠れて勤務先の女性社員と恋愛中であるが、母親が母親だから、そのことを打ち明けられもせず、彼女との結婚生活に踏み切れもせずに居る。
 そんな「おれ」の気も知らないまま、ババ母は、今日もお買い得のオージービーフを買いにデパ地下出かけ、そのいつでにと、レナウンのファミリーセール会場である、平和島の東京流通センターにまで足を延ばして、会場の人並みを掻き分け掻き分け、彼の身体にぴったりサイズのダーバンの白いワイシャツを買って来た。
 やれやれ、毎度毎度これだから、「おれ」は、彼女と「おれ」との関係を、「お母さん」に打ち明けることが出来ないで居るのだ。
 「おれ」が彼女と抜き差しならない関係になってから一年余り経ち、最近、彼女のお腹の膨らみもかなり目だって来た。
 だが、「おれ」の身体にぴったりの、このダーバンのワイシャツを目にしていると、「おれ」の心は暗くなるばかりである。
    〔答〕 どうせなら別居サイズのマンションを買って下さいババお母さん  


(じゅじゅ。)
   チラチラとのぞいているわ シャツのすそ 隠しきれないあなたの本音

 「チラチラとのぞいている」のは、「あなた」の着ている「シャツのすそ」であるが、その「シャツのすそ」
を通して、最近、何かにつけて邪険な「あなたの本音」も「チラチラとのぞいているわ」と言うわけ。
       
この頃、体重を気にしだしたあなたの
腰のあたりから
チラチラとのぞいているのは何ですか
       
それは、ワイシャツのすそ
2月20日の
東京流通センターでの
レナウンファミリーセールに出掛け
あなたのお母さまが
あなたのためにと買って来た
ダーバンのワイシャツの
すそ

浜松町から
東京モノレール・羽田線に乗り
流通センター駅で下車して
会場の人並みを掻き分け掻き分けして
買って来た
ダーバンの
B体の 
縦縞の
ワイシャツの
すそ

あなたの大切なお母様が
ご自分の大切な大切な息子のためにと
会場の人並みを掻き分け掻き分けして買って来た
大切な、大切な、大切な
ダーバンの
B体の
縦縞の
ワイシャツの
すそ

わたしには見えるわ
ダーバンの
B体の
縦縞の
ワイシャツの裾から
透けて見えるわ

わたしには見えるわ
あなたのお母様が
浜松町から
東京モノレール・羽田線に乗って
流通センター駅で下車して
会場の人並みを掻き分け掻き分けして買って来た
縦縞でB体の
ダーバンの
ワイシャツの裾から
透けて見えるわ

わたしには見えるわ
あなたの大切なお母様が
ご自分の大切な大切な息子のためにと思って買って来た
ダーバンの
B体の
ワイシャツの裾から
透けて見えるわ
大切な、大切な、大切な
縦縞の
ワイシャツの裾から透けて見えるわ

わたしには見えるわ
一見してメタボの
あなたのうしろ姿の
腰のあたりから
チラチラとのぞいている
ダーバンの
B体の
縦縞の
ワイシャツの裾から透けて見えるわ
あなたのよこしまな心と
わたしとあなたとの明日が見えるわ

あなたのよこしまな心と
わたしとあなたとの明日が見えるわ
                          鳥羽省三『ダーバンのワイシャツのすそ』
    〔答〕 チラチラとのぞいているわ<じゅじゅ>のあれ 隠しきれないあなたのあそこ 


(ひいらぎ)
   脱ぎ捨てたシャツを洗濯機の中へ放り込むとき愛も一緒に

 結婚生活も月日が重なると、男尊女卑社会の痕跡器官を未だ棄てきれないでいる夫は、地金と言うか、馬脚と言うか、男性たる彼に本質的に備わっていた横暴さをもろに現してしまったりもする。
 本作の一、二句目に跨る語句、「脱ぎ捨てたシャツ」とは、その彼が、不覚にも現してしまった、地金であり、馬脚であるのだが、愚かな女であり、愛すべき妻である作中の<わたし>は、男性たる彼に備わった本質的な横暴さが原因で発したこの種の行動を、彼女に対する愛情が原因で発した行動と勘違いしてしまって、こんなことを呟いたりする。
 「あの人ったら、結婚して間もない頃は素朴で純真で、例えば、ワイシャツのボタン一個をつけることを私に頼む時でさえ、『あのー、ここんとこのボタンが一つ取れちゃってぇ。本当は僕が自分でつければ宜しいんでしょうけどぉ、僕はそういうことにわりかし不慣れなもんだから、もしもお暇でしたら、あなたにお願いしたいんですー。このボタンをここんとこにつけて下さいませんかぁ』なんちゃってたけど、この頃は、私にすっかり狎れちゃって、会社から帰ってワイシャツを脱ぐ時だって、ボタンをわらわらとはずして、足元にポイと捨てるきりなのよ。彼ったら、自分の脱いだワイシャツの袖が裏返しになっているのを気にもしないで、ワイシャツを脱いだついでに、私の目の前でパンツまで脱いでしまって、プリンプリンになったあそこを、私のあそこにくっ付けたりして悪ふざけするの。本当は気持ちいいのに、私がわざと、『いや、いや』と声を上げて逃げ回ると、『うそ、うそ、今はあれしないよ。でも、君があんまり可愛いから、こうして追っかけただけ。あれするのは、食事が済んでからね。たっぷりと時間をかけてしようね』だって。それから、彼は一人でお風呂に入ってしまうのだけど、私も彼のことが可愛いから、一緒にお風呂に入ろうかな、なんて思ったりもするけど、楽しみは後にとって置こうと思って、洗濯を始めちゃうの。私ね、洗濯する時ね、彼の脱いだワイシャツやパンツを足の指で摘まんで、ポイっと洗濯機の中に放り込んじゃうのよね。彼のことが憎いからそうするんじゃないよ。彼のことが可愛いから、愛を込めてそうするのよ。彼が自分の脱いだワイシャツに関心ない素振りをするのも、彼流の私に対する愛情表現なのよね。彼って、会社では要領良く振舞っていて、出世コースを驀進中みたいだけれど、意外に小心で不器用な性格だから、ああいう風に振舞うのが、彼流の愛情表現なのよ。」
 まいった。まいった。これには完全にまいった。
 馬鹿な女の髪の毛には巨象も繋がれるとは、よく言ったものだ。
 久々に登場した、<ひいらぎ>短歌ワールドの熱々は、この鳥羽省三を十二分に堪能させてくれる。
    〔答〕 足の指で摘まんでポイと抛るとき愛の火花を散らす白シャツ

 
(チッピッピ)
   シャツのボタンつけてほしいと夫言う何年たっても恥ずかしそうに

 あれあれ、直前の歌の作者の<ひいらぎ>さんと、本作の作者の<チッピッピ>さんとはお友達同士なのかしら?
 お友だち同士が連絡し合って、お題「シャツ」への投稿作品を連作仕立てとしたのかしら?  
 本作中の<夫>は、前述の<ひいらぎ>さん作に登場する横暴で横着な<夫>が、結婚間も無い頃には身に着けていた純真さと素朴さを老境に入っても失っていない、シーラカンスのような絶滅危惧種的男性であるらしい。
 だが、作中の<わたし>にとっては、其処のところがまた可愛くて可愛くて仕方が無いのだろう。
 作者とほぼイコールらしい作中の<わたし>の気持ち、評者の私には、よく解る、解る、解る。
 作者のハンドルネーム<チッピッピ>とは、そんな可愛い夫にキスする時に、思わず発してしまう、作者の激しい口音を模して名づけたものだろうか?
    〔答〕 <チッピッピ>愛しています今もなお 古希を過ぎても純なあなたを 
 

(水口涼子)
   二重にも袖を捲くったYシャツの君に惚れたは間違いだった

 作中の<わたし>と本作の作者との関係は、ほぼ等号で結ばれるものであろうか?
 それはともかくとして、作中の<わたし>は、よく人を愛し、よく人に傷付き、時に我を失って激するような性格の持ち主。言わば、平成社会に顕現した和泉式部のような性格の女性である。
 「二重にも袖を捲くったYシャツの君」とは、どんな性格の男性だろうか?
 その実態は、おそらく彼自身に訊いても判然としないだろうが、少なくとも、作中の<わたし>が、彼に「惚れた」時に抱いた、彼に対する期待と幻想だけは、何と無く分かるような気がする。
 年頃の女性社員も多く、出世競争も激しい職場で、真夏になっても、ワイシャツの袖を二重に捲くって、黙々と働いている(かのように見受けられる)男性社員に、男らしさと素朴さを感じて、作中の<わたし>は猛烈にアタックし、結婚にまで漕ぎ付けた。
 だが、結婚後数年経ち、彼の化けの皮が剥げ、彼に対する彼女の想いが、全くの幻想に過ぎなかったことを知った時、彼女は落胆し、彼への憎しみの情が炎となって燃え上がる。
 「二重にも袖を捲くったYシャツの君に惚れたは間違いだった」とは、作中の<わたし>及び本作の作者・水口涼子さんの、自縄自縛の夢から覚めたときに思わず漏らしたため息であり、それが憎悪の念に変わるのは間も無くのことであろう。
 評者・鳥羽省三は、本作の作者・水口涼子さんの作品に、彼女の前のハンドルネーム時代から接し、かつ愛読していて、彼女の短歌ブログ「FANTASIA」には、四種類のハンドルネームを駆使してあちこちに投稿した拙作が、今もなお掲載されている。
 そうした関わりを通して感じた、私の歌人・水口涼子観は、本作中の<わたし>にも劣ること無い、<平成の和泉式部>そのものである。
 <平成の和泉式部・水口涼子>さんに、何卒、短歌大明神の御加護のあらんことを。
    〔答〕 泥濘を出づればまたも泥濘ぞ遥かに照らせ後の夜の月


(ウクレレ))
   潔くシャツなびかせて身を引こうスーパーマンが飛び立つごとく

 一昨日、私は小用を抱えて横浜に出掛けたが、その帰途、渋谷駅構内の動く歩道に於いて、私は、後ろからやって来て、私を追い越そうとした職人風の男性が穿いていた、裾周り一メートルもありそうなズボンから湧き上がる強風に煽られ、ゴム製のベルトの上に危うく飛ばされそうになった。
 本作の上の句に「潔くシャツなびかせて身を引こう」とあるから、作中の<わたし>の着ているシャツは、渋谷駅構内の動く歩道のベルトの上に私を吹き飛ばそうとした、あの職人風の男性の穿いていたズボンのようなだぶだぶ仕立てのシャツであろうと思われる。
 そのだぶだぶの「シャツ」を風に「なびかせて」地上から飛び立ち、ぐにゃぐにゃに入り組んだ、男と女の痴情関係から「潔く」「身を引こう」とする、作中の<わたし>の意志たるや、まさに壮とすべし。
 彼こそ、まさに平成のスーパーマンであり、神である。
    〔答〕 潔く道を譲れば飛ばされず鳥羽省三は神ならぬ紙
 

(みつき)
   時々は私が君のシャツ脱がす キスをしながらゆるりゆるりと

 本作中の<わたし>と本作の作者とは、ほぼ等号で結ばれる関係にあろうと推測される。
 そこで評者は、徒なる煩瑣を回避するため、作中の<わたし>を作者<みつき>さんと断じた上で論を進めようと思う。
 ところで、本作の作者<みつき>さんと、そのご夫君の<貢>君とは、人も羨む熱々の仲。
 その上、<みつき>さんには、毎月定期的に訪れるべき来客が訪れなくなってから三月経ち、気のせいかお腹のふくらみも気になりだしてきた。
 そんな<みつき>さんのご様子を見てとって、界隈で有名な愛妻家の貢君は、ここ数週間、<みつき>さんとのことを遠慮し勝ちである。
 ところが、短歌作りに於いてと同様に、あちら方面に於いても、情熱的と言うか、自由奔放と言うか、熱心な<みつき>さんは、ご夫君のそうした思い遣りを、単なる思い遣りと解さず、ともすれば、イライラが増幅しそうになる。
 上掲の歌は、そうしたイライラを解消せんと決意して、本作の作者<みつき>さんが、ある種の行動に出でんとした時の気持ちを活写したものである。
 ここで、老爺心ながら評者・鳥羽省三から、作者<みつき>さんに一つお願いがあります。
 本作の上の句に、「時々は私が君のシャツ脱がす」とありますが、その「時々は」を、「これからは」に替えたり、「今晩も」に替えたりは、絶対にしないで下さい。もしもそんなことになると、せっかくの愛の結晶が台無しになってしまいますから。   
    〔答〕 いつもなら僕があなたのショーツ剥ぐ唇(くち)重ねつつ足の指にて


(伊藤夏人)
   真っ白なシャツしか着ない僕だから明日はきっと来てくれるよね

 真っ白なシャツを着ていようが、真っ黒なシャツを着ていようが、誰にでも必ず「来てくれる」のが、「明日」というもの。
 その「明日」に出会うことを拒否して、元アイドル歌手の清水由貴子は、昨日、静岡県小山町の富士霊園で硫化水素自殺を遂げた。
 「お元気ですか」の歌声はもう永遠に聴かれない。 合掌。
    〔答〕 水色の胴着を巻いて吼えてるがダックスフンドはシャワーが嫌い


(日向弥佳)
   いつの日か行ってみようかペルシャツアーまずは地図にて位置を確認

 ペルシア帝国とは、現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家であり、パフラヴィー朝時代の1935年にイラン帝国と改称したので、世界地図上から、国名としてのペルシャの名は完全に消え去ってしまった。
 したがって、本作の下の句、「まずは地図にて位置を確認 」中の「地図」は、通常の世界地図では無く、歴史地図のような性格の特殊な地図でなければならない。通常の地図を広げても、ペルシャの「位置を確認」することは不可能なのである。
 お題「シャツ」に寄せられた投稿作品のほとんどは、「シャツ」を着衣としての「シャツ」と解したものであった。
 そうした中にあって、その通弊から逃れようとした本作の作者の努力と創意は賞賛に価するが、それだけに、下の句の表現の些細な失着が惜しまれてならない。
 せっかくのアイデァにケチをつけるようで申し訳ないが、本作の作者は、今少しの努力が足りなかった。本作には、あとわずかの推敲が必要と思われる。
 例えば、私ならこうする。
    〔答〕 いつの日かペルシャツァーに出かけよう魔法瓶には伊右衛門詰めて
 ペルシャと言えば<ペルシャ絨毯>。ペルシャ絨毯と言えば、魔法の絨毯。空飛ぶ絨毯。その魔法の国・ペルシャに、昨今売れ筋のお茶「伊右衛門」を、ドラえもんの飲んでも出る出る魔法瓶にいっぱい詰めて、ペルシャ絨毯に乗って飛び立つのである。
 いかがでしょうか。


(ジテンふみお)
   気付かないふりで過ぎようこの先に同じシャツ着た奴が立ってる

 この世の中には、「どっちもどっち」という慣用句が在る。
 「同じシャツ」というからには、手書き一品物であるはずはなく、どうせ、量販店の売れ残りセールで買ったシャツであるはずだから、<こっちがこっち>なら<あっちもあっち>である。
    〔答〕 気付かないふりして黙って観ていよう同じシャツ着たヤツが過ぎてく

(髭彦)
   学校にいまだ棲みゐて赤シャツも野だいこなどもしぶとかりけり

 髭彦さんの元の職場は私立学校。
 私立学校の教員は、着任したが最後、退職するか死亡するかしかメンバーが変わらないから、人間関係が特に複雑であり、大切でもある。
 その人間関係の難しい職員室には、夏目漱石の小説『坊ちゃん』に登場する、<赤シャツ>みたいなのや、<野だいこ>みたいなのが、しぶとく「棲みゐて」、諂ったり威張ったりしている。
 私立学校教員経験四十年余に及ぶ、髭彦先生の詠んだ傑作。
    〔答〕 <うらなり>や<マドンナ>なども居たのかな 恋の鞘当て無かったのかな 


(わたつみいさな)
   君だけというわけじゃなし春がきて洗いざらしのシャツに着替える

 <わたつみいさな>さんに一筆呈上。
 「君だけというわけじゃなし」と言上げして、恋人を乗り換える時は、「洗いざらしのシャツに着替える 」のではなく、せめて<仕立て下ろし>のスーツにでも着替えて、もう少ししゃんとした格好で大道を闊歩しなさい。
    〔答〕 夏が来て更衣の時期になったならパリ・コレ・モードのドレスを着よう

一首を切り裂く(022:職)

(梅田啓子)
   職退きてはや整髪料のにほひなし夫の髪の散(ばら)けて来たる

 作中の「夫」が整髪料をつけていたのは何故でしょうか。
 会社員としての当然の身嗜み。男らしさを振り撒いて職場の女性にやり手として注目されるため。むさ苦しいイメージを払拭して通勤途上に出会う女子学院高校の生徒達に痴漢と間違われないようにするため。営業先の受付嬢から門前払いを食らわせられないようにするため。マンダム株式会社に知人がいるため。
 その理由はいろいろと考えられましょうが、定年退職して数年、サンダル履いてペタペタとパチンコ屋通いが日課の今となってみれば、整髪料とは、「あんな変な匂いのするものを、私は何故、毎朝つけていたのだろうか」と、自分で自分を不思議に思うくらいの、邪魔で無駄な代物だったのである。
 でも、彼に一度は惚れたことのある女房殿からすると、かつてのエリートサラリーマンの髪はばらけてボサボサでかたなし。近頃、歌材の払底に悩んでいる<わたし>に、「どうぞ私を材料にして詠んで下さい」と呼びかけているようなものでしかない。
 洗い下しのワイシャツや夏は暑苦しくて堪らないスーツ、そして定期券や満員電車の中で読む朝刊などなど、サラリーマンという名のお金の運び屋として半生を台無しにした男が、定年退職を契機に、さらりと脱ぎ捨てることが出来る物品が数々あるが、整髪料もまたそれらの一つなのである。
 自分をサラリーマンという身の上に束縛して来たそれらの物から解放されて、ご亭主本人は、せいせいし、毎朝、目覚める度に「快哉」を叫んでいるのに、愚かな女房殿はその事に気付かないばかりか、「髪は散けて」などと、どうでもいいことをのたまわって世間に公表する。
 ほんに御し難いのは、ミサイルをぶっ放す北朝鮮と短歌など詠む女性である。
    〔答〕 歌詠みてはや数年の女房は歌材に困り夫を餌食


(水口涼子)
   絵師彫り師刷り師と揃う職人の技の極みに江戸の錦絵

 本作にあるように、日本の華「江戸の錦絵」は、「絵師・彫り師・刷り師」の分業から成る総合芸術である。しかし、その中の絵師だけが芸術家として注目を集め、他の二者は、絵師の書いた絵を版画という形の商品にするための職人の位置に甘んじているのは、いささか不当とも言えようか。
    〔答〕 政信が八百屋お七を描いても彫師・刷師が居なけりゃおじゃん
        <おじゃん>とは火事を知らせる半鐘で、「おじゃん」と鳴ったら全てお終い


(月下燕)
   雑草に名があろうともそれはそれ住所不定無職の夕べ

 「雑草という名の植物は無い」と仰せになられたのはどなた様でしたか。
 それはそれとして、久々にご登場の月下燕さんは、「雑草に名があろうともそれはそれ」などと大胆かつ投げ遣りなことを仰る。
 でも、そうですよ。その気持ちは、よく解りますよ。
 「雑草に名があろうと」無かろうと、作中の<わたし>は、「住所不定」「無職」の身の上。
 徒然なるこの「夕べ」、居住地欄に<ホームレス>と記して朝日歌壇に投稿でもしてみましょうか。
    〔答〕 雑草(あらくさ)の一つ一つに名はあれど吾に職無く住む家もなし 


(髭彦)
   彼のアラン六十五歳で教職を辞せると知りぬわれと同じく

 アラン(Alain) というペンネームで知られている、フランスの哲学者・エミール=オーギュスト・シャルティエ(1868~ 1951)は、ノルマンディー地方のモルターニュに生まれて、高等師範学校卒業後、リセの教師となる。過去の偉大な哲学者達の思想と彼独自の思想を絶妙に絡み合わせた彼の哲学講義は、学生たちから熱烈に支持され、後世のフランス哲学界をリードする哲学者の多くは彼の膝元から巣立って行った。その一人として著名なのは、女流哲学者のシモーヌ・ヴェイユである。ルーアンのリセで教えていた時に、アラン名義で「デペーシュ・ド・ルーアン」紙にコラム「プロポ(propos)」を寄稿し始める。平和主義と反戦思想を持ちながら、46歳で第一次世界大戦に志願して従軍。3年後に除隊してアンリ四世校の教職に戻る。65歳で教職を退職し、83歳で亡くなるまで執筆活動を続けた。
       (以上は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を典拠にして記した)
 本作の作者・髭彦さんは、長年、社会科教師として私立高校の教壇に立たれ、アランと同じ六十五歳で定年退職されたとか。在職中は現代社会や世界史を担当され、高校生たちに、哲学者・アランについて語られたこともお有りでしょう。
 自分が関心を持っている有名人と自分との間に何か共通点が在る場合、それがどんなに些細なことであっても、その人物に対して更に親しみの情を持つのが世の人の常。
    〔答〕 有名な仕立て屋銀次は我が祖父と同じ月日に生まれたそうだ


(久哲)
   夏蜜柑    転がってゆくワックスがまだ乾かない職員通路

 初句と二句目の間の<空き>で、作者は、「夏蜜柑」の「転がって行く」空間や時間をイメージさせようとしたのであろうが、ナンセンス極まりない。
 短歌とは、「五句一行三十一音」の詩形式なのだから、むやみやたらに、改行したり、字空きを用いたりしてはならない。
 「真」「狂」の狭間を行く久哲短歌の場合は、「これは、子供の悪戯書きでは無く、短歌ですよ」と指示し、読者を安心させてからでなければ始まらないのだから、その点は、特に注意しなければならない。
 また、その昔、萩城下の士族の屋敷の土塀の内側に植えられていた、いわゆる「夏蜜柑」は、酸味が強過ぎることが嫌われ、昨今では殆んど市販されていなく、風物詩上の一点景としての役割しか果たしていないのだから、「夏蜜柑」という語は、もはや死語同然。
 そこで、本作に柑橘類を用いるとしたら、「甘夏」「伊予柑」「八朔」などの、現在、市販されて居り、季節感を十分に感じさせ、「転がって行く」という感じの出せる品種の蜜柑を用いるのが適当かと思われる。
 私なら、こうする。
 
    (久哲)
         甘夏が転がって行く ワックスが未だ乾かぬ職員通路
 
 社内の清掃を委託されている業者がやって来て、今朝ほどから、「職員通路」を隈なく掃き清め、ワックスまで塗って行った。
 そのワックスが乾く間も無く昼休みとなり、午前中の仕事から解放された社員達が、思い思いに、その通路を行き来している。社屋から最寄りの行列の出来るラーメン屋に行く者。コンビニで買った弁当を抱えている者。手すりに寄りかかっておしゃべりに余念の無い者。
 「あれ、あれ、掃除したばっかりの社員通路を甘夏が転がって行く。ワックスがまだ乾いてないから、甘夏の皮がベタベタになって食べられなくなってしまうぞ。あんなヘマをやらかしたのは誰だろうか。営業三課のハマちゃんかな。それとも、派遣社員の久哲さんかな。あの久哲さんなら、いつもビタミンCが不足だなどとこぼしているから、会社に甘夏を持って来そうだぞ。ころがれ、ころがれ、久哲さんの甘夏。転がれ、転がれ、トイレの隅まで転がれ」と、喋くっているのは、久哲さんと同じく派遣社員の鳥羽省三でした。
 公園の桜は満開。
 社員の心は弛みっぱなし。
 とにもかくにも、
 麗らかで賑やかな春ではある。
    〔答〕 釣竿の手入れ終えたるハマちゃんがおにぎり抱いて職員通路


(春待)
   新聞の小さな事件の少年が「有職なのか」と羨んだ父

 不器用な作風とも思われるが、人生の一断面を印象深く描いていて、好感の持てる作品である。
 「新聞」で報じられた「小さな事件の」容疑者である「少年」でさえ「有職なの」に、自分が失業者という悲しい身の上に甘んじなければならない悔しさ。解りますよ、その気持ち。
 題詠企画の投稿作品は、これでいい。
 日常生活の中のささいな出来事に目を遣り、それを温かく見つめる作者の視線と心こそ、私たち読者の何よりも望んでいるものである。
    〔答〕 父親の口より漏れた独白を聞いてしまった温かい耳 


(流水)
   職業は「男」であると思えればどんな仕事もしのいでいける

 「職業は『男』である」とは、なんと思い切った発言。
 男性の女性化、中性化が問題となっている昨今、類い稀な好男子ではある。
 元青春タレント・森田某の失職によって、間も無く行われるに違いない、千葉県知事の補欠選挙に立候補していただきたい人材と思われる。
    〔答〕 職業は<鳥羽省三>と思うから何が何でも書かねばならぬ


(蓮野 唯)
   くちばしが黄色いままで職探し泣いて笑って若鳥となれ

 「若鳥」で思い出したことがある。某県立高校の教員になりたての頃。同僚に茨城弁丸出しの男性教員が居て、あれこれと相談し合う仲であった。
 冬休みを間近にしたある日、彼が言う。「お産の迫った女房を水街道の実家に帰したから、今夜から私は独身だ。独身だから、食事も自分で作らなければならないが、自分は若鳥の丸焼きが大好物だから、今夜から、毎日、肉屋から若鳥の丸焼きを買って来て食べよう。若鳥の丸焼きをつまみにビールを飲めたら、女房なんて帰って来なくてもいいよ。ね、鳥羽さん、そう思わない」と。
 言われた鳥羽さんも、若鳥の丸焼きは嫌いではなかったが、返事に窮した。
 下の句に、「泣いて笑って若鳥となれ」とあるが、評者・鳥羽の「若鳥」観は、未だそうしたものでしかない。蓮野さんの感覚の方が成城石井なんでしょうけれど。
    〔答〕 くちばしが黄色いままで歌評書き晩のおかずに若鳥を食う

一首を切り裂く(021:くちばし)

(西中眞二郎)
   くちばしはなぜ鳥だけにあるのかと孫に聞かれて戸惑いており

 「孫を詠んだ短歌に傑作はない」とはよく聞く話である。
 可愛がりたい時には可愛がり、面倒になったらいつでもほっぽり出せるのが、祖父母にとっての孫という存在である。
 そこで、孫を題材にして歌を詠めば、いきおい自慢話めいた内容になり、先人の手垢に塗れた陳腐な語句を並べての平々凡々たる表現になってしまうのであろうか。
 本作が、そうした凡作であるかどうかの判断はひとまず擱いて置く。
 しかし、自分の血を引いた孫から何かについて質問をされて答に窮した、ということは、西中さんとほぼ同じ年代に属する私にも覚えがあり、そんな時、「うちの孫はなんて頭がいいんだろう」などと、思わず本音を漏らしたりして、周囲の者から爺馬鹿と笑われた経験さえ無いわけではないから、たとえ本作の作者に孫自慢の気持ちがあったとしても、一場の笑いを誘うことはあっても、創作動機が不純だなどと非難されることは無い、と私には思われる。
 ところで、 手元に在る辞書『大辞林』によると、「くちばし(嘴、喙、觜)」とは、「鳥類の口器。上下の顎が突き出して角質でおおわれたもの。主に歯と唇のはたらきをする。形態は習性に応じて異なる。哺乳類のカモノハシや爬虫類の一部にもみられる」ということである。
 したがって、「くちばしはなぜ鳥だけにあるのか」という作中の「孫」のおませな質問は、科学的知識を欠いたが故に発した愚かな質問とみなければならない。
 作中の<わたし>が、愛孫のおませな質問に戸惑ってしまったのは、そのことを知ってなのか知らないでなのかは判らないが、本作の面白さの一つは、その辺にもあるのであろう。
    〔答〕 よく聞けば無知が動機の質問で爺馬鹿チャンリン戸惑うばかり


(アンタレス)
   くちばしの如く唇とがらせて自己主張する幼かわゆき

 話者にとって、この「幼」は無条件に可愛いことだろう。
 でも、「三つ子の魂百までも」という諺もある。十年経ち、二十年経ったあかつきに、この子はいったいどんな少年になり、どんな青年になるのか?
 それは、その時のお楽しみ。
    〔答〕 幼児期のままにくちばし尖らせて親を脅迫する大学生 


(穴井苑子)
   どうせならドナルドダックのくちばしのようなマスクが流行ったらいい

 花粉症の最盛期もいつの間にか過ぎたが、つい先日まで、街の盛り場には、「立体型マスク」「超立体型マスク」「財前教授型超高級マスク」を嵌めた人たちが跳梁跋扈していて、某大学病院の手術室さながらの様相を呈していた。
 本作の<わたし>は、そうした世相を見てとった上で、人々がこんなにまでなりふり構わずに、先の尖がったマスクを嵌めたがるものならば、「どうせならドナルドダックのくちばしのようなマスクが流行ったらいい」と言っているのである。
 宜(むべ)なる哉。
    〔答〕 どうせならノコギリ鮫の鋸(のこ)のごと超とんがったマスクが欲しい


(秋月あまね)
   くちばしがばれないやうなマスクして二輌目辺りに座つてゐます

 「本日は○○電鉄の電車をご利用下さいまして、まことにありがとうございます。お客様にお願い致します。この電車の二輌目辺りに、ドナルドダックのくちばしのような形の薄気味悪いマスクをはめた女性が乗車して居られるとの情報が寄せられ、現在、安全確認のために、鉄道公安官が現場に急行しております。お客様方は、何卒、車輌内の安全が確認されてから、二輌目の車輌をご利用下さい。重ねて、お客様にお願い申し上げます・・・・・・・・・・・・・・・・。」
 他の車輌でのそんな騒動を知らないまま、<秋月あまね>さん作品中の<わたし>は、相変わらず、ドナルドダックのくちばし型のマスクで顔を隠しながら、ミッキーマウス型の耳当てをした恋人の訪れを、今か今かと待ち焦がれている。
    〔答〕 耳当てで直ぐにわたしと分かるようピンクのりぼんを結んでいます


(久哲)
   手のひらにのせているものは何ですか「これはくちばし、たぶんあなたの」

 久哲短歌は「狂」と「真」との狭間に成立し、「虚実皮膜の境」をもう一歩「虚」側に踏み出した所に成立するものであるから、凡人に、「これが短歌だ」と認識させることは極めて困難なことである。
 その困難を除去し、常人をして、「久哲短歌こそ真の短歌ならん」と認識せしむる要件は、定型への厳然とした拘りと、鬼神の心胆をも寒からしむるが如き妙なる韻律である。
 その要件を欠いた時、彼の一行文は、童子の悪戯書き以下の雑文と看做される恐れがあるから、作者におかれてはよくよく覚悟して、日夜詠歌に励まなければならない。
 そういう観点からすると、本作は、二句目の字余りが惜しまれる。
 「のせているものは」が「のせているのは」であったら、口語表現ながら五七五七七の定型を遵守した短歌になり、「かなり危なく、かなり美味しい」久哲短歌の大傑作となったはずであるが、作者の怠惰な性格から、今一つの詰めを欠いたため、せっかくの牡丹餅が馬糞に化けてしまったのである。
 惜しみても余りあるのは、作者の茶乱歩乱な性格である。
 そこで、評者は作者に無断で、本作を次のように改作した上、その解釈を試みる。 

  (久哲)   
     「てのひらにのせているのは何ですか」「これはくちばし、たぶんあなたの」

 本作は、一組の夫婦の対話から成り立っている。仮に、上の句の話者を久哲さんとし、下の句の話者を久哲さんの奥さんとしておこう。
 パソコンを開いて、先程から何事かを思案中の久哲さんの書斎に、あのパブテスマのヨハネの生首を捧げたサロメのような腰つきと手つきをして奥さんが現れた。
 そこで久哲さんは、「(その怪しげな)てのひらにのせている(尖がったも)のは何ですか」と、奥さんに向かって問い掛けた。
 奥さんが書斎に入って来た時、久哲さんは、「題詠2009」に投稿するための、お題「妊娠」の作歌に行き詰まった挙句、普段なら夜遅く、家族全員が寝静まってからこっそりと観ることにしている、アダルトブログを開き掛けていたので、自分自身の心のやましさから、奥さんの掌に乗っているおやつのバナナを、サラセンの刺客が持つという鋭い短剣のように思ったのである。
 そんな意外なことを言われて、奥さんは一瞬ムカッと来た。奥さんにすれば、ご主人の久哲さんの、普段からのぐうたら振りには、いささか愛想づかし気味でないこともなかったが、今日のところは、一応、妻らしいサービスをしてやろうと、一房九百八十円のバナナの房の中の一本を持って来てやったのに、そんな警戒するような事を言われては堪らないと思ったからである。
 そこで、「これはくちばし、たぶん(減らず口の)あなたの(くちばし)」と、直ぐさまやり返したのである。
 口語で書かれた個性的な一対の会話の中に、普遍的とも思われる「家庭の闇、夫婦の危機」を垣間覗かせた、久哲短歌の傑作である。 
    〔答〕 グーグルで悩殺ポーズの女性など視てると歌が出来るのですか?  


(花夢)
   くちばしでつついてあなたを起こすとき前世をすこし思い出します

 本作に描かれているのは、房事の後のホテルのベッドの上での出来事である。不倫関係にある二人は、一交の後浅い睡眠に入った。
 しかし、お互いに配偶者有り子有りの身の上であれば、このままこのベッドで熟睡して、明日の明け方、覚めてから、もう一交を交わして朝帰り、というわけにも行かない。
 そこで、より眠りの浅い女性が、男性を起こしにかかる。と言っても、そこは、不倫関係とは言え恋人同士。
 「あなた、起きなさい。このまま眠ってしまって、朝帰りでもしたら、奥さんに分かられてしまって、貴方も私もおしまいですよ」などと、野暮な遣り方はしない。
 つい、先刻展開された房事の余韻を楽しむかのように、熟れた唇を尖がらせて、熟睡中の男性の、頬と言わず、耳と言わず、口と言わず、下半身と言わず、飼い主にじゃれる小鳥のように突っつくのである。 
 枕元の照明にしか視られていないベッドの上で、そんな淫らな行為に耽りながら、その愚かな女性は、ふと思ったのだ。
 「ああ、私は、前世に於いて鳥だったに違いない。私の前世は鳥だったから、今もその記憶にそそられて、私はこんなことをしているのだ」と。
 
 前述の解釈とは別に、彼女が間もなく帰って行かなければならない世界、即ち、愛情の冷めた夫や子供たちの待っている自宅や、自宅での夫や子供たちとの生活を「前世」と解釈することも可能である。
 房事の後の浅い眠りから覚めた後、彼女は、未だ睡眠中の不倫相手の身体を唇で突っつきながら、これから帰って行かなければならない、自分の家や、その家での変わり映えのしない暮らしを、「前世」での出来事のように思い出しているのである。
    〔答〕 前世の私は良妻賢母にて卵料理が大の得意だ 


(鳥羽省三)
   くちばしの黄色い秋刀魚が新鮮と妻は秋刀魚を血眼で選る

(春待)
   くちばしが黄色い秋刀魚は新鮮と祖母は呟き大根も取る

 酷似した二作のうち、上のが私・鳥羽省三の作品。下のが<春待>さんという未知の方の作品である。
 酷似していて、投稿時期が私の方がかなり早いからといって、私は、<春待>さんが私の作品を模倣したとも、剽窃したとも思ってはいない。
 「くちばしの黄色い秋刀魚が新鮮」だ、と言うことは、男女を問わず、消費生活に無関心でない者にとっては、極めて一般的に知られたことであるから、お題「くちばし」を詠もうとした時、似たような発想をした者が二人居たとしても、何ら不思議でないからである。
 私はかつて、森岡貞香作「生ける蛾をこめて捨てたる紙つぶて花の形に朝ひらきをり」と、高野公彦作「悲しみを書きてくるめし紙きれが夜ふけ花のごと開きをるなり」の類似について、高野公彦氏と同結社の奥村晃作氏にお訊ねしたところ、奥村氏から「昨日、たまた高野公彦氏と一緒し、話す機会があったので、応答をお見せしました。基本的な考え方はおのずから高野・奥村は一致しました。製作時点で、高野氏は森岡作品のことは知らなかったとのことです。従って、〈本歌取の範疇の作〉ではなく〈類似の作〉と言うことになります。短歌(和歌)史上稀稀にこうしたことも起こるのですね」という、ご丁重なるご回答を頂戴したことがある。
 鳥羽作と春待作との類想・類似もまた、奥村晃作氏の仰られる通り、「短歌(和歌)史上稀稀にこうしたことも起こるのですね」ということになりましょうか。
    〔答〕 陰(ほと)拭きてくるめて棄てしティッシュペーパー朝は開きて牡丹の如し

一首を切り裂く(020:貧)

(ひぐらしひなつ)
   朝の風にそよぐのだろう貧弱な胸を包んだ白きレースも

 「貧弱な胸」とは、作中の<わたし>の胸である。
 その<わたし>の「貧弱な胸を包んだ白きレース(に縁取られたブラジャー)も」、今朝の冷たい「風にそよぐのだろう」と、作中の<わたし>は、何かの理由で夕べしまい忘れ、ベランダの物干しにかけられたままになっているブラジャーに思いを馳せているのだが、この際は、作中の<わたし>は何処に居てそのように思っているのだろうか、とか、夕べ洗濯物をしまい忘れたのは何故だろうか、などと、余計なことを詮索する必要は一切無い。
 作中の<わたし>が、その朝の風を冷たいと肌で感じ、その冷たい朝風にそよいでいる自分のブラジャーに堪らない愛しさを感じているだろうことを想像すれば充分である。
 その白いレースに縁取られたAAAカップのブラジャーに感じた愛しさは、それに包まれていた自分の貧弱な乳房に対する愛しさであり、それはまた同時に、ちっぽけな自己存在に対する愛しみの情であることは言うまでも無い。
 ナルシスト<ひぐらしひなつ>の面目躍如。
 ところで、初句を、「朝風に」とせずに「朝の風に」としたのは、どういう意図なのであろうか。
    〔答〕 貧乳を包みしレースのブラジャーが二月の朝の風にそよげる


(久哲)
   そこここにある貧困を友とせず敵ともせずすごくくやしい

 一見、何を言っているのか解らないが、少し我慢の児で立ち止まって見てみると、その実態が少しずつ解ってくるのが久哲短歌の特徴の一つである。
 作者・久哲さんとほぼイコールの関係にある作中の<わたし>は、要するに、それほど貧しくもないがそれほど満ち足りてもいない自分の境遇に、それほど不満を感じても居ないがそれほど満足感を感じても居ず、そこのあたりのご自身の境遇の不徹底さと、そうした境遇に対する自分の気持ちの不徹底さが、「すごくくやしい」と言っているのである。
 それが悔しければ、どちらか一方に我が境遇を徹底し、どちらか一方に気持ちを徹底すれば良さそうなものであるが、それが出来ないのが久哲さんの久哲さんたる所以であり、また、そうなればそうなったで、「すごくくやしい」と感じるのが、久哲さんのみならず人間共通の思いであろう。したがって、つまるところは、久哲さんもまた、普遍的典型的人間なのである。
 そうしたありふれた人間境を迷い迷い歩み、悩み悩み詠み続けて行くと、やがて、歌人・久哲は、あの山崎方代を越える歌人として評価されるであろう。
 久哲さんが佳作をものする要諦の一つは、「解ってもらおう」などというさもしい根性を棄てることにある。「解ってもらおう」という姿勢は、読者に媚びる姿勢である。解らぬまま、迷えるまま、ご自身の心のままに詠んだ時、一世一代の傑作が現出することであろう。
    〔答〕 棄てきれず貪り切れぬが悔しくて悔しく思うことも悔しい


(梅田啓子)
   「みんな貧乏がわるいんや」岡林の歌ひし人たち住む家はあり

 作者・梅田啓子さんの作品は「一首を切り裂く」に再三採り上げられ、いささかならず、ご迷惑とは拝察されるが、何分、私の観察するところでは、梅田さんは、「題詠2009」に参加者中屈指の歌人と思われ、本作もまた、私の批評意欲をそそる作品であるので、俎上に載せさせていただく。悪しからず。
 作中の「岡林」とは、言うまでも無く、「フォークの神様」という愛称で知られた岡林信康。従って、作中の上の句の「みんな貧乏がわるいんや」とは、彼・岡林が作詞・作曲してヒットさせた「チューリップのアップリケ」の中の一句である。
 今、その中の関係部分をコピーして記すと以下の通りである。

 「うちのお父ちゃん 暗いうちからおそうまで/毎日くつを トントンたたいてはる/あんな一生懸命 働いてはるのに/なんでうちの家 いつも金がないんやろ/みんな貧乏が みんな貧乏が悪いんや/そやでお母ちゃん 家を出ていかはった/おじいちゃんに お金のことで/いつも大きな声で 怒られはったもん/みんな貧乏のせいや/お母ちゃん ちっとも悪うない」

 私は、かつても今も、塚本邦雄とまぐろの赤身とフォークソングの大ファンであり、塚本邦雄の歌集をひもといた回数や回転寿司屋に通った回数と同じ数だけ、<高石ともや>や<岡林信康>の曲を聴いて来たのであるが、「岡林の歌ひし人たち住む家はあり」ということまでは気がつかなかった。
 さすがは梅田ケイコさん、大変見事なパラドックスです。一本取られました。ケイコ不足大いに恥じ入ります。
 考えてみると、「家出」する人は、出て行く家があるから家出することが出来るのである。
 そこ行くと、昨今話題のホームレス歌人・公田耕一さんは、出て行く家も耕す口分田も持たないからホームレス歌人なのである。
 その公田さんも、今や「朝日歌壇の広告塔」と言った感じである。そろそろ姿を現し、その作品を上梓なさったら、たちまち家の一軒や二軒ぐらい建つに違いない。
 その上で、本当に家出をなさったら、今度は<家出歌人・歌出家持>として更に儲かることであろう。
 冗談はさて置いて、梅田さんに一首の材料を提供した岡林信康の生家は、あのメンタームでお馴染みの近江兄弟社の創立者として有名な外人・ウィリアム・メレル・ヴォーリズが創設したキリスト教会であると言う。
 彼のそうした恵まれた生い立ちが、歌手としてデビューしてから後の、一見、世間知らずのわがままともとれる彼の言行にも影響したと思うのは評者一人ではないであろう。
 ところで、岡林が「チューリップのアップリケ」を歌っていた頃と同じように、昨今の世の中は史上稀に見る不況とかで、見るに見かねた政府も平成のお救い小屋を解き放ち、定額給付金を至急する運びとなり、私もまたその恩恵に浴した。
 そうした世相を鑑みるに、本作は、単に、「家出する者には家がある」というパラドックスを詠んだだけの作品とも思われない。
 作者・梅田さんは、「岡林の歌ひし人たち住む家はあり」という下の句中の「し」の働きに、特別の感慨を込めてお詠みになられたのであろうか。
    〔答〕 メンタームを塗れば治るか岡林信康いくたび浅き傷負ひ 
        切り裂いて評すに足らぬ歌ならば鳥羽省三とて切り裂きはせぬ


(はこべ)
   五条なる貧しき家に咲きし花 白扇にのせ光の君に 

 『源氏物語』<夕顔>の巻の冒頭部に取材した作品ではあるが、一首として屹立させるためには、もう一工夫も二工夫もしたいところである。
 本作の作者は、源氏物語のこのシーンから何を感じ、作品を通じて読者に何を訴えたいのであろうか。
 そうした点の検討を蔑ろにしたまま、「私だって、源氏物語ぐらい知ってるわ」といった感じで創作したものだから、せっかくの好材料を得ていながら、場面の紹介だけで終わってしまったのであろう。
 反省すべし。大いに反省すべし。
 この程度の作品で満足出来る<はこべ>さんではないはずだ。
    〔答〕 夕顔は姿いやしき花なれば白き扇に載せたてまつる 
        切り裂いて評すに足らぬ歌ならばあの鳥羽とても切り裂きはせぬ

一首を切り裂く(019:ノート)

(眩暈丸)
   ノートにはジャック・デリダの哲学とパラパラ漫画同居していた

 学生時代に哲学を履修していた者が、のちのちになって往時の自分のノートを開いてみた。すると、そこには、ポスト構造主義の代表的な哲学者・ジャック・デリダ(1930~ 2004)の脱構築哲学に関する断片と、かつての自分が聴講に集中出来ないままに描いたパラバラ漫画が同居していた、という笑うに笑えない話を題材にした作品である。
 だが、第二次世界大戦後の哲学界の状況、即ち、「猫も杓子も主体性」などと皮肉られた、戦後間もなくから1960年代までの実存主義の全盛が構造主義の登場によって終焉を遂げ、その構造主義も、それに修正を加えんとするポスト構造主義、なかんずく、その最先端を行くジャツク・デリダの脱構築哲学の前に魅力を失う。そして、2004年、デリダの死後の哲学界の混沌とした有様。その風景は、あたかも、作中の<わたし>の大学ノートの片隅に書かれたパラパラ漫画のように変幻極まりないものであり、滑稽なものでさえある。
 従って、皮相には怠惰な学生の懺悔碌にしか見えないこの一首は、現代の哲学界の混沌とした状況に対する痛烈な批判ないし風刺とも受け取られよう。
    〔答〕 <脱構築>ジャック・デリダに眩暈してパラパラ漫画を構築していた   


(かりやす)
   桜越しに見上げるそらの日本人アストロノートの船外活動

 【ヒューストン(米テキサス州)17日時事】
 米スペースシャトル「ディスカバリー」に搭乗し、国際宇宙ステーション(ISS)長期滞在に向かう若田光一さん(45)の元気な姿が17日、米航空宇宙局(NASA)テレビに映し出された。打ち上げ直後の若田さんは、オレンジ色の飛行服姿。無重力で飛んでいこうとする機材をキャッチすると、満面の笑みでカメラに向かい親指を立てるポーズを取った。その後、紺と白のしまのポロシャツに着替えた若田さんが、はつらつとした表情でシャトル内で作業する姿も映し出された。   
                               (2009/03/17-21:04<時事ドット・コム>より)
 さて、「日本人アストロノート」の若田光一さんは、「桜越しに見上げるそらの」彼方の宇宙で、今回は、どんな「船外活動」を演じてみせることだろうか。
    〔答〕 桜越しに見上げる空の彼方飛ぶ北朝鮮の無軌道ミサイル


(木村比呂)
   開いても砂嵐しか映さない実験ノートを静かに倒す

 この不況下、文科省当局の文教予算削減方針のあおりを受けて、大学の研究室の備品のノート型PCが旧型のまま。 
 そこで、最近は、そのウインドーに映るはずの実験記録が、ゴビの砂漠の砂嵐のような状況を呈しているので、研究意欲を喪失して、PCの画面を静かに閉じてしまった、というところ。 
    〔答〕 しゅわしゅわと砂が音立て降るようなPC画面に積もるデーター
 

(jonny)
   特別なノートの中に特別な言葉を3つ閉じ込めなさい

 「無防備に輝く星を今夜こそひとつ残らず笑わせてやる」という歌を初めて読んだ時、私は、「この歌の作者は朝鮮人民民主主義共和国の情宣担当官で、この歌の本旨は、間もなく日本の上空を飛んで物議を醸すことになるはずの無軌道ミサイルの予告宣伝文なのかも知れない」と思った。
 夜空に輝くお星さまをつかまえて「無防備」と罵ったり、そのお星さまの「ひとつ残らず」を「今夜こそ」「笑わせてやる」などと言うような非科学的かつ無茶苦茶な人間は、私たちと同じ自由主義社会の住人とは思われず、もしも、あの国が発射したミサイルが予定通りの軌跡を描かずに、日本海のど真ん中辺りでUターンして、元の発射台に戻りでもしたら、無防備に夜空に輝いているお星様でさえ抱腹絶倒して、一つ残らず笑い転げてしまうだろう、と思ったからである。
 だが、その後、この人の作品の幾首かに接した結果、私はそうした認識を改め、次のような新しい認識を得た。
   〔新しい認識・そのⅠ〕  <jonny>さんは、未だに国籍不明、性別不明の人物ではあるが、少なくとも、例の国の人でも、例の国の情宣担当官でもない、ということ。
   〔新しい認識・そのⅡ〕  <jonny>さんは若い、若くて元気で夢多き男性か女性である、ということ。
 <jonny>さんは若い。若くて夢多き人間だからこそ、この世に「特別なノート」などという、夢多き物が存在していると思っているのだ。
 <jonny>さんは若い。若くて夢多き人間だからこそ、この世に「特別な言葉」などという、夢多き言葉が存在していると信じているのだ。   
 <jonny>さんよ、いい加減に眼を覚ましなさい。この世に「特別なノート」などという代物は無い。在るのは、3冊105円のダイソーの束ノートと、その倍もするコクヨのキャンパスノートだけである。
 <jonny>さんよ、いい加減に眼を覚ましなさい。この世に「特別な言葉」などという夢多き言葉は無い。在るのは、「老・病・死」「離・別・苦」「貧・窮・困」などという、ありふれた三点セットの言葉だけなのだ。
    〔答〕 ありふれたノートを買ってありふれた憎悪の言葉を書き連ねよう 


(柴田匡志)
   初めての新車は日産ノートにて納車の日にはそわそわしてる

 「日産ノート」は、トヨタとホンダに挿まれて顔色無かったニッサンが久々に放った若者向けのいいこと尽くめの夢の自動車である、と言う。
 しかも、本作の作者の分身と思われる作中の<わたし>にとっては、それは生まれて「初めての新車」である。
 となれば、その「納車の日にはそわそわしてる」のは当然のこと。
 納車の日の興奮も冷め遣らぬ頃に、この車が我が家の家計を圧迫する<火の車>にならなければ良いが、と祈るのみ。
    〔答〕 燃費良しデザインも好くコンパクト日産ノートに如くものぞなき


(五十嵐きよみ)
   もう開くこともないのに捨てられぬノートにいくつ詩人の名前

 感性が慣性となったら陥穽に嵌る。
 手馴れた手法で誤魔化しの作品を作っていてはいけない。
 かつてのフーコー短歌賞優秀賞受賞歌人も、いくら自分の主催する題詠企画の中の詠み棄て作品とは言え、ここまで中身の無い作品を作っていたらお終い。
 早晩、短歌の神様に引導を渡されるだろう。
    〔答〕 歌人の名いくつノートに記しても極められない短歌の道は


(久哲)
   ノートには鍵をかけてね危ないよ僕は愉快な複写猫 みゃお

 久哲さんも自分の分を忘れてしまってはいけない。
 久哲短歌の魅力は、一種玄妙な解り難さにあったのではないだろうか。
 それを忘れて、「ノートには鍵をかけてね危ないよ」などと平成の説教強盗みたいなことを言ったり、「僕に愉快な複写猫 みゃお」などと、女ガキどもに媚を売ったりするとは何事ですか。
 これでは、『未来』に群がる歌人ちゃんレベルではないか。反省せよ。厳重に反省せよ。
    〔答〕 久哲が久哲学を忘れたらなってしまうぞ変なおじさん   


(ことり)
   ノート買うときがしあわせ丸ごとの世界を買うって雰囲気がして

 これぞ正しく<ことり>ちゃんの歌。
 <ことり>ちゃんの歌は<ことり>ちゃんの歌なるべし。久哲さんの歌なるべからず。
 久哲さんの歌は久哲さんの歌なるべし。<ことり>ちゃんの歌なるべからず。
    〔答〕 新しいノート開いて書くときはもっと幸せ 夢描いてね


(梅田啓子)
   生前に母はノートに記したりき「香典返しは敷布にすること」

 百里の中の一里に過ぎないのだから、たまには力を抜いて走ることも必要かとは思われる。
 だが、お題「格差」の一首に続いての、この一首の手抜き振りは目に余る。
 この一首は、「和泉式部も慣性に陥いれば童女に劣る」という事の一例として掲出するのである。
 反省すべし。
 それはそれとして、生前のご母堂様によく出来たお方であられたようだ。「香典返しは敷布にすること」とは、まさしく金言。
 香典返しのお茶の不味いこと。香典返しの毛布の静電気を起こすこと。その他、バスタオルも、玄関マットも、陶磁器も、香典返しの品ともなれば、自家用として用いることも無く、結局は町内会主催の慈善バザーなどに寄付してしまうのが落ちである。
 そこへ行くと敷布は、幾枚あっても足りない高齢者用として使う、不意の泊り客のために使う、などして、重宝することこの上なしの品物である。
 さすれば、「香典返しは敷布にすること」とは、今は亡きご母堂様の書き残した家訓と心得るべし。
    〔答〕 引越しの<微笑がえし>の懐かしく伊藤蘭ちゃん今は人妻


(庭鳥)
   どんな色してるのですかパリの空ノートルダムにかかる日差しは

 雑記帳を意味するノートから逃れ、一首を要領よくまとめた点を評価したい。
 ところで、ノートルダム寺院の尖塔のてっぺんにニワトリが上がって、「コケコッコー」と鳴いたとしたら、どんなに愉快なことでしょうか。
 その選ばれたニワトリは、姿としては長尾鶏、声としては東天紅が宜しいでしょう。共に南国土佐の地鶏です。   
    〔答〕 パリの空ノートルダムにかかる陽も黒部のダムにかかる陽も赤い


(野州)
   階段を降りて静かな店なりきブルーノート堅き椅子に聴きゐて

 「ブルーノート」と言えば、1939年にニューヨークに誕生した、音楽史上初めてのジャズ専門レーベルのこと。
 サウンド面、デザイン面などすべての点で素晴らしい作品を次々に世に送り出し、ジャズ界のみならず、ミュージック・ビジネス・シーン全体に与えた影響も計り知れないくらい大きく、モダン・ジャズメンのほとんどがブルーノート出身と言っても過言ではない、と言われている。
 本作の「ブルーノート」とは、そのレーベルのレコードを指すものと思われ、具体的な曲名までは解りかねる。
 それとは別に、1981年にニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに第一号店を構え、その後、世界各国にチェーン展開をしている、「ブルーノート」というジャズ・クラブもある。
 従って、本作が、ジャズ・クラブ「ブルーノート」で「ブルーノート」レーベルのジャズ演奏を聴いたとするならば、更に興味深いものがあるが、それはどうやら深読みに過ぎるであろう。
 「階段を降りて静かな店なりき」とは、大都市の盛り場の何処にでもありそうで、実際にはなかなか在り得ないジャズ・クラブである。
 作中の<わたし>は、かつて、その店の「堅き椅子」に腰掛けて「ブルーノート」レーベルのジャズを聴いたと言うが、その曲名までは明かさない。
 評者の好みからリクエストすると、その曲は「ニューヨークの秋」。
 1921年にロシアから移民して来たヴァーノン・デュークが、1934年のレビュー『サムズ・アップ』のために作詞、作曲したヒット曲である。
 摩天楼やミッドタウン、そしてセントラル・パークやイースト・ビレッジやダウンタウンなどなど、ニューヨークの街路を行きかう人々の繊細な心情や秋の風景を思い起こさせてくれる瀟洒な歌詞、そしてビートの効いたメロディ・ラインと錯綜した曲の構成に、作中の<わたし>のセンチメンタリズムは否応なく刺激され、一杯のバーボンを飲み終えないうちに、彼のネクタイはぐしょぐしょに濡れるに違いない。
 演奏は望み得るならば、1956年5月31日、グリニッチ・ビレッジのバローストリート15番地「カフェ・ボヘミア」におけるケニー・ドーハム(1924-1972)が率いるセクステットによるライヴ演奏。
 彼のトランペットの音色は、夜霧に煙るマンハッタンの摩天楼を思い起こさせ、どんな鬼神の心をも酔わせる名演奏であるが、これにはヴォーカルが入らないので少し残念。
    〔答〕 階段を昇れば渋谷・道玄坂 婀娜な姉さん新内流し 


(新田瑛)
   新しいキャンパスノートの罫線のようにほのかでまっすぐであれ

 「キャンパスノート」とは、総合文具メーカー<コクヨ>が、1975(昭和50)年8月から発売した、実用的かつお洒落なイメージのノートの登録商品名である。
 当時の大学生や高校生にとって、羨望の的であったのがアメリカの有名大学の明るいキャンパス風景。
 そこで、その頃、旧弊な帳簿販売会社<黒田國光堂>から、総合文具メーカー<コクヨ>へと脱皮を図ろうとしていた同社が、その一環として、アメリカの有名大学のキャンバスに憧れている大学生や高校生をターゲットとして生産・販売したのが<キャンパスノート>であった。
 本作の作者の新田瑛さんには、<キャンパスノート>とはコクヨ株式会社の登録商品名である、との意識があったかどうかは定かでないが、コクヨのキャンパスノートであれ、他のメーカーのノートであれ、現代日本の高校生・大学生層が買い求めるノートのイメージは、白い紙面と藍色を中心とした「ほのか」で「まっすぐ」な罫線であろう。
 この一首は、キャンパスノートに備わったそうした爽やかなイメージに着目して創作されたものであろう。 
    〔答〕 コクヨ社が題詠企画に潜らせた工作員か新田瑛さん 

一首を切り裂く(018:格差)

(船坂圭之介)
   眷族のみどりなす群 かへり得ざる格差に痴れて夕餉淋しも

 作中の<わたし>は病弱。故に、その行動範囲は限られ、その視野も極端に狭い。
 目下の<わたし>の関心事は、自分のこと以外には眷族の暮らしぶりだけ。
 <わたし>の唯一の関心事である眷族たちの生活は、目下、受けに入っている。
 彼らは<わたし>とは違って、いい家に住み、いい職に就き、いい物を食べ、いい女といいことをして暮らしている。
 本当かどうかは知らないが、少なくとも、極端に狭められた<わたし>の目と心にはそのように映るのである。
 「眷族のみどりなす群」とは、なんと生々しく、なんと眩しく、なんと妬ましく、なんと絶望感に満ちた認識であろうか。
 かつては自分自身もまた、その「群」の中の一人であっただけに、作中の<わたし>は、彼らと<わたし>とを隔てる「かへり得ざる格差」を感じた時、どうしても諦めきれず、その「格差」の中にどっぷりと浸かり、その境地に「痴れる」しか無かったのである。
 五句目の「夕餉淋しも」は、言わずもがなの余計な表現である。
    〔答〕 なま若布キュウサイ青汁アオミドロ みどりなすものみな妬ましき

 
(ふみまろ)
   生きたいと叫ぶ怨嗟がこだまするほどの格差はないこの国は

 公爵・近衛文麿氏とはこの方の御曽祖父様ですか?
 あなたもまた、銀の匙を銜えてお生まれになったのですか?
    〔答〕 生きたいと叫ぶ怨嗟がこだまするこの谷間まで降りておいでよ


(新田瑛)
   容れ物の差だとか海苔の有無などを格差と思って食べるもりそば

 言われてみれば、なるほどと思う。
 私も新田瑛さんのご意見に賛成なのですが、インターネットで検索してみたら、いろいろと興味深いことが書いてありました。
 百聞は一見に如かず。
 興味を持たれた方は、どうぞ、下記URLのブログを直接お開きの上、お調べ下さい。
http://blog2005.toku-san.net/?eid=177978
    〔答〕 盛りそばも二百円からとりどりで海苔をかければざる蕎麦となる 


(みずき)
   賑はひの街に格差の日日生れて白き牡丹にけふも雨降る

 中国・宋代の儒学者・周敦頤 (1017-1073)の随筆『愛蓮説』と言えば、高校の漢文の教科書の定番である。
 その文中で著者・周敦頤は、「菊は花の隠逸なる者なり、牡丹は花の富貴なる者なり、蓮は花の君子たる者なり」と述べている。
 要するに、宋代・中国に於いては、牡丹が富貴のシンボルとして尊ばれていたと言うことである。
 また、高浜虚子の名句「白牡丹といふといへども紅ほのか」や、木下利玄の名歌「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」なも国語の教科書でおなじみであり、賀茂鶴・賀茂泉と並んで広島三銘酒として名高いのが「白牡丹」であることも広く知られた事実である。
 これらのことは、牡丹の花、とりわけ白牡丹が、その豪奢で気品高いイメージを備えているが故に、中国のみならず我が国に於いても珍重されて来たことを物語っているのである。
 前置きが長くなってしまったが、私が本作を読んで最初に感じたのは、本作の下の句、「白き牡丹にけふも雨降る」は、私が述べて来たような伝統的な牡丹のイメージとは隔絶したところに成立しているのでないだろうか、ということである。
 買い物客などで、相変わらず賑わっている街であるが、その街にも日が経つにつれて持てる者と持たざる者との格差が表れ、その象徴であるかのように、白くて可憐な牡丹を痛めつけるようにして、今日も雨が降っている。
 そのことがどうだこうだと言うのではないが、本作の「白き牡丹」からは、豪奢や気品高い、といったイメージはほとんど感じられない。
 もし、そうだとしても、因習や伝統によって雁字搦めになった境地とは別の観点に立って、短歌を詠むことは、歓迎すべきことに違いない。
    〔答〕 賑はへる今日の花会 蝶群るる牡丹の花の今し手折らる 

 
(jonny)
   バーゲンの値札のついたショーケース 格差を知らぬワンコが眠る

 「犬ころ」「犬死」「犬畜生」「犬にも劣る」などといった、犬を蔑視した言葉がほぼ死語と化した昨今は、第二のお犬様時代なのである。
 格差社会を知ってか知らないでか、横浜市青葉区美しが丘地区の住宅街のワンコたちは、ほぼ例外なしに、ドレス紛いの衣装に包まれて散歩している。彼女らに牽かれるようにして歩む奥様方の薫香馥郁たること。
    〔答〕 バーゲンの値札に見入る我が妻を格差を知らぬワンコが見てる


(小早川忠義)
   おはらひの札の値段に格差あり懐次第の神とは如何に

 代議士への政治献金などは、まさにお払い札(厄除けか?)の代金のようなものでしょう。その値段も効き目によってさまざまとか?
 時あたかも、西松建設事件によって、政権交代、危急存亡の危機なり。     
    〔答〕 お払いの札の効き目は金しだい高きお札に崇き神宿る


(ぽたぽん)
   穢れなき両手を空に広げたる嬰児(みどりご)はまだ格差を知らず

 嬰児たちがいつも両手を空に広げているのは、あれは、ホールドアップの姿勢が本能的に身についているからではないでしょうか?
    〔答〕 <ぽたぽん>と生まれて来たる嬰児の穢れを知らぬばんざいスタイル


(梅田啓子)
   髪結ひの亭主も言はば〈格差婚〉サンダルひつかけパチンコにゆく

 作者ご自身とほぼイコールの関係にあると思われる、作中の<わたし>に、「髪結ひの亭主」と罵られ、「格差婚」とまで蔑まれながらも、「サンダルひつかけパチンコにゆく」可愛いいご主人様も、つい先日までは、企業戦士であり、良夫賢父であって、毎月毎月、月末になると子育てに懸命な母燕のように、いそいそと我が家に月給を運んで来た、模範的普遍的な月給取りだったのであろう。
 それなのに、一旦、定年退職してしまうと、このように味噌糞に言われて救いようがない。
 作者は、一体、どなたの御蔭でのほほんと五七五七七遊びをしていられるのだろうか?
 あの軽口の鳥羽省三ではないが、本作の作者もまた、一日に三回ぐらいはわが身を反省してみる必要があろうか? 
 察するに、本作中の一字一句は、近頃、短歌などをやるようになって、少しばかり自信をつけた愚妻の作り事、あだ事、題材に困った挙句の空想の産物なのだろう?
 それにしても、彼女ら、インターネット歌壇や結社誌に巣食い、我が物顔に振舞っている女流歌人どもの題材漁りの狂奔ぶりは目に余りある。
 「題詠のためにひと日のあるやうな収入源とはならないけれど」とは、そのうちに、あの鳥羽省三の手によって滅茶苦茶に切り裂かれる運命にある、本作の作者の作品であるが、題材漁りに狂奔する女性たちの中でもかなり醒めた部分を備えた作者には、ご自身の所業を恥じる気持ちがいくらか残っているのだろうか?
 それはともかく、今回の作品は、日頃の作者の作品とは隔絶したような駄作。お題の「格差」が、作中に入り込めず、ふわふわと浮遊しているではないか。
 そのことは、さすがに作者も自覚しているものと思われ、〈格差婚〉などと括弧で括ったりして誤魔化そうとしているが、誤魔化しは所詮ゴマカシ、お題を持て余すようになったら、その時点でリタイヤすべきだ。
    〔答〕 作品の出来と不出来に格差あり お題生かすも殺すも作者


(ウクレレ)
   格差だと思うパレット 空色の絵の具の占める仕切りの広さ

 新品のパレットに空色指定のスペースがあるのではない。
 だから、格差を作った責任は、その広いスペースに空色の絵の具を溶いた者にある。
 それに、空はいつもいわゆる「空色」とは限らない。その日の天候により、画家の気分により、時々刻々と空の色は変わって行くのである。
 更に、描写対象となるのは、常に空を含んだ風景とは限らない。画面の大部分が海のこともあり、山のこともあり、豊満な女性の肉体のこともある。
 推して知るに、作者<ウクレレ>さんの分身に他ならない作中の<わたし>は、いつも晴れ渡った大空ばかりを描いている三流画家であろう。
    〔答〕 格差だと思うギターとウクレレの違い大きく弾く気にならん


(祢莉)
   格差ってつまり今目の前にある財布の中の62円

 格差という概念は、あくまでも比較対照があってこそ成り立つ概念である。
 然るに、おそらくは作者・祢莉さんの財布の中身そのものに違いないと思われる本作の「62円」は、比較対照無しに「格差」そのものである。
 故に評者は、本作を躊躇することなく傑作と評価す。
 だが、いい気になって舞い上がってはいけないよ。世の中には、上には上が在るように、下にも下が在るのだから。
    〔答〕 格差ってつまりその62円私の財布はすっから神田


(イマイ)
   今頃も吹雪なのかと布団干す格差のような真冬の日差し

 四十年間のヨコハマ暮らしの後に、かつて裏日本と呼ばれていた雪国暮らしを八年間もやっていた評者としては、本作の内容はあまりに身につまされる内容です。
 首都圏が快晴の冬の日は、あの地方は決まって猛吹雪なのです。これ以上、何も言えません。
    〔答〕 今頃は布団干しかと憧れた吹雪止まない冬のさなかに


(都季)
   誰しもが真っ直ぐ走れる訳じゃない 青春にだって格差はあるよ

 君は観たろうか。あの往年の名画『キューポラのある街』を。
 その頃は駆け出しのアイドル女優に過ぎなかった、吉永小百合が演じるヒロインのジュンが走った。
駆け出し女優だから走ったのではない。青春の真っ只中に生きているから走ったのだ。
 浜田光夫が演じる鋳造工の克巳も走った。市川好郎が演じる弟のタカユキも走った。父も母もみんなみんな走った。みんなみんな格差なんかものともせずに走っていた。
 青春に格差なんか無い。君たちも走れよ。
    〔答〕 駆け出しの吉永小百合が走るとき貧も格差もみんなぶっ飛ぶ 

一首を切り裂く(017:解)

(風天のぼ)
   この冬でいちばん寒い夜の月 「のぼちゃん?」 と呼ぶこえ解き放つ

 「のぼちゃん、のぼちゃん」と、さっきから優しい呼び声が聞こえて来る。
 あれは、お母さんの声。お母さんが優しく僕に呼びかける声だ。
 お母さんは、フーテンとなった僕のことが心配で、昇天も成仏も出来ずに、あの世とこの世の狭間を彷徨っている。
 そして、いつも夜になると、この僕に、優しくそして哀しく呼びかけて来るのだ。
 でもね、お母さん。僕はもう大丈夫だ。こうして歌も詠めるし、ひとり立ちして暮らすことも出来るよ。
 だから、お母さん。もう、僕のことは僕に任せて、あの天国に昇って下さい。
 でも、「この冬でいちばん寒い夜の月」を見ていると、何故か心配にもなる。
    〔答〕 解き放つべきか否かの母の声 今夜の月はあまりに寂し


(西中眞二郎)
   涙目の理由を誤解されぬようこれ見よがしに目薬を差す

 身辺に何か、作中の<わたし>が涙を流して当然と思われるような事態が発生したのであろうか。
 例えば、孫娘か誰かが、作中の<わたし>を冒涜するような挙に出たとか。
 もし、そうならば、<わたし>にとって、そうした事態は悔しくもあり、腹立たしくもあるから、涙の一粒や二粒ぐらい流れ出さないでもない。でも、その時に流した涙は、そのために流したのではなく、花粉症か老化現象ゆえの落涙である、とでも作中の<わたし>は言いたいのである。
 本作は、そうした人生の機微を捉えて詠んだ傑作である。
    〔答〕 当たらずと言えど遠くは外れざる 誤解にあればなお向きになる


(みつき)
   先生のネクタイ解いた理科室の 匂いは今もまだ覚えてる 

 部分的な不明箇所が一箇所在るのに加え、一首全体の意味も解らない作品ではあるが、鑑賞対象とするには十分な魅力を備えた作品ではある。
 先ず、部分的な不明箇所。
 初句「先生の」の「の」の文法的意味が曖昧である。「先生の」が「ネクタイ」に係る連体修飾語なのか、「解いた」を述語とする主語なのかが判らないのである。
 この作品を魅力ある一首にするか否かの鍵は、この「の」の解釈如何にかかっているのであるが、評者は善意の人であるから、この「の」を連体修飾格の格助詞として捉え、この一首を、教師と生徒とのタブーを犯した情事を描いた作品として読もう。
 「先生のネクタイを解いた」のは、作中の<わたし>。もしかしたら彼女は、本作の作者<みつき>さんご自身かも知れない。
 いや、もしかしたらではない。作中の<わたし>は、必ずや作者本人に違いない。
 あれから七年ほど過ぎた昨年六月、作者は高校での同級生・貢くんと結婚した。
 仲人は、あの時のネクタイ先生。
 人が好いだけが取り得の夫の貢くんは、我が妻・みつきさんの秘密を何も知らないのだ。
    〔答〕 ベンジンの匂いの染みたネクタイを外した彼の意外な躊躇
 あの時のあれは、徹頭徹尾、みつきさんペースで展開されたのである。


(久哲)
   水色の結び目を解く夏肌に仏法僧の夜鳴くところ

 またもや情事。
 この度は、「仏法僧」啼く聖域での真夜中の情事だ。
 「水色の結び目」とは、久哲和尚の着ていた法衣の紐のそれかも知れないし、生臭坊主の毒牙にかかった未亡人の着物のそれかも知れないが、いかにも真夏の深夜に展開された情事の主役の着衣らしい雰囲気を出している。
 当たるを幸いと、次々に女性を餌食にする和尚は、やがてこの哀れな未亡人をも、金蔓の一つにするに違いない。
    〔答〕 水色の文目(あやめ)も知らぬ真夜中に紐を解くやら爪立てるやら


(みずき)
   解きほぐす夜の水髪さやさやと孤独の影へ触れて雫くを

 同じ真夜中でも、こちらの真夜中は静寂そのもの。わずかに聞こえるのは、三尺に余る黒髪から滴る雫の音と、さやさやと吹く夜風の音だけ。
 この一首は、一応は、「雫く(水髪)を→解きほぐす」と倒置法めいた体裁とはなっているが、「夜の→水髪→さやさやと→(孤独の→影へ)触れて→雫くを→解きほぐす→夜の→水髪」と、循環式に何処までも続いて行くのであり、その循環のリズムに心を同調させて行くと、その流麗にして玄妙な文意も、何と無く理解されて行くのである。
    〔答〕 解きほぐす妙の一首のさやさやと孤高の影に触れて響くを 


(梅田啓子)

   なめくぢの這ひたるあとの光りをり友と和解し夜道をゆけば

 推してみるに、「友と和解し」た後、作中の<わたし>は一人で「夜道を」歩いていたのであろう。
  もしそうならば、本作の五句目は「夜道をゆけば」ではなく、「夜道を来れば」或いは「夜道帰れば」が、より実態に即した表現となるのではないだろうか?
 それにしても、「なめくぢの這ひたるあとの光りをり」という上の句の発見と叙述とには脱帽である。。
 私の現住居のアネモネの花壇の周りにも、蛞蝓の這った跡と思しき痕跡が一メートル以上に亘って見受けられるが、今朝見ると、その痕跡は雲母状に少し輝いていた。
 あの這い跡が夜になると、人の目を導き癒やすようにして、光り輝くのであろうか。
 作者・梅田啓子さんの歌才には、インターネット歌壇の蛇蝎とも噂される、あの慧眼の士・黒田英雄さんも、夙にご注目の様子と見受けられ、たまたま今朝披いた彼のブロク『安儀素日記』の昨日の記事、「陽の当たらない名歌選」に、「めがねの奥の小さき眼をしばたたき高野公彦氏美女のかたへに」という、梅田啓子さんの傑作が掲載されていた。
 この傑作をものされた時、作者の梅田啓子さんは、歌材となった高野公彦氏に対して格別な含みを持たれないままに実写されたのであろう。
 だが、梅田さんと較べると人格が二段も三段も劣る私は、この傑作の世界と、某著名女流歌人のご息女が某短歌新人賞を受賞された時の高野公彦氏の常軌を逸した行動などとを重ね合わせ、大変興味深く観賞させて頂いた。
    〔答〕 蛞蝓も歌人・高野の這い跡も目ざとく見つけ恐い眼差し


(jonny)
   美しい言葉をいつか紡ぎたい 雪解け水のような言葉を

 本作の作者の<jonny>さんはニューヨーク市五番街生まれなので日本の山村の事情には疎く、本作の表現に於いても、それ故の決定的なミスを犯している。
 「美しい言葉をいつか紡ぎたい」という上の句はまず好い。問題は、「雪解け水のような言葉を」という下の句に在るのである。
 そもそも、作者<jonny>さんの分身と思われる作中の<わたし>が、「美しい言葉をいつか紡ぎたい」という切なる願望を抱いているのは、どんな理由があってのことであろうか?
 いちいち説明しなくても解りそうなことを、いちいち説明しなければならないところに、評者は、自身と読者との間に厳然として存在する理解力の差を感じてしまうのであるが、言っても解らない、言わねばなお解らないのが読者の常であろうから、ここは、ぐっと堪えて説明しておこう。
 ニューヨーク生まれの歌人<jonny>さんの分身に他ならない、作中の<わたし>が、「美しい言葉をいつか紡ぎたい」と願って已まない理由はただ一つ、それは、その「言葉」で以って、人を慰謝し、この世の中を、少しでも明るいものにしたいと願うからである。
 人を慰謝し、世の中を明るくするに足る「言葉」は、単に「美しい」だけの言葉であってはならない。美しさに加えて、温かさと和やかさ。轟々と音を立てて谷川を流れる「雪解け水」に、温かさと和やかさを求められようか?
    〔答〕 轟々と谿をどよもす雪解けの水には人も魚も棲めず


(伊藤夏人)
   解説のようなものなどいりません 答えは変わらないのでしょうか

 昨日の夕刻、さいたま市の盛り場を流して歩く納豆売りの声を聞いた。
 「ナットー、ナットー、国産大豆百パーセント、手作りの納豆は要りませんか。血栓を溶かし、血液の流れを良くし、動脈硬化を防ぐ食品、ナットウですよ。長生きしたい人は、どうぞお買い上げ下さい」と叫びながら、飲み屋街を軽自動車で流して歩くのである。
 地元の人の話によると、その納豆販売車は昼間は住宅街、夕方近くになると盛り場を流して回るのだそうだ。
 納豆売りの声が聞こえて来ると、灯りを点して開店の準備を始めたスナックや縄のれんなどから、厚化粧したお姐さんたちが出て来て、「あたいに納豆一つちょうだい。超ねばねばしたヤツをね」などと言って買い求めるのであろうか。
 納豆売りと言えば、その昔は、その呼び声が朝の風物詩であった。彼らは、ただひたすら「なっとー、なっとー」と、独特の呼び声で振れ回るだけで、風に乗って聞こえて来るその哀切な呼び声は、時には泣き声にさえ聞こえた。
 ところが、現代の盛り場を流して回る納豆販売車の呼び声は、「ナットー、ナットー、国産大豆百パーセント、手作りの納豆は要りませんか。血栓を溶かし、血液の流れを良くし、動脈硬化を防ぐ食品、ナットウですよ。長生きしたい人は、どうぞお買い上げ下さい」などと、やたらに元気良く、やたらに解説的で能書きめいた呼び声なのである。
 「解説のようなものなどいりません」とは、評者の私が、その納豆販売車に言いたいセリフなのである。「答えは変わらないのでしょうか」とまでは言わないが。
 本作の作者の伊藤夏人さんも、私と同じ納豆販売車に遭遇したのであろうか?  
    〔答〕 能書きのようなものなど要りません一週間ほど味見させてね


(西野明日香)
   解(ほど)こうとしてあっけなくちぎれた糸 切れ端をまだぶら下げている

 「切れ端をまだぶら下げている」、これを未練と言う。
 その昔、伊東ゆかりという下手な歌手が居て、「あなたが噛んだ、小指が痛い。昨日の夜の、小指が痛い」などと、恋の未練をテーマにした歌を歌ってヒットチャートに乗ったことがあったが、あの歌手は、今でも未だ歌っているのだろうか。
    〔答〕 切れ端をぶら下げたまま今もまだ あなたは神田わたしは蒲田
 「蒲田」にはユザワ屋があるから行ったのです。赤い糸を買いに行きました。


(森山あかり)
   それぞれがやりたいようにやればいい愛さえあればどれも正解

 「パンケーキの焼き方は十人十色。でも、出来上がってみれば、どれもみなパンケーキの味」とも言う。
 だが、ここで忘れてならないのは、「出来上がってみれば、どれもみなパンケーキの味」がする、とは言え、そのパンケーキの色や形は必ずしも一様ではないことである。中には、黒く焦げ付いたのやら、醜く割れたのまである。
 「黒く焦げ付いた」のや「醜く割れた」のは通常の目で見れば明らかに不良品で、販売ルートには乗せられない品物である。
 こうした製品を不良品として棄ててしまわないで受け入れる条件が、今の世の中に備わっているだろうか。こうした製品を受け入れる余裕が、今の時代のパンケーキ職人にあるだろうか。そこが問題である。
 故に、「それぞれがやりたいようにやればいい愛さえあればどれも正解」とは、言い得て為し難いことである。
    〔答〕 それぞれがやりたいようにやったならいまごろ地球は満員札止め

一首を切り裂く(016:Uターン)

(磯野カヅオ)
   たはむれにショッピングカート弄ふ子のげになめらかにUターンせり

 故郷への場合でも、自動車運転の場合でも、Uターンすることは、大人にとっては容易に決断がつかないことであり、非常に困難なことでもある。
 なのに、買い物先のスーパーの店先で、我が子がいとも容易くそれを演じてみせるのだ。
 我と我が子との決定的な違いに驚嘆する作中の<わたし>の気持ちが、実にリアルに表現されている。
 百人以上の投稿者が、この類い稀な好個のお題「Uターン」の処置に迷われていた中に在って、この作品は掛け値無しの傑作である。それだけに、「弄ふ」の「ふ」の濁点無しが惜しまれる。
    〔答〕 ふるさとを持たぬ我が子がスーパーのショッピングカートでUターンをする

 〔補足〕 作者からのメールによると、「弄ふ」は「もてあそぶ」の意の「いらふ」とのこと。私は、字余りにかなり不満を覚えながらも、これを「もてあそぶ」とよみ、「弄ふ」とあるのは、作者のケァレスミスによる、濁点の施し忘れと思っていた。作者の磯野カヅオさんには大変失礼致しました。
 それはそれとして、この場面での「弄ふ(いらふ)」はやや硬い表現と思われる。作者ご自身が私宛てのメールで仰られたように、ここは「遊ぶ」とした方がよさそうである。すると、本作は、「たはむれにショッピングカートで遊ぶ子のげになめらかにUターンせり」となるのか?
 評者は、この作品を、お題「Uターン」を詠んだ作品中の最高傑作として、作者のお名前とともに永く記憶に止めて置きたい。
    〔答〕 磯野カヅオの「ツ」に濁点あり「弄ふ」の「ふ」に濁点なし失礼しました


(小早川忠義)
   我が為にUターンせしタクシーの扉の開く停まらぬままに

 こちらは、大人社会で演じられるUターンの活写。
 数多いタクシー運転手さんの中には、道の反対側に居るお客を見つけると、寸秒を争うかのようにしてUターンし、車が停止する前に扉を開ける者がいる。さすがプロと誉めていいのだろうか。手抜き運転と看做して乗車を見合わせればいいのだろうか。
 それはどうでも、百年に一度と総理も匙を投げ気味の不況下、ことほど然様に、大人社会での生存競争は激しいのである。
 ましてや、一度は故郷を棄てたはずの次男坊以下が職を失って帰郷した場合はどうなるか?
    〔答〕 失職しUターンせし汝(な)がために生家はドアを開けて待てるか
 誤解の無いように注釈するが、五句目「開けて待てるか」の「る」は、存続の助動詞「り」の連体形である。つまり、「ドアを開けて待てるか」で「ドアを開けて待っているか?」という意味である。


(ひいらぎ)
   格好悪いことは頭で分かっててそれでも君へUターンする

 「君」とは、一旦は作中の<わたし>に棄てられた彼である。
 大見得切って彼を袖にし、他の男へ走った挙句、その男に棄てられて元の古巣へ。
 今さらUターンすることのカッコ悪さは「頭で分かって」いても、彼女の身体は男無しでは一日としてもたない。<背に腹は変えられぬ>という譬えそのまま。
    〔答〕 <ひいらぎ>は何処にも生える樹ですから私はひょいひょい男を替える


(ぽたぽん)
   Uターン禁止と言えないわたくしは結局あなたを受け容れるでしょう

 これだから、<ひいらぎ>ごとき雑木がつけあがるのだ。
 <ぽたぽん>よ、あなたが男であろうと女であろうと、この際は問題ではない。でも、プライドってものがあるだろう。人間としてのプライドが。
    〔答〕 <ぽたぽん>と過去を忘れる私です Uターン自由いつでも帰れ


(陸王)
   牡馬をつなぐ椿の木をもとめUターンする北国街道

 <陸王>は、かつては、あの重厚なエンジン音を響かせて日本中を飛ばし回ったものだから、国内の道路のことなら隈無く知っている。だから、北国街道沿いの山際には雪椿の樹が多いことも知っている。
 だが、人間を見れば直ぐに蹴り上げ、牝馬を見れば即飛び掛って行く牡馬を繋ぐ椿の木ともなれば、少なくとも、怒張した牡馬のあれの三倍以上の直径は必要である。
 かくて、「牡馬をつなぐ椿の木をもとめUターンする北国街道 」とはなる。
 世に、「北酒場」「北の漁場」「北の湖」「北の街」などと、「北」の一字を添えることによって、風情を出そうとした安直な詩や歌は多い。
 誤解の無いように言い添えておくが、本作の五句目の「北国街道」は、それを置けば、どんな出鱈目な言葉でも短歌らしくなる、などという安直な気持ちから置かれているのではない。
 北国街道沿線は<ユキツバキ>の自生地であり、それはまた、新潟県の県木でもあるのだ。
 だから、道路通の作者<陸王>さんは、この一首の下の句を、「Uターンする北国街道」としたのだ。
 重ねて言うが、作中の<わたし>は、北国街道の至る所に生えている、ただの細い「椿の木をもとめ」て、わざわざ北国街道をUターンしているわけではない。「牡馬をつなぐ」に相応しい「椿の木をもとめ」るために、北国街道をUターンしているのである。
    〔答〕 陸王を噴かして街道上るとき牡馬はさかりて卑卑と嘶く 


(久哲)
   いく度かUターンしたこの道も途切れることがあるのでしょうか

 寡聞にして私は、世に<哲学の道>という道が在るとは聞いているが、<久哲学の道>という道が在るとは聞いていない。もし、在るとすれば、それは私にとっては、魅惑に満ちた未知の道。謎と冒険に満ちた未知の道に違いない。
 実を言うと私は、今週の週末から来週にかけて、京都散策を予定して居り、その際は、あの疎水縁の小道を歩くことにもなろう。桜の季節には未だ早いだろうが。
 本作の作者の久哲さんが「いく度かUターンしたこの道」とは、どんな道であろうか。
 私が推測するに、この「道」とは現実の道路を指すのではなく、生活の道、即ち、これまで何回と無く仕送りされて来た、故郷の家からの生活援助資金ではないだろうか。
 つまるところ、この歌の意味は、「故郷の家からの仕送りは途切れるのではないでしょうか」という、作者・久哲さんが思わず漏らしたため息のようなものである。
 髪結いの亭主のくせして、「久哲の適当緑化計画」などという、あの田中角栄顔負けの大法螺をこく。だから、三度三度のサンドイッチにも事欠く。挙句の実家頼みは、男として、あまりにも恥かしいではないか。
 それにしても、実家からの一方通行の仕送りを、「Uターン」と言うのは、いくら何でも理屈に合わないではないか?
 そこが、久哲さん流というわけだよ。
 久哲さんから実家に「カネオクレ。オナカガスイタ」とメールを送る。すると、実家から久哲さんの元に、「一つ金、数万円也」の現金書留が送られて来る。
 その繰り返しを、久哲さん言語に翻訳すると「いく度かUターンしたこの道」ということになるのである。
    〔答〕 その道はいつか必ず途切れるぞ 緑化計画止めて働け


(はしぼそがらす)
   バー伝い繰り返されるUターン リハビリ室に陽は傾いて

 リハビリ室に置かれている歩行訓練用の器具は、ちょうど、体操競技の平行棒を低くしたようなものである。
 回復期にある患者さんは、ドクターの指示に基づいて、飽くこと無くその往復を繰り返す。
 リハビリ室の窓は大きいから、折りからの夕陽が部屋一杯に射し込み、患者さんの顔の汗が光る。
    〔答〕 火の剣のごとき夕陽に看護士の青年一瞬カーテンを閉づ


(笹本奈緒)
   実家から私の箸が消えていた Uターンする故郷はありや

  「実家から私の箸が消えていた」のは、ほんの序曲。そのうちにアルバムが消え、やがては「私」についての生息の記憶の全てが消える。
 男性にしろ女性にしろ、一旦、家を後にした者が、生まれ家を実家と言えるのは、両親が生きている間だけである。
    〔答〕 叔母ちゃんの箸はないのと甥が言う 身寄するほどの実家はありや

一首を切り裂く(015:型)

(ふみまろ)
   冬型の気圧配置はもういやだ一抜け二抜け三寒四温

 「冬型の気圧配置」と言えばあのお馴染みの西高東低型。
 と言ってもこれには、<日本海の等圧線が南北に縦縞模様に走る>「山雪型」と、<日本海の等圧線が袋状に湾曲する>「里雪型」との二種類あるそうだ。そして、「山雪型」の時は<風が強く>、「里雪型」の時は<寒気が強い>とも言う。
 どちらの型にしろ、この「冬型の気圧配置」はいやだ。
 そこで評者は、「一抜け二抜け」して八年間に亘る雪国暮らしから抜け出して、一度は捨てたはずの首都圏にUターンしたが、それでも、世間の強い風当たりからは逃れられない。
 でも、ここしばらくの「三寒四温」の時季を過ごすと、やがて本格的な春。来週早々千鳥が淵の桜も咲くそうだ。
 もう少しの辛抱だ。今日も切り裂きジャックに専念しよう。
 それにしても、<ふみまろ>さんはグット・タイミングな季節便りを下さった。
    〔答〕 <しまむら>のボアのコートは着飽きたり三寒四温南高北低 


(木村比呂)
   慈雨あさく冬を溶かして今朝がたの梅田はとても静かだったね

 「梅田」とは、大阪駅のある、あの梅田のことでしょう。
 昨今、何かと話題になるのは大阪経済界の冷え込みですが、久方ぶりの「慈雨」は、季節としての「冬」ばかりでは無く、景気の「冬」も「溶かして」くれるかも知れません、とは、私の儚い願望です。
 大阪造幣局の<通り抜け>の桜の開花はいつ頃になるのでしょうか。その時季になったらさくらメールを下さい。昨秋から長男が大阪に単身赴任をしているから、必ずお訪ねします。
    〔答〕 <通り抜け>の桜メールはまだ来ない お札どんどん増刷したら?
  

(梅田啓子)
   鎖(とざ)したるこころ放ちて生きゆかな魚(うを)の模型が宙を泳げる

 こちらの梅田さんは、いかがですか。
 「今朝がた」はいつものように「とても静か」でしたか?
 まさか、「鳥羽の野郎、私の作品にケチをつけゃがって。ぶっ殺してやるから」などと、大荒れに荒れていらっしゃるのではないでしょうね。
 もし、そうだとしたら、「鎖(とざ)したるこころ放ちて生きゆかな」という、自戒の言葉をよくよく噛み締めることです。
 閑話休題。
 「魚の模型」とは、鯉幟のことでしょうか。
 もし、そうならば、これは凄いことを仰る。おそらくは歌壇最初の試み。言わば<ほんぽうしょえん>でしょう。
 あっ、今、<本邦初演>と書くつもりで、<ほんぽうしょえん>と入力したら、<奔放初演>と変換されてしまった。これは大変だ。
 <奔放初演>では、あの有名な<梅田ローズ劇場>になってしまう。
 いくらなんでも、そこまで言われたら、こちらの梅田さんだって、荒れまくるのは当たり前だよね。
    〔答〕 リビングの柱の傷はおととしの春一番の名残りなりけり


(西中眞二郎)
   型通りの答に二の矢飛ばぬまま国会質疑次に進みぬ

 「西松建設問題」を抱えていたのでは、うかつに「二の矢」も飛ばせない。
 「型通りの答」とは、<予め予想された答>ということでありましょうが、その<答>や<型>は、霞ヶ関方面の頭脳明晰な方々がお作りになられたものでありましょう。
 そう言えば、作者の西中眞二郎さんもまた、かつてはそちら方面のお方であられたとか。そうした前歴を持たれる西中さんには、その「型通りの答」の成立過程や大臣の国会答弁への官僚の関わり方などが、手に取るように解るのでありましょう。
 それだけに、一首全体に現実感が感じられる。
 そう言えば、その昔、「三矢研究問題」というのがありましたね。あれと、昨年の「田母神論文問題」とは同根でしょうか?
    〔答〕 二の矢飛び三の矢飛んでも恐くない鏑矢返しで党首ひやひや 


(はしぼそガラス)
   本日も型どおりに訊く「如何ですか」「変わりないです」朝の回診

 今は亡き、田宮二郎主演の、学部長教授の朝の回診風景が思い出される。
 口を大きく開けてしまったら病室の澱んだ空気を吸ってしまって身体に毒だ、と言わんばっかりに、口数少なく「如何ですか」とだけしか言わない。
 あれで診療点数は何点なんでしょうか?
    〔答〕 型どおり「如何ですか」と訊ねれば今日の主治医のお役放免  


(ほたる)
   型落ちの液晶テレビが映し出す巻き戻せない過去の残像

 昨今流行の超薄型液晶大型画面も、型落ちともなれば三割引、五割引は当り前ののお買い得価格となる。
 評者の家でも昨春、シャープご自慢の<亀山モデル>の最新型を型落ち前に買ったが、その五十二吋も、今では雪国の空き家で冬眠中。
 そろそろスギ花粉の季節だから、超立体のドクター型マスクを掛けてやる手配をしなければなるまい。
    〔答〕 型落ちの液晶画面で見てみたら党代表が岡田になってた
        型落ちの液晶テレビに映ってた<さむらいジャパン>は<落ち武者ジャパン>
 以上二首は予想記事です。


(ひぐらしひなつ)
   刈りたてのあたまを寄せて春の日の人体模型に脾臓をさがす

 三月も残すところ十日余り。もう直ぐ入学式の季節です。
 作中の「刈りたてのあたま」とは、中学か高校の新入生男子のそれでしょう。
 その「刈りたてのあたま」をした一年坊主が、入学カウンセリング行事の一環としての校内見学中。すると、生物教室で彼らを迎えるのは、身体全体に血管を張り巡らし、五臓六腑が取り外し自由となっている人体模型である。そこで、一年坊主の一人が「刈り立てのあたまを寄せて」「脾臓をさがす」
 好奇心は発明の母であり、発見の父である。
    〔答〕 すけすけの頭蓋を寄せてダイソーで鳥羽と刻んだハンコ探せり


(ぷよよん)
   型紙でぬいてた恋も卒業ねフリーハンドもわるくないかも

 入学したと思ったら直ぐ卒業。「一首を切り裂く」の歳時記の展開は超高速である。
 今どき、OLや大学生にもなって、「これからはフリーハンドの恋をしよう」などと言う晩熟(おくて)の女性も居ないだろうから、「型紙でぬいてた恋」とは、中学生か高校生ぐらいの年代の恋を指して言うのであろう。
 学校の授業中に目配せをする。部活中の彼をグランドの片隅で見守る。恐る恐るアドレスを聞いてメールする。テスト明けの土曜日にお手々つないでDLに行く。せいぜいその程度の恋なのだ。
 そのような恋を卒業して、これからは「フリーハンド」の恋をしたいと思っているのだが、それは、作者<ぷぷよん>さんの分身と思われる、作中の<わたし>の勝手な願望に過ぎない。
 昨今の男性は目が肥えているから、いたずらに<ぷぷよん>とした女性などには目も呉れないかも知れない。
 さて、この恋愛願望の結末は如何に。
    〔答〕 型抜きの恋もいろいろあったりし肩脱ぎひも解き裾脱ぐもある


(髭彦)
   絶え間なき型(モデル)チェンジの誘惑に浪費強ひらる吾ら愚かに

 世界不況が原因の営業不振から、ホンダやトヨタがFⅠラリーから撤退するというニュースを、好感を持って聞いた自動車ファンも少数ながら居たと言う。
 これからの自動車会社の製品開発の方針が、今までのようなスピード重視、デザイン重視といった方向から、エコ重視、安全面重視といった方向に変わって行くだろうと予測されるからである。
 ことほど然様に、スピードとデザインを追求するあまり、飽くなくモデルチェンジを繰り返していた自動車会社の製品開発方針は、心ある自動車ファンや世間の人々の胸を痛ましめていたのである。
 この一首は、案外、作者・髭彦さんの自戒の弁ではないだろうか。
 高校の教壇に立ち、顎鬚など蓄えて、がちがちの正統派の短歌を詠む髭彦さんが、一皮剥けば自動車レースに狂奔し、内外の自動車会社がニューモデルを発表する度ごとに、それに飛びつくカーキチであったとすれば、それはそれで面白い。
 「絶え間なき型(モデル)チェンジ」を繰り返すのは、何も自動車会社に限らず、電器会社でも服飾会社でも同じことである。だから、私たち消費者は、この髭彦の命の叫びに耳を傾けるべきである。
    〔答〕 絶え間なき浪費狂ひのその果に歌など詠みて髭彦あはれ


(振戸りく)
   砂浜を固めてとった右足の鋳型に海がそそがれている

 手作りの革靴を作っている靴屋さんが、お客さんをわざわざ砂浜まで連れて来て靴の足型を取ったわけでも、足型専門の彫刻家が砂浜に遠征したわけでもなさそうだ。
 恋人か誰かが砂浜に記した右足の足型に潮が満ちて来たというだけのことであろう。
 「右足の鋳型に海がそそがれている」という、五七七が瀟洒であり、なかなかの佳作ではあるが、「固めてとった」という二句目の表現に疑義あり。
 「鋳型に」としたからといって、「固めてとった」とする説明する必要はさらさらに無いと思われる。
    〔答〕 砂浜に彼が記した右足の鋳型に海がそそがれている


(伊藤真也)
   その笑顔 おととい買った型落ちのデジタルカメラで切り取ってもいい?

 それほど豊かとも美男美女とも思われない、彼と彼女の恋愛絵巻が活写されていて好ましい。
    〔答〕 おとといの型落ちカメラもカメラだが彼と彼女も少し型落ち


(みずき)
   髪型をそくそく変へて逝く夏の鼓動を君に重ね聴きゐし

 「そくそく」にかなり疑義あり。
 この「そくそく」は「変えて」の連用修飾語として置かれているのであろうが、作者は、これにどのような意味を託したのであろうか?
 評者は用例主義者ではないが、このような破格の使い方には接したこともないし、本作での使用法も適切ではないと思う。
 また、「鼓動を君に重ね聴きゐし」という四、五句の表現にも疑義を感じる。一首全体、推敲の余地あり。
    〔答〕 髪型を変えて死に行く夏の日の君の鼓動に耳を澄ませり


(蓮野 唯)
   煮るだけで型にハメてはいけませんとろ火で見守る子育ての妙

 お題しり取り、辛うじて成立。
 でも、私のように頭脳明晰でない者がこの一首を読んだら、「本作の作者は、子供を煮て食べる鬼婆か?」などと誤解しますよ。
 子供の肉を暖炉のとろ火でじっくりと煮て、とろとろになったのを「型にハメ」るとしたら、これはまさしく鬼婆の所業ですよ。
 「短歌は中学生が読んでも解るように作りなさい」とは、今は亡き植松寿樹先生が、私の師・森田悌治先生(故人・群緑の選者)に、よく言われていたお言葉だったそうです。
 「子育ての妙」と自慢するのも如何か?
    〔答〕 とろとろに煮てから型に入れるだけ寒天料理はお茶の子さいさい  


(マトイテイ)
   君形の鋳型に嵌めた僕だから応用力が少し足りない

 初句「君形の」は「きみけいの」と読めとの意図なのだろうか?
 「鋳型」の「型」との重複を避けての措置とも、単なるケアレスミスとも思われない。
 また、「君形の」を「君系の」とか「キミ系の」とかと替える手もある、と私は思う。「系」とは勿論「シブヤ系」、「革新系」などの「系」である。
 「応用力が少し足りない」のではないでしょうか?
    〔答〕 キミ系の鋳型に嵌ったカレだから独立心がかなり足りない


(ウクレレ)
   髪型を変えたくらいで性格は変わらないって知っているけど

 そうは言いながら、髪形を変えたら、そこに劇的な出逢いが在るのではないか、などとも期待するから、女性は髪型を変えるのだそうだ。
    〔答〕 知ってても時折り変える髪型を1,000円カットはお手軽だから


(星野ぐりこ)           
   生き方をすっかり固められたまま立ちすくんでる型枠大工

 「型枠大工→コンクリート→固められた→立ちすくんでる」という連想ゲームから成り立つ一首。
 いつものことながら、<星野ぐりこ>さんは着想も見事だが、独特の軽さを、一貫として貫こうとする姿勢も見事である。
    〔答〕 行き方を固定したまま詠む姿勢 <ぐりこ>のままに詠む姿勢好し


(久哲)
   異なった花の鋳型のゆかしさの客が来てから掃除する妻

 一首全体、久哲さん流としか言えない独特の味わいを持つ一首である。
 格助詞「の」の三連発であるが、一発目と三発目の「の」は、連体修飾語を作る役割を果たす「の」であるが、二発目の「の」は比喩の「の」である。
 <比喩>の「の」とは、「・・・・・のような」「・・・・・のように」といった意味に訳される「の」である。
 短歌表現には、この「の」が意識的、無意識的に多用され、本作の場合も、この「の」の役割を文法的に理解しない限り、その解釈及び観賞は成り立たない、と思われる。
 それでは、この「の」の働きに留意しながら、この難解ホークスな作品の解釈と鑑賞を試みよう。
 この世にはさまざまな美しさの花があり、その花の美しさをファッションに採り入れるために、釦製造工場にはさまざまな花の形をした釦製造のための美しい鋳型がある。
 私の家には、その花の鋳型のようにいつまでも記憶に残りそうな美しいお客が訪ねて来たが、私の妻という人は、どういう了見なのか、そのお客が来てから、わざわざタイミングを計ったようにして掃除を始める、不思議な妻である。
 自作がこんな玄妙かつ魅力的な意味を備えた作品だとは、おそらく作者ご本人も理解されて居られないであろう。
 傑作の傑作たるを理解せずしてこの傑作を詠む。名人の名人たる所以なり。
    〔答〕 久哲の達人たるは久哲も理解し得ざるところなりけり 
        ボタン付けそれさえできぬ妻なれど客が来てから掃除はやれる


(かりやす)
   司書のわれに「いくつ?」と訊いてくる子等は血液型の本が好きなり

 お題・「型」を<血液型>の「型」として詠んだ作品は全体の四分の一にも及ぶ。私見によると、そうした作品は、予め知らされていた地雷原にわざわざ入り込んだようなものであり、案の定、これはと思えるようなものは、ただの一首も無かった。
 この駄作の山の中から辛うじて拾って来たのが本作である。
 本作の何処が優れているのかと問われても、私はその答に窮する。敢えて言うならば、本作は、血液型という語を作中に出しながら、血液型そのものを主題にしていない。そこのところが、本作のいい所と言えば、あまりにも皮肉に聞こえるだろうか。
    〔答〕 司書汝(なれ)に「年はいくつ?」と聞く子らはセクハラとふを知らぬ子らなり 
 

一首を切り裂く(014:煮)

(森山あかり)
   話し終え靄がかかった夕暮れをやり過ごすためシチュー煮てみる

 「夕暮れ」という時間帯に加えて「靄がかかっ」ているので、全景がよく見えない。
 ここは軽井沢の別荘地だろうか、それとも、あきるの市の団地だろうか。
 先程まで自宅の応接間で友人と会話を楽しんでいた作中の<わたし>は、友人が帰った後、折からの靄のかかった夕暮れの徒然に耐え切れない。そこで、彼女が始めたのは習い覚えのシチュー作り。彼女が得意なのはホワイトシチューなのだ。
 靄がかかって白濁した全景。鍋の中で煮えるホワイトシチューの白濁。そして彼女の記憶の中に巣食う得体の知れない白濁。
 事件は、この白濁の中で静かに幕を開けようとしている。
    〔答〕 白濁の闇に煮え立つシチュー鍋 玉葱人参はつか匂へる


(都季)
   嫌なことあったのだろうぐつぐつと君はひたすらカレーを煮込む

 こちらの彼女はシチューではなく、カレーの煮込みの真っ最中。
 性別の知れない誰かに後ろから眺められながら、ぐつぐつ「ぐつぐつと君はひたすらカレーを煮込む」。何か「嫌なこと」が「あったのだろう」か? 
 カレーの煮込みに集中すれば、その「嫌なこと」から解放されると思っているかのようにして、「ぐつぐつと君はひたすらカレーを煮込む」のだが、カレーの煮え行くほどには、彼女は嫌なことから解放されるとは思えない。「ぐつぐつと」いう音は、カレーの煮え立つ音ではなく、彼女の胸の中で何者かに対する憎しみの情が煮え立つ音なのだ。
 かくして、彼女の家の中と胸の中は、カレー鍋の中と同様に、黄色く濁って行くのである。
 事件のニ幕目は、東京都下、町田市の住宅街で始まろうとしていた。
    〔答〕 黄に濁る鍋に煮え立つジャガイモが募る悩みをいやましにする 


(蓮野 唯)
   カタカナは煮ても焼いてもカラカラと身軽に底の浅い響きで

 この作品を見つめていたら、私の頭の中に突然、ある光景が思い浮かんで来た。それは、給食なんて気の利いたものが未だ無かった私の小学生時代のこと。
 確か二年生頃から午後まで授業が行われることになり、私たち学童は弁当持参で登校することになった。
 ところが、私の弁当のおかずは、いつも前の日の晩のおかずの残り物。前の日の晩飯のおかずが秋刀魚の天麩羅であれば、その日の私の弁当のおかずも秋刀魚の天麩羅。前の日の晩飯のおかずが肉じゃがであれば、その日の私の弁当のおかずも肉じゃがだった。
 その頃の私は、今の私とは違って面の皮が人一倍薄かったから、それがとても恥ずかしく、お昼休みの時間が耐え難くてならなかったのだ。
 そこで私は、昼休みになると学校の裏山に上って、一人淋しく、前の日の晩飯の残り物をおかずにした弁当を食べるのだった。
 蓮野唯さん、あなたの今回の作品は、私がいちばん思い出したくないと思っていた光景を、強引に思い出させたのだ。
 蓮野さん、あなたはやっちゃいましたね。今回の投稿作品は、前回のお題「カタカナ」の残り物ではないか。そのけち臭い根性が、元紅顔の美少年の誇りを傷つけたのだ。事件の三幕目の舞台はあなたの家のリビングルームかも知れないぞ。
 と、ここまで書いて来て、私はあることにハタと気が付いた。
 そうか、あなたは投稿作品の中で、お題のしり取りゲームをやっていたのだ。私は、これまで、あなたの作品を、一首残らず詳細に鑑賞して来て、その出来にむらがあることに気がついていた。そして、蓮野唯さんというこの歌人は、人一倍の作歌能力を有していながら、少し情調不安定気味なのではないか、と思っていた。
 これは、失礼しました。大いに失礼致して居りました。平に平にご容赦の程を。
 それにしても、私は恥をかいた。自分の鈍感さをあからさまに暴露したばかりではなく、言わなくてもいい過去のことまで曝け出してしまって、大きな恥をかいた。ああ、恥かしい。穴があったら入りたい。
    〔答〕 お題二個一首の中に詠むならばたまには羽目を外してもよい
        お題二語一首の中に詠み込んで同行二人の彼岸への旅    
    〔答の答の答〕 檻の中にバンビ・コアラを閉じ込めて生態観察非情な女


(船坂圭之介)
   生くる身の余剰のごときかなしみは真夜キツチンのごつた煮のごと

 真夜中だというのにキッチンの瓦斯レンジの上で、野菜や魚や肉の「ごつた煮」が、ぐつぐつと煮えているのは侘しい風景である。
 作中の<わたし>は、ご自身の「生くる身の余剰のごときかなしみは」、その「真夜キツチンのごつた煮」のようだ、と言うのだ。
 それにしても、作者はどうして「かなしみ」を「生くる身の余剰のごとき」と評したのであろうか。
 人間が「かなしみ」を味わうのは、生きていればこそのことであって、死んでしまえば、「かなしみ」もへったくれも無い、と言うのだろうか。
 もし、そうならば、作者の船坂圭之介さんは、人間が生きていることや、生きているが故に味わうことになる「かなしみ」を肯定したことになる。そこに、この作品とその作者の救いがある。
    〔答〕 生きる身の余剰の如き一日に歌など詠みて薄笑いする


(jonny)
   煮てみてもおもしろいかもしれません みんな一緒にひとつの鍋で

 病気療養中の前作の作者がかろうじて肯定した人生を、本作の作者はまた、平気でないがしろにする。
 「煮てみてもおもしろいかもしれません」。何を煮ると言いたいのだ。
 「みんな一緒にひとつの鍋で」。「みんな」とは誰のことだ。まさか人参や玉葱のことではないだろう。
 <jonny>さんとやら。そこのお若いお方。そんな絶望的なことを言うんじゃねえよ。君の人生は、今始まったばっかりじゃないか。間もなく定額給付金が配られるじゃないか(笑い)。
 夢を持ちなよ、明るい夢を。
    〔答〕 入ってみても面白いかも知れません みんな一緒の社会の鍋に


(西中眞二郎)
   勧められて煮炊屋で飲む茶の熱し弥生時間のここには流る(吉野ヶ里遺跡)

 初句の「勧められて」がやや気になる。進んで飲む気はしなかったのだが、同行者に誘われて、それとは無しに飲んだ、ということであろうが、他に適当な五音が無かったのであろうか。
 二、三句目の「煮炊屋で飲む茶の熱し」は大いに好し。特に「熱し」は、作中の<わたし>の味わった満足感を余すところ無く表わしている。
 「弥生時間のここには流る」という下の句中の「ここ」とは、単に、「煮炊屋」という空間のみを指すものでは無く、その煮炊き屋で熱いお茶をふうふうと吹きながら飲む時間をも指すものであろう。
    〔答〕 弥生人の心の中を過ぎて行く時間の長さを風が知らせる


(小早川忠義)
   この眼なる水晶体も取り外し煮沸消毒したき夜なり

 とうとう目に来てしまったのですか。お気の毒様です。
 でも、いくらあなた様でも、「水晶体も取り外し煮沸消毒」することなどは不可能ですよ。精神一到何事か成らざらん、という世の中ではありませんから、とまで書いた時、私は、この歌について自分がとんでもない思い違いをしていることに気がついた。
 私は、作者の分身である作中の<わたし>が、眼精疲労でも起こしてやけくそになっているのではないか、と思っていたのであるが、それは、作中の<わたし>を、あまりにも作者の小早川忠義さんに引き付けて解釈した挙句の誤解なのであろう。
 察するに、作中の<わたし>は、とある時、小早川忠義さんの分身であることを忘れて、何か目にしてはならないものを目にしてしまったのであろう。
 彼の目にした、「目にしてはならないもの」とは何か?
 例えばそれは、TSUTAYAで借りてきた裏ビデオとか。
 その結果、彼は激しい自責の念に駆られて、一気に「この眼なる水晶体も取り外し煮沸消毒したき夜なり」とまで、自分を思い詰めるにまで至ってしまったのであろう。
 でも、さすがは小早川忠義さんの分身。ここでぐっと踏み止まって、これからは忠義一筋の道を歩まれることであろう。めでたし。めでたし。
    〔答〕 パソコンに<ちゆうぎ>と入力してしまい、変換したら<痴遊戯>となった。


(星野ぐりこ)
   憧れを煮詰めすぎたら恋になりちょっと後悔しているのです

 「恋になり」、「ちょっと後悔しているのです」と言うのは、理屈に合いません。
 「恋になり」、その恋が程なく破局を迎えようとしているからこそ、「ちょっと後悔している」のが、事の真相ではありませんか。ぐりこさん、そこのところを有耶無耶にしてはいけませんよ。
 懐メロにもあるじゃありませんか、<だから言ったじゃないか>と。
 あなたはぐりこ。おまけのぐりこ。ぐりこはぐりこのままに生きるべし。
 どうせおまけの人生だ。ならぬ恋でもしてみたい。それが破局の原因さ。
    〔答〕 憧れは遠きにありてすべきものそして淋しく諦めるもの


(ひいらぎ)
   もう少し煮詰めてみれば良かったね薄味だった二人の会話

 「薄味」の「会話」って、どんな会話だろうか?
 「ねえ、ねえ。明日の日曜、何処へ行こうか。もし、お天気だったら、代々木公園に行こうか。代々木公園では、隔週日曜日にフリーマーケットやってるから」
 「うん、それもいいね。もしも天気が良かったらね。でも、僕はせっかく代々木まで行くんだったら、浪人時代にお世話になった、駅前の予備校にも行ってみたい。コアラのマーチかなんかお土産に持ってさ」
 「それがいい。それがいい。それでは明日は、代々木公園のフリーマーケットと代々木ゼミナールに行くのね」
 「それでは明日九時に代々木駅のホームでね」
 と、まあ、お二人の対話はいつまで経っても代々木止まりで、その隣りの千駄ヶ谷方面へ向かおうとはしない。
 こんな会話を「薄味」の「会話」って言うんだろうか?
    〔答〕 代々木にはこれと知られたラブホなし 君らの恋も煮詰まってない


(わだたかし)
   「煮卵が得意料理」というキミの似てない兄はフレンチのシェフ

 「『煮卵が得意料理』というキミ」という言い方は、決して、その「キミ」の料理の腕を貶して言っているのではない。かと言って、特別に誉めようとしているわけでもないのだが。
 そこのあたりの微妙なところを把握できるかどうかが、この作品を鑑賞する上での重要な鍵なのである。
 昨今は、男女同権とか熟年離婚の流行とかの影響なのか、男性がダイニンクルームに立たされる場面が急激に増えている。
 そういう世相の表れとして、作中の「キミ」も何かと台所に立つ機会が多く、その得意料理が「煮卵」というわけなのであろう。
 私たち鑑賞者は、「『煮卵が得意料理』というキミ」を、馬鹿にしてかかってはいけない。あれはあれでなかなかコツが要るものなのである。
 「煮卵」と聞いて、思い出したことが一つある。それは、<ラーメンの味、関東ナンバーワン>と評判の高い、横浜市営地下鉄、センター北駅下車徒歩五分の<くじら軒>のことである。あの店のウリの支那そば(700円)は、麺好しスープ好しで、たった一杯の支那そばを食べるために延々一時間も待たされる苦労も厭わないが、たった一つ不満を言えば、トツピンクとして取る煮卵の不味さである。
 私は、人も知る煮卵好きなので、どのラーメン屋に入っても、必ず煮卵を別注するが、あの店の煮卵だけは二度と口に入れる気がしない。
 あれやこれやで、鑑賞の筆はさっぱり進まないのでここらで軌道を正す。
 「『煮卵が得意料理』というキミ」の「似てない兄はフレンチのシェフ 」ということであるが、この兄弟が似てない理由は、母親か父親が違うからではないだろうか。
 と言うのは、ある統計に依ると、離婚率が断トツに高いのは、飲食業及び風俗業に従事する男女だそうだ。
 この兄弟の場合も、両親のいずれかが離婚歴を持ち、その後、再婚相手との間に生まれたのが、作中の「キミ」で、「キミ」の生家の職業がフランス料理店なのかも知れない。
    〔答〕 フレンチのシェフが仕事のこの僕の義弟のキミは目下主夫業 


(行方祐美)
   ふっとりと茄子横たわる含め煮の大鉢のあり帰り来たれよ
 
 これは可哀相に、事もあろうに、あの<なめかた>さんのご主人が行方不明になってしまったらしい。「行方さんが行方不明」では洒落にもならないじゃないか。さあ、大変だ。
 「ふっとりと茄子横たわる含め煮の大鉢のあり帰り来たれよ 」とは、昔風に言うと、蔭膳据えてご主人のご帰還を待つ、ということであろう。とすれば、本作の作者・行方裕美さんこそ、貞婦の鑑である。
 と、あまりの驚きに、私は、本稿の公式である、「作中の<わたし>≠作者」という不等式を忘れてしまっていた。
 でも、まあ、いいや。
    〔答〕 ふっとりと肥えたわたしも待ってます。こっちのみずがずっと甘いぞ。  


(梅田啓子)
   ケータイに送られ来たる死をわきに置きてぬめれる里芋を煮る

 「ぬめれる里芋」。なんか陰湿で妖艶な感じさえする触感である。
 その「ぬめれる里芋を煮る」傍らに、「○○シス。カエルニオヨバズ」と記されたメールの入った携帯電話が置かれているのである。
 女は恐い。真に恐い。
 あのベルリン陥落の日に、ヘルベルト・カラヤン指揮の「歓喜の歌」を平然として聴いていたのも、あのドイツの女どもなのだ。
    〔答〕 しっとりと濡れてぬめれる里芋を口にし笑まふ君恐ろしや 


(髭彦)
   食むことの煮ても焼きても能はざる有象無象の世にぞはばかる

 そんな女の恐さと比較すると、男の恐さなんて知れたもの。「食むことの煮ても焼きても能はざる」なんて言っていますが、どうせ入れ歯の具合が良くないのでしょう。
 そういう時には、小林製薬の、あの入れ歯安定剤をお使いなさい。同窓会にも不安なく出席できますよ。
 「有象無象」はお互い様。せめて「世にぞはばかる」などと後ろ指指されないように注意しましょう。
    〔答〕 食むことの煮ても焼いても不可能な女にかかる苦労絶えなし
 ライトバース崩れと言うか、ニューウェーブ志願と言うか、軟派作品の横行する中に在って、髭彦さん、小早川忠義さんなどの硬派作品の健闘は顕彰に価する。
 評者なども、年齢に不足は無いのであるから、その陣営に組して、大いに気炎を上げるべきであろうが、生来の力量不足は如何ともし難し。 


(藻上旅人)
   捨てきれぬ君への想い鍋にかけ煮つめた後に残る焦げあと

 「煮つめた後に残る焦げあと」が好い。
 べっとりと身についた、その「焦げあと」の故に、二度目、三度目の挑戦を諦めるお方もあろうが、何度も何度も、トライ・エンド・エラーするが肝要。
    〔答〕 いく度も波間に揺るる藻に寄りて卵産まむと魚もチャレンジ


(水口涼子)
   煮崩れた野菜のように草臥れて朝の通勤電車を降りる

 本作の作者は、「煮崩れた野菜のように草臥れて」という、使い古された隠喩に頼って、喜んでおられるような初心者ではないことを評者は知っている。歌人は言語表現の開拓者でなければならない。 常にその気概を忘れないようにしたいものである。
 誤解が無いように言い添えておくが、私は、この作品を下手な作品だと思っているわけではない。逆に、あまりにも要領よくまとめられていて、「題詠2009」の鑑賞サイトを開設している何方も、秀作として推奨するに違いないから言っているのである。
 それに、いくら満員電車だからとて、朝から「草臥れて」いてはなるまい。気持ち一つで年齢の五歳や十歳は取り返せるはずだ。
    〔答〕 煮崩れた野菜料理は食えないよ 誰も見ぬ間に捨ててしまいな


(夏実麦太朗)
   引越すと水が変わるということを煮物の味で感じています

 作者の夏実麦太朗さんは、最近、関西から首都圏に転居なさったそうです。どっちの水が甘いのでしょうか?
    〔答〕 <たいたん>というお料理は<煮付け>です 関西料理は薄味ばかり


(原田 町)
   好き嫌い言えず食べてたあの頃の煮凝りという不可思議な味

 「好き嫌い言えず食べてたあの頃の煮凝り」には、昨今の馬鹿主婦が好んで使う、高価な<あご出汁>も<醸造味醂>も入っていなかった。
 ただの醤油に少しの砂糖を入れて煮た魚の残り汁が、「あの頃の煮凝り」であった。それなのに、なんという「不可思議な味」。 あの頃が懐かしいのは、本作の作者も評者も同じ。
 私はまた、「作中の<わたし>≠作者」という、本稿の公式を忘れてはしゃいでしまった。  
    〔答〕 好き嫌い言えてもいつも食べていた 昭和懐かし魚の煮凝り 


(ぷよよん)
   煮こごりが食べたいなんていわれても今夜は無理よ キスならいいけど

 こちらはまた、何と無粋で大胆な煮凝り。
 バターが入り、チーズが入り、牛肉も、豚肉も、大蒜も入った煮凝り。
 あまりにも栄養過多で、これでは凝る暇も無く、いつもぐにゃぐにゃ。
 こんな汚い煮凝りは、私食べたくない。
 キスもいや。
    〔答〕 凝るまで四十八手のサービスをせいと言うんかあなた<ぷよよん>


(英田柚有子)
   煮込まれて濁った鍋の中にいる辛うじてまだわたしのままで

 本作の作者の英田柚有子さん、あなたは茄子ですか、玉葱ですか、それともジャガイモですか。
 熱く「煮込まれて濁った鍋の中」に入れられていて、それでも、「辛うじてまだわたしのままで」頑張って居られるのは、本当に大変なことでしょう。
 でも、そんなにかんばらないで、他のものたちと一緒に、愚者愚者に溶けてしまうのも一つの生き方ですよ。
 そうなればそうなったで、すごく生き易いし、その上、他のものたちも生かすことになりますから、少し考えてみて下さい。
    〔答〕 煮込まれて濁った鍋に入れられて私はわたしの味を出してる


(暮夜 宴)
   その胸で煮くずれたいと泣きながら差し出すオニオングラタンスープ

    〔答〕    あなたの胸はスープ鍋。
           鐵の匂いがしています。

           あなたの胸に抱かれて、
           私は煮崩れ泣きながら、
           熱いスープになるのです。

一首を切り裂く(013:カタカナ)

(梅田啓子)
   「ニッカウヰスキー」のカタカナ「ヰ」の文字が倒れないかと夜通し看てる

 私のブロクを勝手に開いて、この作品に目を留めた悪ガキがこんなことを言う。
 「この作品はあまり上等な歌とは言えない。だって、倒れそうと言えば、倒れそうなのは、ウヰスキーの<ヰ>の字ばかりではなく、<ウ>の字だって<キ>の字だって、頭でっかちで倒れそうではないか。それに、ウヰスキーを<ウヰスキー>と書かずに<ウイスキー>と書いたって、<イ>の字が倒れそうではないか」などと。
 日本名が<火酒>のウヰスキーの酒税法上の商品名は<ウヰスキー>ではなく<ウイスキー>である。
 それにも関わらず、現在ではアサヒビール㈱の完全子会社となってしまったニッカウヰスキー㈱が、その主力商品のネーミングに拘り、未だに<ウイスキー>ではなく、<ウヰスキー>として、その醸造や販売に汲汲としているのは何故だろうか?
 それは、日本の<ウイスキーの父>と呼ばれた竹鶴正孝氏が、ひとも羨むような高給で抱えられていた壽屋(現在のサントリー)を辞めてまで、本格的なウイスキーの醸造と創業に、飽くなき情熱を燃やしたことを顕彰してのことではないだろうか。
 本作の作者・梅田啓子さんの気配りと発見とによるこの傑作は、そこまでのことを見通されたうえでの創作だと思われる。
 単に、ニッカウヰスキーの<ヰ>の字が頭でっかちで、見るからに倒れそうだから、といった程度の発想とは土台、わけが違うのである。
 細部の表現について言えば、五句目を、「夜通し見てる」でも「夜通し視てる」でも無く、「夜通し看てる」としているのも、気配りが行き届いている。
 「ニッカウヰスキー」という商品名を詠い出しに置いて、一見、字足らずか字余りのどちらかに該当するのではないかと評者に心配させながら、三十一音にピタリとまとめるのも軽業みたいだ。
 つい先日、私は彼女の作品について、「しかも、カッコつけて、『ふわふわ』を古典仮名遣ひで『ふはふは』などと書きくさってさ。まったく頭に来ちゃうよ」などと悪態ついて揶揄したのだが、それに対して彼女は、「私は5年前にある市民講座で短歌を始めましたが、その講座は『旧仮名の使用』を義務付けられておりました。そんなわけで、僭越ではありますが、生意気にも旧仮名で通させていただきます」などと応酬して、私をギャフンと言わせた。
 なるほど、一見、口語短歌以外の何者でも無いかのように見えるこの作品も、冒頭の「ニッカウヰスキー」の「ヰ」の字が「ゐ」のカタカナであるから、 旧仮名を使った文語短歌ということになる。
 彼女ぐらいのハネッカエリともなれば、伊達や酔狂で「僭越ではありますが、生意気にも旧仮名で通させていただきます」などと言わないわけだ。
 なるほど、なるほど。
 焼酎やビール紛いの商品に押されて、年年歳歳売り上げを落としてしまい、とうとう競争会社の完全子会社にまで落ちぶれてしまったニッカウイスキー㈱の現在と将来のことを思えば、キッチンドリンカー(?)の彼女としては、おちおち酔ったり眠ったりなんかしていられない。
 まるで、看護士か看守にでもなったような気持ちで目を据えて、夜通し<ヰ>の字を看てるのである。
 ここまでやられたら、私だって黙って居られない。カウンターパンチの一発か二発、お返ししなければ男が廃るというものだ。
 エイッ、相手がニッカで来たら、当方はサントリーで行くぞ。
    〔答〕 サントリーウイスキーの仮名<イ>の文字が波にさらわれ帆のないヨットだ 


(柚木 良)
   カタカナを全て漢字にしてみれば春秋左氏伝めくマニフェスト   
 
 『春秋左氏伝』とは、孔子が編纂したとされる歴史書『春秋』の注釈書の一つで、魯の左丘明の著作である。
 通り名が『左伝』」のこの中国古典は、今でも国文学や中国文学専攻の学生が「中国文学購読」と言った名目で、その抄本を読ませられていると思われるが、私も今から半世紀ほど前に、さほど興味を覚えないまま、その講義に出席したことがあるが、その内容の全ては霞の彼方に消えてしまった。
 この注釈書・『左伝』の原典である『春秋』と関連した言葉で、世に「春秋の筆法」という慣用句があるが、その意味は、愛用の辞書『大辞林』によると、次の通りである。
 1 孔子の筆になるという「春秋」の」ような厳しい批判の態度。
 2 〔「春秋」が些事をとりあげて、大局への関係を説く論法であることから〕間接的な原因を直接的な原因として表現する論法。また、論理に飛躍があるように見えるが、一面の真理をついているような論法。
 前置きが長くなったが、柚木さん作の一首、「カタカナを全て漢字にしてみれば春秋左氏伝めくマニフェスト」の意味や創作意図が、私にはまるで解らない。
 「某党のマニフェストにはやたらにカタカナ語が使われているが、そのカタカナの部分を漢字に改めれば、学生時代に卒業証書と引き換えに無理矢理読ませられた『春秋左氏伝』」みたいで、まるで珍紛漢紛だ」と、その政党のマニフェストを茶化したのであろうか?
 それとも、作中の「春秋左氏伝」とは、『左伝』を指すのではなく、その原点の『春秋』」を指すものであって、「某党のマニフェストの論述方法は『春秋の筆法』みたいに厳格だ」、或いは「某党のマニフェストは、ライバル党党首の私生活上の<未曾有>の失態といった些事を取り上げながら、日本の将来といった大局への展望を失っていない名文だ」と、その政党のマニフェストを褒め称えたのであろうか?
 請う、ご教示。
    〔答〕 それ自体カタカナ語なるマニフェスト 漢字で書いたら珍紛漢文

 〔追伸〕   先ほど、忍び足で密かに本作の作者の柚木さんの工房に潜入したところ、本作の下に、「カタカナを全て漢字にしてみれば大本営めくマニフェストたち}」という作品が置かれていた。
 なるほど、なるほど。もはや「請う、ご教示」は無用となったが、しばらく抹消しないで置こう。
    〔答〕 カタカナを漢字に変えたマニフェスト 何故かやたらに物々しくなる


(jonny)
   とりあえずカタカナにして氷らせて解凍すればわかるよきっと

 前作とは異なってこれは解る。実によく解る。
 「会社の会議で話された内容でも、大学の講義内容でも、他人の話というものは、『とりあえずカタカナ』で聞いた程度の軽い気持ちで聞いておいて凍結し、そのうちに必要が生じたら、それを取り出し、冷凍食品を解凍するようにして、じわりじわり思い出せば分かる」、といった程度の意味であろう。
 しかし、他人の話をそのような軽い態度で聞いたり解ろうとしたりしていては良くない。
 最近は、西松建設問題や定額給付金問題などに話題を攫われた格好になってしまったが、例の年金問題なども、怠け者の社会保険庁の役人どもが、「とりあえずカタカナにして氷らせて解凍すればわかるよきっと 」といった態度で対処して、結局は解凍し損ねてしまったのであろう。
 この一首の作者の創作意図の中には、其処までの意味も含まれていたのであろう。
    〔答〕 とりあえず問いかけられたカタカナを漢字で解答しようと焦る


(蓮野 唯)
   友達をトモダチと書く切なさよカタカナ程度に軽い関係

 社保庁の役人らが、年金受給資格者の氏名をカタカナで記録して置いたのは、どうせ他人のことであり、先々のことでもあると、問題を軽視していたため。
 それと同様に、作中の<わたし>が、「友達をトモダトチと書く」のも、その友だちとの関係を軽視しているからである。
 蓮野唯さんよ。才女として評判高い貴女としては、この作品は「軽く詠み流した」といった程度のものでしょう。
 でも、こんな軽量の一首をわざわざ取り上げて論じているのも、評者の私が、あなたのことを「ハスッパノユイ」さんなどととカタカナで理解しているからではなく、歌人「蓮野唯」さんと漢字で理解しているからですよ(なんちゃって)。
    〔答〕 トモダチが友達になるきっかけは下手な短歌を褒めることから


(原田 町)
   カタカナの旧姓にて遠き日の年金記録いま届きたり

 「年金特急便」。
 この無粋な手紙が、評者の家にも二回に亘って届けられた。「鳥羽省三」が「トバセイゾウ」となっていた。
 これでは、「鳥羽製造」の真珠のネックレスの売り込みのダイレクトメールなのか、私の名前なのか分からないではないか。
 「原田 町」さんが「ハラダ マチ」さんでも「タワラ マチ」さんでも無いように、私は、「トバセイゾウ」でも「トバショウゾウ」でもなく、漢字の「鳥羽省三」なのだ。
    〔答〕 わたくしのハンドルネームは「原田 町」 「ハラダ マチ」ではありませんけど


(ひじり純子)
   カタカナで「スキ」と言われた気がしたの 私は欲しい平仮名の「好き」

 些細なことではあるが指摘しておこう。
 下の句の「私は欲しい平仮名の『好き』」は、「私は欲しいひらがなの『すき』」とすべきではないだろうか? 
 それにしても、どなたもこなたも<カタカナ>を軽いものと思っているらしい。
 でもねえ、ひじり純子さん。あなたの耳はすごく精巧な耳なんですね。、ひらがなの「すき」とカタカナの「スキ」とを聞き分けられるなんて。ウラヤマシイ。
 ピアスの針で散々傷みつけられて、悲鳴を上げているあの耳が。
    〔答〕 カタカナのキス求められひらがなのすべてを許す人も居るとか 


(詩月めぐ)
   「ダイジョウブ ダイジョウブダヨ」 カタカナで大丈夫じゃないこと伝えたい

 詩月めぐさん作の<わたし>は、ご自身の使い分けを、相手側が即理解してくれるものと誤解しているらしい。
 でも、何と無くその意味は解る。
 ケータイのメールとして送られて来る、「ダイジョウブ ダイジョウブダヨ」というカタカナの短文は、おそらくそれとは反対の意味を込めての、送り主からの一種の揺さぶりなのかも知れない。
    〔答〕 そうすれば、「アイシテル」って言うことは、「愛してない」って言うことですか?
        だいじょうぶ、大丈夫だよ詩月さん。あなたの歌は僕にも解る。


(かりやす)
   カタカナかひらがななのか本人も知らぬ林家ペーさんの「ぺー」

 知ったかぶりして御免なさい。
 「林家ペー」さんの「ペー」はカタカナでしょう。何故ならば、彼の奥さんは、「林屋ぱー子」さんではなく、「林屋パー子」さんですから。
    〔答〕 「ペー」の字をカタカナ変換しながらも <かりやす>さんは知らぬふりして
        ペーパーと言えば日本で紙のこと 紙より薄い夫婦関係?


(松木秀)
   カタカナで書かれたような体型の若き女が叫ぶ公園..

 「カタカナで書かれたような体型の若き女」というのは、単に痩せているだけでは無く、無表情で、全体的にコキコキとした感じの若い女を指すものであり、その中には、その「若き女」に対して抱いている、作中の<わたし>の不快感までもが表現されているものと思われる。
 そんな「若き女が叫ぶ公園」。現代社会の都会の真昼の光景。ありふれていると言えばありふれているが、薄気味悪い風景ではある。
    〔答〕 草仮名で書かれたやうな腰つきで女性(にょしゃう)は吾を抱き寄せたり


(さかいたつろう)
   ベンチ コンビニ カフェ いつもカタカナで書けるところに集まっていた

 小学時代のサッカー部でも補欠、中学のバスケ部でも補欠で、いつもベンチを暖めてばかりいた。
 そんな自分の運動能力に見切りをつけ、高校での三年間は帰宅部員として過ごしたが、終鈴が鳴り終わる前に盛り場の「コンビニ」か「カフェ」に直行。帰宅するのはいつも深夜だった。
 僕を蔑んだママの目が恐かったからだ。
 そして今。今は、流行りのケイヤク社員として、それなりにやってはいますよ。
    〔答〕 おしゃべりなさかいに弁もたつろうと選挙に立ったがみごと落選


(藻上旅人)
   昔より馴れ親しんだものたちをカタカナで書き意味遠ざける
 現代の若者たちは、節分を<セツブン>と書き、雛祭りを<ヒナマツリ>と書いて、平気でメールをよこす。
 これでは、私の脳裡に棲んでいた鬼どもやお内裏様などが何処かへ転居してしまったみたいだ。
 また、接吻だとか愛撫だとかといった、しっとりと濡れていて、抒情性たっぷりの漢語が、キスだとかペッテングだとかといったような乾燥したカタカナ語に書き換えられてしまうのも、昨今の許せない現実だ。
 せめて歌人同士は、と思い、私は今日も、私の尊敬する歌人の抒情的な姓の一字を詠み込んだ一首を、返歌として贈る。
    〔答〕 モグサなどと書いてしまえば枯れそうな藻草みなもをすいすい泳ぐ


(はしぼそがらす)
   新入りが挨拶をするカタカナでこちらも小声で「ドウゾヨロシク」

 カタカナでの新入室者の「挨拶」とは、たどたどしく、言葉少ない挨拶を言うのか?
 好き好んでこの病室の人になるわけではない。しかし、新入りとしての挨拶だけはしておかなければならない。この部屋の住人として過ごす日々はどんな日々なのかと不安だ。
 あれやこれやで言葉が言葉にならないのであろう。
 だから、それを受け取る側も「小声で『ドウゾヨロシク』」とだけ返す。
    〔答〕 耐え難き数日を経てその後に交わす言葉もひらがなとなる


(ひぐらしひなつ)
   もういたたまれなくなってカタカナで喋る男を置き去りにする

 何処にでも居るもんですねえ、カタカナでしゃべる男が。
 私の周辺では、あのトニー谷がそうであった。
 算盤をパチパチ弾きながら彼が話す言葉は、ほとんどカタカタだったんですよ。
 あの「サイザンス」「オコンバンワ」「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」などと言う、<トニー谷>語のほとんどが。
 だから、彼のご子息が誘拐されて、カタカナ書きの脅迫状が届けられた時には、ニッポン中がビックリした。
    〔答〕 プライドもアイデンティティも投げ棄てて行っちゃ嫌だとダダを捏ねてる 


(ジテンふみお)
   僕たちも家に帰ろうカタカナのゾウがミルクを欲しがっている

 僕らがマンシヨンで飼っている動物たちは確かに「カタカナの」ドウブツである。
 そうでなければ、パパがあんなに易々とゲーセンなんかで捕獲できないはず。
    〔答〕 カタカナのゾウ・カバ・サイを捕獲しにパパは時々ゲーセンに往く


( ひわ)
   夕暮れを呼び込むために蝉たちはカナカナカナとカタカナで鳴く

 よく出来てる作品ではあるが、この種の作品を採るのはなかなか難しいなあ。なにしろ、類想歌が目白押ししているからだ。
 だから、いくら食指が動いても食べない方がいい、と私は思っている。
    〔答〕 夕暮れを取り込むようにトントンとまな板鳴らせし昭和の母よ


(emi)
   少年は自ら生きる空間をカタカナ世界に見出してゆく

 「少年」にとっての安住の地である「カタカナ世界」とは、バーチャル空間を指すのだろうか?
 この世界の住人たちの話す言葉には、確かにカタカナ語が極端に多い。
    〔答〕 一口にカタカナ世界と申しても見ると住むとは大きな違い


(チッピッピ)
   憧れのカタカナ仕事に就いたけど肌はガサガサ心カサカサ

 同じ「カタカナ」がついても、「カタカナ世界」と「カタカナ仕事」では、これまた大きな違い。いや、たいした違いはない、とも言えるか?
 スポーツインストラクターに、アナリストに、フードコーディネーターに、インテリアコーディネーターに、ファイナンシャル・プランナーに、エスティシャンに、ツアーコンダクターに、インダストリアルデザイナーに、ウェディングプランナーに、メイキャップアーティストに、アロマセラピストに、トリマーに、カラーリストに、パタンナーに、アクチュアリーに、カスタマーエンジニアに、セールスエンジニアに、ゲームクリエーターに、フラワーコーディネーターに、まだまだ在るぞ、カタカナ仕事。
 でも、「カタカナ仕事=高収入」とは限らない。おまけに「肌はガサガサ心カサカサ」では、それこそ目も当てられない。
    〔答〕 女子アナは女子が付くから入らない。現代社会のカタカナ仕事。

一首を切り裂く(012:達)

(小早川忠義)
   達也君高弘君と陰口の主役の上司はいつも君付け

 教職に就いていた頃、高校生たちが学級担任を「君付け」でこき下ろしていたことを思い出しました。
 大人も子供もしてることは同じですね。でも、職場内でのそれはかなり陰湿なものでしょう。
 花粉症流行りのこの頃、私はいつもマスクを掛けて外出しますが、それを見て家内が、「容貌に自信が無いから顔を隠して歩くのだろう」などと言っていますが、私としては、マスクで口を抑えていないと、つい口にしてしまうひと言が怖いので、そうしているのです。
 高貴なお方を、調子に乗って、麻生君、小沢君などと言ってしまったら命取りですからね。
    〔答〕 省三くん忠義くんと呼ばれても笑みて諾うしか芸はなし
        国会の議長が呼ばふ「麻生君」「小沢君」には含みはなしか?


(梅田啓子)
   うた百首達成したるあかつきは回転寿司にあぶりトロ食まむ

 中古、中世の記録を読むと、昔の人は「百首祈願」「千首祈願」などと称して、目的とする数の和歌を無事読み終えるよう、柿本人麻呂及び山部赤人という二体の和歌の神様の画像の前でお祈りをし、満願の暁には派手な直会を行ったようです。
 百首達成したら、「あぶりトロ」数貫くらいの直会は当然です。 
    〔答〕 自分で自分を誉めてあげたいとき回転寿司であぶりトロ食む
        うそ八百並べ立てたるその罪は回転刑具で火あぶりの刑(処刑されるのは鳥羽)


(五十嵐きよみ)
   ささやかな達成感で振り返るいま自転車で来た坂道を

 どんなささやかな事でも、それを成し遂げた時には、必ず達成感というものがありましょう。
 「一首を切り裂く」を「100:好」まで書き終えた時に覚える、私の達成感はいかなるものでしょうか。
 それを味わいたいために、今日もこうしてパソコンのキーを叩いているのです。
    〔答〕 振り返り見れば一すじ自転車の車輪の跡のつづく坂道


(原田 町)
   麓まで到達するも夢の夢キリマンジャロの写真に見入る

 日本から山麓まではお金が連れて行ってくれる。山麓から頂上まではお金が登らせてくれる。
 昨今の登山は、万事お金が解決してくれるようです。必要なのは、ばてない程度に鍛えた身体とお金です。
     「キリマンジャロは、高さ19,710フィートの、雪におおわれた山で、アフリカ第一の高峰だといわれる。その西の頂はマサイ語で、“神の家”(ヌガイエ・ヌガイ)と呼ばれ、その西の山頂のすぐそばには、ひからびて凍りついた一頭の豹の屍が横たわっている。そんな高いところまで、その豹が何を求めてきたのか、今まで誰も説明したものはいない。」(ヘミングウェイ作・滝口直太郎訳『キリマンジャロの雪』より)
 雪豹が原田町さんを待っている。さあ、お金を貯めてキリマンジャロ登山へどうぞ。
    〔答〕 雪豹も金で登山のキリマンジャロ 熱帯寒帯一望のうち


(久哲)
   あかときの浅倉南やわらかく達也の眠る海としてある

 作者・久哲さんは、初句の「あかときの」を「浅倉南」の「浅」に係る枕詞の如き語として用いている。
 本作の作者・久哲さんはその道の権威と見受けられ、「あかときの」というこの語句に、従来の枕詞以上の働きを求めているようだ。
 本作に於いて、久哲さん創出の枕詞・「あかときの」は、単に「浅倉南」の「浅」を導き出すだけではなく、あだち充作の漫画『タッチ』のヒロイン・浅倉南の健康でさわやかなイメージとも重なり、一首全体の明るく温かく柔らかなイメージを形成する上にも、大きな役割を果たしている。
 また、この語句は、「達也の眠る海」の「海」にも係わって行き、私たち鑑賞者が、「あかときの浅倉南」と口ずさみ、その後、「あかときの・・・・・・海」と口ずさんだ時、浅倉南の化身である「あかときの海」が、『タッチ』の主人公の一人、「達也の眠る」場所として真に相応しい、明るさと柔らかさと温かさを湛えた場所としてイメージされることになる。
 ここまで書いて来て、ふと気がついたことであるが、「あかときの」と言えば、直ぐ連想されるのは「夢」または「眠り」である。
  「あかとき」に眠っている「達也」の見る夢に現れる「浅倉南」の柔和な容姿は、達也を抱く温かい「海」そのままである。
 あかときに眠っている達也の夢の中に、優しく聖母のような存在の朝倉南の裸像が現れたのかも知れない。
 この語句の微妙な働きは、「適当緑化計画」を推進すると共に、平成の枕詞の創出をも目指している、作者・久哲さんの研究と工夫の賜物である。
 この一首を、私は、お題「浅」の代表作として強引に推奨したい。
    〔答〕 あかときの海に達也が眠るとき南は歌う潮騒の詩(うた)
        あかときのトイレに起きるこの僕の辛さを浅倉南は知るか 
        「みなみちゃんがんばれ!」という番組ありき久哲さんはご存じですか?


(西中眞二郎)
   姫路城の暗きに掛かる達磨の図午後会うはずの甥に似たるも

 姫路城の達磨圖は、あの剣豪・宮本武蔵の直筆と伝えられる名品。従って、その名品と「似たる」作者の甥御さんも、相当な貫禄と眼光炯炯な偉丈夫。
 恐い、恐い、そんな立派な男性は恐い。三十六計逃げるに如かず。
    〔答〕 姫路城の御庭に紛ふ好古園 西御屋敷跡に平成築庭


(みつき)
   達したる 君の重みと蠢きを 受けながら聞く 雪摺りの音

 せっかくの佳作だから、百害有って一利無しの一字空きはやめましょう。 
 往年の芥川賞受賞作・『忍ぶ川』(三浦哲男作)の最終場面を思い起こさせる。
 主人公の<わたし>の故郷である雪国の街で、<わたし>と志乃とは雪が降る早朝に結ばれた。その時、二人が耳にしたものは、屋外を行く馬橇の滑る音と、それを牽く馬の鈴音だった。
    〔答〕 達したる時に重みをかけるのは僕のしっぱい未熟な証拠
 なんちゃって。これでは、せっかくの情緒もぶち壊しだからやり直し。
    〔答〕 達したる君の重みに微笑みぬ雪擦る音を耳にしながら


(ウクレレ)
   クロスワードパズルの5文字空いたまま君からのチョコ配達されず

 近頃は、あの怠慢な郵パックさえ、翌日配達が当たり前となりました。
 これも、くろねこヤマトの宅急便や佐川の魔女の宅急便などとの競合があったればこそ。
 配達員さんご苦労様。
    〔答〕 クロスワードパズルが未だ解けぬからバレンタイン・チョコは配達しない


(都季)
   「また今日も眠れなかったの?」新聞の配達される音に言われて

 評者もまた、眠れないままに深夜の孤独に耐えている一人。
 今夜は激しい風。
 路上を風が吹き抜け、空き缶が走り、牛乳屋のトラックが通り過ぎて行く。やがて新聞配達のバイクの音も聴こえるでしょう。
    〔答〕 今宵また眠れずに居るもの幾人それぞれ何かに慰められて居て 


(岡本雅哉)
   (発達の過程で失くしたもののあるヒト科のメスの本能が)泣く

 括弧で括ったりすると、何か曰く有り気に思えますが、本当はどうなんでしょうか。
 「ヒト科のメス」とはつまり女性。
 その女性に、「発達の過程で失くしたもののある」とありますが、それは何でしょうか?
 その答を、括弧の外側の「泣く」をヒントにして求めよ、ということでしょうが、頭の悪い私には、未だに少しも分かりません。
    〔答〕 優しさや慎ましさやら知性やら忘れて女性は人前で泣く
 あまりにも通俗的な答になってしまいました。


(西野明日香)
   この上に雪降り積もれ凍えたし不達で戻るメールみつめて

 「不達で戻って来たメールの上に、雪よ降り積もれ。もし、お前が降り積もれば、恋メールも受け取ってもらえない私は、その上に眠って凍えて死んじゃうから」とか言いたいんでしょうが、それは無理。
 第一に、不達メールの上に雪が降り積もるわけがない。
 第二に、仮に降り積もったとしても、不達メールには、君の情熱が込められているから直ぐに解けてしまう。だから凍えて死ねるわけがない。
 それでも、どうしても死にたいのなら、凍み豆腐の角に頭をぶっつけて死になさい。
    〔答〕 この上に明日こそ雪よ降り積もれ 花も香もみな疎ましき春


(詠時)
   操りの糸を解かれて眠りたる人形達が居並ぶ終電

 勤め人が職務から解放されることを、「操りの糸を解かれて」と形容するが如き臭い手は、詠時さんのような優れた歌人が使うべき手ではないだろう。
 とは言え、この一首は、首都圏を走る終電の中に見られる光景をよく写し得ている。
    〔答〕 操りの糸を解かれず残業の人がめっきり少なき昨今
 どうです。これなら、「操りの糸を解かれて」という、手垢のついた常套句を逆用して世相を皮肉り、併せて詠時さんの作品を揶揄したことにもなるでしょう、とは、評者・鳥羽の自画自賛でした。


(minto)
   それとなく安心をせり友達の彼は好めるタイプと違ふ

 この場合に「それとなく」を使うのは不適切。辞書参照のこと。ここは「何となく」或いは「何処となく」とあるべきか。
 また、「彼は好めるタイプ」の「好める」も良くない。
 更に、「違う」はもともと口語であるから、「違ふ」と記すのもナンセンス。文語なら「違(たが)ふ」である。
 こんなことやってたら、<minto>の香りがぶっ飛ぶぞ。
    〔答〕 何と無く安心しちゃう 我が友の彼はわたしのタイプと違う


(月下燕)
   植物のように静かに咲いているここが到達でも構わない

 この場面で、「植物のように」という比喩はないでしょう。
 「植物」って言ったって、花があまりに小さくて、咲いているかどうか判らない植物もあるし、「静か」とは遥か隔たったイメージの植物もあるんですよ。花の名を具体的に。
 下の句の「到達」もいかがなものでしょうか?
    〔答〕 夕顔のごと密やかに咲いている到達点はここで充分
 とすれば、何方かが隠棲している様子が窺われ、その何方かの精神的に豊かな暮らしぶりも想像されると思うのは、私の独り善がりでしょうか?


(穴井苑子)
   友達の披露宴には妙な意気込みのどこから見ても人妻

 無理して「句跨り」にする必要はさらさらに無いと思われますが、いかがでしょうか?
 友人の結婚披露宴に出席して、花嫁のトスしたブーケでも拾おうとしたんでしょう。でも、花嫁以上に美しく見られようとして、意気込んで着て行った着物が邪魔になって拾えなかったんでしょう。
 これで決定、あなたは生涯独身。諦めて短歌創作に精進しなさい。
    〔答〕 意気込んで披露宴には出たものの何処から見ても吾は人妻


(ゆふ)
   伊達巻ののの字の切り口美しき遠まなざしの雛(ひひな)を憶ふ

 「ののの」の重なりは、何らかの効果を狙ってのことと思いますが、いくら何でも、これでは逆効果です。少し整理すればかなりのレベルの作品になるのですから。
 話は急に変わりますが、おせち料理の中で誰も食べないのが、この伊達巻でした。奇妙な甘さと独特の食感が嫌われたのでしょうか?
    〔答〕 伊達巻の切り口美(は)しきのの字かな 遠まなざしの雛(ひひな)を想ふ 


(松木秀)
   上達のしかたいろいろ短歌ではとにかく作りすこし発表...

 それなりの水準に達してはいるものの、決して百点満点は与えられないような作品を数首並べて、僭越ながら、この若輩が推敲を試みてきました。
 だが、それでは、それぞれの作品の作者の方々にとっては、あまりにも心細いことでしょう。
 そこで、その道の大家の松木秀さんの短歌「上達のしかた」をご披露致した次第です。
    〔答〕 松木さん、ご苦労様です。有難う。皆さん、じゃかすか創りましょうよ。 

一首を切り裂く(011:嫉妬)

(蓮野 唯)
   嫉妬する程には好きになってない言い聞かせてる夕暮れの街

 本作の内容は見せかけほど単純ではない。
 ここに作者の分身とも思われる女性がいる。彼女には前々から交際があり、そろそろ一線を越えようとしている彼が居るのだが、あいにくなことに、その彼には最近彼女とは別口の女性が出来て、今日のデイトもすっぽかされてしまった。
 そこで哀れな彼女は、夕暮れの街にぽつんと一人取り残されて、自らにこう言い聞かせるのだ。
 「最近、彼には別の女が出来て、今日のデイトもすっぽかしてしまった。でも、よくよく考えてみると、私は、彼が私から別の女に乗り換えたからといって、その女に嫉妬しなければならないほど、あの男に惚れているわけではない。だから、だから、・・・・・・・・・・・・・・」と。
 「だから」は、どこまで行っても「だから」のままであって、彼女は最終的な結論を得ることが出来ない。
 本作の上の句は「嫉妬する程には好きになってない」となっていて、今ひとつ文意を読み取ることが出来ない。
 解釈のしようによっては、作中の<わたし>が同性愛者であって、その<わたし>の彼女が、最近になって、<わたし>から別の彼女か彼に愛の対象を変えようとしていることに嫉妬しているようにも読み取れるし、それ以外にも幾通りにも読み取れ、作者の真意がなかなか掴めない。
 こうした点は、明らかにこの一首の欠陥に違いないとは思われるが、人の世の愛憎はなかなかに複雑であり、作者・蓮野唯さんもまた、ご当人が仰られる程には素朴ではなさそうであるから、案外、作者の狙いは、その辺に在ったのではなかろうかとも推測される。
    〔答〕 恋人の浮気相手に向けるのが嫉妬心だと私は思う
        嫉妬する程には好きになってない そんな浮気の認め方もある


(小早川忠義)
   嫉妬する暇などなしうたびとは先人を読め歌多く詠め

 これはまた、前作とはうって替わって単純明解。
 要するに文意は、「お題として『嫉妬』という言葉が出たが、この言葉ほど今の私に無縁な言葉は無いだろう。歌詠みに精進している今の私には、嫉妬などしている暇は少しもない。それに、私に限らず、いやしくも歌人を名乗っているならば、その者は、嫉妬などしている暇があったら、先輩歌人の優れた歌を沢山読み、優れた歌を沢山作らねばならない」ということだろう。
 この作品の勢いから推すと、作者・小早川忠義さんそのものとも思われる作中の<わたし>は、お題「嫉妬」と直面することを拒否し、「嫉妬」を用いた歌を作って投稿することなどとんでもない、と言っているようにも見受けられるのであるが、その実、「嫉妬」お題の歌を澄まして作って投稿したのである。
 根竹生(コンチクショー)、忠義づらして裏切り者め! かくなる上は、目にもの見せてくれるわ!
    〔答〕 嫉妬するその手前には愛がある! 愛も知らない武骨者めが!


(夏実麦太朗)
   金のこと考えること多かりき嫉妬をしなくなったこの頃

 こちらの<わたし>の方が、まだ前作の<わたし>よりは幾分か救いがある。
 でもねぇー、嫉妬をしなくなったってことは、要するに、あちらの方もすっかり駄目になったってことでしょう。両方とも「金」だよ。あちら立てずにこちらを立てるってことはないでしょうに。
    〔答〕 金、金、金、かねが仇の世の中で、わが身の金の立つこともなし 


(さかいたつろう)
   犬たちの交尾を邪魔するのが好きなだけで決して嫉妬ではない

 こちらの<わたし>の方が、直前やその前の作品の<わたし>どよりは更にまし、かとは思う。
 しかし、巷間には、「犬の交尾を邪魔する奴は犬に噛まれて死ねばよい」という諺もある。
 「『題詠2009』参加者・さかいたつろう氏、犬に噛まれて即死。その裏に、さかい氏らによる、犬虐待の歴史あり」などという記事が朝日新聞に掲載されでもしたら、参加者の皆さんが迷惑するよ。喜ぶのは、あの鳥羽省三だけだよ。
    〔答〕 目前で犬が交尾をするさかい腹もたつろう嫉妬もしよう


(祢莉)
   六条御息所くらいには嗜んでます嫉妬心なら

 なるほど、「嫉妬心」は女の嗜みか。
 それにしても六条御息所の嫉妬心は恐ろしい。
 光源氏より七歳年上の彼女は、光源氏との関係を断ってからも、事ある毎に生霊・死霊となって現れ、光源氏の恋人たちを脅かす。
 ことほど然様に恐ろしいのは年上の女。
 本企画にご参加の男性歌人諸君も、ゆめゆめ年上の女性歌人に懸想してはならんぞ。
 年増はみんなこの鳥羽省三が一手に引き受けた。なんちゃって、ウソ、ウソ。
 この一首、結社誌に発表する場合とは異なって、題詠企画などのインターネット短歌として発表する場合は、「六条御息所」に「ろくじょうのみやすんどころ」と振り仮名を施す必要があろうか。
    〔答〕 我はまた六畳の御休所(みやすんどころ)に寝そべって末摘花の夢などを見む


(ひいらぎ)
   ただ君のアドレス聞かれただけなのに知らないふりは嫉妬だろうか

 そうです。それも立派な嫉妬です。
 一口に嫉妬と言っても、その階梯は十二段階もありますが、「アドレスを聞かれただけなのに知らないふり」するのは、そのうちの下から三段階目です。
 最終段階ともなると、嫉妬に燃えた挙句の業火で嫉妬対象者を焼き殺すに至る、ということです。当然、わが身も滅ぼすことになりましょう。
 ご注意が肝要ですよ、ひいらぎさん。可愛いお子様を泣かせないようにね。
    〔答〕 アドレスを聞いただけでも「フン」と言い、挙句の果に泣き出しもする。


(髭彦)
   人知るや恋の心の奥底に嫉妬の暗き炎燃ゆるを

 「恋の心の奥底に嫉妬の暗き炎燃ゆる」という髭彦さんのご意見は耳の穴を穿ってでも拝聴すべきである。
 通常、私たちは、恋心をプラスの情念、嫉妬心をマイナスの情念、として捉えている。
 ところが、かなりの人生通と思われるこの作品中の<わたし>の考えによると、一般的にはプラスの情念と思われている恋心の中に、マイナスの情念以外の何物でもない嫉妬心が棲んでいる、と言うことであり、しかもその嫉妬心は、「暗き炎」を燃やしているということである。
 ああ、驚いた。ああ、気持ち悪い。髭彦さん作中の<わたし>は、何と恐ろしいことを言う人か。
 マイナスの情念である嫉妬心が恋心の奥底に暗き炎となってとろとろと燃えているなんて、これはまるで、蛇みたいではないか。
 恋をする時の私たちの体内には、一匹の蛇が飼われているのだ。ああ、そうなったら人生なにもかもお終いだ。私は今後一切、神に誓って、絶対に恋はするまい。
    〔答〕 我は知る恋する者の胸底に蛇が一匹棲むということ
 

(美久月 陽)
   縁日のべっこう飴に閉じ込めた嫉妬舐め取る舌先の蛇

 恋する者の胸底に棲む蛇は、時にはうきうきとして縁日にもやって来るのだが、今回はたまたま、あのフーテンの寅さんの捕らわれ者となってしまい、商売物の鼈甲飴の中に閉じ込められてしまった。
 だが、執念深いその蛇はそれにも懲りない。かくて、その紅き舌先でぺろぺろと鼈甲飴を舐めている。
    〔答〕 ぺろぺろと蛇の舐めゐる鼈甲の飴こそ暗き嫉妬心なれ


(中村成志)
   立ち竦む腋の下から地を這って我の嫉妬は四方へのびる

 中村成志さんの説くところによると、嫉妬心の化身である蛇はどうやら一匹ではなく、いや、もしかしたら、それは蛇というより、むしろ蠍か油脂の如きものであって、嫉妬心を抱いた挙句「立ち竦む」者の「腋の下から地を這って」「四方へのびる」らしい。
 <美久月 陽>さん作に登場した、「縁日のべっこう飴」の中に閉じ込められた蛇もまた、そうした中の一匹であったらしい。
    〔答〕 立ち竦む腋の下から地を這って四方へのびる油かだぶら
                               〔注〕 「油かだぶら(アブラカダブラ)」とは、世界中で行われている適切な訳語を持たない呪文で、その語源は、「私の言う通りになる」という意味のアラム語にあるという説もある。


(西野明日香)
   もう一度遇えるのだろうか不意に来る軽い嫉妬で始まる恋に

 「嫉妬心」とは「蛇」だの「蠍」だの「油」だのと、縷々噛み砕いて説明しても、未だ聞き分けなく「もう一度遇えるのだろうか不意に来る軽い嫉妬で始まる恋に 」などと言っている馬鹿者がいる。
  本作中の<わたし>は、おそらく作者と同様にかなりの年増に違いないだろうから、その気持ちは解らないでもない。
 だが、体内に蛇や蠍や油を棲まわせてどうすると言うのだ。
    〔答〕 もう一度遇えたとしても所詮へび アブラカダブラとは行くまいよ
                               〔注〕 「アブラカダブラ」の意味については、上注を参照のこと。


(青野ことり)
   ねっとりと嫉妬していた まといつくコールタールの海の深みで

 嫉妬の意味の説明の駄目押しである。
 嫉妬するありさまは、まさしく「ねっとりと」である。
 下の句中の四、五句の、「コールタールの海の深み」は、その「ねっとりと」身に「まといつく」嫉妬心の、極めて具体的かつ象徴的な直喩である。
    〔答〕 べっとりと身に張り付いた油脂のごと嫉妬は取れぬ<ことり>の羽から


(ウクレレ)
   ウニ2つこころの海に棲んでいる愛と嫉妬のイガイガ野郎

 またまた嫉妬の意味の説明の駄目押し。今度は嫉妬心を「ウニ」に例えている。
 でも、作者の<ウクレレ>さんは、「ウニ」のことを「イガイガ野郎」などと罵りながらも、そのウニを「2つ」も登場させ、その一つを「愛」に例え、もう一つを「嫉妬」に例えている。
 ウクレレさんはよほどのウニ好きなんだな。
    〔答〕 ウニふたつ心の海に養いて愛と嫉妬の狭間に泳ぐ
        ウニ好きのウクレレさんに乾杯だつまみはやはりウニにするかな


(鹿男)
   寝る前に充電をした髭剃りがすごく元気でなんだか嫉妬

 身近な所から取材するのが鹿男短歌の好さ。
 作中の髭剃りはなけなしの金を叩いて鹿男さんが買ったものだが、あまり元気良く動くと、「髭剃りのくせして生意気だ」と思うのが人情の常だから、髭剃りに嫉妬している鹿男さんの人格が特別に低いわけではない。
    〔答〕 寝る前に充電をした電動の鋸切れず角が切れない
        鹿男さんはいつでも嫉妬する側だ たまにはされてみたらどうだい


(minto)
   デパートに購ひしチョコ嫉妬など練りこめたるか深き味はひ

 「六日の菖蒲」、「十日の菊」。
 そのチョコはバレンタインデーの翌日に買ったチョコでしょう。
 値段も半額だし、程よく熟成していて、その日に買ったチョコがいちばん美味しいと、巷のもっぱらの評判ですよ。 
 <minto>さんは買い物上手。買い物する時、いつもガム噛み。 
    〔答〕 バレンタインデーに押し寄せしチョコ女らの情こもれるかはなはだ甘し


(ひぐらしひなつ)
   ぎこちなく少年くさい嫉妬にも飽きてしずかな秋を束ねる

 欠点として指摘するのではないが、本作は、一首全体解らないことだらけである。 
 先ず、この一首は、末尾の「束ねる」に収束される一文であるが、その主語はなんだろうか? 
 「わたし(話者)は・・・・・束ねる」「彼(少年)は・・・・・束ねる」などといろいろに考えられる。
 更に、二句目に「少年くさい」とあるが、これは、「(少年だから)少年くさい」のか、それとも「(大人なのに)少年くさい」のかが分からない。
 もう一つ、「秋を束ねる」が、あまりにも漠然としていて解らない。
 そこで、評者は、それらの疑問に一つずつ答を出しながら、この謎だらけの一首の解釈をしてみた。
 作者<ひぐらしひなつ>さんの分身に他ならない、作中の<わたし>の火遊びの相手は一人の少年。年齢は十九歳ぐらいだろうか。
 近頃の<わたし>は、その少年との関係をそろそろ清算しなければならないと思っている。かと言って、<わたし>は、彼から別の男に乗り換えよう、などと思っているわけではない。
 ただ、彼と<わたし>とのあまりに大きい年齢差と、彼の将来を思えばこその今回の決断である。
 そんな私の心の奥底を感じ取れずに、ここ数ヶ月、少年は、在るはずの無い私の新しい男に嫉妬している様子であったが、その有様は彼の年齢に相応しく、「ぎこちなく少年くさい」ものであった。
 と、こうしているうちに秋が来た。この頃の少年は、それまでの「ぎこちなく少年くさい嫉妬にも飽きて」「しずかな秋を束ね」ている様子だ。となるが、末尾の「秋を束ねる」の謎は、結局解けなかった。
 この語句をスケールの大きなものととれば、「少年は、まるでこの静かな秋の統括者ででもあるかのように、ただ黙々と季節に順応して行くのだった」とでも解釈されるし、小さいものととれば、「少年は、この静かな秋景色の中を、今日も田圃に出て、稲株を束ねていた」と解釈される。
 さて、いかがなものでしょうか?
 それとは別に、物見高い評者の返歌は、<わたし>と少年との過去の一ページについて、あれこれと詮索する。
    〔答〕 ぎこちなくまどろく君を開くとき少年はつか笑みにけらずや
         少年がわれの最中(もなか)に果てしとき未だしまだしと思ひしわれか
         秋は来ぬ渡り鳥らも訪れぬ少年まなし消えて行くべし


(ふみまろ)
   AVの標本たちが嫉妬するほどのセックスを見せてやろうぜ

 前作とまるで変わって、こちらは情緒も何もあるでなし。
 「AVの標本たち」とあるが、これはどういう意味であろうか?
 「AV映画に多く出演している男、女優たち」という意味。
 「<ふみまろ>さんの部屋のダブルベットの脇の棚に、まるで昆虫の標本のようにして並んでいる、AV映画のビデオ」という意味。
 「<ふみまろ>さん、自作自演のAVビデオ」という意味などなど、興味は尽きない。
 それにしても、せっかくのお題「嫉妬」を使って、<ふみまろ>さんは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
    〔答〕 標本に命無ければ嫉妬せず命あればの修羅場だろうぜ


(O.F.)
   都市ガスは嫉妬するほど美しく青く燃えますたまにオレンジ

 囲炉裏火や焚き火に魅せられた話は時たま聞くが、都市ガスが青く燃えるのに嫉妬したという話は初めて聞いた。
そもそも、囲炉裏火や薪ストーブの火には、煮炊きすることや温まること以外に、癒やしの効果などがあるのに対して、瓦斯レンジや瓦斯ストーブの火はその本業を専らにし、瓦斯レンジの火を見つめていて癒やされたとか、瓦斯ストーブの火を囲みながら昔話に花が咲いたとかとは、ほとんど言わないし聞かない。
 そうした中にあって、「都市ガスは嫉妬するほど美しく青く燃えます」とまで言い切るとは、本作の作者の宗旨はゾロアスター教か?
    〔答〕 ブロパンは嫉妬するほど青くなしたまに黄色く不完全燃焼


(暮夜 宴)
   パレットのうえの混沌 嫉妬ってこんな色だと思う5時限
    
 末尾の語、「5時限」に<逃げ>を感じた。
 作中の<わたし>を美校生と想定しての措置であるかも知れないが、それでもどうにかならないものかと思った。
 と言うのは、短歌や俳句の末尾に「5時限」「2時限」「6月」「水無月」などと、時間帯を意味する四音の語を置いて安直に逃げる作品があまりにも多いからである。
    〔答〕 パレットのうえの混沌 嫉妬ってこんな色だと思うアトリエ


(こすぎ)
   ピアスから嫉妬がもれて秋雨が頬を突き刺す北池袋

 本作中の五句目に、「北池袋」という地名を据えたことの是非については、正直言って、直言を旨とする評者も迷う。
 何故ならば、短歌の末尾に座る七音の地名は、直前の<暮夜 宴>さん作の歌末の「5時限」などの時間帯を表わす四音と同じで、推敲に行き詰った詠者が一種の「逃げ」として、安易にそこに置く場合が多いのであるが、本作の場合は、「北池袋」という地名の持つイメージが、そこに至る、「ピアスから嫉妬がもれて秋雨が頬を突き刺す」という修飾語句とこの上なくマッチしているとも思われるからである。
 でも、私も評者のはしくれです。四の五の言わずに断言しましょう。本作は傑作です。
    〔答〕 耳たぶからピアスが外れ霧雨の路上突き刺す南新宿


(伊藤真也)
   電柱の陰からドアの隙間から不眠不休で見張る嫉妬師

 雇用問題が何かと世間を騒がせている今日、本作の創作によって、「嫉妬師」という全く新たな職業を創出したことは、作者・伊藤真也さんの一番手柄である。
 近々、厚生労働大臣・枡添酔一氏から感謝状が贈られる予定である。
    〔答〕 教誨師詐欺師ペテン師嫉妬師と師の付く仕事何故か陰湿


(健太郎)
   カフェテラスミルクを取りに席を立つ 視線の先に嫉妬の弾み

 <一字空き>の多用は厳に慎むべきであろうが、本作の場合は、初句と二句との間を一字空きにした方が良いと思う。何事も時によりけり、なのである。
 でも、「視線の先に嫉妬の弾み」はなかなか意味深ですね。彼女の彼氏が視線の先に居たのでしょうか。
    〔答〕 カフェテラス ミルク取りにと席を立つ 視線の先に弾む嫉妬が
       元カレが視線の先に居たりして銀の茶匙をカチカチ鳴らす


(はしぼそがらす)
   退院!の華やぐ声にこみ上げる嫉妬と共に丸薬を飲む

 「悲喜こもごも」と言う慣用句があるが、その慣用句に示されるような光景を日常的に目にする(と言うよりも、目にせざるを得ない)のが病棟です。
 「退院!の華やぐ声にこみ上げる嫉妬と共に丸薬を飲む」。「嫉妬」は「丸薬」などと同類で、「飲む」ものだと言うことを、身につまされて知りました。
    〔答〕 退院!の華やぐ声に涙をば飲むもの居るも併せて知りぬ
 <はしぼそからす>さんのご回復を、一日も早くと祈るのみ。


(ezmi)
   嫉妬するほどの何かがあるじゃなし見て見ぬふりも上手になって

 達観したらしい様子を見て取って、敵さんは、その「何か」をこそこそ始める。
 油断大敵火廼用心。火事は出しても浮気許すな。
    〔答〕 見て見ぬふりするのを見ててする浮気 「上手になって」はどちらの方か?


(久哲) (久哲の適当緑化計画。)
   くれないの迷子あなたに嫉妬する みずはらしおんみずはらしおん

 異才・久哲さんがまたまた放った異能の一首。
 下の句「みずはらしおんみずはらしおん」が、嫉妬師の唱える呪文のようで効果的。
 水原紫苑を「くれないの迷子」とした理由については、久哲さんと紫苑さんとの因縁話を、一席設けて、一晩じっくりとお聞きしなければなるまい。
    〔答〕 くれないの水原紫苑と久哲の死ぬの生きるの因縁怖し

一首を切り裂く(010:街)

(井手蜂子)
   東京湾の見える草原ここはまだ名を持たぬ土地D-0街区

 お題「街」の投稿作品数は今のところ約百五十首。その中にあって、この作品の存在はかなりユニークである。
 山を崩したり海を埋め立てたりして工場用地や宅地を造成する有様は、崩されたり埋められたりする山や海の側からすると、それはまさしく、欲に目が眩んだ人間たちの行う、勝手な侵略であり酷い暴力である。
 華やかさなどは微塵も認められない本作を、私が本稿の冒頭に置いて論じるのは、本作が、他の作品には見られないような視点、つまり、侵略されたり暴力を加えられたりする側の視点に立って詠まれているからである。
 「東京湾の見える草原」という上の句の段階ではまだ、他の作品とほとんど変わらない視点に立つものと思われるので、鑑賞者である私は、ふと、作者の胸の中に芽生えつつある抒情を感じたりもする。
 だが、「ここはまだ名を持たぬ土地D-0街区」という下の句を目にするや否や、 その気持ちは一転して拒否反応を起こし始める。
 目に入るものは、広大な天とその下の草原と、その草原から見下ろせる海だけ。風はかなり強く吹いているが、鳥も鳴かないし、波の音も聞こえない。
 作品中の<わたし>は只、その草原の荒涼たる様に見入り、その上の広大な空の重さに押し潰されるようにして立っているだけ。
 <わたし>が立っているその草原には、一応「D-0街区」という名前に似たものがあるのだが、それは言わば符号のようなものであって、そこに立ち竦んでいる<わたし>には、その無機質な土地の上に、やがて巨大な工場や団地が建てられたり、そこで働いたり、暮らしたりするような人が居るようにになるとは、思われもしない。
 たが、私たちこの作品の鑑賞者は、この<D-0街区>が、ただの荒れ果てた埋立地ではなく、「草原」であることを忘れてはいけない。

 〔答〕      
    寒いなあ、海風
    広いなあ、草原      
    草原、私は、その上空の重さに押し潰されそうだ
      
    鳥も鳴かないし、
    波音も聞こえないし
    あら草を靡かせ、海からの風が吹き過ぎて行くだけ      
      
    誰か居ないかなあ
    誰かやって来ないかなあ
    わたしと話す人が
  
    私は押しつぶされそうだ。
    あの厚い天の重さに
    あら草も吹き飛ばされそうだ
    海風の激しさに
      
    わたしは泣くことも出来ない
    あまりさびしいから
    私はため息をつくばかり
    <D-0街区>に立ち

    凄いなあ
    広いなあ
    淋しいなあ
    怖いなあ
    私ひとり佇んでいるだけの
    草原、<D-0街区>。
      
       (あつ、あそこの草原の中で、いま、何かが動いた)      
 

(jonny)
   街路樹が静かな傍観者に変わるその瞬間を見逃したのよ

 「街路樹」がただの「傍観者」ではなく、「しずかな傍観者に」変わってしまったのだと言う。
 その「静かな」という限定詞の存在によって、評者は今のところ未だ、作者の創作意図や一首全体の意味を計りかねている。
 作中の<わたし>は、「静かな傍観者」に変わってしまった「街路樹」に違和感を覚えているのだろうか。その反対だろうか。
 そうした評者の疑問に答えてくれるのは、四、五句目の「その瞬間を見逃したのよ」であろうが、その箇所をいくら凝視していても、今のところ答は見えてこない。
    〔答〕 今朝ここでひき逃げ事件があったとの街路樹たちのひそひそ話


(詩月めぐ)
   君の住む街の天気が気になって 心にいつもてるてる坊主

 評者は昨年まで二人の息子と住む地方を異にしていた。そんな時、夕方のテレビの明日の天気予報を、自身の住む土地のそれと息子たちの住む土地のそれとに注意して見ていた。
 「ああ、明日はせっかくの土曜日だから、自分の住む土地はともかく、息子の住む土地の天気は快晴であってくれればいいなあ」などと。
 作中の男女は目下長距離恋愛中らしい。本作は、その恋人同士の女性の気持ちをコミカルに表現したものであろう。
 「心はいつもてるてる坊主」という表現に、作者の性格の明るさが窺われる。HMを「詩月めぐ」などとしたのも、そうした傾向の表れではあろうが、もう四、五年も経てば、そのことが悔やまれ、HMだけではなく、「詩月めぐ」時代の作品まで抹消したくなるかも知れないが、今は今のままでいいのだ。その時、その時に、詠みたいように詠むのが短歌だ。
    〔答〕 霧かかるロンドンの癖取れなくて心にいつもバーバリーを着る 


(じゅじゅ。)
   唯一の目撃者なる街燈が やさしく照らすくちづけの宵

 近頃は盛り場での路上接吻など、ごくありふれた風景。
 私は一昨日、久しぶりに渋谷に出て行き、あのモアイ像の前で友人と待ち合わせをしたが、その小一時間ほどの間に、そうした場面を五回も見せ付けられた。
 そんな光景に見とれていたことろにやって来た友人が私に、「おい、お前は何に見とれているんだ、バカヤロー。近頃の渋谷で、アベックのキスシーンなどに見とれていたら、目玉がいくつあったって足りないよ、バカヤロー」と。「バカヤロー」を二度もだ。
 読者の皆さーん。この鳥羽がバカヤローであるかどうかは、皆さんならよーくお判りでしょう。みなさんたちの中で、この鳥羽省三をバカヤローだと看做される方はモアイ像の前に。そうでない方はハチ公像の前に一時間後に集合して下さい。
 あれ、一時間経ってもハチ公像の前には誰も集まらないぞ。普段なら待ち合わせの男女でごった返している場所に、人っこ一人居ないもんだから、鳩たちがキスしているよ。
 冗談はさて置いて、このようにありふれた路上キスシーンではあるが、やらかしているご当人は、自分達は選ばれたスターか何かのように錯覚しているから、「唯一の目撃者なる街燈が」などと言うのだ。 
 「やさしく照らす」も何も、街燈は、ただ路上を照らしているだけであって、なにも見ちゃーいねぇよ。バカヤロー。
    〔答〕 我が国に姦通罪が在ったころ路上接吻現場で逮捕


(新井蜜)
   つけてくる者のいぬこと確かめて凍った街の花屋を探す

 前作の作者に続いて、この作品の作者もまた、ある種の錯覚状態に陥っているものと、私は思う。
 上の句の「つけてくる者のいぬこと確かめて」は、このままでも宜しいのであるが、それに対応する下の句が、どうして「凍った街の花屋を探す」にならなければならないのだろうか?
 これからは新井蜜さんのこの作品を離れて、ごく一般的な話であるが、昨今のインターネット歌壇に群がる、いわゆる「歌人ちゃん」たちの中には、作品中に「凍った街」だとか「花」だとかを使いさえすれ
ば、それだけで作品がドラマチックになり、ロマンチックになるものだと錯覚している連中が居る。
 だが、そのような語句は腐り切っていて、ぷんぷんと匂いがするから、そんな作品を傑作だと認めてくれる者は一人として居ないはずだ。
 あの一見軽そうに見える穂村弘氏だとか、荻原裕幸氏だとか、加藤治郎氏だとかは、見せ掛けはあのようでも、特に言葉に敏感な種族であるから、そんな腐り切った言葉を使った作品は、絶対に認めてくれないだろう。
 それでは、短歌の中に「凍った街」とか「花」とかは、絶対に使ってはならないのかと言うと、それはそうでもない。
 私が言いたいのは、短歌表現の場面で、先人の手垢でさんざん汚されてしまった言葉を使う時は、その言葉の固定的なイメージに頼って使うのではなく、その言葉に新しい生命を注ぎ込むつもりで使わなければならない、ということである。
 誤解の無いように言うが、新井蜜さんの作品は新井蜜さんの短歌観によって創作されたものであるから、それを作者の新井蜜さんがいいと判断されて投稿されたり、その世界に陶酔されたりされればいいのであって、それを私が認めないとかどうしたとかというレベルの話ではないのだ。
    〔答〕 つけて来る犬の居ぬこと確かめて坂本竜馬は寺田屋に入る
        つけて来る人が居ること気にしつつ小暗い路地の質屋に入る


(ウクレレ)
   おしなべてスタバ、ローソン、UFJあってさみしい街というもの

 しばらく首都圏を離れていた私にとって、いささか驚きものではあるが、この作品によると、今やあのスターバックスが全国至る所の盛り場に在ることになる。これが本当だとすると、私はすっかり浦島太郎になってしまったことになる。
 ローソンやUFJはともかく、あのスターバックスが至る所の街に「おしなべて」在る、と言うのは、おそらく、作者<ウクレレ>さんの虚栄心から来る誇張か、無知の証明に違いないとは思うが、その論は別として、この作品はなかなかの出来である。
 「街というもの」には、「おしなべてスタバ、ローソン、UFJ」が在って「さみしい」と言うのも、作者<ウクレレ>さんの分身と思われる作中の<わたし>の気障な性格が言わせた言葉と思えば面白い。
 いいぞ、ウクレレ。奏でよ、ウクレレ。
 昨日読んだ、なぎら健壱著『日本フォーク私的大全』に、著者のなぎら健壱が若い頃、ウクレレをマンドリンのように弦の多い楽器に改造したのはいいが、演奏していたら胴体毎折れてしまった、という馬鹿話が載っていた。
 本作の作者の<ウクレレ>さんも、私に誉められて舞い上がり、胴体毎折れてしまわないように。
    〔答〕 おしなべて農協・しまむら・地蔵様しか無くさみし村というもの 
 自作の弁解をするようで申し訳ないが、おばさんルックのあの「しまむら」が、今や全国至る所の町や村に店を構えているんだぞ。
 だから、「おしなべて農協・しまむら・地蔵様しか無くさみし村というもの」と言うのは、見栄でも誇張でも何でもない。それに第一、見栄で「しまむら」を着ている奴が何処にいるか。
    〔答〕 見栄で着る伊太利屋族のお隣りの<しまむら>様のお嬢さまです


(梅田啓子)
   引力の無くなりたるごと不安なりヒトに遭ひたく街に出でゆく

 曲解も批評の極意の一つである。
 「引力の無くなりたるごと」は、作中の<わたし>の満たされない心理状態を比喩して言うのだとは、知らないわけではないが、それを認めてしまったら、この作品があまりにも馬鹿馬鹿しくなってしまい、作中の<わたし>が、ただの浮かれ女になってしまうから、そこは知らぬふり。
    〔答〕 引力の無くなりたるが不安なり夏期休暇には地球に還らむ
 どうです皆さん、作品のスケールが幾何級数的に大きくなったでしょう。


(風天のぼ)
   溶けたくて傘をささない日もありき魚眼レンズに映るビル街

 「溶けたくて傘をささない日もありき」──そんな日も確かにありき私にも。
 下の句の「魚眼レンズに映るビル街」とは、そんな青春の日々に彷徨した街の現在の風景と過去の風景とのダブルイメージであろうか。
    〔答〕 傘無くて氷雨に濡れし日もありき井上陽水・少年時代


(髭彦)
   街並みは小ぎれいなれど美と深みいづくにあらむこの都にぞ

 髭彦さんぐらいの手だれになると、我が街・東京の賛歌ぐらいは<お茶の子さいさい>というところでしょうが、「それをやるには教養が邪魔」ということで、自作に無理矢理批評性とやらを付与しようとなさる。
    〔答〕 東京に美を求むるはご無理にて小ぎれいなれば良しとすべきか


(31pieces)
   街なんて呼べないようなこの町で飛べない理由をまだ探してる

 昨今の時世を反映して、「飛べない理由」という、この手垢に塗れた比喩を、またぞろ若者たちが使うようになったのだろうか。
 「街なんて呼べないようなこの町で」という上の句がたどたどしいだけに、それなりの深刻みは感じられる。
 昨今では、「飛んだらお仕舞い着陸出来ぬ」が常識となってしまったから、作中の<わたし>もうかつには飛べないのであろう。
    〔答〕 鳥ならば羽があるから飛べるけど君は人にて羽を持たない
        飛べるなら飛んでみせなよホトトギス 不如帰とは帰るに如かず


(ろくもじ)
   ユーミンの歌を真似して書置きはルージュで書いた。街よ、さよなら。

    〔答〕ユーミンももはやババロア ババロアもたまにはいいね特に夏には
       ユーミンの使ったルージュは資生堂 君のはダイソー百円均一


(水口涼子)
   春かおる街路樹わきのカフェテラス誰もがみんな誰かを待って

 都会の瀟洒なカフェテラスでは、誰かが誰かと語り、誰かが誰かを待っている。その光景は、昨日も今日も、そして明日も変わらない。
 都会のほの暗いカフェテラスの周りには、プラタナスが生え、公孫樹が生え、ニセアカシヤが生え、ポプラが生えている。
 プラタナスや公孫樹やニセアカシヤやポプラが生えているカフェテラスの周りの風景は、日々変わらないように見えるが、本当は、毎日毎日、少しずつ、少しずつ変化して行ってるのだ。プラタナスの葉が風に散り、公孫樹の新芽が伸び、ニセアカシヤの花が咲き、ポプラの葉が黄色く紅葉したりして。
 だから、カフェテラスで誰かと語らっている誰かよ。そして、誰かを待っている誰かよ。君たちも少しずつ少しずつ、変わって行くのだぞ、あの街路樹たちのように。話したり待ったりしている間もね。 
 あっ、ついさっきまであんなに仲良く話していたD席の男女が、いつの間にか別れ話を始めていた。たった一杯の珈琲も飲み終えない間にだよ。
    〔答〕 銀杏の匂いこもれるカフェテラス水口さんも誰かを待って


(原田 町)
   一本松とう街の名かつてありしこと麻布十番ゆきつつ思う
 荷風日記に見る麻布十番や私がかつて訪れたことのある麻布十番と、人の話に聞く今の麻布十番とでは、隔世の感があるという。
 今から四十七年前の春休みに、私は、麻布十番の商店街で電話帳配達のアルバイトをした。その頃の東京都の電話帳は厚さ十cm足らず。それを新橋の運送屋の倉庫から自転車で運び、店に配達すると七円、古いのを回収して来ると三円、合計十円の収入になった。
 あの豆菓子屋さんは今では大繁盛と聞く。
    〔答〕 思ひ出の麻布十番「豆源」の味もあらかた忘れたりしな
        <田原町>とふ街あるをふと思ふ原田町さんの歌を読みつつ


(久哲)
   街路樹に生まれましょうよソラ色の金魚を陸に呼んだ報いで

 異才・久哲さんの作品は、あくまでも、あの遠大な「久哲の適当緑化計画」の一環としてのもの。
 従って、この非才の私が、その意味を解ろうとしたり、その表現のあれこれについて詮索しようとするのは、いささか筋違いというものであろうか?
 でも、何と無く解るぞ。
 もしも私たち人類が、「ソラ色の金魚を陸に呼んだ」犯人であるならば、その「報いで」、私たちは、「街路樹に生まれ」替わって、久哲さんの「適当緑化計画」の人柱になるしかないのだから。
    〔答〕 リュウキンを作りしことの報ひにて夕焼け空はいつも真っ赤だ
 久哲さんほどの才に恵まれない私の「赤化計画」は、せいぜいこの程度でしかない。


(マトイテイ)
   空見上げ佇んでいる街角で涙は重力次第だと知る

 作者<マトイテイ>さんの分身に他ならない作中の<わたし>は、街角で空を見上げながら、本当は、懸命になって涙を堪えているのに違いない。
 だから、この一首は、彼の負け惜しみなんだよ。
    〔答〕 落涙が重力次第と言いながら君の瞳は涙で光る


(八朔)
   ほぼ同じことだと思う街角で愛されること憎まれること 

 この一首を投稿したことによって、作者<八朔>さんは、「愛される」方の人間ではなく、「憎まれる」方の人間であることが証明される。
 「八朔」とは柑橘類の一種で、少し酸味がある。
 街角で佇んでいる<八朔>さんの胸には、あの八朔のような酸っぱさがこみ上げて来る。
    〔答〕 愛憎は人の心の表裏 憎い彼女が可愛くもある


(ひぐらしひなつ)
   花街に花なくかつて花たりしひとの曲がった影ゆくばかり

 作者の<ひぐらしひなつ>さんの優しい配慮によって、「かつて花たりしひと」は、私たち鑑賞者の前に衰えた容色を曝さないで済んだ。
 その配慮とは、五句目の「影ゆくばかり」。
 「かつて花たりしひと」であっただけに、衰えた素顔を曝させるのは、かわいそうだからね。
    〔答〕 花街の花も今では姥桜 腰を曲げつつ路地裏を行く


(秋月あまね)
   わたくしは永久凍土と添い遂げる生まれた街を貶めながら

 これはまた勇敢にして冷徹な宣言であることよ。
 我等が「氷の女王」は、生まれた街によほどの恨みを抱いているものと思われる。
    〔答〕 わたくしはナウマン像かマンモスか凍土から出て展示されてる


(英田柚有子)
   いろいろはできないけれどここにいます 街路樹であることにも慣れて

 「いろいろはできないけれど」とは、もしかしたら、「一種類の街路樹の紅葉色は一色だ」という意味なのかも知れない。
 例えば、かえでの紅葉は真っ赤、ポプラの紅葉は黄色、という具合に。
    〔答〕 いろいろは出来ないでしょうが落葉の始末ぐらいは自分でしてね


(ふみまろ)
   この街にこの日本にこの地球(ほし)にそして僕にもどうか未来を

 聞かせどころは、末尾の「僕にもどうか未来を」。
 従って、本作の大部分は、聞かせどころの前の「そして」を導くための序詞の働きをしているだけ。
    〔答〕 この星のこの日本のこの街の<ふみまろ>さんに明るい未来を


(O.F.)
   街路樹を叩いて帰る夜明け前そうだマチャアキ「さらば恋人」

 「街路樹を叩いて帰る夜明け前」という上の句から、下の句「そうだマチャアキ『さらば恋人』」への転換が見事。
 ちょっと軽めの見せ掛けに惑わされて低く評価してはいけない。
    〔答〕 街路樹を叩いて歩くその癖は<成り物虐め>の名残りだろうか 
                            〔注〕 <成り物虐め>とは、その昔、桃・林檎・梨・栗などの実の成る樹木を叩くと、その年は沢山実を付けるという伝承に基づいて、正月などに子ども達がそれらの樹木を叩いたり、鉈で傷つけたりした風習。


(佐東ゆゆ)
   きみはわたしの街にきてほんとうのこいびととあそんでいった

 ニューミュージック全盛時代のどなたかの曲に、「恨みます」というのがあった。この一首は、まさにその歌の世界。
 こともあろうに「きみはわたしの街にきてほんとうのこいびととあそんでいった 」。その祟りはおそろしいぞ。さあ、惨劇の幕開けだ。
    〔答〕 <ほんとうのこいびと>と言うのは哀れ それでは君は偽のこいびと


(わたつみいさな)
   うらみごとばかりの街をあたらしい一眼レフで丁寧に撮る

 これはまた、直前の作とは、うって変わってさっぱりしていること。でも、なんだか嘘くさいなあ。
    〔答〕 うらみごとばかりの街をあたらしいライフル銃で一発見舞う


(夏実麦太朗)
   みぞれなど降りだしそうな問屋街スプーンフォーク静かに光る

 夏実麦太朗さんは名人上手。手馴れたものだ。「静かに光る」は、視覚の聴覚化。
    〔答〕 みぞれなどサービスしそうな問屋街 器(うつわ)とスプーン用意して居て


(ジテンふみお)
   はじめての街に降り立つ甲と乙 丙の噂をできるお店へ     

 中野重治の最晩年の長編小説に、『甲乙丙丁』というのが在る。どうせのことなら、そこまでやればよかったのに。
    〔答〕 はじめての曲に聴き入るAとB EのCD借りて来たのだ


(笹本奈緒)
   チャリで行く道無き道のでこぼこはレゴブロックの街の比じゃない

 「レゴブロックの街」は、街路をレゴブロックで作らないから、格別な凹凸は無いはず。
     〔答〕 道あってはじめて道と言えるのだ道なき道を行けるわけない


(暮夜 宴)
   きみの背をめじるしにして追いかけた南京街は飲茶の匂い

 横浜の中華街の土曜、日曜の人出はまさしくこの歌そのもの。
 「きみの背をめじるしにして追いかけた」は、決して誇張ではない。
 でも、評者はひねくれ者であるから、時たま、故意に誤解する。
    〔答〕 犯人を「きみ」と呼ぶのは純情派刑事逮捕後飲茶おごった


(新田瑛)
   人類が紡ぐ歴史の色合いを確かめながら老いてゆく街

 この作品に詠まれた「街」は、ヨーロッパの街であろう。日本の街は老いる前に立ち枯れる。
    〔答〕 人類に蝕まれては穴が空きもはや修理の効かぬオゾン層


(ひろうたあいこ)
   だんだんと夜になってく街あかり旅人みたいに紛れていよう

 隅々まで知り尽くした街に住み、旅人のような感覚で生きることが出来たら、と私も思う。
    〔答〕 街灯が夜になってくわけは無い 夜になるから灯りが点くのだ


(ほたる)
   スパンコールが弾けたあとの歓楽街赤い鱗の散らばる舗道

 私はかつて、スパンコール製の人魚の衣装をつけた女たちが客席をすいすいと泳ぎ回るキャバレーにボトルを置いたことがある。
 その感じがかなりリアルに出ているぞ。
    〔答〕 スパンコールの服の女が殺された千切れた服が鱗に見えた 


(岡本雅哉)
   市街地で育ったんだねやわらかくひとのあいだをすり抜けるきみ

 下記の、私の返歌は、都会育ちの六十代の友人から聞いた話そのままです。それだけに、この一首には降参気味です。
 ただひと言、傑作です。もの柔らかい語り口がよけい現実感を増します。
    〔答〕 すれ違うクルマや人をかわすのが街の子供の肝試しなの


(如月綾)
   ごくたまに逃げ出したくなる 僕のこと誰も知ることのない街へと

 私は現在、言わば、「僕のこと誰も知ることのない街」で暮らしている。居心地は決して良くない。人間は常に無いもの強請りをするものと思われる。
    〔答〕 その他の日には居心地すごくいい誰もが僕を知ってるこの街


(キャサリン)
   街路樹が空の水色突き刺して傷つきやすい季節になりぬ

 作品を見つめながらじいっと考えていた。「街路樹が空の水色突き刺して傷つきやすい季節」って、いったい何月頃を指して言うのだろうかと。
 結論から言うと、そういう季節は日本の風土には無い。敢えて言うと、それは、作者・キャサリンさんが「街路樹が空の水色突き刺して傷つきやすい季節」と思える季節。
    〔答〕 傷つくは空を突き刺す街路樹かそれとも空かそれとも人か


(ノサカ レイ)
   少しずつ街を追われていったのです 最後のグスクも失いました

 「グスク」と言ったら沖縄だ。
 本作は琉球史という史実とどの程度関わりがあるのだろうか、興味深い。
    〔答〕 歌で知る琉球哀史 追われてく沖縄の人インディアンみたい


(村本希理子)
   草色のぺたんこ靴で春をゆく街路樹の名を確かめながら

 〔答〕 いつもハイヒールを履いているOLが、たまたま履いたローヒール靴の履き心地にすっかり満足しているのだが、ある種の気取りや虚栄心が手伝って、自分の気持ちを素直に言わないで、「私ったら、こんなぺたんこ靴を履いたりして恥かしいったらありゃしない」などと、済まして人に言う。
 本作の作者も、上の句の「草色のぺたんこ靴で春をゆく」を、そういう気分で言っているのだろうか?
    〔答〕 <ぺたんこ>と言へば詩になる安靴を履きて街路をペタペタ歩む


(振戸りく)
   落書きの上にペンキを塗ってあるシャッターばかり目立つ街並み

 横浜市内の東横線の線路脇のコンクリートの壁に描かれた落書きを見たことがありますか?
 その昔は、それをいちいち白いペンキで消していたのであろうが、今では、その落書きが港・ヨコハマの観光資源の一つになっている。
    〔答〕 落書きの上にペンキも塗らないで自慢たらしく港・ヨコハマ


(酒井景二朗)
   少しづつ繁華街にも慣れようと思つて買つた切符が折れた

 奇才・酒井景二朗さんが、お題「街」を持て余しているなんて、この世の七不思議の一つ。
 「切符が折れた」って、どうってことないじゃないか、と鳥羽。   
    〔答〕 どうせなら歓楽街に慣れなさい切符がどうこう言うのを止めて


(ezmi)
   遠き日のまぼろし祖母の思い出と連れ立ち歩く日光街道

 江戸川乱歩に『押繪と旅する男』(1929・新青年)という名作がある。
 作中の<わたし>は言わば、「思い出と旅する女」。
 彼女が「祖母の思い出と連れ立ち歩く」のは「日光街道」。
 行き先にどんな釣り天上が待っているか、野次馬の私としては楽しみである。
    〔答〕 祖母連れて同行二人思い出の日光街道まぼろしの旅


(詠時)
   セルロイド人形みたいな香りさせ街のネオンへ少女溶けゆく

 作中の「少女」から漂う「香り」は、「セルロイド人形みたいな香り」であって、セルロイドの香りではない。それでは、その「セルロイド人形みたいな香り」とは、どんな香りだろうか?
 ちょっと古風で、ちょっとロマンチックで、ちょっと壊れ易くて、ちょっと甘酸っぱくて、ちょっと燃え易くて、・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
    〔答〕 セルロイド人形みたいな少女なら燃え易いからネオン街向き


(藻上旅人)
   川沿いの床鳴りのするアパートの跡に立つビルあの街はない

 鶯張りというわけでもないのに、一歩足を踏み入れればぎしぎし鳴って泣きたくなるような床板。
 清水の舞台から飛び降りるような気分で連れ込んだ彼女なのだが。そのような展開になることを覚悟して、真新しい下着に着替えて来た彼女なのだが、あのぎしぎしに吃驚して、なんだか気分が乗らないみたいだった。
 部屋の窓から釣り糸を垂らしたこともあったっけ。薬缶のお湯を零して、階下の人から怒鳴られたこともあったっけ。
 でも、あのアパートは跡形もなくなり、その跡に真新しいビルが建っていた。
 あの街は街ごと消えた。彼女とはあれっきりだ。僕の思い出は消えた。
    〔答〕 窓辺から水面(みなも)に揺れる藻が見えた青春の思い出ぎしぎしアパート
 

(花夢)
   ひだまりで満たされないと気づいても猫は街から去らないだろう

 「ひだまりだから満たされない」のか? 「ひだまりでは満たされない」のか? 
 「猫」に聞かなければ分からないのだろうか?
    〔答〕 この街は何処も彼処も日溜りで猫は炬燵で丸くなれない

一首を切り裂く(009:ふわふわ)

(じゅじゅ。)
   マシュマロのプールにふたりダイブして 溺れてみない? ふわふわふわり
 
 皆さん「ふわふわ」苦戦中、といった中にあって、本作などは内容の軽さは別とすればまあまあの出来かと思われる。
 マッシュマロの反発力を力学的計測を試みた。
 すると、厚さ2,000㎜のマシュマロに重さ10㎏の砲丸を10㍍の高さから落下させた場合のマシュマロの反発力は「0㎜」という結果が出た。
 但し、落下させる物体はあくまでも鉄の塊である砲丸としてのこと。重さ10㎏の砲丸といったら、その直径は20㎝くらいであろうか。
 従って、仮に、本作の作者の<じゅじゅ>さんとそのパートナーとが、お手手つないで飛び込み台からマシュマロのプールにダイビングしたとしても、ある程度のバウンドが期待出来、即地獄行きという結果にはならない、ということはこの鳥羽が保証する。
 が、それはあくまでも、落下による打撲死はあり得ない、ということであって、かかる行為に及んだ場合に発生することが考えられる死亡事故としては、もう一つ、窒息死ということも考えられるので、その場合のことについては保証の限りではない。
 でも、ねえ。いくら死亡する可能性がほとんど無いからと言ったって、そんな馬鹿馬鹿しいことは止めたらどうだろうか? だって、普段からでれでれしてる奴らが、マシュマロ塗れになって、これ以上でれでれしてしまったらどうなるの? えっ、くっついちゃって、永久に離れられなくなるから、その方がいいって。
 馬鹿だなあ、マダムじゅじゅは。人間はそこまで馬鹿になれるのか? てなことを書いている私は<じゅじゅ>以下の馬鹿か?
    〔答〕 マシュマロのプールで泳いで死んだなら死因は溺死と言えるのかしら


(藻上旅人)
   めのまえのこのふわふわとしたものが君にはみえていないようだが

 何か哲学的なことでも言っているように思えるが、本当は、お題、「ふわふわ」の処置に困っての出鱈目でしょう。
 でも、その出鱈目な内容を述べるに当たっても、この作者は、漢字の使用を一首中、「君」一字に止めるなど、それなりの工夫はしているようだ。
    〔答〕 ふわふわと水面に浮かぶ藻に寄りて今し卵を産みつくる魚
 ふわふわと水面に浮きつ沈みつしながらも、藻草の茎に懸命にしがみついて子孫を残すべく、自身の卵を産み付けるのに懸命なのは、何も私の返歌に登場する「魚」だけではない。この作品の作者もまた、本作を題詠企画に投稿することに依って何かを産み付けようとしたのだろう。


(梅田啓子)
   灯りつけ報復せむと待つわれの視野にふはふは蚊の入りくる

 この人も大袈裟だ。
 たかが「蚊」が室内に入って来るぐらいで、「報復せむ」とは何事だ。
 だいたい、蚊が家に侵入するのは、家の内外が不衛生な状態になっているからだぞ。それを忘れて、かほどのことに大騒ぎするとは、呆れてものが言えぬわい。
 しかも、カッコつけて、「ふわふわ」を古典仮名遣ひで「ふはふは」などと書きくさってさ。まったく頭に来ちゃうよ。
 辞典を見たのか、古語辞典を。万が一、間違いでもすると、笑い者になるだけだよ。
    〔答〕 梅田様一筆啓白(けいびゃく)申し候(そろ) 蚊など殺すな報復已めよ 


(村本希理子)
   ケータイにピンクのファーを貼り付けてふわふわ不惑の妹を待つ

 村本さんも「ふわふわ」にはさんざん悩まされたくちに違いない。
 だから、「ふわふわ不惑」の語呂合わせを思いついた時、してやったりと、思わず手を叩いたことだろう。
 でも、その御蔭で、可愛いお妹様の年齢がばれてしまったではないか。お妹様が不惑なら、あなたは少なく見積もっても、今年四十四の厄かな?
 ざまを見ろ座間(米軍基地のある町)を。みんなばれてしまうではないか。「天網恢恢疎にして漏らさず」とはこのことだ。
    〔答〕 ふわふわの不惑も過ぎて幾年か村本希望も理性も無い子 (なんちゃって、失礼)


(詩月めぐ)
   他愛ない会話で心軽くなるふわふわふわり吾はしゃぼん玉

 この人はわりかし軽量(あくまでも体重の話)だから、それほど悩まないで、すらすらふわふわと詠んでしまったことだろう。
 でも、「ふわふわふわり吾はしゃぼん玉」などと、他愛ないことを言って、心軽くなってばかりは居られないぞ。
 「しゃぼん玉」はいつか必ず弾けるからな。
 そう、リバウンドというヤツだ。無理な減量で作り上げたスマートな身体には、必ずリバウントが来るのだ。
 「<めぐ>という名の百貫デブの女です」なんて、演歌のタイトルにもならないからな。
    〔答〕 ふわふわと吾がしゃぼん玉舞い上がりパンと弾けてそれでお仕舞い
        <めぐ>というその名の通り恵まれて今じゃ相撲の山本山だ


(都季)
   メレンゲよふわふわになれ優しくはなれないままの私の代わりに

 メレンゲなどという物は、格別に料理と呼ぶにも価しない代物だ。
 それなのになんだ、このママは。だらしないにも程があるではないか。
 メレンゲもろくろく作れないくせして、四句目に「まま」と「ママ」の掛詞を使ったりするのは生意気だぞ。
 そんな臭い手を使ったって、とうてい誤魔化し切れない話じゃないか。
 メレンゲを作るには、要するに、新鮮な卵白と、グラニュー糖と、それに塩ひとつまみもあれば十分なのだ。
 道具と言ったって、適当な大きさのボールと、泡立て器の電動式のと手動式のとが一つずつと、それにゴム箆一本あれば済む話なのだ。
 この落第ママの作ったメレンゲががつがつに固まっていて、お手製ケーキのお腹に塗れないのは、この落第ママが、いつもふわふわ遊んでばかり居るからなのだ。
 反省したまえ、反省を。
    〔答〕 お手製のメレンゲいつも硬いけどママはいつでもふわふわしたまま


(ほたる)
   ふわふわの綿毛を飛ばすくちびるはほんの一瞬無防備になる

 おやおや、<ほたる>さんが<たんぽぽ>さんになったのかな。
 あのちっちゃな唇から懸命に綿毛を飛ばしている。
 その綿毛を飛ばす時にね、ほたるさんの唇は一瞬だけ無防備状態になるんだって。男たちがほたるさんの唇を盗むのはそのタイミングなんだって。
 でも、それだって罠かも知れないよ。ほたるさんってなにげに男をだまくらかすことがあるからな。ときどき丸見えにしたりしてさ。
    〔答〕 ふわふわの綿毛を飛ばす唇はおとこを誘う紅いくちびる


(暮夜 宴)
   「金色でふわふわの巻き毛がほしい」「ライオンにでもなるつもりかい?」

 対話が三十一音の短歌になっている。意味内容は少々希薄だが、その創意と努力とは誉められるべきだろう。
 それでは、私は独り言が短歌になっているヤツ。
    〔答〕 「金色でふわふわのまわしが欲しい。雷の児に穿かせるためさ。」 


(五十嵐きよみ)
   シャンプーを「ふわふわ」と呼び母親の指の動きに髪をゆだねた

 五十嵐さん、知ってか?知らないでか?あんたも一歩間違えば危なくなることを平気で言う。
    〔答〕 シャンプーを「ふわふわ」と呼ぶおみなごの指の動きに全て委ねた
 と、してみたらどうだ。
 これは、五十嵐さんのカマトト的な誘導尋問に引っかかって、作中の<わたし>が、思わず漏らしてしまった失言であって、その「文責」は私・鳥羽省三が負うものではない。


(星野ぐりこ)
   タンポポの綿毛で作るふわふわなアフロヘアーのカツラが欲しい

 「お題<001:笑>でいきなし、あの爆弾告白をした<星野ぐりこ>さんが、なんでまた『アフロヘアーのカツラが欲しい 』なんて言うのかな。」
 「本当は彼女、生まれつきの接げ頭なんだって。だけど、いくらなんでも、彼女にだって見栄というものがあるから、ただの鬘が欲しいなんて、ストレートなことは言えないからさ。」
                    (冗談、冗談、今のセリフは冗談でした。ぐりこさん怒らないでね。)
    〔答〕 ふわふわのアフロヘァーのカツラつけ ひとに言えない悩み誤魔化す


(かりやす)
   律儀にも口にすべきかためらひぬ「ふはふはオムレツ」とふメニュー名

 メニューには確かに、「ふはふはオムレツ」とあったのですか。もしかしたら「ふわふわオムレツ」ではなかったのではないでしょうか?
 どちらにしても、口にすべからざる程の硬さのオムレツでは無いと思われますが。
 えっ、私が今、何か間違ったことを口にしましたか?
    〔答〕 口にすべき硬さならねば「ふはふはのオムレツ召せ」とメニューに書きぬ


(水口涼子)
   てのひらを春の意志もて押し返す梅の根元の苔のふわふわ

 作中の<わたし=作者?>の、あの恐ろしい腕力にさえ抵抗し得る超偉大な苔の力。
 コケ(愚者)の一念とて侮る勿れ。
 人間の為す業は、自然の為す業に到底敵わないと知るべし。
    〔答〕 押し返すコケの一念恐るべき 梅の根方の苔の一念


(はしぼそがらす)
   たんぽぽの綿毛ふわふわ飛んでこい我が闘病の六階北まで

 もう直ぐ春です。梅も水仙も咲きました。タンポポのふわふわ綿毛ももうじき飛ぶことでしょう。お身体大切に。
    〔答〕 たんぽぽの綿毛真っ直ぐ飛んで行け汝が闘病の六階北まで


(月下燕)
   いやそんないったいどっちと言われてもふわふわらいどう付和雷同

 四字熟語の「付和雷同」と「ふわふわ」の「ふわ」とが繋がることを発見した時、君の勝利は確定的になった。
 それでは私も。
    〔答〕 ふわふわと亭主夜遊び妻浮気ふわふわかてい家庭不和
 私の作歌力もまんざら棄てたもんでもないでしょう。


(原田 町)
    ふわふわに煮えしそのとき食べたしと思えど半ぺんすぐに萎みぬ

 分かりますその気持ち、解ります私にも。
    〔答〕 ふわふわに萎えたその時食べたしと思わず半べそいつも萎えてる
 となったら、なにがなんだか解らないだろうが、わかる人には分かる。


(髭彦)
   ふはふはのマシュマロ食みてひとときの至福に酔ひき幼き吾は

 髭彦さんは「ふわふわ」ではなく「ふはふは」組でしたね。私も本当は同じ組に入らなければならないのですが、その時、その時で、現代仮名と古典仮名とを使い分けております。
    〔答〕 ふはふはのひげの髭彦うはうはと笑ふ姿が彷彿として

一首を切り裂く(008:飾)

(根無し草)
   着飾って 同窓会に 行ったけど 昔のアダ名 「ポチ」で呼ばれた

 私の知人には、「ブルドック」とあだ名されている男が居ります。「ポチ」ぐらいならば、可愛くていいじゃないですか?
 それにしても、かつて「ポチ」と呼ばれていたあなたが、今は自ら「根無し草」を名乗っていらっしゃる。そこまでに至るには、哀しくて永い物語があるんじゃないでしょうか? 
 「<ポチ>から<根無し草>まで」、なんだか小説にでもなりそう? そのうちに書こうかな。
 ところで、五句を一字空きで書いていますが、どうしてなのでしょうか。
 岡野弘彦氏の作品にしても、あなたの作品にしても、句毎の一字空きは不要と私は思います。短歌中の各語、各句は、お互いに有機的に結びついているものだと、私は思います。
 それに、口語短歌を一字空きにすると、それぞれの句の貧弱さが見事に露出され、作者までが軽く見えるような気がします。
    〔答〕 呼んだ奴にポチ袋でも呉れてやれ毛並みの良さを見せつけてやれ
        ポチというあだ名で呼ぶのは過去のこと今では天下の根無し草です


(みずき)
   明るむは小雨の窓か飾られし卓の向ふに空つぽの椅子
 
 纏まりに欠け、中心がぼけた感じです。詠いたいのは、「明るむ」「小雨の窓」ですか。「飾られし卓」ですか。それとも「卓の向ふ」の「空つぽの椅子」ですか。
 小道具を幾つも並べて、作者は欲張りです。
 作者はおそらく、「空つぽの椅子」を中心に据えて描こうとしたのであり、ご自身の心の空洞感をも詠おうとしたのでありましょう。
 もしそうならば、上の句「明るむは小雨の窓か」は全く不要と思われます。屋外の景色を描くとしたら、視覚的表現は避け、聴覚的表現にしたらどうでしょうか?
    〔答〕 飾られた卓の向こうは不在の椅子 風が雨戸を叩いているだけ
        飾られた卓の向こうは空の椅子 あの日に続く私の孤独


(うたまろ)
   夢などは 手の届かないものじゃなく 届かぬ棚に飾る置物

 初句「夢などは」の「など」が音数稼ぎみたいで目障りです。
 副助詞「など」には、<例示>の用法だけではなく、<婉曲>の用法もあるので、「夢などは」という表現そのものは文法的に正しいのですが、それでもまだ、置かなくてもいいものを、音数稼ぎのために置いているという感じが拭えないのです。
 それからもう一点、この作品の場合も、一字空きは不要でしょう。
    〔答〕 届かない棚には物を飾れない だから夢にも手が届くはず


(じゅじゅ。)
   きみの手で 剥がされるのを待っている 飾りの仮面 素顔のわたし

 一字空きを多用するのは、最近の短歌の傾向というよりも、インターネット短歌によく見られる傾向でしょうか。この歌の場合も不要な一字空きをしているような気がします。
 冒頭の「きみ」に対応して、末尾を「わたし」としたのは適切な措置と思われます。
    〔答〕 仮面など剥がしてみても何になる 剥がしたいのは君の衣裳だ


(五十嵐きよみ)
   飾らない言葉もあまいささやきも恋人からは聞かせてほしい

 相変わらずご自身のエリアから一歩も踏み出していないように思われますが、五十嵐さんと言えども、「題詠2009」の参加者の一人に過ぎないのですから、私が無理な注文をしていることになりましょうか。
    〔答〕 飾らない言葉と甘いささやきは二律背反 どちらか選べ


(秋月あまね)
   なだらかな丘かとおもう飾り窓に暴かれてゆく白きトルソー

 大正期の探偵小説の一齣みたい。
 「飾り窓に暴かれてゆく白きトルソー」の秘密とは何か?
 あの「なだらかな丘」の何処かに、犯人は、女優・春月あかねの死体を埋めたのだ。よれよれのマントに身を包んだ探偵は、不自由な足を引き摺りながら、一歩、一歩と丘への道を歩き出す。
    〔答〕 なだらかな丘に生えてる芝草の細い根と根が微妙に絡み 


(梅田啓子)
   人知れず消えてゆきたきこの夜はカサブランカを机に飾る
 
 作者には、「そんなつもりは・・・・」と笑われるかも知れないけれど、私はこの作品を思いっきり深読みしたい。
 私はこの作品の背景に、ハンフリー・ボガート及びイングリッド・バーグマン主演の、往年の名画、『カサブランカ』の幻を感じるのだ。
 舞台は、フランスの保護領でありながら、ドイツ第三帝國の影響下にあったモロッコの首都・カサブランカ。熱い砂漠に囲まれ、半ば砂に埋もれたような北アフリカの都市である。
 この街で酒場「カフェ・アメリカン」を営むアメリカ人男性リックのもとに、1941年12月のある日、反ナチス抵抗運動の指導者ヴィクター・ラズロが訪れる。ラズロの同伴者である女性を一目見て息を呑むリック。彼女こそ、かつてパリで愛し合い、そして理由も告げずに彼のもとを去ったイルザ・ラントであったのだ・・・・・・・・。
 砂に埋もれたような不毛の人生から消えて行きたいのは、映画の主人公も歌詠み女性も同じ。その歌詠み女性が、ある夜、映画『カサブランカ』の登場人物たちの三角関係と自分の人生とを重ね合わせて憂鬱を覚え、自室の机上に置かれた花瓶に、たった一本だけの白いカサブランカの華を飾る。
 翌朝、歌詠み女性が目を覚ましてみたら、カサブランカの華はすっかり萎れ、机上には、その形見であるかのように、茶色いカサブランカの花粉がいっぱい散り敷いていた。
 歌詠み女性は、机上に散り敷いたそのカサブランカの花粉を、自分の胸に押された運命のスタンプのように感じ、・・・・・・・・・。
 「人知れず消えてゆきたきこの夜はカサブランカを机に飾る」。五句目の「机に飾る」は「机上に飾る」がいいカモ。
 それはどうでも、本作の作者の梅田さんよ。人間はそう易々と「人知れず」消えて行くことなんか出来ないもんですよ。最近の統計に依ると、国民一人あたりの葬式代の平均は、なんと驚いたことに、二百三十三万円ですって。
 その統計は、金持ちの葬式代だけの平均ではありませんよ。あくまでも国民全体の平均。超リッチな梅田さんのも、超まるビの鳥羽のも含めての平均ですよ。二人とも未だ死んでいないけど。  
    〔答〕 はかなきは華カサブランカ 昨夜(きぞ)咲きて今朝は沙漠の砂に埋もるる


(行方祐美)
   飾磨紺のスカーフ風が攫うとき冷ややかに鳴る赤きケータイ

 「飾磨」は今の姫路市辺りの旧地名と言う。その地の染物業者が染めた布地の色の一種が、「飾磨紺」であるが、この色は別名「褐色(かちいろ)」とも言い、私の見た感じとしては、紺と黒との中間ぐらいの濃紺である。
 それともう一つ、本作の作者の姓「行方」のヨミは「ゆくえ」では無く「なめかた」。私は、この作品の作者の名前に接した時、一瞬嬉しくなった。「ああ、この姓はナメカタ。私は最初からこのヨミを知っていたのだ」と。
 それ程でもない自分の知識をひけらかすのが、ゴマンとある私の欠点の一つであるから、何卒、お許しの程を。
 閑話休題~あだしごとはさておきつ~、この作品は、上の句「飾磨紺のスカーフ風が攫うとき」の「攫うとき」が素晴らしい。
 「攫う」とは、「②人を無理やり連れ去る。誘拐する。〔盗賊に攫われたお姫様〕」と、鳥羽省三様ご用達の『大辞林』は解説してくれる。
 つまり、作中の「飾磨紺のスカーフ」は、ただのスカーフでは無く、言わば、姫路城のお姫様みたいな高貴な存在なのだ。その高貴なお方が攫われた。「さあ、大変だ」と思った瞬間、お姫様お付きの腰元みたいな「赤きケータイ 」が「冷ややかに鳴る」。「赤きケータイ」は鳴る瞬間までは、<お姫様お付きの腰元>みたいな存在であったが、その底から冷ややかな声が聴こえた瞬間、いきなり犯人に変身する。
 犯人の声は、「わたしたちラ・フランス革命党はお姫さまを攫った。お姫さまのお命おしくば、千両箱三つ、書写山円教寺の山門まで持って来い。暗号は、<くらきよりくらきみちにぞいりぬべきはるかにてらせやまのはのつき>。山門に着いたら、この暗号を三度となえて、直ちに立ち去れ」と冷ややかに言う。さあ大変だ、大変だ。 五月のそよ風が、天下の一大事を運んで来たのだ。
 またまた探偵小説の世界だ。
    〔答〕 飾磨紺のスカーフ飛べは事件だが黄色いハンカチ幸福の標
 と、ここまで、戯作風に書き綴って来たが、この佳作については、もう少し語っておかなければなるまい。
 作者、行方裕美さんは、お題「飾」に接した時、かなり悩まれたのではないでしょうか?
 行方さんには、この「飾」という文字を用いた取って置きの作品がある。その作品は、行方さんご自身も密かに自負するところのある傑作なので、かねてより、そんじょそこらの投稿誌などには発表したくないと思っていた。それなのに、「題詠2009」のお題として「飾」が出た。
 あの傑作をお蔵から出して風に曝そうか、曝すまいか? 
 その傑作の作者であり、「題詠2009」の参加者でもある行方さんは、さんざん悩まれたはずだ。そして、その挙句、ここにこうして、この傑作をインターネット歌壇に曝す結果となった。
 その行方さんのご苦労に報い、この傑作に敬意を表するためには、私はもう少し真面目に、この傑作と取り組まなければなるまい。
 先ず、「飾磨紺」という播磨地方独特の伝統的染め色の存在を発見し、それと「赤きケータイ」とをセットにして一首をものしたのが作者・行方さんのお手柄だ。
 ここに、歴史の襞の中に半ば埋もれかけていた「飾磨紺」が、行方さんの手によって、歴史の表面に見事に甦ったのである。
 風清き五月、飾磨紺のスカーフを風に靡かせて舗道を闊歩するお嬢さんは、作者の行方さんご自身でありましょうか? 
 世の中に数ある色の中から飾磨紺という色を選び出し、世の中に数あるスカーフの中から飾磨紺のスカーフを選び出して身につけている。そこに知性と教養が感じられる。
 と、すると、そこに一陣の風が吹いて来て、その大事なスカーフが風に巻かれて空に舞い上がる。  作中の<わたし>は一瞬、「攫われる」と感じた。<わたし>の大事な「飾磨紺のスカーフ」が攫われたと感じたのだ。
 と、その時、彼女が抱えていたハンドバックの中から怪しい音楽が聞こえて来た。冷静になって考えられる場面であるならば、その音楽とは、彼女が普段から聴き慣れている携帯電話の着メロに過ぎないのだが、その時の彼女は、言わば誘拐事件に遭遇していたのだから、その着メロは誘拐犯からの怪しい電話としか思えなかったのである。
 作中の<わたし>が愛着を覚えて身につけていた、飾磨紺のスカーフが風に舞い上がった時の驚きと、それと呼応するかのように、懐中の携帯電話が突然鳴り出した時の驚きが、一首の中に余すところ無く詠み込まれている。
    〔答〕 爽やかな風がわたしを攫うとき携帯電話の音も攫われ  


(わだたかし)
   飾り付けなんて必要ないくらい散らかっている部屋で黙祷

 これも事件だ。葬式の飾り付けも出来ないくらい荒らされた部屋で被害者の弟、和田弘はとりあえずは黙祷した。それにしても、この散らかりようは只者ではない。
    〔答〕 <おくりびと>三人だけの葬儀ではいくらなんでも淋し過ぎます


(天国ななお)
   葛飾にバッタも見なくなったけど空はやっぱりうそみたいな青

 葬式が済んだと思ったら、今度は天国。全くタイミングがいいと言うのか、悪いと言うのか。
 私はこの頃、なぎら健壱著『日本フォーク私的大全』(1995年・筑摩書房刊)を愛読中です。
 この本の著者・なぎら健壱が『葛飾にバッタをみた』というLPレコードを出したのは、1973年だったそうです。あれから三十年以上も経ったが、葛飾の「空は(今でも)やっぱりうそみたいな青 」だと言う。
でも、「バッタ」は「見なくなった」と言う。
 本作の作者の天国ななおさん、あなたからこんな話を聞いて、私は少し嬉しく、少し淋しく思いました。
 あなたもフォークソングのファンなんでしょうか。もし、そうならば、一度か二度、演奏会場で袖を触れ合っているかも知れませんね。
 あの熱狂的な真夏の野外会場でね。
    〔答〕 葛飾天国一度はお出で♪♪(ルル) いちどと言わずなんどもお出で


(ひいらぎ)
   花一輪飾ってみよう一人でも産まれたことに感謝をしよう

 この作品を一読して、私は、「これは少子化時代を詠んだ作品かな」と誤解した。
 だが、次の瞬間、これは、未だ独身の女性が、自分に誕生日に臨んで詠んだ歌だと気が付いて、次のように解釈した。
 「自分は、未だ愛する人に恵まれないまま、孤独な生活をしているが、今日はそうした私の誕生日。たった一人だけの暮らしは、それはそれは淋しいものではある。でも、私は、今日の誕生日に臨んで、私自身がこの世に人として生まれたことに深く感謝しよう。そして、その感謝の印として、誕生日の今日は、たった一人だけの私のこの部屋に、一輪の花を飾ってみよう。おめでとう、ひいらぎ。誕生日、おめでとう」と。
    〔答〕 花一輪 見沼田圃の畔から ひいらぎさんの誕生祝し
 遅れ馳せながら、ひいらぎさん本当におめでとうございます。来年はきっときっとお二人でケーキの灯を点せますように。
 

(穴井苑子)
   電飾でかざりつけてる金閣寺 そんな感じに見えてしまって

 ホント、「そんな感じに見えてしまって」。
 あのキンキラキンの金閣寺が建立される時代の片隅で、さりげなく詫び茶が芽生えつつあったなんて、室町時代はホントに不思議な時代だ。
    〔答〕 さりげなくあの金閣に忍び込み火を放ちたる青年僧よ


(佐藤紀子)
   フェルメールの耳飾りのごと乙姫の両耳たぶに真珠が光る(浦島太郎物語)

 中世オランタ絵画の世界と日本昔話の世界のミスマッチが面白いと言えば面白いが、でも、浦島太郎物語で百首も詠むのはなかなかの難儀と思われるなあ。
    〔答〕フェルメールの女の弾けるマンドリン乙姫さまの琵琶と同類


(水口涼子)
   二羽の鶴牡丹の花に飾られて祖母の形見の堆朱の箱は

 華やかな色彩あってこその「二羽の鶴」と「牡丹の花」とを「堆朱の箱」に彫ったのは、日本の工芸家の犯したミスマッチかも知れないが、実際はどんな感じだろうか。
 案外、すっきりした出来上がりかも知れないな。
 なにしろ、本格的な堆朱の箱ともなれば、相当な値段だろうからな。
    〔答〕 堆朱箱の朱(あけ)の静寂(しじま)に鎮もりて羽ばたきもせずつがひの鶴は


(湘南坊主)
   飾らないあなたのままのそのままをまっすぐすなおに愛しています

 ニ、三句目の「あなたのままのそのままを」が良く効いている。その後の「まっすぐすなおに愛しています 」に、真っ直ぐ素直に入って行けるからである。
 短歌の鑑賞は、目で見、耳で聴くのがその基礎であるから、「あなたのままのそのままをまっすぐすなおに愛しています」と書いているのを目で見て、それから、それをそのまま口ずさんでみることが必要なのである。目で見て好し、耳で聞いて好し、これが素晴らしい短歌の必須条件だ。
 漢字が「飾」と「愛」だけなのもいいね。この二字をひらがな書きにしたら駄目になる。
 作者の湘南坊主さんは落第坊主ではないな。
    〔答〕 飾らないはだかのままのそのママを僕はときどき愛しています
 こちらは昼下がりの譲二くんの作品だ。


(鹿男)
   飾らないアナタが好きよなんていう言葉で飾られてる純愛

 またまた出ました鹿男さん。馬が無いから馬鹿男じゃない。
 鹿男さんの作品は、見た目は軽くても中身はなかなか辛辣。そこが鹿男さんの作品のいいところだ。彼の頭脳はかなり精巧にできている。
 ホント、ホント。「飾らないアナタが好きよ」「なんていう言葉」の、なんと虚飾に満ちていることか。
 私の尊敬する鹿男さんは、この「飾らないアナタが好きよ」の秘密を見破ったのだ。鹿男さんのこの発見は、コロンブスによる「新大陸発見」に等しい。
 なにー、「そんなこと俺だって知っていたよ」だって。何を言うか!お前のような奴を、コロンブスの卵野郎と言うのだ!
    〔答〕 純愛の中身もこの頃とりどりで、<C>くらいなら「純」と言うべき
                          〔注〕 <C>とは、性愛の段階のうちの最終段階の意。

(天野ねい)
   お洒落では勝ち目ないからお手紙を一生懸命飾ってみます

 メール流行りの昨今、お手紙を書くとは殊勝なことです。天野ねいさんの真心も下心も、きっと先様に間違いなく届くことでしょう。    
    〔答〕 補って余り有るよな君のふみ お家流にて「愛してたも」と
                 〔注〕 <お家流>とは、別名、青蓮院流とも言う書道の流儀の一つで、近世、庶民階層にも普及して寺子屋の手本などにもなった。
                 〔注〕 <愛してたも>の「たも」とは、「たもれ=給へ」の省略形で、近世の女性の書いた手紙には、<お許したも><助けてたも>などと頻出する。


(英田柚有子)
   手折られて飾られるため生きてきた訳じゃなくって手折りたいんだ

 手折られても飾られるとは限らない。「手折ってポイ棄て」が横行する今日、先ず、「手折られて飾られるため生きてきた訳じゃなく」という前提が間違っていないかどうか、再検討をお願いします。
    〔答〕 手折るなら薄・刈萱・女郎花 秋の野花にして下さいな


(音波)
   飾らない女(ひと)が好きとか言っちゃって・・・じゃあ、すっぴんを見せてやるわよ
 
 「すっぴん」とは素顔のこと。そうすると、この女性は格別な露出狂ではなさそうです。
    〔答〕 どうせなら物はついでの例え在り、すっぽんぽんも見せておくれよ

一首を切り裂く(007:ランチ)

 冒頭から荒れまくるようで申し訳ないが、題詠企画の必須文字を<お題>と称する習慣からして気に食わない。
 これは、あの正岡子規にこっぴどくやっつけられた旧派の歌人たちが、自らを権威づけるために使った、俗臭糞々たる言葉なのである。
 それなのに、その歴史的意味も、使われた場面での姑息な役割も知らない現代社会の似非歌人たちが、題詠などという、本来、否定されるべき詠歌スタイルを一六銀行のお蔵から出して来るに当たって、これは便利な言葉とばかりに無批判的に使っているのは、一体どうしたことだろうか。
 これでは、御歌所派歌人の因循姑息に対抗して短歌改革ののろしを上げた正岡子規大先輩が泣くだろう。戦後いち早く、因習からの脱却を志向した近藤芳美先輩の霊魂が浮かばれないだろう。
 どうせそう言いたいのなら、思い切って、もう一段格を上げ、<御題>とでも称したらどうだろうか。
 
 その論はさて置いて、そのお題とやらが、「ランチ」と決まった瞬間から当然予想されていたことであろうが、今回の投稿作品は、昼食の差別用語である<ランチ、ランチ、ランチ>、ランチのラッシュ。それに加えて、その同族の<お子様ランチ・ブランチ・ランチボックス・ランチョンマット>などもかなり目だった。
 これは、好みの問題でもあるだろうが、お題としてでも、食べ物としてでも、目の前に<ランチ>を突きつけられたら、「私はそのランチではなく、別のランチを食べてみたい」という気になるのが人情の常というものではないだろうか。
 それに第一、いくら三ツ星レストランのランチであったとしても、そう立て続けに食わせられたら、仕舞いには糞詰まりになったり、腹下りを起こしたりしてしまうだろう。
 そこで、今回は、昼食の差別語である<ランチ>と、その同族どもを題材にした作品については、徹底的に粗探しをしてやろうと思い、そうでない作品については、ほどほどに褒め称えてみようとも思った次第である。
 誤解が無いように言っておくが、仮に粗探しをするにしても、私は、それらの作品を格別に見下しているわけではない。「これが私の短歌だ」と主張して威張れる作品であることは勿論、超辛口派の私にも、何程かの恵をお与え下さった有り難い作品なのである。
 また、私がほどほどに褒め称える作品も、超一級の作品とまでは言えない。「ランチラッシュの激流に巻き込まれずによく身をかわし得たので努力賞を与える」ぐらいのつもりで、称揚するのである。
 それでは、論に入ろう。
 

(村本希理子)
   菜の花のパスタでしたよ本日の日替はりランチは 春はすぐそこ

 作者の村本希理子さん。私が本日の犠牲者第1号にあなたを選んだのは、私があなたに対して格別な恨みを抱いているとか、御作が本日のランチの中でいちばん美味しくなかったとかといった理由に因るものではない。むしろその逆である。
 この作品の粗探しをするのはかなり難しい。だが、敢えて蛮勇を奮って指摘させていただくと、いかにも作者好みの、「菜の花のパスタ」の鮮度と、それに四句目の字余りくらいかな。
 鮮度の問題と言うのは、パスタの添え物の菜の花のそれについてよりも、むしろ、短歌に使用する言葉としての「菜の花」や「パスタ」のそれについてである。
 あなたぐらいの詠み巧者ともなると、なにも他の人にさんざん使われて、すっかり萎れ切ったり、乾き切ったりしてしまった、「菜の花」だとか「パスタ」だとかといった言葉を使わなくても、ランチメニューの一品や二品を仕立てるのは、お茶の子サイサイというところだろう。だから、敢えて申したまでのことである。
 「菜の花のパスタでしたよ本日の日替はりランチは 春はすぐそこ」。
 なかなかいいではないか。食べ終わって、無農薬野菜使用レストランから出て来る先客が、自分と入れ違いに入って行くお客に、優しく説明してあげている、といった感じの口調もまた佳し。
 字余りの問題については深入りしたくない。
    〔答〕 前菜は旬のイチゴとエスカルゴ 珈琲紅茶はお代り自由


(陸王)
   アンティークドォルのごとく澄んだ眼をランチタイムのカフェでみつめて

 「アンティークドォル」「澄んだ眼」「ランチタイム」「カフェ」といった使い古された道具立てと、「アンティークドォルのごとく澄んだ眼 」といったありふれた比喩とが気に食わない。
 これで短歌として十分に通用し、ひょっとしたら朝日歌壇の巻頭ぐらいには行けるかも知れないだけに問題なのだ。
 あなたぐらいのレベルになると、世俗の塵に汚れた言葉ばかりを使って一首を仕立てていてはいけません。
 一語一語がキラキラと輝いていて、その輝く言葉同士がカチンと衝突して、一瞬に大阪の街を焼き尽くすような火花を散らす短歌を作って下さい。(なんちゃって、それは無理カモ)
 あなたがそうだと言うのではないが、カタカナ語を二つか三つ並べればそれらしくなるのは、短歌という文学ジャンルが持っている世俗性以外の何物でもない。誤解の無いように言っておくが、世俗性が必ずしも全面的に否定されるわけではない。
 そうそう、たった今、気が付いたことだが、あなたのハンドルネームは「陸王」。
 その昔、私は、あなたのハンドルネームと同じ名前のオートバイのハンドルを握っていました。排気量は確か1100㏄でした。
 私が「陸王」を噴かして街を飛ばすと、かっくいガールどもが投げキッスを呉れたものでした。今から五十年も前の話ですが。
 インターネット界の陸王さん、あなたはかつての我が国に、あなたと同じ名前の、「陸王」というオートバイが在ったことを知っていますか。
    〔答〕 陸王はバイクの名前 そのかみの鳥羽省三の愛車なりしを


(みずき)
   ふたたびの夏を真向ふランチして少女はおとなの顔になりゆく

 この作品は二句切れである。作者が何と言おうとも、断然二句切れである。
                 (裏の声)「そんなに意気がるな。作者は何も言ってないぞ。」
 井上陽水の若書きに「いつの間にか少女は」という作品がある。それともう一つ、こちらは井上陽水作曲、小椋佳作詞だが、「白い一日」という作品がある。
 <みずき>作品の雰囲気は、これらの歌のそれと酷似しているのだ。
 誤解が無いように言っておくが、私は何も、みずき作品がこれらの歌の模倣作だ、などと言っているのではないぞ。私は、井上陽水の若い時の作品が大好きだから、みずき作品も好きだと言いたいのだ。
 上の句の「ふたたびの夏を真向ふ」がいい。
 「昨年の夏に続いて今年の夏をまた、私はこのレストランで、この少女と間向かうことになった。 私の座席の真向かいの座席に掛けた少女は、この二度目の夏景色の中を、ランチのフォークを可愛い口に運ぶことに懸命である。このような美しい景色に囲まれたレストランの中で、このようにして、ランチ料理などを口に運びながら、この少女は大人の顔になって行くんだなあ」といったところか。
 通釈をしながら気がついたのであるが、前述の井上陽水の歌に感じられた「飢餓感」が、みずき作品には全く感じられない。
 これは、時代の為さしむるところなのか、井上・小椋らと<みずき>の生活感覚の違いの為さしむるところなのかは、私の知り得るところではない。
 こっぴどく貶すつもりで書き始めたのであるが、いつの間にかベタ誉めしてしまった。私という人間は、本当に節操に欠ける。
 再度言っておくが、この作品は二句切れだよ。そこのところがこの作品の生命線なのだ。
 動詞「真向ふ」は四段活用なだけに終止形と連体形の区別がつき難い。
 この作品の場合も、「真向ふ」を連体形と取り、「再び迎えることになった夏に真向って行くためのランチを食べて~」などと奇怪な解釈をして、挙句の果てには、「二句目<夏を真向ふ>の<を>は、<に>でなければならない」などと、指導にならない指導をする宗匠が居たりするから注意。
 田舎の結社の話ではないよ。同人・会員、千人を越える人気結社にだって、そんな選者が居るよ。
    〔答〕 ふたたびの夏を真向ふ少女にて顎のあたりにはつか髭ある


(五十嵐きよみ)
   避暑地には避暑地の作法 朝食を兼ねたランチをベッドの上で

 あなたが朝食と昼食とを兼ねようが、ランチをベッドの上で食べようが、それはあなたにはあなたの作法があるのだから構わないが、私が気に食わないのは、最近のあなたが、自分の土俵を守るばかりで、ただの一歩もその外側に踏み出そうとしないことだ。
 避暑地だとにフランスだとか、いつもバリアフリーされた場所で、いつも手馴れた手法で、平均点を少し上回った程度の歌を詠む。
 利に聡いのは世の常だから、そんなあなたがいつの間にか歌壇のスターに押し上げられてしまう。
 これでは世の中真っ暗闇ではございませんか?
 最近のあなたの歌には、言葉と言葉の衝撃的な衝突も、奇想天外な比喩も、かつてのフーコー短歌賞の受賞者としての矜持を示すものは、何一つ見られないではありませんか。
 そこが、今ひとつ物足りないのです。あなたの作品の熱烈な読者である私には。
    〔答〕 避暑地には避暑地の仁義 朝食の残りのパンは小鳥にあげな
        主催者が<お題>を逃げずに詠むは好し そこのところが取り得か御作


(羽根弥生)
   チューブ入りお子様ランチをポケットにコロニー脱出する夢みてる

 五十嵐きよみさんの昨今の立脚地は、言わば、本作で言う「コロニー」。
 本作の作者の羽根弥生さん、どうかお願いですから、五十嵐きよみさんの手を携えて、一緒にコロニーの脱出を企って下さい。いつまでも「夢みてる」だけでは駄目ですから。
 でも、糧食が「チューブ入りお子様ランチ」だけでは心配。途中で干上がらないように、アクエリアスか何かを、しこたま仕込みなさいよ。でも、「ポケット」には入らないか? 
    〔答〕 コロニーの脱出なんてそりゃ無理だ羽根が無いから弥生翔べない
        でも飛びな。<心頭滅却何事か成らざらん>だよ、信じて翔びな。


(鹿男)
   同僚と1000円もするランチより一人松屋の豚飯がいい

 「1000円もするランチ」とある。他の人の作品に出てくるランチの値段は最低でも千五百円なのに。
 鹿男さんも、なにもここまで自分の貧しさを他人に暴露しなくてもいいじゃないか?今どき、千円では鹿センベイも買えないよ。それに、松屋の豚飯ばかり食べていたらメタボになっちゃうよ。
 でも、このような恥かしい内容の歌を平気で投稿するのも、彼のサービス精神の表れなのだ。誤解が無いように説明しておくが、彼はマゾヒストでは無く、ヒューマニストなのだよ。 
 そうそう、いま気がついたのだが、「題詠2009」の主催者の五十嵐きよみさんに、私が望むのはこれだ。
 五十嵐きよみさんも、いつまでも避暑地などに滞在していないで、鹿男さんの生息している地点まで降りて来たらいいのだ。そして、鹿男さんと一緒に、松屋の豚飯の味に取材した作品を詠んだらいいのだ。
 鹿男さんよ、お願いだから、いちど五十嵐さんを松屋に誘ってあげて下さい。五十嵐さんと一緒の時は、特盛りを止めて並み盛りにしてね。その代わり、お新香とサラダを採ったらいい。
 つい、調子に乗って、君のような善人をからかってご免。私も君と同じで、「千円のランチより松屋の豚飯を食べたい」と言うくちだ。
    〔答〕 松屋なら特盛り豚飯サラダつきそれでも千円かかるはずなし
 

(穴井苑子)
   語らない 日替わりランチにたどりつくまでの激しい葛藤の道

 鹿男さんの同類みたいなのが、ここにも生きている。
 「日替わりランチにたどりつくまでの激しい葛藤の道 」とあるが、他人に「語らない」と言うよりも「語れない」ほど、「葛藤」したのは、どんな理由があってのことだろうか?
 「日替わりランチ」の値段が「1000円も」もしたのか?
 それとも、メタボが気になるのか。穴井苑子さんという肥満体的ネーミングから判断すると、どうやら後者の方かな?
    〔答〕 聴かないよ日替わりランチに決めたのはどうせ予算のせいだろうから


(詩月めぐ)
   講座後の楽しみ友とランチする1500円分の楽しい時間

 気取るな! 講座後だってなんだって、「1500円」の「ランチ」は千五百円のランチじゃないか。
 公会堂の掃除のバイト後に食べる千五百円のランチは、講座後に食べる千五百円のランチより美味しくない、とでも言いたいのか!
 それに、講座後と言ったって、その講座の質が問題だ。
 君が聴講した講座は、どうせ、「韓流ドラマに於ける性場面の研究」とか何とかだろう!
    〔答〕 友とするランチは嬉し それよりももっと嬉しい乱痴気騒ぎ


(新井蜜)
   終末の知らせだろうか鳴り続くランチの時間過ぎたあとにも

 「ランチの時間過ぎたあとにも」お腹が鳴るとしても、何ら問題はない。君はどうせ、財布と相談して「ランチ」を食べなかったのだろうから。
 「終末の知らせだろうか」とは、少し大袈裟だよ。人間は二日や三日食べなくたって死にはしないんだから。
    〔答〕 終末の知らせだなんて大袈裟な地震予知報テスト中なの


(原田 町)
   コーヒーのお代わり自由この店のランチタイムはいつも混んでる

 超不況の今日、「コーヒーのお代わり自由」ぐらいは当たり前田のクラッカー、と来たもんだ。
 私の家の近所には、「コーヒーのお代わり自由+返金千円」という店だってあるんだぜ。
 それより何より気に食わないのは、手馴れた題材で、手馴れた手法で歌を詠もうとするあなたの怠惰な根性だ。歌人としていちばん警戒すべきは自己模倣ってやつだ。
    〔答〕 コーヒーのお代り自由 この店のランチの材料使い回しだ


(都季)
   だってまだ大人になんかなれないしお子様ランチも食べたくなるし

    〔答〕 だってまだ寝小便(おねしょう)なんか漏らすから大人の仲間に入れてあげない


(ひいらぎ)
   寝坊して朝食兼ねたランチへと繰り出す二人の距離感が好き

    〔答〕 寝坊して朝食兼ねたランチへと繰り出すときはあんたが先に


(蓮野 唯)
   黄緑の水玉模様お出迎えランチ彩るテーブルクロス

    〔答〕 黄緑のテーブルクロスに迎えられ蓮野唯さん目玉白黒


(ろくもじ)
   どうでもいいことばっかりだ ブランチはフレンチトーストだっていうのに

    〔答〕 どうでもいいことばっかりは君らの歌 ランチ・ブランチ・ランチョンマット


(笹本奈緒)
   いまランチタイムの国はどこだろう 深夜ラジオはどこも演歌だ

    〔答〕 午前零時 時差十二時のロンドンで女王陛下のランチタイムだ


(さかいたつろう)
   さようならずっとあたしが好きだったお子様ランチの日の丸の旗

    〔答〕 こんにちは 前からわたしが好きだった両切り缶入り煙草のピース


(ぱぴこ)
   向き合ってランチメニューを選んでる わたし夜でもよかったんだよ

    〔答〕 向き合ってディナーメニューを選んだらそれで済むわけないじゃないのよ
        それで済む訳じゃないのは知っていたそれが何なのウブな鳥羽さん


(振戸りく)
   お手軽に得した気分になれるけどランチセットは注文しない

    〔答〕 お手軽はランチセットともう一つ「ランチ」お題の君の作品


(井手蜂子)
   草原にランちゃん(ミニチュアダックス)を放してホットドッグでランチ

    〔答〕 草原に田中好子を埋めて来てランちゃんミキちゃん気持ち好し好し


(ひろうたあいこ)
   寄り添って彼女がいられるその理由(わけ)はランチタイムに間に合ったから

    〔答〕 寄り添って彼と彼女が居るわけは二人三脚レースだからさ


(ほたるノオト)
   ランチよりディナーをしたい関係になれたら薄いタイツに変えて

    〔答〕 直ぐ脱がす気持ち丸見え まる見えはあなたの気持ち わたしのあそこ


(ジテンふみお)
   火曜日のランチのことは火曜日に話せよ今日はエビが小さい

    〔答〕 月曜の今日は昨日の残り物 明日は火曜日・大売り出しだ


(日向弥佳)
   へたくそな料理でいつもごめんねとランチョンマットに愛だけのせた

    〔答〕 愛だけを乗せたランチョンマットなら風が吹いたら飛んでしまうよ


(酒井景二朗)
   丘の上お子樣ランチの旗を立て君を待つその華奢な手足を

    〔答〕 丘の上お子様ランチの旗立てて兎と亀の競走みたい


(本田あや)
   諦めはつかないらしい 闇雲にランチョンマットを集めたりする

    〔答〕 闇雲にランチョンマットを集めても隠れた月は見えはしないさ


(梅田啓子)
   平日のランチにさざめく女たち職退くまでは知らざりしこと

    〔答〕 土曜日のランチに集ひさざめくもやはり君らのご年配だよ


(松木秀)
   日の丸と星条旗立て同盟はがんじがらめのお子様ランチ...

    〔答〕 モンゴルの国旗を立ててみたけれどお子様ランチはさっぱり売れぬ(国技館にて)


(ひわ)
   日替わりのランチメニューを選ぶのとさほど違わぬリアルさである

    〔答〕 日替わりのランチメニューを選ぶのと同じロマンもあるにはあるさ


(ezmi)
   屈託の十二時誰とどこへ行くランチボックス下げて遁走

    〔答〕 十二時が屈託なのはシンデレラ 硝子の靴が足につかない


(ひぐらしひなつ)
   良妻の振りにも飽きて八階の窓から投げるランチボックス

    〔答〕 八階の窓からランチボックスを投げたら君も人生投げる


(天野ねい)
   昼食のことをランチと言いたがる貴女がとても嫌いなのです

    〔答〕 昼飯と言えばいいのにカッコつけランチと言うのは俺も嫌いだ
        正餐は日本人には無い概念 だからディナーは話題にならぬ


(なまじっか…)
   食卓にふたりが居るのはなんのため ランチョンマットは汚されるため

    〔答〕 寝室に君と居るのはなんのため 白いシーツは汚されるため


(秋月あまね)
   (注文は全員ランチでいいんだろ。食ったらさっさと出て行ってくれ)

    〔答〕 支払いはどうせ月末なのだから全員ランチを七杯食おうぜ

 月並み俳句という言葉はしばしば聞くが、月並み短歌という言葉はほとんど聞かない。
 だが、お題「ランチ」をストレートに捉えた投稿作品の大多数は、<月並み短歌>そのものだった。
 「ランチ」を昼食の別称と捉えて歌を詠むこと自体、悪いことではない。だが、そのうえで歌を詠むには、それ相当の覚悟と工夫が必要であろう、と私は思う。
 かく申す私もまた、昼食の蔑称としてのランチを<お題>に据えて一首をものした一人であり、こうした場面で自作を披露する馬鹿は居ないだろうが、「かく言うお前の歌はどんな歌」という質問があると困るから、恥かし乍ら一首ご披露に及ぼう。

    <ギャル曽根やランチ食うとき口開ける>空いた口から蝿が飛び込む    鳥羽省三 

 お題「ランチ」をストレートに捉えて作った上掲の拙作には、<月並み短歌>から脱却するための私なりの趣向が凝らされている。
 馬鹿は馬鹿なりに、少しは頭を使ったというわけである。
 初句「ギャル曽根や」の<ギャル曽根>とは、人も知るテレビ世界の大食いタレント。その見るも卑しき大食いタレントと風情を旨とした短歌世界とは、どのように考えてもそぐわない。そのそぐわなさを知った上で、彼女を短歌世界に取り込んだのが私の工夫の一つである。
 それともう一つ。拙作の上の句は、「<ギャル曽根やランチ食うとき口開ける>」と、カッコ・< >で括られているが、この部分は実は、今は亡き俳人・西東三鬼の人口に膾炙した名句、「広島や卵食ふとき口ひらく」の捩り句なのである。
 つまり、私は、一首の中に俳句を取り入れることによって、我が国伝統の二つの短詩形文学の合体を図ると同時に、従来の短歌観からは、その登場を絶対に許容されるはずの無い人物を登場させることによって、短歌世界の閉鎖性とその人物の棲息するテレビ世界の世俗性とを同時に風刺しようとしたのである。
 私のそうした企みがどの程度現実化し、この作品がどの程度評価されるかについては、私の知るところではない。
 ともかく、やるだけはやった。

 ところで、今回の投稿作の中には、お題「ランチ」を昼食の別名と解さないで、或いは、そのように解しはしたものの、故意にその解釈から身をかわして一首をものした作品が僅かながら在った。
 次に、それらの作品の中から、比較的に出来が良いと思われるものを選び、その鑑賞をさせていただこう。


(音波)
   サマランチ会長ほどの永遠を誓って君を吾が物にする

 すっぽかし組第1号は才人・音波さん。
 国際オリンピック委員会会長<フアン・アントニオ・サラマンチ>氏の巨大なお腹の中に、我らがランチ氏が生息しているとは、私も気付かなかった。
 音波さんの功績は大なり。以て金メダルを贈呈す。
 三句目と四句目とに跨って、「永遠を誓って」とあるが、その「永遠」がオリンピックの永遠の継続を表わすのか、サラマンチ氏自身の会長の椅子への永遠の在籍を表わすのか判らないのが、この作品の面白さ。
 それはそれとして、揚げ足取りを一つ。
 五句目「吾が物にする」の「物」に注目。作品の話者(=音波さん?)は、「サマランチ会長ほどの永遠を誓って」などと上手いことを仰りながら、その実は、彼女のことを「物」扱いしているのである。
 これは重大。とんでもない人権侵害。この作品の話者(=音波さん!)こそ全女性の敵だ。人間を物扱いにするなんて。依って、金メダルは没収。


(キャサリン)
   杉村春子のブランチの台詞「・・・どなたかのお世話になって・・・」演じたかった

 キャサリンさんの一首が、一首たり得ているかどうかは別レベルでの話として、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』の主役<ブランチ・デュボア>の中に、<ランチ>を発見したのは、これまた殊勲甲。
 杉村春子さんの舞台は、森本薫作『女の一生』しか観ていないから、杉村春子演じる<布引けい>の姿は印象に残っているが、残念ながら<ブランチ・デュボア>の姿は知らない。ましてや、作中の引用部分「・・・どなたかのお世話になって・・・」の知識など皆無である。
 五句目に相当する語句、「演じたかった」は、作品の話者に託した、作者<キャサリン>さんの切なる思いであろう。.
 ところで話は突然変わるが、昭和22年9月15日に、我が国の関東地方や東北地方に、キャサリン台風という名の超大型台風が襲来して、甚大な被害をもたらしたことをキャサリンさんはご存じでしょうか。
 その頃は失礼なことに、毎年何回と無く襲来する台風に女性の名前をつけるのが習慣であった。歌人・キャサリンさんにとっては、本当に失礼で迷惑な話ですね。
 でも、メリーとか、ベスとか、アンとか、数多い女性名の中から、わざわざキャサリンを選んで、その怖い台風の名前にしたのは、きっと当時の人々の間に、キャサリンと言えば「怖い」というイメージがあったからかも知れませんね。
 あっ、怒らないで、歌人のキャサリンさん。怒らないでね。もう、こんな話やめるから。


(詠時)    
   発射ボタン押せど虚しき吾が裡のミサイルランチャー錆びて久しき

 芥川賞受賞作家・南木佳士の作品に、『ダイヤモンド・ダスト』という私の大好きな小説が在って、その中に、その小説の主人公が看護士として勤めている総合病院に、末期癌患者として入院しているアメリカ人の牧師さんが登場する。
 主人公の看護士は、この牧師さんの担当者として、一日に何回となく彼の病室に通い、時には話し相手にもなっているのだが、そうした場面の一つに、その牧師さんが既に性的不能者になってしまっている自分について、自分の身体の小型ミサイルは発射ボタンを押しても発射しない、と言っている場面がある。
 本作の作者<詠時>さんは、小説『ダイヤモンド・ダスト』を既にお読みになっているのでしょうか。未だ読んでおられなかったら、是非、ご一読をお薦めします。  


(虫武一俊)
   タランチュラの腕のごとく「おしごと」のことを問いくる伯母叔母従兄

 「タランチュラの腕」とは、毒蜘蛛・タランチュラ自体の腕のことだろうか? もし、そうならば、その腕(脚)は8本。太くて毒々しくて気持ち悪いこと、この上無し。
 その毒蜘蛛・タランチュラが独特の8本の腕を絡ませて人間に迫り来るように、作中の<わたし>の「おしごと」について、<わたし>の伯母と叔母と従兄は、<わたし>は訊問してくる、というわけ。
 「伯母叔母従兄 」が、<わたし>の「おしごと」について「問いくる」様子を、「タランチュラの腕のごとく」とした隠喩が的確。
 「おしごと」という言い方もまた、何か意味ありげである。
 「一俊さん、おしごとの方はいかが相成っておられるのですか。お母様はあの世で、あなたのおしごとのことを、いつも心配なさっておられるのですよ」というわけか。
 ああ、これではまるで毒蜘蛛だ。タランチュラ恐い。


(みつき)
   もし君に毒がなければ タランチュラ 躊躇いもせず抱き締めるのに 

 こちらはまた、ぐっと魅惑的なタランチュラ。
 『舞踏蜘蛛の王女(タランチュラ・プリンセス)』関連の一首であろうか?


(太田ハマル)
   ランチュウの沈む水槽遺伝子の綺麗な歪みはゆるくうごめく

 「ランチュウ」は、金魚の一種。その「ランチュウ」の体内にさえ「ランチ」は棲む。彼ら「ランチ」族は、その遺伝子によって、さまざまなものの体内に棲息することを運命づけられているのか?


(西中眞二郎)
   制服の乗組員に日の差してランチ埠頭を離れて行けり

 本作の「ランチ」とは、「港湾で本船と陸上との連絡などに使う、小さな蒸気船」と、『新明解・国語辞典(第五版)』に説明あり。
 さすれば、船舶なる「ランチ」にも「ランチ」が棲むのか。ランチ族の遺伝子のほんに恐ろしや。

今週の『朝日歌壇』から

 これらの秀歌はいずれも「作中の<わたし>=作者」という等式の中で作られたものと確信する。
 そこで私は、「作中の<わたし>」及び「話者」を、「作者」と呼んで稿を進めることにした。


○ 賜りし無職の日々を妻とわが夕餉にあまる鹿尾菜藻を刈る          (宗像市)巻  桔梗
 
 ものは考えようである。作者は、「無職の日々」を「賜りし無職の日々」と言っているのだ。
 そうした日々の中のある一日、作者は自分たちの貧しい夕餉のおかずにしようと思って、妻と一緒に鹿尾菜藻刈りにでかけた。ところがその日は、妻と自分の夕餉のおかずにしてもなお食べ余る程の大収穫があった。
 作者が「無職の日々」を「賜りし」と言っているのは、その日、彼らが、鹿尾菜藻を沢山刈ることができたからでもあろうが、それともう一つ、彼自身が、無職という境遇であれ、鹿尾菜藻の収穫であれ、現在、自分が当面している状態や事柄を神から賜ったものとして受け入れるような性格の持ち主だからであろう。


○ 寒風に水子地蔵の風車回る回らぬあるこそあわれ              (高崎市)石井 省三

 「回る回らぬ」が効き目。
 どなたの仕業か、「水子地蔵」には、よく「風車」が回っている。 


○ きさらぎの光を浴びて桃の木はももでありたきいっしんとなる         (福島市)美原 凍子

 「ももでありたきいっしんとなる」という下の句が、この作品を優れた一首にしているのだが、その意味は今ひとつ文明でない。
 「美味しい実をつけようと一心になっている」という意味なのか、それとも、「地中深く根を張り、天高く枝葉を茂らせようと一心になっている」という意味なのか、分からない。
 でも、その分からなさが、この一首の魅力なのかも知れない。
 「きさらぎの光を浴びて」と「いっしんとなる」の照応も見事。


○ 夢無くて浅間の噴火待ち望むそんな青春だったなわれも           (高崎市)門倉まさる

 その日、作者は、荒れている若者達について報道したテレビ番組を見たのかも知れない。
 「浅間の噴火待ち望む」が身につまされるが、この作品の作者に限らず、青春時代には、そういうことがありがちだ。


○ ここちよき定位置なのか川なかの岩にいつもの鵜があさひ浴ぶ       (浜松市)松井  恵

 鵜は鵜たらんと一心である。 


○ 着ぶくれて切符の在り処また探す集札口に妻を待たせて           (神戸市)内藤 三男

 「着ぶくれて」が佳い。私も、最近、こういうことがめっきり多くなった。


○ あと一つ足らぬ気がして見つめおり弁当箱のわずかなすき間         (盛岡市)白浜 綾子

       あとひとつ足らぬおかずは佃煮か弁当箱のわずかなすき間     省三 


○ 多摩川を越えれば東京東京に細く光りて東京の月             (小田原市)南雲長太郎

       荒川を越えれば東京東京に鈍く輝き東京の星             省三

一首を切り裂く(001~004の補追)

001:笑(村本希理子)
   開き癖少しつきたる歳時記の笑まふがごときふらここを漕ぐ

 開き癖を少しつけてしまって、開いたままの状態で机の上に置いている歳時記が、右に傾いたり左に傾いたりして、ゆらゆら揺れている。その有様は人が笑いながらブランコを漕いでいるようにも見える、というわけ。
 「笑まふがごときふらここを漕ぐ」という下の句が佳い。
 俳句に短歌にと才女・村本希理子さんもなかなか忙しい。
 私の個人的な興味としては、歳時記のどの項目に「開き癖」をつけてしまったのか知りたいところだ。歳時記と一口に言っても、昨今は文庫本からカラー写真入りの大型豪華本までいろいろ在るから。


002:一日(太田ハマル)
   もうきみが見えなくなった改札できびす返して終わる一日

    〔答〕 ホームに居る君の姿が見える限り私の今日はまだ終わらない


002:一日(村本希理子)
   静岡に雨の一日を遊びをり見えない富士にまもられながら

 わざわざ静岡まで足を延ばしたのは、本当は富士山を観に行ったのではなかったでしょうか。
 もしそうならば、その目的も果たせなかったのに、「見えない富士にまもられながら」と言うのも可笑しい。だが、その可笑しさがこの作品の面白いところである。
 それとは別に、自分の乗った新幹線の電車が静岡県内を通過している間、私はずうっとあの富士山に見守られていると感じ、安らぎを覚えながら座席に居ることがあります。照っていても降っていても。
 村本短歌の安定した手の内を見せて貰いました。


003:助 (はしぼそがらす)
   はにかみもぎこちのなさも新鮮な実習生の介助で入浴

 もしかしたら、「作中の<わたし>=作者」なのでしょうか? 
 もし、そうだとしたら、先日の鑑賞記事の中で、私は大変失礼なことを申し上げてしまいました。深くお詫び申し上げます。
 でも、このようなしかっりした作品をお作りになられるのですから、まだまだご壮健です。
    〔答〕 はにかみやぎこちのなさもさりながら介助実習生の熱きまなざし


004:ひだまり(村本希理子)
   ひだまりに膨らむこゑに包まれてわが背這ひ出すわたくしがゐる

    〔答〕 ひだまりに膨らむこゑに耳塞ぎ我(が)にしがみつくわたくしもゐる 

一首を切り裂く(006:水玉)

(船坂圭之介)
   触れ得ざるもののひとつよ遥か日の美しき水玉模様のドレス

 「作中の<わたし>=作者」として鑑賞させていただく。
 作者・船坂さんは未だ病気療養中と聞く。
 さすれば、この世に「触れ得ざるもの」は数限りなく在るに違いない。そうしたものの「ひとつ」としてある、「遥か日の美しき水玉模様のドレス」とは、かつての恋人の美しき姿か。
 万感の思いの丈を述べた一首である。
    〔答〕 「触れ得ざるもののひとつ」と君は言う 「水玉模様」はバツイチが着る 


(西中眞二郎)
   日を受けて水玉模様のスカートのゆらぐ姿をふと見ておりぬ

 とある瞬間の自分の行為を見つめる自分。見つめる自分は見つめられる自分に愛しさを感じたのであり、「不覚者」と感じたのではあるまい。
    〔答〕 見る我を見つめる我が別に居て何がなんだか解らぬ自分


(詩月めぐ)
   水玉のネクタイ君にプレゼント 束縛したい想いを込めて

 昨今、ネクタイ一本くらいで束縛される男は居ない。まして君の買えるネクタイはせいぜい一万円止まりだろう。(なんちゃって、怒らないでね、めぐさん)
    〔答〕 鼈甲のかんざし君にプレゼント 刺したき思ひ密かに込めて


(月下燕)
   約束をした日からもう高鳴りは始まっている水玉のシャツ

 水玉のシャツを着てデイトに出掛けるのは、君か彼女か? それとも二人ともか?
    〔答〕 約束をした時からの高鳴りがデートの日には止まってしまった


(純情短歌)
   カルピスの水玉のようなワンピース白黒写真の若き日の母

 ウソ偽りの無い話をします。
 妻と結婚したての頃、私は、あるデパートの開店記念の売り出しで、カルピスの水玉模様のような柄の女性用のスーツを当てた。
 そのスーツを着て勤めに出掛けた妻は、帰宅途中に、そのボタンを一つ落として来て、しきりにすまながっていた。
 その翌日、妻と同じ道を通って通勤している私は、その途中、妻が落としたものと似ているボタンを拾ったので、妻が帰宅してから、そのボタンとスーツに付いているボタンを見比べてみたら、なんと驚いたことに、私の拾ったボタンは妻の落としたボタンそのものだったのだ。
 その嬉しかったこと。
 今から四十年以上前の、神奈川県の田舎での出来事だ。
    〔答〕 カルピスの水玉模様のツーピース そのボタン一つ失せにしあの日
        登記所の青焼き図面の色をして 長押に掛けた祖父母の写真


(イマイ)
   水玉のハンドタオルで汗をふき夕暮れ前に頼むバリハイ

 ハンドタオルなら、お題の「水玉」を無理なく使える。
 バリ島の夕陽は綺麗だったなあ。あの夕陽を見ながら飲んだ、バリハイビールの味は今でも忘れられないよ。
 でも、イマイさんがバリハイを飲んだのは、バリ島ではなく、自宅のリビングでのことだろう。どうでもいいことだけど。
    〔答〕 バリハイを夕暮れ前に頼むなら空き壜処理は夜明けにやりな
        バリハイをバリで飲んだと見栄を張りイマイいまいち小遣い足りぬ

(五十嵐きよみ)
   十代の少女とおなじ水玉のリボンと気づきそっとほどいた

    〔答〕 五十嵐さん、あなたお年はなんぼやねん。 水玉リボンはいくらなんでも?


(秋月あまね)
   いっしんに恐竜を描く幼子よ水玉模様も悪くはないね

    〔答〕 首長き恐竜描く児のために画用紙いちまい継ぎ足してやる 


(鹿男)
   水玉が可愛いねって言われてた少女時代は弾けて乾く

    〔答〕 シャボン玉みたいに弾ける少女期に水玉模様のなにを着てたの?
        鹿男くん、あんたホントは女かい。少女時代を語ったりして


(木村比呂)
   水玉が柔らかなまま落ちてゆくきみの目玉に飛行機を飼う

    〔答〕 きみの目は魔法使いの鏡かな 水玉・飛行機次々映す
        飛行機を目玉の中で飼えるなら 自転車ぐらいは毛穴で飼える


(梅田啓子)
   街中が動物園になったやう水玉模様のスカートあふれ

    〔答〕 街中に水玉模様が溢れたら ホント騒がしズーランドみたい 
        街中が恐竜時代になったよう サバイバル柄のつなぎが溢れ


(さかいたつろう)
   あまりにも星が遠くにあるせいで水玉模様の夜空にならない

    〔答〕 あまりにも星が近くにあったならゴツンゴツンと頭に当たる
        あまりにも星が近くにあったなら頭に当たって目から星が出る


(西野明日香)
   全身が水玉模様になるときの顔して君は私を見てる

    〔答〕 全身が水玉模様になる時の顔ってどんな顔なのかしら
        全身が水玉模様になる時は帯状疱疹全身衰弱


(Makoto.M)
   部屋ぬちに水玉模様なきことを覚ゆるまでに梅は挿されて

    〔答〕 男所帯の床にその梅挿されてたこの家(や)に女居ぬと知るまで
        永き日を男所帯の床の間に挿されて梅は梅干となり 


(天野ねい)
   近頃じゃ水玉模様とは言わずドット柄って言うみたいでさ

    〔答〕 ドット柄と言うはいかにも風情なし せめて茶殻と言ったらどうだ
        茶殻など言うもやっぱり風情無し それならどうだおからと言いな


(酒井景二朗)
   安つぽいメンコに刷られた水玉の版ずれにさへ未來があつた

    〔答〕 版ずれのメンコに夢を抱いてた 昭和懐かしあの横丁の
        版ずれのメンコあるなら売ってくれ骨董価格で買って上げるよ  


(きりひと)
   良く見ると水玉模様の現実はどこにもなくて 雨にうたれる

    〔答〕 現実に模様描くは君の役 雨にうたれて居る暇ないぞ
        <きりひと>が神様ならば現実を水玉模様に変えてくれるぞ

一首を切り裂く(005:調)

(月下燕)
   すべり落つ調律師の指ひややかにピアニッシモを響かせてゆく
 
 複合動詞「すべり落つ」は終止形だから、この歌は初句切れということになる。作者の月下燕さんはそのことを十分に承知しておられるのであろうから、ひと先ずは無用な詮索をせずに、このまま鑑賞させていただくこととする。
 題材となったのは、演奏会を前にしたピアノ調律の場面。
 今しも「調律師」は、その作業を終えたピアノの鍵盤に向かって、「指ひややかにピアニッシモを響かせてゆく」。
 調律師が冷ややかな指を真っ白な鍵盤の上に滑らせ、その最後の一音の最弱音中の最弱音を弾き終え、鍵盤から指を下げ下ろした瞬間、それを見ていた作中の<わたし>は、調理師の一瞬の指の動きを、まさに「すべり落つ」と感じたのである。
 調律師の瞬間的動作と、それを見ていた私の瞬間的感動とが、「すべり落つ」という初句に見事に表現されている。 
 最弱音である「ピアニッシモを響かせてゆく」のに相応しいのは、確かに「ひややか」な「指」ではあろう。だが、「指ひややかに」という三句目の語句からは、それだけではなく、調律師としての腕前とまんざらでもない演奏技術とを確信して陶酔境に耽っている、調律師の冷ややかな表情までもが窺われる。
  ところで、私はこの作品を初句切れと信じ、信じるがままに注釈を加えて来たが、先ほどから、私がパソコンのキーを叩いている脇に立って、次第に書き上がって行く本稿と月下燕さんの作品とを見比べていた私の妻が、「この作品の初句は、<すべり落つる>とあるべきところを作者のうっかりミスで、<すべり落つ>としたために、真面目人間のあなた(鳥羽省三のこと)は、初句切れの作品として勝手に解釈し、おまけに最大級の評価まで与えているが、それは本当は間違いかも知れないよ」などと、作者に対しても私に対しても、これ以上ないような無礼な言辞を吐いた。
 もしも、作者の月下燕さんが、私の妻のこの言葉を直接耳にしたら、月下燕さんは血相を変えて怒り出し、たちまちその場に血の雨を降らせたことでしょう。しかし、今の私としては、そのような事態が生じては困るし、かと言って、妻の発言を取り消させる程の元気もない。
 何故なら、私の妻は、年齢が私より一回りも少なく、界隈で評判の美人で、そのうえ聡明で、おまけに無類の働き者ときているから、この妻に、「私と月下燕さんと、一体どちらを取るの」などと迫られたら、しがない年金暮らしの私としては、妻を取るしかない。
 そこで、私から月下燕さんに一つお願いがあるのだが、もしも、妻の推測が当たっていたとしても、「そんなことはないよ。鳥羽さんの解釈は、私のこの作品の核心をついた名解釈だよ」といった感じで、つんと澄ましていて欲しい。それが我が家の惨劇を未然に防ぐべく、唯一無二の方法だからである。宜しくお願いします。


(じゅじゅ。)
   夜想曲 第2番 変ホ長調 白く弾ける きみの指先

 ショパンと来たか。
 「夜想曲・第2番・変ホ長調」と言えば、例のあの曲。ショパンの夜想曲の中で、いちばんポピュラーなあの曲だよ。
 「白く弾ける」がいい。
 ピアノの鍵盤の色や曲想だけではなく、演奏者である「きみ」の表情、それに加えて、その演奏を聴いている<わたし>の<きみ>に対する感情までもが彷彿とされる。


(本田あや)
   ト長調の健やかさには未だ慣れず 3Dフォトも斜めからみる

 WiKipediaの解説するところに拠ると、フランス盛期バロック音楽の代表的作曲家であるマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643~1704)は、ト長調の曲は「甘い喜ばしさを表わす」と言ったそうだ。
 ト長調の曲と言えば、クラシック音楽では、バッハのブランデンブルク協奏曲の第3番と4番、モーツァルトのセレナーデ第13番、ブラームスのヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲・第2番など。
 ポピュラー音楽では、チューリップの「サボテンの花」、松田聖子の「赤いスィートピー」など。
 確かに、甘い曲ばかりである。
 作中の<わたし>は、そのト長調の曲を「健やかさ」と評し、「未だ慣れず」と言っているが、そのことから、彼女の境遇をある程度推測することが可能だ。
 即ち、彼女は既婚のОLで子どもは未だ居ない。亭主は未だに実家離れをしていないマザコン男。
 その亭主だが、彼は週末ともなれば、未亡人で世話好きの母と実兄夫婦と二人の姪がいる実家に入り浸りであるが、たまに実家に行かなかったりすると、ト長調の甘い音楽ばっかり聴いている。
 わずか二部屋しかないマンション住まいであるから、亭主の聴いている、その甘くて健やかなト長調の曲は、否応なしに彼女の耳にも入って来る。だが、不幸なことに、彼女はその「ト長調の健やかさには未だ慣れず 」と言うよりも、ト長調の曲のその健やかさが嫌いなのである。
 彼女ら夫婦の住むマンションのリビングルームには、これの他にもう一つ、彼女の嫌いなものが在る。
 それは亭主が実家からうやうやしく頂いて来た、「3Dフォト」フレーム入りの姪たちのお写真。
 未だに子どもが居ないし、産む気も無い彼女にとって、この写真は煩わしい以外の何物でもない。だから、それを見る時、彼女は「斜めからみる」、と言うよりも、彼女はその「3Dフォト」をほとんど見ない。
 この夫婦、早晩破局を迎えるな、との推測は評者の短慮。
 広い世の中を見渡せば、このような光景は、あそこにもここにもやたらに眼につく。この程度で離婚していたら、世の中に夫婦など、トランプの王様夫妻以外に存在しないことになる。
 だから、もしもこの作品中の<わたし>があなたご自身であったとしても、<本田あや>さんよ、決して軽挙に走らないで下さい(とか何とか言っちゃって)。
 それはどうでも、この一首は、お題の「調」を、音楽の「短調・長調」など、音楽関係の語として詠んだ作品中の最高傑作であろう。


(五十嵐きよみ)
   かしましく調弦されるヴァイオリン賑わうカフェの談笑のごと

 前述の本田あやさん作と比較すれば、この作品などは平凡過ぎて論じるに足りないが、作者・五十嵐まよみさんの、いつもの手馴れた技には見るべきものがある。
 「キイーッ、キイーッ」とやたらに「かしましく調弦されるヴァイオリン」の音は「賑わうカフェの談笑のごと」か?
 この分では、五十嵐きよみさんもそれほどハイクラスな「カフェ」には、行っていないように思われますが、どうでしょうか?


(酒井景二朗)
   調度類が少ない割に狹い部屋 本、ゴミ、そして俺自身が邪魔 
 
 高尚な音楽シリーズが終わった瞬間、それとは似ても似つかぬ、この汚い部屋。
 下の句に「本、ゴミ、そして俺自身が邪魔」とあるが、これは危ない。
 「作者の酒井景二朗さん、決して早まってはいけない。君だって、生きてさえいれば、あの『安儀素日記』や『見沼田圃の畔から』の貴重な読者の役目ぐらいは果たせるし、それに、自己犠牲精神に富んだ、『題詠2009』への君の投稿作品は、読者の間でまんざら評判が悪くはないよ」、と筆者。
 「見沼田圃の畔から」の部分は、完全にお手盛りだ。


(ウクレレ)
   過ちは二度としないと泣きだした取調室の他人丼

 酒井さんの「汚い部屋」に続いて、今度は警察署の取り調べ室。
 「他人丼」が泣かせるが、取調べに当たっている刑事は、あの藤田まこと演じるあの人情刑事か。


(はしぼそがらす)
   犯罪の調書を取られるかのようにカルテが黒く埋まっていく

 刑事の書く犯罪調書も医者の書くカルテも似たようなものである。どうせ悪いところについて書くのだから。
 おまけに近頃のカルテは、医者の質が下がったせいなのか、ドイツ語で書かれてさえいない。
 先日私が行った「××総合病院」の医師は、患者の私の目の前で「末期症状」の四文字を書き記した。勿論、目の前にいる患者の私のカルテにだ。三菱マークの黒いボールペンでだ。
 この作品の作者のハンドルネーム「はしぼそがらす」も、なんだか薄気味悪いな。その独特な細い嘴で、屍骸を啄ばむみたいで。


(村木美月)
   調和してたまるかって言うように街のポストは今日も酔ってる

 「酔ってる」のは、作品中の<わたし>です。「今日も酔ってる」とあるからには、昨日も酔ってた。そして一昨日も、一昨昨日も。もしかしたら作中の<わたし>はアル中ではないだろうか?
 「作中の<わたし>=作者」でないといいな。近頃は女性のアル中患者が多いから、私は作者の村木美月さんのことが心配だ。


(空色ぴりか)
   調布から京王線に飛び乗ってそれから俺はそれから俺は

 この作品中の「俺」もまた酔漢? 
 「調布から京王線に飛び乗って」「それから俺は」「それから俺は」地獄行きだよ。
 いや、間違いでした。列車は間もなく新宿駅に到着します。歌舞伎町は目と鼻の先です。


(髭彦)
        <調布なる地名の起源に寄せて>
   調として多摩の流れにさらされし布納めゐしか古人(いにしへびと)は

 同じ調布でも、こちらはぐぐっと高尚に、調布という地名から、その地名成立の由来となったいにしえを思い出す。
 万葉の昔、多摩川の近辺は麻布の産地として知られていた。現在、この近辺に残っている、砧や麻布などの地名はその名残である。
 「多摩川にさらす手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」という歌は、万葉集に収録されている東歌である。
 この歌は、当時、多摩川近辺に住んでいた人々が、租庸調の「調」として時の政府に納めるために、「麻を刈り取って水に漬けて皮を剥ぐ。剥いだ皮を細く裂いて糸を紡ぐ。その糸で手作りの麻布を織る。織り上がった麻布を漂白するために多摩川の清流につけて洗う。洗い終えた麻布を河川敷にさらさらになるまで晒す」といった、麻布の生産を巡る一連の作業に勤しんでいたが、それに取材して詠んだものがこの東歌なのである。
 だが、この歌葉は本質的には、「そのようにして織り上げた手作りの麻布を多摩川の水で洗って、さらさらになるまで川原で晒す、そのさらさらと言う言葉のように、更に更に、この女の子のことが、こんなにも愛しいのは、どうしたことだろうか」といった意味の相聞歌である。
 髭彦さんの作品は、調布という地名に接したことがきっかけとなって、この東歌を思い出し、その歌を念頭に置いて作ったもので、「調布付近を流れる多摩川の水に晒された麻布を、租庸調の<調>として納めていたのか、この土地の昔の人たちは」といった内容である。
 申してみれば、たったそれだけの内容の作品であるが、この作品の中に込めた、作者・髭彦さんの思いは奥深くて果てし無い。
 おそらく、ご自宅近辺と思われる、「調布」という土地の名の由来に思いを馳せ、その土地の名が、古代の税制「租庸調」の「調」とその土地の特産物「麻布」の「布」との関わりから来ていることに思いを馳せ、そこから更に、その麻布晒しの辛い作業にまつわる万葉の歌と、歌の中に描かれた一組の男女の恋物語に思いを馳せるのである。
 「たかが短歌、されど短歌」とはよく言ったもの。たった三十一音に過ぎない一首の歌に込められたものは、こんなにも豊富で、こんなにも奥深いものなのだ。
 私は、お題「001:笑」の頃から髭彦さんの作品に注目していたのであるが、髭彦さんの投稿作品の一部に、詞書を付したものがあるので、それが題詠企画の投稿規程違反になるものと誤解して、それらの作品を選定したり、それらの作品に寸評を加えたりすることを控えていた。
 然るに、この度、髭彦さんからの丁重なるメールに拠って、そのことが私の全く誤解であることを知った。今となっては私は髭彦さんに伏して謝罪するしかなく、穴があったら入りたい心境である。
 髭彦さん、何卒、平に平にご容赦の程を。

 
(井手蜂子)
   鴨肉を塩と胡椒で調えて唱える呪文火口湖へ翔べ!

 今ひとつ意味が解らなくもないが、その解らなさに魅せられて採った。
 「痛いトコ、痛いトコ、火口湖へ翔んで行け!」というわけだろう。


(西野明日香)
   ささくれに触れないようにして送る「です」「ます」調の最終メールは

 「痛いトコ」に続いて今度は「ささくれ」か。ささくれ立っている奴が多いからな。メール族には。
 従って、最終メールの文体も「です・ます」調だ。
 「わたくしはこのたびあなたを好きでなくなりましたのでお別れしたいと思います。マジです。このメールを最後にお別れです」とか。
    お別れの今日か明日かと思ひしにまさか今日とはマジに想はぬ      省三
 「今日か明日か」の「明日か」のところが、あなたのお名前の「明日香」と掛詞になっているのですよ。西野明日香さん。


(香-キョウ-)
   「優しさと ほんの少しの厳しさを 上手く調節」 恋愛講座

 カッコ内は、恋愛講座の内容の概略。「ほんの少しの厳しさ」が効く。恋愛の場面でも、本作の表現の場面でも。また、歌評の場面でも。


(佐藤紀子)
   あまりにも調子よすぎるお礼だと思はないのか「疑え、太郎!」(浦島太郎物語)

    あまりにも調子良すぎる詠みっぷり まさかこれきりじゃないよな紀子     省三    


(振戸りく)
   抹茶ソイラテより調整豆乳の抹茶風味の方が好みだ
 
 エコブーム、健康ブームの今日では、スタバで飲む「抹茶ソイラテ」なんかより、コンビニで買う「調整豆乳の抹茶風味の方が好みだ」と言う人の方が多いのが現実。
 その現実を、上手く三十一音に仕立て上げたものだ。


(月下 桜)
   桐の枝すべて天に向かいたり宇宙の調べ受信するべく

 写生と空想から成る傑作。
 未だ新芽の芽生えない頃の「桐の枝」は、「すべて天に向か」って尖がっている、まるで「宇宙の調べ」を「受信するべく」。


(ジテンふみお)
   パソコンが上気している 春に咲く花の名前を調べるうちに

 過熱したのかな? あまり<わたし>が、インターネットの「草花<ジテン>」を見るのに熱中しているから。
 春を待つ、この頃の「上気している」気分と、「春に咲く花」の取り合わせが良い。
 「パソコンが上気している」とは、なかなか言えないものですよ。私の経験から言っても。
 さすが「ジテン」だ。総選挙に立候補しても、次点くらいまでは行くカモ。


(水風抱月)
   見上げては零す吐息の糸を寄せ弓張る月の調弦の妙

 夜空に弓を張るようにして照り映えている弓張月を楽器のハープか何かに見立てて、それを「調弦の妙」として称えているのだが、この作品の良さは、言葉の運びの「妙」に有る。
 空を「見上げては零す」<わたし>の「吐息」が、もしも流れ星のように糸を引いているとしたら、その「糸を」引き「寄せ」て、夜空に「弓」を「張る」ように照り映えている弓張月の、その「調弦」技術の何と「妙」なることよ、というわけだ。
 糸巻きから次々に繰り出される糸のように作者の唇から次々に漏れて来る言葉の糸。その糸を紡ぎながら読んで行くと、作者の表現意図が解るような仕掛けになっている。
 少し舌足らずとも思われるが、これだけの意味内容を、わずか三十一音で言い尽くしたのは見事。
 これだけの作品になると、今ひとつ意味が解らないままに、その表現の美しさに魅せられて、解ったような解らないような解釈をして、「素晴らしい作品でした」などと作者に媚を売る輩も出て来るだろう。
 作者の水風抱月さんにご質問致しますが、あなたのこの作品に対する上記の私の解釈は、ほぼ作者ご自身の表現意図を汲み尽くしたものと、私は自負していますが、他に付け加えるべきものがあるとしたら、それはなんでしょうか? どうぞご教示下さい。
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鳥羽省三

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