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一首を切り裂く(004:ひだまり)

 冒頭に告白を一つして置く。
 これから取り上げる作品は全て、「題詠2009」のお題「004:ひだまり」に投稿された作品の中から、佳作・傑作として、私が選り抜いて来たものである。
 だが、いざ鑑賞の段になってみると、私はそれらの作品の幾首かに僅かながら不満を覚えて来た。
 何故ならば、それらは数ある投稿作品の中に在って、間違いなく佳作・傑作と言うべき位置を占めながらも、微細な観察眼を向けて鑑賞してみると、そこに今ひとつ推敲の詰めを欠いていると思われる欠点が認められるからである。
 そこで、今回は少し趣向を変え、先ずそうした作品に対して私が覚える些細な不満点を述べ、併せて、この作品は此処を此のように改めたら良くなるだろうなどとの、不遜な提案をもしてみようと思う。
 誤解が無いように重ねて言うが、これらの作品は、数多い投稿作品の中の傑作として私が選抜したものである。従って、これから述べる私の不満も、言わば、それらの作品に私が捧げるオマージュに似たものである。ましてや、それぞれの作品について私が示すはずの身の程知らずの改作案などは、丁度、豊満なママのおっぱいにしがみついて、お腹いっぱいお乳を飲みながらも、「まだ、おっぱいが欲しい。まだ欲しい」と泣き喚いている、意地汚い赤ん坊の泣き声のようなものである。
 お受け入れになられる作者殿のご自由、一笑に付されるも作者殿のご自由。何卒、平にお許しあれ。それでは稿を進めよう。


(秋月あまね)
   ひだまりに身を擦り付ける猫がいて蹴りはこび来た石もここまで

 秋月あまねさんは、「題詠2009」に参加された歌人の中でも有数の作者と思われ、私などのとうてい及ぶところではないと思われる。だが、この作品については、私はわずかながら不満を覚える。
 先ず、順序良く上の句から。
 「ひだまりに身を擦り付ける猫がいて」を、「ひだまりに身を擦り付ける猫がいる」と、三句止めにしたらどうでしょうか?
 「擦り付ける猫がいて」では、その後に起こる事柄の原因や理由を説明していることになるので、その理屈ばった言い方を嫌ってのことである。
 結社の歌会などに、上の句の末尾を「~て」にした作品を提出すると、やれ、間延びがしての、説明的だのと、ひとつ覚えの知識をご披露して、その作品を槍玉に上げるお方が居られるが、私は彼らに組するつもりは毛頭ない。
 要するに、説明を避けるべき場面では避け、避ける必要がない場面では避けないだけのことである。この作品の場合は説明的になることを避けなければならない、と思ったからこその提案である。
 だが、下の句に抱くそれに較べれば、上の句に抱く不満など物の数ではない。問題は、「蹴りはこび来た石もここまで 」という下の句である。
 作者は何故、「蹴りはこび来た石」などと、その「石」の性格を煩わしく説明するのだろうか。たどたどしい描写をわざとして、何か特別な効果を期待しているのだろうか。いや、描写ならまだしも、「蹴りはこび来た石」という言い方は、単なる説明ではないか。
 そんな無駄なことをせずに、ここはあっさりと、「石蹴りゲームもここでお仕舞い」と、言い切ってしまったらどうでしょうか?
 作中の<わたし>がしている「(石の)蹴りはこび」が、仮にゲームといった性格のものではなく、実用的な労働であるとするなら別の話ではあるが、まさか作中の<わたし>には、蹴って運んできた石を漬け物石にしたり、墓標にしたりするつもりはあるまい。
 「石蹴りゲーム」が嫌だったら、「石蹴り遊び」としても良い。「ここでお仕舞い」が嫌だったら、「ここで終了」、或いは「これでお仕舞い」・「これで終了」などとしても良い。「お仕舞い」を「おしまい」とひらがな表記にしても良い。
 そのようにしても、その石が作中の<わたし>の足に蹴られて、ひだまりに身を擦り付ける猫がいる付近まで運ばれて来たことが分るはずである。
 あの秋月あまねさんにして、このエラー有り。短歌創作の容易ならざることが理解されよう。
 私の尊敬する歌人・秋月あまねさんの忌憚のないご意見を拝聴したい。


(夏実麦太朗)
   ひだまりの真ん真ん中に陣取った太った猫が私をにらむ

 夏実麦太朗さんもまた、私が尊敬する歌人の一人である。別のハンドルネームで参加させて頂いた昨年と今年、拙作百首を詳細にお読みいただき、特選七首のご選歌まで頂いたご恩もある。
 だが、この脱俗然とした佳作には、佳作ならではの不満を私は覚える。
 「ひだまりの真ん真ん中に陣取った太った猫が私をにらむ 」。
 不満を述べる前に、この作品の優れた点を述べてみると、先ず、二句目の「真ん真ん中に」が素晴らしい。
 私を睨みつける太った猫を中心にして、ひだまりが丸く大きく明るく広がっている様が、まるでスポットライトを浴びせたかのように、浮かび上がって来るからである。
 もう一点、この作品では、お題の「ひだまり」が浮いてもいないし、遊んでもいない。
 私たちの多くは、題詠で短歌を詠む際に、与えられたそのお題を手枷、足枷として受け止め勝ちである。そのお題に縛られていることを強く感じながら作品を作り勝ちである。
 一例を上げると、このお題について私が投稿した作品、「ひだまりをひざげりと読む子らの居て我が教室は春まだ浅し」。
 この作品を作る際、私は、お題「ひだまり」を嫌悪し、完全に持て余していたのである。その挙句、「ひだまりをひざげりと読む子らの居て」などと、お題から逃避するような上の句を作って、一首全体を誤魔化しの作品に仕立ててしまったのである。
 題詠とは、必ずしも、与えられたお題を正面に据えたり、テーマにしたりして詠まなければならないものではない。だが、お題から逃れようとしたり、お題をかわそうとしたりしてばかりいてもいけないものである。
 お題を正面に据えない作品は、気の利いた作品として、その場限りの評判になることはあっても、一首としての自立性に欠けることが多いから、やがて作者自身からさえ嫌悪されるものである。
 馬鹿ではないか、鳥羽省三は!
 同じ軽みを狙った作品でも、夏実麦太朗さんの作品と私の作品とでは、天道さんと番頭さんほどの違いがある。どちらが天道さんでどちらが番頭さんであるかは、いちいち説明する必要がないだろう。
 とは言え、私は、この作品とその作者の才能に完全に屈服しているわけではない。なぜなら、この作品には絶対に見逃し出来ない欠点が在る、と私は思うからである。
 その欠点とは、三句目の「陣取った」の「た」である。
 文法的な注釈を加えると、この「た」は「太った」の「た」と同じく、口語文法の<完了>または<確認>の助動詞の連体形である。
 従って、文意は「陣取った犬」そして「太った犬」となり、「太った」と同様に、「陣取った」もまた、体言「犬」の修飾語としての働きしかしないことになる。
 わずか三十一音でしかない字数の中で、言葉をそのように不経済に使ってはいけない。
 それでは、この三句目はどうあれば良いのか? 
 結論は既に出掛かってはいるが、この句は、「陣取った」ではなく、「陣取って」でなければいけない。
 先ほど、秋月あまねさん作の解説の中で、私は、この接続助詞の「て」を無効有害として退けたが、彼処では無効として退けられた此の「て」が、此処では有効として推奨されるのである。
 「ひだまりの真ん真ん中に陣取って 太った猫が私をにらむ」と、この作品はこうなるべきである。
 一字空きを多用するのは詠歌の邪道と言われるが、それが許されるならば、この作品の上の句と下の句の間は、一字空きにした方が良い。結社や個々の歌人の短歌観から、一字空きになっていない場合も多いが、そういう場合でも、鑑賞者は一字空きになっているような気持ちで、「ひだまりの真ん真ん中に陣取って」と読んでから、一呼吸か半呼吸置いて、「太った猫が私をにらむ」と読むのである。
 何が故に「陣取った」ではなく、「陣取って」でなければならないのかと言うと、「陣取った」では、「太った」と同じに「犬」に係る修飾語の働きをするだけの句となり、省略された上の句の主語「犬」を受けての述語としての役割を果たしている「陣取って」よりは、一首の中での重みや働きが比較にならないほど低くなるからである。
 あの夏実麦太朗さんにしては千慮の一失、手痛いエラーではある。
 私の尊敬する夏実麦太朗さんの、忌憚の無いご意見を拝聴したい。


(伊藤夏人)
   ひだまりに君をたっぷり漬け込んで凍った本音を発掘しよう

 伊藤夏人さんもまた、かなりの力量を持った歌人である。そのことを証明するかのように、この作品は、自分の本音を絶対に言わない彼女のその「本音」を、「凍った本音」とするなど、なかなか面白い作品である。
 この作品の欠点を一つ二つ上げるとすれば、五句目「発掘しよう」が、それ以前の叙述とややバランスを欠いていることも惜しまれるが、何と言っても、最大の欠点は、副詞「たっぷり」の置かれた位置と、その座りの悪さであろう。
 伊藤さんの作品では、この「たっぷり」が、「漬け込んで」という文節に係る連用修飾語になっているが、私はこれを、「君を漬け込んで」という連文節の修飾語にしたいと思うのである。
 つまりこの歌を、「ひだまりにたっぷり君を漬け込んで凍った本音を発掘しよう」と改作したらどうかと、言いたいのである。
 「君をたっぷり漬け込んで」と「たっぷり君を漬け込んで」とでは、どう違うのか、と、ご質問になられる方が居られるかも知れない。
 そういう方には、私はこう答えよう。
 この作品の中で副詞「たっぷり」の果たす役割は、ホウレン草のおひたしにかけるお醤油のようなものであり、文節「君を」は、ホウレン草のおひたしを美味しく食べようとする時に、茹でたホウレン草の上に乗っける「鰹節」のようなものである、と。
 ホウレン草のおひたしを美味しく食べるためには、先ず、裏の畑からホウレン草を採って来る(スーパーや八百屋から買って来てはいけない)。→根を切ってから洗い、そして茹で、食べ頃の長さに切ってお皿に盛る。→それに鰹節をかけ、→最後に醤油をかけて食べる。
 これらの一連の行程は順序立って行われなければならない。畑から採って来る前に洗ったり、茹でる前に鰹節を掛けたりするようなことは、どんな阿呆だってしないに違いないが、ひょっとすると、「鰹節を乗っける→醤油をかける→食べる」の行程には狂いが生じるかも知れない。
 何故なら、鰹節など乗っけなくても、醤油さえかけたら、一応は食べられるからである。また、鰹節を乗っける前に醤油をかけ、その後で鰹節を乗っけても一応は食べられるからでもある。
 だが、それは一応食べられる、というレベルの話であって、美味しい食べ方とは言えない。
 最初から断わっているように、私はあくまでも、「ホウレン草のおひたしの<美味しい食べ方>」を説明しようとしているのである。従って、一応は食べられるからといって、「鰹節を乗っける→醤油をかける」の順序は、絶対に逆にしてはならない。
 このホウレン草のおひたしの美味しい食べ方の、「鰹節を乗っけてから醤油をかける」に相当するのが、前述の伊藤夏人作の短歌について私が提案した、「君をたっぷり漬け込んで」ではなく「たっぷり君を漬け込んで」という連文節なのである。これらの連文節中の「君を」は、言わば、ホウレン草のおひたしの美味しい食べ方の行程中の「鰹節を乗っける」に相当するのである。
 ホウレン草のおひたしの美味しい食べ方の進行過程と、伊藤夏人作の短歌中のこの連文節の語順とは、一見逆みたいに見えるから少し解り難いが、要するに、おひたしの上に鰹節を乗っけてから醤油をかければ、醤油の味と共に醤油によって溶かされた鰹節の味もおひたしに沁み込むから美味しいように、文節「漬け込んで」ではなく、連文節「君を漬け込んで」の上に副詞「たっぷり」を置けば、
修飾語としての副詞「たっぷり」の働きが、連文節「君を漬け込んで」の全体に及ぶから、意味上に加えて見た目上も効果的だろう、ということである。
 お解りになられたでしょうか?
 

(イマイ)
   吹き抜けの隅に見つけたひだまりを二人はよけて部屋へと戻る

 「二人はよけて」ではなく、「避けて二人は」にしたらどうでしょうか。語順を変え、「よけて」を「避けて」と漢字表記にしたのである。
 「二人は」が重要か、「よけて」が重要か、ということだが、私は、この二人が何か「ひだまり」を避けなければならない後ろめたさを持っているに違いない、と思ったので、語順を変え、ひらがな表記を漢字表記に改めたのである。
 いかがですか。イマイちかな。


(梅田啓子)
   ひだまりに夫と肉まん食みてをり ずつと死なないやうな気がする

 「ずつと死なないやうな気がする 」という下の句に実感有り。「にくまん」も効いている。
    〔答〕 死なないでずっと居れたらいいけれど生まれて死なぬ生物は無し


(五十嵐きよみ)
   選ぶならひだまりよりも水たまり裸足になって歩きたいのは

 共通項「たまり」を利用しての揚げ足取りであるが、それなら私も負けないぞ。
    〔答〕 選ぶなら水たまりより土だまり裸足になって芝生の上を
        選ぶなら土だまりより吹き溜まり裸になってみたらどうだい
 どんな問題(いや、間違いでした)、どんなもんだい! まいったか、五十嵐さん!


(斉藤そよ)
   あの角を曲がってもまだひだまりにあそぶかれらがいると思える 

 一首全体に実感有り。本当にそう思いますよね。あのひだまりで遊んでいた彼らが、それぞれ年取って、どこかで所帯を持っているなんて、信じられませんからね。
    〔答〕 あの角を曲がってしまえば帰れない彼らも君も子どもではない


(わだたかし)
   想い出はグランド脇のひだまりにひっそりそっと置いておきます

 どこの高校のグランド脇にも、そんなひだまりが必ずありました。あそこには、今でも想い出がうようよしているんでしょう。
    〔答〕 想い出はグランド脇のひだまりにそっと埋めて校門去りな


(藻上旅人)
   学食で授業をサボる昼下がりここにはいつもひだまりがある

 その「ひだまり」で語られる落武者たちの話の中に出て来る、教師・鳥羽の評判が、必ずしも悪いものばかりではなかったことが私の救いでした。
    〔答〕 学食の饂飩はとても不味かったけれども僕は毎日食べた
        学食は落武者たちの拠り所なのにいつでも温かかった

(穂ノ木芽央)
   手のひらにひだまりうけて黙りこむふたりの呼吸(いき)が吹きだまる 春

 今ひとつ意味の解らない下の句が、この一首の魅力なのかも知れません。
    〔答〕 てのひらにひだまりうけて黙してた頃がなつかし想い出帰らず


(佐藤紀子)
   ひだまりに網を拡げて繕ひし日々もありたり 若き太郎に(浦島太郎物語)

 この一首は、連作「浦島太郎物語」を代表する作品になるでしょう。ドロップダウンせずに、必ず百首詠んで下さい。
    〔答〕 ひだまりに真綿広げて掛け布団作ったあの日も今は帰らず
        中止せず必ず百首作ってね前代未聞の浦島短歌


(髭彦)
   鉢植えの草花かなしひだまりを追ひて移さむ冬の朝は

 髭彦さんの作品は常に安定していて、一寸たりともぶれない。
 「ひだまり」などという平凡なお題は、私たち作者にとって、あまり有り難くないお題なので、それに正面から挑もうとはしないものであるが、彼・髭彦さんは、それを正面に見据えて離さない。
       「鉢植えの草花かなしひだまりを追ひて移さむ冬の朝は」
 上から読んでも山本山。下から読んでも山本山。髭彦さんぐらいの歌人の作品になると、どこがどのように良い、などと言うのも失礼に当たる。
 この堂々たる作風には、文句のつけようが無い.完敗、乾杯。 
    〔答〕 鉢植えの草花うれしひだまりを追ひて移され髭彦さんに
 これが、せめてもの仕返しだい。どうだ、鸚鵡返し流とはこのことだ。 


(詠時)
   ジグソーのパズルを解きし猫たちはひだまりの中静かに午睡す

 五句目を「静かに午睡す」と字余りにしたのはどうしてでしょうか。
 「ジグソーのパズルを解きし猫たちはひだまりの中静かに午睡」でも「ジグソーのパズルを解きし猫たちはひだまりの中静かに昼寝」でもいいんじゃないですか。
 猫たちがジグソーパズルを解くという発想自体が面白いだけに、些細な欠点が惜しまれる。
    〔答〕 猫たちがジグソーパズルを解く家はひがないちにち日溜りの中
        飽きちゃったジグソーパズルを枕にし日溜りのなか子猫の昼寝


(振戸りく)
   ひだまりにおかれたものはおしなべてしあわせそうな色をしている

 「ひだまり」と言えば縁側。私の家の縁側には、いつもこんなものが置かれていた。冬を迎える準備だったのでしょうか。
    〔答〕 米・大豆・小豆・南京・ささげ豆・日向日溜りいつもポカポカ


(末松さくや)
   ひだまりでそれの名前を呼びながらマトリョーシカを並べていたね

 上京し立ての頃、新宿・ニ幸のピロシキ売り場に並べられていたマトリョーシカを思い出します。実演販売をやっていたロシヤ人の太ったおばさんがまた、その一番大きいのとよく似ていたこと。今、あの二幸はそのまま在るのでしょうか?    
    〔答〕 ひだまりでマトリョーシカの名を呼んでいたあの頃を昭和と名づく
        伊勢丹に二幸にコマに紀伊国屋 新宿盛り場なつかし昭和
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一首を切り裂く(003:助)

(五十嵐きよみ)
   見るからに一癖ありげなまなざしの助演女優のほうに引かれる

 助演より主演の方がいいに決まっているが、日本映画華やかなりし頃、「私は最初から助演女優になるために映画界に飛び込んだ。主演女優になりたいなんて一度も思わなかったわ」と、ある女優が雑誌「平凡」に掲載された手記の中で語っていたが、未だ小娘にすぎなかった人生のある時点で、彼女は彼女なりに自分の顔や才能などと折り合いをつけたのだろうと思って、私は少し彼女のことが気の毒になった。だが、情報化社会の今日では、彼女のような女優は格別に珍しくはないだろう。
 と書いてはみたが、待てよ、昨今の我が国には芸能界は在っても映画界は無し。女性タレントは居ても女優は居ないか。
 既に名を成した五十嵐きよみさんの作品はなるべく採りたくないが、その安定した詠風には人をひきつける何かが在るので無視し難い。


(ぷよよん)
   いつだって主演女優はあなたでしょ助演でもらう賞はいらない

 「助演女優」あれこれ。
 一方に助演女優に惹かれる映画ファンが居れば、他方に主演女優に嫉妬する助演女優も居る。
 「いつだって主演女優はあなたでしょ助演でもらう賞はいらない 」とは、どなたのセリフでしょうか?  いや、間違いでした。これはセリフではなく、楽屋内での棄て台詞でした。


(久哲)
   背の低い助産婦歩く道筋の冬の桜の身の内の朱

 「朱」は<あか>と読むのだろう。
 「背の低い助産婦」という差別めいた表現が効いている。
 助産師が未だ助産婦と呼ばれていた頃、彼女たちの身長は決まって低かったし、また、その方が助産婦という職業に相応しいとさえ私は思っていた。
 その助産婦がやがて取り上げることになる胎児の「赤くて小さな命」と、「冬の桜の身の内の朱」との対比は、やがて生まれるはずの赤ちゃんとやがて咲くはずの桜の花との対比でもある。
 ここで私は一つ、この作品の作者の久哲さんに提案したい。
 この作品はこのままでも立派に完成されてはいますが、私は、これに少し手を入れて、「背の低い助産婦さんが見上げてる冬の桜の身の内の朱」としたら更によくなると思います。久哲さんのお考えはいかがでしょうか?


(minto)
   助産師はまだ定まらぬ頭を持ちて次から次へと沐浴をさす

 助産婦から助産師へとその呼び名は替わっても、彼女らは相変わらず小さくて力強い。
 生まれて間もない赤ちゃんの「まだ定まらぬ頭を持」って「次から次へと沐浴をさ」せる、彼女らこそ、少子化時代のストッパーに違いない。
 小さな身体で大きな働きの助産師さんは、<ハマの大魔人>なのだ。
 作中の<わたし>は助産師の驚異的な仕事振りに感嘆しているのだ。


(秋月あまね)
   ややあってはにかみながら私まだ独身ですと助産師が言う

 「ややあって」が絶妙。これ在ることに因って、妊産婦やその家族の人たちと助産師との間に交わされた会話の内容が彷彿として来る。
 語順及び言葉の運びも素晴らしい。お節介焼きの私は、「ややあってはにかみながら助産師が私は未だ独身よと言う」などなど、語順を弄くってはみたものの、原作以上にいいものは無かった。
 この作品は、お題「002:助」中の代表作品として評価されよう。
 この傑作を作られた<秋月あまね>さんに敬意を表して、私は、「秋月のあまねく射せばこの家の子らも孫らも憧れて見つ」などと三十一音を並べてみたが、秋月さんの作品と較べれば、所詮、「月とすっぽん」「提灯に釣鐘」。
 オッと、間違えないで欲しいが、「月とすっぽん」の「月」が秋月さんの作品で、「すっぽん」が私の作品だよ。私の作品の中ににも「月」が出て来るが、それは秋月さんに敬意を表するために借用させていただいたのだ。そんなことにも気が付かないあなたは、短歌を語る資格がない。
 それにしても、作中の助産師さんが、未だ独身なのは甚だ残念だ。「弘法も筆の誤り」、「医者の不養生」、「紺屋の白袴」、「灯台下暗し」。「助産師の独身」とまで申したら叱られるか?


(Re:)
   他の子を乗せないでなんて言えなくて位置をなおして座る助手席

 「位置をなおして座る」が泣かせる。
    〔答〕 他の子が直して座った助手席をさらに直して別の子が座る


(行方祐美)
   助手席の日面かるくゆらぎいつ無言とはさぞ欲深ならん

 陽射しに焙られてなのか、一言ももの言わない助手席の人。運転者にとっては、その「無言」が薄気味悪いのである。
    〔答〕 日面(ひおもて)のゆらぎはいくら軽くても座席に座る子の口重し


(布川イヅル)
   海へゆけば入水を気取る 助手席にフリッパーズ・ギターを置き去りにして

    〔答〕 山行かば遭難者気取り 助手席に擦り切れそうなザイルを残し


(しおり)
   鈍感であればいいのに助手席の微妙な角度の変化が辛し

    〔答〕 ハンドルを切り損ねたる運転手 助手席からのサイン気にして


(村木美月)
   独占はできないひとの助手席に残り香だけを忘れてしまう

    〔答〕 忘れ物は残り香だけと君は言うその残り香が命取りなの


(TIARA)
   助手席の窓に小さく残されたハートマークが暴かれるまで

    〔答〕 角角鹿鹿(かくかくしかじか)ありにけるかも。


(七五三ひな)
   「吾」という人生行路を行く車定員2名助手席は君

    〔答〕 こちらではでんと構えた助手席の人は座席の汚れ知らずも
 
 「助手席七態」でしたが、「一台に一個しかない助手席で恋の鞘当て女の修羅場」とは、私、鳥羽省三の旧作である。


(梅田啓子)
   弓なりのわが体(たい)越ゆる瞬間を思ひ描きて助走に入る

 走り高跳びですか。
 そう言えば、あの春日井建さんにありましたね。「火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて飛ぶ」という名作が。あちらは棒高跳びでしょうが。
 今に亡き春日井建先生の代表作にケチをつけるようで申し訳ないが、春日井作は道具立てが大きく、装飾性・象徴性に富んでいるが、その反面、肉体感に乏しい。
 それに較べて、梅田作は肉体感覚バッチリである。
    〔答〕 超Lの乳房気になり跳べないのバーが落ちたらお仕舞いだから


(雪原うさぎ)
   助走距離 あとどのくらい伸ばしたら たどり着けるの 君の心に

    〔答〕 助走距離いくら伸ばせど届かない君と僕とは無限の距離だ
        雪原にうさぎ飛び出し捕らわれた間抜け兎で冬毛忘れた

(キャサリン)
   背を丸め助走ばかりの足を撫で坂本龍一のバガテルを聴く

    〔答〕 私にはこの作品が分らない 龍一の曲バガテル聴かねば
 でも、「背を丸め助走ばかりの足を撫で」だけで、「坂本龍一のバガテル」の内容が十分に分りそうな気もしますよね。


(月下 桜)
   下がるのは逃げなんかじゃない緩やかに助走してから跳躍するため

    〔答〕 これ以上下がると危険 フイールドで今始まったハンマー投げが
 とは詠んでみましたが、走り高跳びの行われるフィールドとハンマー投げの行われるフィールドとは十分な間隔がありますから、それほどの危険は無いようです。


(虫武一俊)
   こんなにもながくて暗い助走路をいったいどこの誰が決めたの

    〔答〕 助走路は長くなければなりません暗いと思うは君の主観さ

 「助手席七態」に続いて「助走五態」。「<題詠>は助走路でなし強張らず焦らず高く遠くまで跳べ」とは、私、鳥羽省三の新作である。


(新田瑛)
   補助輪を外してすぐの危うさに憧れ抱く少年だった

    〔答〕 補助輪を外して直ぐにふらふらと家を出たまま二度と帰らず


(ノサカ レイ)
   補助輪をすべてはずしたあの朝の光で発芽しちゃったあたし

    〔答〕 発芽には<光>と<水>ともう一つ適度な温度が必要ですよ


(ぱぴこ)
   いつの間に外されていた補助輪のうるさい安定もう戻らない

    〔答〕 うるさくも安定のため必要な親の干渉ふたつの補助輪

 七五三ということで、最後は「補助輪三態」でしたが、私は、今回皆さんの作品を読ませていただいたことに因って、補助輪があるのは子供用自転車だけとは限らないと知り、人はたいてい補助輪を外そうとしていることをも知りました。教えて下さった方々有難うございます。


(髭彦)
   <てにをは>が怪しきなどと憂ひつつ吾知らざりきその原義をば
   <てにをは>の助詞など指すを知りつつもけふまで知らずその原義をば

    〔答〕 「て・に・を・は」が最頻出の助詞だから「助詞」を総じて「てにをは」と言う


(伊藤真也)
   「生きてればそういうこともあるってば」助言のような呪文のような

    〔答〕 生きてればそういうこともあるってば。黙して聞くより仕方ないってば。
        生きてればそういうこともあるってば。助言ではなく嫌味だってば。


(本田あや)
   助けにはならないのです 泣き顔にくりかえされる口づけなんか

    〔答〕 清めてやる、清めてやると言いながら、そういう事する男が居るね
        清めてやる、清めてやると言いながら、そうする男は僕ではないよ


(岡本雅哉)
   ふり払う腕はつかんで欲しいのよ助けるのってそういうことよ

    〔答〕 ふり払う腕をつかめばつかんだで依怙地な貴女はまた振り払う
        岡ポンに捕まえられた腕よりも岡ポンの腕細かったりして

(穂ノ木芽央)
   思ひつくかぎりのことばならべかへこぼれた助詞のかなしさおもふ

    〔答〕 助詞は女子などに非ざるものなれば哀しさなどは知るはずもなし
        「てにをは」が悲しさを知るものならば「いろはにほへと」は恋をするらむ

(ウクレレ)
   気がつけば恋愛幇助ばかりして作り笑顔が得意になった

    〔答〕 ミイラ盗りがミイラになったの反対ね 作り笑顔が乾せてしまうぞ


(O.F.)
   救助!救助!アイス最中のひび割れの静かな被害三歳児姪

    〔答〕 了解!了解!アイス最中の救助隊、ただいま現場に急行中です。


(ゆら)
   梅が香に誘われ覗く助枝窓(したじまど) 花を見上げる君に恋した

    〔答〕 発端は風流心の発露だが結局最後は覗きになった


(末松さくや)
   補助線でがんじがらめになりながら正三角を描かされている

    〔答〕 補助線で雁字搦めに縛られた正三角形出来上がるとこ


(酒井景二朗)
   自分つて奴を半分塗りつぶす酒と莨の助けを借りて

    〔答〕 自宅って奴をあらかた食いつぶせ酒も煙草も止めないで居て

(拓哉人形)
   頼られてなんぼの俺は「助けて」をただひたすらに待つ。助けてよ

    〔答〕 「頼られてなんぼ」と言うは自負にして、依頼者無しは君の実力


(佐原みつる)
   助けなどいらない 春の坂道を転がってゆく林檎がひとつ

    〔答〕 転石は坂を転げて苔が生え林檎転げてドブに入るだけ


(西中眞二郎)
   助教授も助役もその名改まり新しき名に馴染めずにおり

    〔答〕 助教授をお助け教授と呼んだのはチャタレー夫人の伊藤整です


(伊藤夏人)
   「タスケテ」と言ったら僕が助けると思っているの? 5分待ってね

    〔答〕 気まぐれな君の言葉を真に受けて5分待ったら死んでしまった

一首を切り裂く(002:一日)

(髭彦)
        <三・一独立運動九十周年を前に>
   三月の一日おもふ隣人のこころ知らざるわれらいまだに
 
 「隣人のこころ知らざるわれらいまだに 」という下の句が、のほほんと生きて来た私の胸に鋭く突き刺さる。
 ともすれば<軽薄>に流れがちなインターネット短歌を逍遥していて、このような思想、このような作品に出会ったのは、今日の私の幸運。
 

(かりやす)
   ウザイなど言ひつつ待てりふるさとの一日置きの電話のこゑを

    〔答〕 待てるのもウザイと思ふもよく解る一日おきのふるさと電話 
        一日に三度を食ぶる子のためにふるさとで泣く親もあるとふ

(五十嵐きよみ)
   クロスワードパズルひとつで一日は長くなったり短くなったり

    〔答〕 クロスワードパズルの解けぬ一日は常の日になく短し吾に
        クロスワードパズルがうまく解けし日は長し一日もてあますほど


(月下燕)
   とにかくも一日一歩進んでるどっちが前だか分からないまま

    〔答〕 ともかくも一日一歩進みなよ進めば分る前か後ろか
        人生は一歩前進二歩後退一日一歩進めば上々

(音波)
   はじめまして神様 私が一日をぶじ生き延びてがっかりですか?

    〔答〕 神なればあなたの無事と幸福を願はざる無し一日として
        神ならぬ親でも願ふ子の無事を一日たりとも忘れもせずに

(イマイ)
   サンキューは情けないほどぎこちなく塩を受け取り終わる一日

    〔答〕 サラリーの語源を<塩>と聞きしより一日誦しぬイマイ氏の歌
        一日を誦せばそくそくこみ上ぐる涙止まらぬイマイ氏の歌

(小林ミイ)
   おやすみの一行だけで一日のすべてをもっていかれてしまって

    〔答〕 一日の終わりに届くEメール「おやすみ ミイ」と書きてありたり 
        一日の初めにやりなEメール「おはようあなた」と書いたりしてね

(天国ななお)
   したことを一日悔やんでいるような独りよがりのキスにさよなら

    〔答〕 したことを一日悔やむものならば何故に痺れし一瞬のキス
        したことをどうせ一日悔やむなら吸いに吸いなよ彼女の口を

(詠時)
   花の名を一つ憶えて埋めていく今日の一日の心の傷を

    〔答〕 一日に負ひし心の傷口を埋むる花の名ワスレナグサは
        一日の心の傷が埋まるなら百も覚えな花の名前を

(わたつみいさな)
   さそり座の毒がまわってゆくさまに焦がれるだけの一日とする

    〔答〕 さそり座の毒がまわって焦がるれば一日とても持たぬ勇魚(いさな)氏
        わたつみに一日出でていさな獲るきみは痺れぬさそり座の毒

(ウクレレ)
   一日を両替してから会いにゆく君はつり銭持ってないから

    〔答〕 一日を十二両にて両替し春宵一刻価一両
        一日を両替してまで会うというウクレレ漫談みたいな話

(Makoto.M)
   ぎんいろに蛇口は曲がりゆっくりと過ぎし一日が滴している

    〔答〕 一日を滴している水道の蛇口は至急修理されたし
        「銀色の雨」とう曲を一日(ひとひ)聴く高石ともやの懐かしい曲

(片秀)
   薄着して身軽になった四月一日(わたぬき)に君が嫌いと嘘をつこうか

    〔答〕 四月一日(わたぬき)は暦の上のことだから薄着しちゃ駄目嘘ついちゃ駄目  
        四月一日(わたぬき)はエィプリルフールと重なれば「寒くないさ」と嘘をつくのだ            


(あみー)
   いいことを言おうとばかり考えてまた一日が磨り減っていく

    〔答〕 一日を磨り減らしつついいことを言おうとするのはいい事じゃない
        一日をいいこと尽くめで暮らさずにたまにゃ晴らせよズバズバ言って

(酒井景二朗)
   一日をポルノで全て費やして畜生!汚れたままの遺傳子

    〔答〕 一日の全てをポルノで費やしたツケを回すな遺伝子などに
        遺伝子は元のまんまさ汚れるは君のズリーフ一日の垢(あか)

(みずたまり)
   一日が寝ているうちに始まらないようにてるてるぼうずを作ろう

    〔答〕 一日は午前零時に始まればてるてるぼうずを下げても無駄さ 
        一日の開始時刻をずらすためをてるてるぼうずを使うアイデァ

(拓哉人形)
   あの時のあなたのボケにツッコミが足りなかったと悔やむ一日

    〔答〕 一日を悔やめるほどのボケならばそれは本物ツッコミ禁止
        ツッコマれ一日悩むボケもあるボケとツッコミ持ちつ持たれつ

(たかし)
   紙袋一日雨に濡れ続けやがて崩れる春のカタチに

    〔答〕 紙袋一日雨に濡れて居て刻一刻と春は近づく
        一日を雨に打たるる紙袋崩れて知りぬ春のカタチを

(佐藤紀子)
   百年を一日ほどに感じつつ太郎うかうか遊び暮らしぬ(浦島太郎物語)

    〔答〕 一日に一首詠んでも百日の浦島太郎物語ネタ
        百首詠み完走できたら努力賞一日一首の浦島歌を

一首を切り裂く(001:笑)

(たかし) 
   立春に象が笑うと聞くけれど涙流して笑うのかしら

 私は寡聞にして、「立春の卵は立つ」ということは聞いたことがあるが、「立春に象が笑う」ということは聞いたことがない。しかし、一見してただの素人の作品とは思われない、この作品の上の句には、何か出典があるのではないだろうかと思ったので、PCに「立春に象が笑う」・「立春 象 笑」などと入力して検索してみたところ、残念ながら「立春に象が笑う」という記述そのものには一例も出会わなかった。
 だが、寒い日々を耐え忍んで来て、いよいよ春を迎える喜びは万物共通のものと思われ、「立春」と「笑い」とを結びつけた記事には無数に出会った。
 曰く、「立春・山笑う」「立春には鬼さえ笑う」「立春・仏像も笑う」「立春を迎えて寝たきりの父の顔にも笑いが浮かんだ」などなど。
 また、それとは別に、『京の頑固のひとり言』というブログの第38話には、「京都の目抜き通りの四条通にある藤井大丸百貨店の正面に、でっかい『笑う象』八匹の垂れ幕が下がっています」という記述がなされており、それには、確かにそれらしい写真も掲載されている。
 さらに加えて、「同じ京都の名刹・養源院の襖杉戸には、笑っている白象の姿が描かれていて、それは近世初期の著名な画家・俵屋宗達の作品である」という記事にも出会った。
 これらの事柄を総合してみるに、「立春に象が笑う」という伝承は確かに存在し、作者の<たかし>さんは、その伝承に基づいて、この作品を作られたものと思われる。
 民間伝承に基づいた「立春に象が笑うと聞くけれど」という上の句に続いて、下の句に「涙流して笑うのかしら」という七七を配して、よく佳作を成しているが、この「涙流して泣く」とは、悲劇的な結末が予想された事件が予想外の解決を見た場合など、その関係者たちが、あまりの嬉しさに「涙を流して泣いた」などとの慣用的表現が成されるが、この下の句もまた、そうした慣用的表現に倣ったものでもあろう。
 だがそれとは別に、あの南国から来た巨大な象が狭い檻の中で、「待ちに待って、やっと立春にこぎつけたぞ。今年の冬は特に冷え込んで苦しんだが、ここまで来ればこっちのもんだ。矢でもバナナでも飛んで来い、ってんだ」などと言っている様も想像され、ほのぼのとした気持ちになってくる。


(本田あや) 
   帰り道笑った顔の犬をみた 君に電話をすることにした
 
 像が笑う話は初めて聞いたが、犬が笑うという話はよく耳にする話だ。
 家内の妹が、田園都市線沿線の横浜市青葉区美しが丘に一戸を構えているが、私たちがその家を訪れると、彼女は、「ねぇ、ねぇ、昨日ね、クロちゃんが私の顔を見て、嬉しそうにして笑ったのよ。嘘と思うでしょう。でも、本当なんだから。嘘と思って誰も信用してくれないから、ケイタイ写真でも撮っておくんだった」などなど、そのうるさいこと、うるさいこと。五月の蝿の方がよっぽどましだ。
 彼女にしてみれば、亭主が根っからの会社人間で帰宅時間は午前様。高校三年と一年の息子二人も、最近は彼女でも出来たのか、帰宅時間が亭主ほどではないが超遅く、たまに早く帰っても、そろそろ五十の坂から転がり落ちようとしている、母親の話相手などにはなってくれない。
 勢い、その対象は愛犬のクロちゃんに求められる訳だ。おかげで、トイプードルのクロちゃんも、啼いたり笑ったりで大忙しである。
 「本田あや」さんの作品の良さは、上の句と下の句の間の一字空きと、「君に電話をすることにした」という下の句にある。これらが在ることに拠って、私たち読者は、作品の話者と、作品中の「君」との私生活の場に踏み込むことになる。
 そして、「笑った犬の顔を見なければ、電話する気にならなかったのかしら。もしそうだとすると、そもそも、彼女と彼の間には何があったのかしら。二人の関係は、どの段階まで行っていたのかしら。C段階にまでは行っていなくて、B段階止まりだと思う。まさかA段階ってことはないでしょう」などと、いろいろと詮索することになる。
 短歌の鑑賞とは、「言葉で以って示された作品世界と鑑賞者との対話」の別名である。だから、作品の中に自ずから鑑賞者の踏み込む余地を残した作品が傑作ということになる。
 私は、西欧の教会の天上画などのルネッサンス絵画には興味を覚えない。あれらの絵が持つ完璧さと厳粛さは、鑑賞者の介入を阻止する性質のものだからである。


( A I ) 
    ミズクラゲぷかりぷかりと笑うけど許しを請うているわけじゃない

 最近はやりの水族館の大型水槽内の光景とそれに見入る人を想定しての作品か。
 上の句を詳細に記すと、「ミズクラゲは(水槽の中に)ぷかりぷかりと(浮いていて、その様はまるで)笑う(ように見える)けど」となろうが、それを大胆に省略して一首に仕立てたのは、並々ならぬ作者の腕である。
 ここでは、本来、擬態語である「ぷかりぷかり」が、「ミズクラゲ」が「笑う」ときの擬声語のようにも捉えられ、絶妙の効果を上げている。
 「ミズクラゲ」が水槽の中に「ぷかりぷかりと」浮いていて、「ぷかりぷかりと」「笑う」としたら、その様はあまりに軽薄で卑屈で、乙姫様か誰かに「許しを請うている」ようにも見えるが、決して、そういう「わけじゃない」というわけだ。
 乙姫様に「許しを請」わなければならないのは、水槽の中の「ミズクラゲ」ではなく、水槽の外の<わたし>或いは、この作品の作者の<A I>」さんではなかろうか。
 罪状は「早漏」または「浮気」。この二つは軽薄短小罪にあたる。拠って緊固三時間。


( ezmi )  
   見たことが無いからだろうどうしても君の笑顔が思い出せない

 人間以外の生物だって笑う世の中だから、本作品の「君」もたまには「笑顔」を見せたらどうだ。あの美人のモナリザだって笑っているんだぞ。それなのに、君くらいの顔で仏頂面しているのは、世間様に申し訳が立たない、ってもんだ。


(根無し草)    
   激痛に 苦しむ僕の 顔を見て 笑うアナタが 僕は好きです

 とは言え、この種の「笑」は、あまり歓迎したくない。所詮、他人事かも知れないけど。
 作中の「僕」や作者の<根無し草>さんの考え方は、明らかに倒錯的だ。
 でも、広いこの世の中には、大枚を叩いて女子高生のまけたお小水を買い求めて喜ぶという倒錯オヤジも居ると言うから、この程度では序の口の手前の本中程度の倒錯か?
 倒錯した世界でも、それが上手に描けていれば、それはそれで立派な短歌だ、が、この作品がそのレベルに達しているかどうかについては私は判断しない。


(西中眞二郎)  
   遠き縁につながる人か喪服着た一群の中に笑い声する

 谷村新司の持ち歌に、「玄冬記-花散る日-」という曲がある。アルバム「昴-すばる-」の中の一曲に過ぎないので、特別にヒットはしなかったが、しっとりとした味わいの名曲である。
 私は、この作品に接した時、谷村新司のあの歌を思い出した。
 作品の話者(作中のわたし)と作中の死者とはどういう関係にあるのだろうかは分らないが、ある日ある時、話者はある一人物の葬儀に参列した。
 ここからは、作品の記述から読み取った私の想像である。
 焼香を終えた話者は、いっ時その列を離れ、自分とは住む世界を異にしてしまった人と自分との関わりなどについて、一人静かに考えていた。
 と、その時。まだまだ途切れない焼香者の列の中の黒い喪服で装った一群の中から、笑い声が起こった。
 あの笑い声はなんだろう、と話者は思う。そして考える。
 あの笑い声を上げた一群の人たちと今日の仏様とは、親子とか兄弟とかといった深い関係でつながっているのではないだろう。この葬列の中で笑い声を立てていることからすると、あの人たちと死者とは、遠い縁(えにし)で繋がっているに過ぎないだろう、と。
 ここで大事なのは、その笑い声を耳にした時、それに対して、話者は特別不快感を感じたわけではない、ということである。
 「幽明境を異にす」とはよく言ったもの。
 死者と話者との関係がどんなものであったにせよ、死者と自分との関わりを考え、そして、喪服を着た一群の中から上がった笑い声を耳にした時、話者の心の中に浮かんだのはこの言葉ではなかったのか、と私は思う。
 誰かが死んだ時、その葬儀にはかつての同僚や同級生など大勢の人々が参列する。そして、死者の思い出話にひたり、話はそれにとどまらず大いに盛り上がる。次に死ぬのは俺だとかお前だとか、あらぬ方向にまで発展する。そして、そのうちに盛大に同級会でもしないか、などと誰かが言い出し、笑い声なども上がったりする。
 そんな、ごくありふれた葬儀風景に取材したこの作品に私は感動した。
 作者の西中眞二郎さんは、この作品の他に、あと九十九首の作品を投稿して、また例年のように目出度くゴールインするはずである。この後の九十九首がどんなものであるかは、私にも他の参加者にも予測がつかないし、おそらくご当人の西中さんにも予測がつかないだろう。
 だが、この一首は、西中さんの永い詠歌生活の中の忘れられない一首になるだろうと思われるし、「題詠2009」に参加された人々の記憶に残るだろう一首だとも私は思う。
 最後にもうひと言。この作品を一読した時、私は、この作品はこのままの形ではなく、「遠縁につながる人か喪服着た一群の中に笑い声する」とした方が良いのではないか、と思った。だが、この作品はこのままでいいのである。「遠い縁」から「い」を除いて「遠縁」とすれば、初句の字余りは一応解消するが、今のままの間延びした形が、作品内容ともマッチしていていいのである。いっそのこと、「縁」を「えにし」と読んで、初句を「遠い縁(えにし)に」と七音にしても良いと私は思っているが、そこまでの字余りは作者の慮外のことであろう。

  
(志慧)
   4階のトイレの鏡が知っているあなたにあげるはずだった笑み
(ふみまろ)
   この顔を全部知ってる鏡には作り笑いは無駄だと知った

 たまたま「鏡」に取材した佳作が二首あったので並べてみた。
 両者の照応は偶然にしては見事。
 <志慧>さん作中の<わたし>は、結局、作中の「あなた」に「笑み」をあげなかったことになるが、その理由及び「笑み」の実態は不明。
 あげなかった理由は、私たち読者が想像力と創造意欲を駆使して考えるしかないが、「笑み」の実態については、「4階のトイレの鏡が知っている」から、其処に行って、聞くか見るかすれば分るはず。
 だが、意外や意外、「4階のトイレの鏡」に映った、作中の<わたし>の顔に浮かんだ「笑み」は、<ふみまろ>さん作中の<わたし>が「無駄だと知っ」て止めた、「作り笑い」だったかも知れない。


(穂ノ木芽央)
   彼のひとの微笑写せし素描画(エスキス)に蝶の群れをり 弔ふ朝に

 不謹慎なことを申すようだが、どなたのためのものであれ、葬式とは唯美的、象徴的な儀式である。その葬式の祭壇に遺影として、写真ではなく、「彼のひとの微笑写せし素描画(エスキス)」を飾る。そして、そのエスキスに「蝶の群れ」を配する。
 本作の作者、<穂ノ木芽央>さんは、非情な唯美主義者なのだ。
 「彼の死を悼んで蝶々までが・・・・・」などと誤読してはいけない。. 


(中村成志)
   坂の上組んだ後ろ手白いシャツ夕陽の中できみは微笑む

 まるで一時代前の日活の青春映画みたいだ。浅丘るり子とか吉永小百合とか和田浩ニが出てた。 作中の<きみ>も<ぼく>も若くて健康だ。作者の中村成志さんも彼らと同様に若くて健康だろう。 私たち歌詠みの一部には若さや健康を恥らう傾向があるが、それは非生産的、退廃的、倒錯的な性向に過ぎない。
 作中の若者たちと作者の健康に祝杯を。


(星野ぐりこ)
   笑われて生きてきました。趣味・特技、特にないです。処女じゃないです。

 これはまた、前の作品とは百八十度異なった作品。
 「笑われて生きてきました。趣味・特技、特にないです。」と、自己を分析し、徹底的に貶めた後、
最後に「処女じゃないです。」と、些細な見栄を張って見せるところにこの作品の面白さがある。
 でも、私のこうした読みは、もしかしたら、この作品に対する過大評価か深読みかも知れない。
 少し熱を冷まして、もう少し冷静な読みをしよう。
 作品内容と作者名から察するに、作者は、「<わたし>の人生は、グリコのおまけのようなものです」とでも言いたいのだろうか? 
 でも、グリコのおまけは「笑われ」るために付いているのではなく、喜ばれるために付いているのだぞ。なにもここまで、自分を傷つけることはないじゃないか。それとも、作中の<わたし>は、作者である私と全然別人だとでも言いたいのか。それならそれで、リアリティを失ったただの落書きになるぞ。この種の歌の価値は、糞リアリズムに徹していると認められた時に、初めて保証されるのだから。
 と、いつの間にか激してしまい、ここまで書き記した時、私はあることに気がついた。
 それは、作者の<星野ぐりこ>さんは必ずしも女性ではなく男性かも知れない、ということである。
それならそれで、「処女じゃないです。」という最終句の意味が一応納得がいくからである。
 でも、それでは、この一首はますますリアリティを失ってしまい、公衆トイレの悪戯書きと同等になってしまう。
 願わくば、この一首が超アララギ張りの糞リアリズムに徹した作品であり、前述の私の<読み>が、深読みでも誤読でもなからんことを祈る。

 
(伊藤夏人)
   後出しのジャンケンくらいで笑ったりするから君に油断できない

 私たちの周りには、朝から晩までコロコロコロコロと笑っている女性が居たりする。彼女は、それこそ<箸が転げているのを見ても笑う>。
 そんな彼女に出会ったりすると、間抜けなことに私たちは、「あの子はよほどのお人好しか馬鹿だね」などと言って済ましてしまうが、この作品の話者(=作者か?)は、そんな少女はかえって油断がならない、と言うのである。
 この一首を佳作たらしめたのは、「後出しのジャンケンくらいで笑ったり」という上の句である。
 作者の伊藤夏人さんは、軽い言葉で重いことを言う。
 伊藤納豆は粘り強くて味が良い。「題詠2009」にご参加の皆様、伊藤納豆を宜しく。血栓予防に伊藤納豆を食べよう。国産大豆100パーセントだよ。

 
(ひわ)
   笑い声の絶えない家にしたいの と 笑い袋を孕んだ妻が
(やましろひでゆき)
   家中の笑ひ袋をかき集め父帰る日の準備整ふ

 「笑い袋」にしようとして仕込んだものが「泣き袋」になるかも知れないからご用心。
 <ひわ>さん。あなたの方からは私が見えないでしょう。私の方からは、今のあなた方のことが実によく見えますよ。「笑い袋」を「泣き袋」にしないようにくれぐれも注意して下さい。
 <やましろひでゆき>家のみなさん。「父帰る日の準備」のために、「家中の笑ひ袋をかき集め」るのは大変でしょう。でも、あなた方の家にはかき集める「笑ひ袋」があるからまだいいのですよ。それに、多分単身赴任中のお父さんが帰って来られるのが、そう度々ではないから、まだましなのですよ。
 私の家には、「笑い袋」らしきものは何一つ無かったし、その上、人一倍うるさ型の私は、毎日毎日、定刻に帰って来たから、それはそれは、家族のみんなは大変だったと思いますよ。
 ところで、現代社会に於ける「笑い袋」とは何か?
 勉強がよく出来て聞き分けの良い子どもか、使っても使っても使い切れないお金か、家族一同の健康か。
 まさか、国際会議で居眠りをしていた大臣や、その親玉の<未曾有>総理ではないでしょうね。


(水口涼子)
   残されたガテマラ産の豆を煎る焦がさぬように笑って泣いた

 詠い出しの「残された」が、末尾の「笑って泣いた」と呼応して、そこに何か深刻な事情があったことを窺わせる。

   グアテマラをガテマラと呼ぶ叔父が居て二十年前(はたとせまえ)に撃たれて死んだ

 とは、私の旧作であるが、水口涼子さん作中の<わたし>の恋人と思われる<彼>は、まさか、拙作中の<叔父>のように、ゲリラに襲撃されて死んだのではあるまい。
 ともあれ、この作品の作者は、前述の冒頭と末尾の照応に加え、文科省の示した国名表記の基準では「グアテマラ」と記すべきところを、敢えて「ガテマラ」と記すことによって、それとなく登場人物の年齢や性向を示唆するなど、作中にさまざまな仕掛けを凝らしていて、焦げ臭くて近寄れない。
 年配者から聴いたところによると、ハンガリーをハンガリアと呼んだり、グアテマラをガテマラと呼んだりするのは、中国をシナと呼ぶ年齢層と同じで、第二次世界大戦前に初等教育を終えた者に限られそうだ。すると作中の登場人物もまた、そうした年齢層の男女かも知れない。
 さすれば、作品世界で展開されるのは、今は昔の悲恋物語である。
 男性<A>が恋人である女性<B>を残して死んだ。
 世間の噂によると、死亡した<A>は、さる大手商社から中南米に派遣されたやり手の商社マンで、彼の地に駐在中、コーヒー栽培プラントの中で猛獣捕獲のために仕掛けられた罠に嵌って即死したのだとか。また、その罠は、本当は猛獣捕獲のために仕掛けられたのではなく、日頃の酷使に耐えかねている現地の労働者が、自分達をそうした境遇に陥れている彼<A>を殺すために仕掛けたのだという噂も同時に聴いた。
 彼の亡骸は現地のジャングルで荼毘にふされたが、数ヵ月後、その遺骨と共に幾缶かのガテマラコーヒーが恋人<B>の元に届けられた。
 それから更に数ヵ月後、未だに恋人を失った痛手から立ち直っていない<B>は、今となってはたった一缶となってしまったガテマラコーヒーを、焦がさぬよう、焦がさぬよう、と大事に大事に煎るのであった。泣いたり笑ったりしながら。
 想像の上に想像わ加えて、勝手なことを書き連ねてしまったが、私は、<水口涼子>さん作の世界をこのように読み解いた。


(わたつみいさな)
   思いだし笑いをしつつ手帳にはあたし最後の日とだけ書いた

 どうでも良いことではあるが、この作品の作者のお名前<わたつみいさな>とは、私のかつてのハンドルネームの一つであった。
 元<わたつみいさな>の私がここにこうして、数ある「題詠2009」の応募作品の中から、現<わたつみいさな>さんの作品を選び出し、その評を書こうとしているのは、思えばこれも何かの縁かとは思うが、不思議な気がしないでもない。
 現<わたつみいさな>さん、いつまでもお元気で。そして、カッコいいお名前を大切に。
 あれあれ、これは、現<わたつみいさな>さんの遺書ではないか? 
 でも、「作中の<わたし>≠作者」であるから、心配ないか? 


(新井恭子)
   不用意に受け取ってきた微笑みを並べて冬の星座にかえる

 パチンコの景品を現金に換えてくれる景品交換所があるように、私たちが日常生活の中で、不用意に「受け取ってきた微笑み」を、「冬の星座」にかえてくれる施設・「微笑み交換所」が在ればいい、と言うのかな。
 いや、そうではない。そんな便利な施設があったら、ただでさえ巷に満ち溢れている「微笑み」が、もっともっと増えて、交換所ではその処理に困るだろうから。
 作品中の女性<わたし>は、日常生活の中で他人から、彼女に向けて放たれた「微笑み」にしばしば遭遇する。遭遇した時、その「微笑み」の性格を一つ一つ分別して、「これはあなたが私に本当の気持ちを込めて投げかけて下さった微笑みだから頂戴します」「これは見せ掛けだけの微笑で、本当は私に対する軽蔑の念が込められたものだから、お返しします」などと、その受け取りの諾否を明らかにして、頂きたいものは頂き、頂きたくないものは頂かないようにすればいいのだが、不用意にもそのような選別をすることが出来ないまま、必要なものやら必要でないものやら、小さな身体に沢山の微笑みを抱えたまま帰宅してしまう。
 そこでその処理法として、その女性は、とある冬の夜、その微笑みを冷たい夜空に並べ、冬の星座に変える、というあどけない話なのだ。
 あれは乙女座、明るく心のこもった微笑みだけを並べた星座さ。あれはサソリ座、受け取った時、心にじくじくと突き刺さった微笑みを並べて作った星座さ。などなど。


(原田 町)
   あやしても笑わぬ児よと嘆きおり世の中そうそう甘くはないよ

 ハンドルネームは「俵万智」ならぬ「原田町」。さすれば、この作品の作者もまた、シングル・マザーなるか?それとも、その逆か?
 この作品の面白さは、「世の中そうそう甘くはないよ」と言っている者が、ひょっとしたら、作中の「あやしても笑わぬ児」なのではないか? とも思われる点にある。


(天野ねい)
   こんなとき君ならなんて言うのかな 僕は笑っているだけだった

  〔答〕 こんなとき僕も笑っているだけだ 君も笑っているだけだったけど
 あまりにもひど過ぎて、ただ笑って見ているしかない、という現実も確かに在るからな。一例を上げれば、あの<未曾有>の出来事。 


(日向奈央)
   さみしさで笑ってた日もあるけれどもう泣けるから大丈夫だよ

  〔答〕 一通り泣いた後にはまた笑え今度の笑いは本物笑い
 淋しくて泣く。嬉しくて笑う。これが常識だが、これを逆転して見せたのがこの作品の手柄。淋し過ぎて笑うしかない、という淋しさだって確かに在る。


(ジテンふみお)
   片笑みで佇むままの灯台もたまには発射すればいいのに

 「片笑み」とは、片方の頬に笑みを浮かべること、であるが、灯台の発光口を笑みを浮かべた片頬に見立てたのであろうか。
 それはどうだか分らないが、あの「片笑みで佇むままの灯台」に、「たまには発射すればいいのに」と呼びかけたのは面白い。
 灯台の形が宇宙ロケットに似ていることから、こんな奇抜な発想したのであろうが、その破れかぶれさに何とも言えない味わいがある。

 
(五十嵐きよみ)
   プロヴァンス訛りで話す人たちの笑顔に会って夏がはじまる

 「Wikipedia」の解説に拠ると、「プロヴァンス (la Provence) は、フランス南東部の地域である。『プロヴァンス』の名称は、ローマ帝国の属州(プロウィンキア、Provincia)であったことにちなみ、プロヴァンス語で Provènço や Provença などとも呼ぶ」とのことである。
 「地中海気候の影響が強いことから、フランス有数の観光地の一つであるが、円高の今日、この地方には、グルメや異性を求める日本からの観光客がうろうろしている」とは、昨年夏、この地方に一ヶ月滞在して、大枚三百万円を費やして来た、家内の従兄弟の話である。
 「題詠2009」をお一人で取り仕切る五十嵐きよみさんのことであるから、プロヴァンス旅行の五回や十回は当然しているはずで、現地には知人も少なくは無いだろうとは思われるが、私は、この作品中の「プロヴァンス訛り」を、「フランス南東部の地域・プロヴァンス」の現地人の話す「プロヴァンス訛り」では無くて、五十嵐さんの友人の日本人の話す「プロヴァンス訛り」と思って、この論を進めて行きたい。
 その理由は、ひとえに、私たちの「題詠2009」の輝ける主催者・五十嵐きよみさんと、円高を嵩に着て、「グルメや異性を求める日本からの観光客」とを同日に論じたくないからである。
 東京の青山界隈、その一廓に奇妙な訛りの日本語を話す日本人ばかりが住むマンションがある。そのマンションの名は「シャトー・プロヴァンス」。住民の話す日本語はプロヴァンス訛りなのである。
 彼ら、彼女らと五十嵐きよみさんのお付き合いはかれこれ六年に及ぶ。
 毎年夏の初め、「シャトー・プロヴァンス」の住民たちは、各々の友人である著名な日本人たちを招待してパーティーを開く。
 かくして、五十嵐きよみさんの「夏」は、「プロヴァンス訛りで」日本語を「話す人たちの笑顔に会って」「はじまる」のである。


(髭彦)
   をさなごの無邪気な笑ひ目に耳になによりうれし六十路のわれに

 「目に耳に」という三句目が決め手。
 「をさなごの無邪気な笑ひ」を、眼で捉え、耳で捉えて、「うれし」と思ったのである。眼で捉えたのは笑う表情。耳で捉えたのは笑い声。
 ともすれば放逸に流れがちなインターネット歌壇の中で、こういうしっかりした作風の歌に出会えるのは嬉しいことだ。

一首を切り裂く(001:笑)

001:笑(音波)
 泣くことは生まれたときから知っている 笑顔はたまに復習をする

 この作品もまた漢字とひらがなのバランスが良い。お題の「笑」とその対義語である「泣」を漢字書きにしたのは当然としても、その他に漢字表記することによってその語のイメージが特に強く喚起される、「生」「知」「笑顔」「復習」の四語を漢字で書き、その他の語をひらがな書きにしたのは、真に行き届いた配慮と言わねばならない。
 上の句と下の句の間を一字空きにしたのも良かった。これ在るがために、読者は、上の句を読んだ後ひと呼吸置いて、充分な予測と期待感とを抱いて下の句を読む。
 予め読者の抱いた予測は半ば当たり半ば外れるのであるが、読者は、その半ば当たったことに満足すると共に、半ば外れたことについては、そこに作者の創意を感じ、予測とは別に抱いていた期待感の空しからざるを知って満足するのである。
 内容について述べると、私たち人間のほとんどが産声を上げ、産声の全ては泣き声であることは 、誰だって知っている。しかし、私たちは普段の生活の中でそのことを特別に意識することはないし、そんなことは考えてもみない。
 そこで、「泣くことは生まれたときから知っている」という上の句を突きつけられると、それは、まるで神の啓示のように、私たちの生存に直接働き掛けて来るのである。
 特別に何を言われたわけでもない。それと意識しないまでも、そのことは誰でも知っているはずなのだ。しかし、私たちは、この上の句に出会ったとき、何か私たちよりはずっと崇高な者から、私たちの生存に関わる、何か特別なことを言われたような感覚で、その言葉を受け止めてしまうのである。
 一方、「泣くことは生まれたときから知っている」という言葉は、ただの人間が日常生活の中でなにげなく述べた場合でも、笑顔を失った私たち人間に対する諭しとして神様がのたまわった場合でも、その裏には、必ず、「だから泣かずに笑っていなさい」という意味が託されている。
 だから、仮に、この二つを上下に配置して、「泣くことは生まれたときから知っている だから泣かずに笑っていなさい」という一首を作ったとしても、それは韻律も合っているし、口語で統一されてもいるから、短歌と言えないこともないが、本質的には一つのことを二重に言ったに過ぎないから、それは、緊張感欠いた平凡な語句の羅列に過ぎなくなる。
 そこで発揮されたのが、作者・音波氏の表現技巧である。
 上掲の歌をもう一度記す。
  「泣くことは生まれたときから知っている 笑顔はたまに復習をする」、この一首を一首たらしめたのは下の句である。聞かせどころは「復習する」であるが、「たまに」も欠かせない。
 作者は生まれたまんまの、笑うことを一度も学習して来なかった人間ではなかったが、日常生活の忙しさの中で、ともすれば「笑顔」を失いがちになる。そこで、失いかけた「笑顔」を「たまに」「復習する」のである。
 この作品には、格別な難意語は使われていない。それなのに、その平易な語句を連ねて、しかも充分にユーモラスな口調で言った、その三十一音は、まるで聖書の箴言の一句のように、私たちの生存に響いて来る。
 すばらしい。作者の音波氏のために乾杯。

一首を切り裂く(序・001:笑)

                   「一首を切り裂く」序 
 のっけから『一首を切り裂く』などという、極めて不穏当なタイトルを突きつけられて戸惑う方がいらっしゃるかも知れない。インターネットというこの無限の空間に、突如あの切り裂きジャックが現れたかと思われて恐怖に慄く方もいらっしゃるかも知れない。
 だが、「一首」の「首」は人間の首ではなくて、短歌を一首、二首、三首と数える時の助数詞であるから、ご安心いただきたい。
 つまりは、この空間、即ち『一首を切り裂く』というコーナーで私が行おうとしていることは、「題詠2009」に投稿された短歌の中から、私が任意に選定した作品を俎上に載せて、徹底的に分析し、論評し、併せて鑑賞しようとする試みなのである。もっと端的に言うならば、選定した作品を徹底的に切り刻み裂き、褒めるべきところは褒め、貶すべきところは貶し、時にはバーチャルな表彰式を催して楽しみ、時には推敲を試みたりもするのである。
 しからば、私が、どのような基準で以って作品を選定し、どのような方法で以って作品を切り裂くかと言うと、切り裂きの方法はともかく、作品選定の基準は次の通りである。
 ① 私は私自身の勉強のために、「題詠2009」の投稿歌の中から「一首を切り裂く」の俎上に載せる作品を選定する。
 ② 私が選定してこの「一首を切り裂く」の俎上に載せた作品は全て、今後の私の創作活動になんらかの示唆を与え、ともすれば日々衰え行く、私の脳機能及び身体機能の活性化に貢献すると思われる作品である。
 ③ 私はどちらかと言うと、優れた短歌に興味を感じ、優れていない短歌には興味を感じない種類の人間であるから、私が選定する作品は、私自身が何らかの理由で、「この短歌は優れている」と判断し、「この作品について考察するために、残り少ない私の生存時間の一部を使っても構わない」と判断した作品である。
 ④ 私は、私の定めた上記「①②③」の基準で以って、「題詠2009」の投稿歌の中から、この「一首を切り裂く」の俎上に載せるべき短歌を選定し、徹底的に切り刻み、時には、その改作案を提示することもあるが、それはあくまでも私自身の学習のために行うのであって、その受け入れを作者に強要するものではない。
     
 以上の通りであるので、宜しくご寛容のほどを。
                            平成二十一年二月二十六日        鳥羽省三         


             一首を切り裂く(その1:笑<A>)

(月下燕)
 メールから(笑)をぬいてみてきみの笑顔の意味がわかった                                                                 (笑)・・・かっこわらい

 このコーナーを開設するに当たって、私は、その最初の犠牲者と言うか、私が選定し、私が切り刻むべき対象作品の第一号は、それに相応しい鑑賞しごたえのある作品で無ければならないと思っているが、それと同時に、出来得るならば、その作品は、この「題詠2009」の企画にいち早く参加され、いち早く投稿された方の作品にしたいものだと願っている。
 こうした私の願いは、必ずしも叶えられるとは限らない。何故なら、投稿第一号の作品は、この企画が投稿開始以前に破綻しない限り存在するが、それが必ずしも「鑑賞しごたえのある作品」とは限らないからである。
 しかし、私の心配は杞憂に帰し、私の切なる願いは叶えられた。
 ありがとうございます、月下燕さん。そして、おめでとうございます。そしてそして、お気の毒様です。拠って、ここに表彰状を呈上する。(なんちゃって)。

 それならば早速本題に入るが、先ず、この作品の作者の月下燕さんは、ご自身の作品が、記念すべき投稿第一号になることを充分に自覚され、更には、インターネット上で行われる歌会の最初の投稿作品は、どのようなものでなければならないか、ということをも強く自覚されていたものと思われる。
 即ち、作品中の上の句に、「メール」及び「(笑)」という、インターネット通信を象徴するような用語を用いているのである。しかも、この種の作品はややもすると推敲不足の字足らず短歌と看做されるに違いないことを危惧して、「(笑)・・・かっこわらい」という、鑑賞に利するための注記を付すなど、その配慮は万全に行き届いている。
 漢字とひらがなの按配もなかなかである。ライト・ヴァースと言うか、この種の短歌の創作に慣れない私なら、つい、うっかり「メールから(笑)を抜いてみて君の笑顔の意味が解った」などと、必要以上に漢字を多く使ってしまうに違いないが、それをそうしないで、「メールから(笑)をぬいてみてきみの笑顔の意味がわかった」としたのは、お題の「笑」及び、この作品の肝心要のカンカンお臍に相当する「(笑)」を目立たせ、あくまでも主役に押し上げようとするための配慮に違いない。
 私のような年配者なら、漢字を使えるのにひらがなを使っている作品に出会うと、つい、作者の国語力や常識を疑ってしまうことがあるが、この作品の作者・月下燕さんは、それを充分に承知されたうえで、敢えて、このような行き届いた配慮をなさったものと思われる。すばらしい。
 もう一点、この作品の優れた点を上げると、一首に、「メールから(笑)をぬいてみてきみの笑顔の意味がわかった」とありながら、私たち読者には、作品中の<わたし>が、「きみの笑顔の意味」を、どのように「わかった」のかがまるで分らない。そこが、この作品のもう一つの優れた点なのである。
 私は、私自身の依怙地な短歌観として、「短歌には一点、謎めいた箇所がなければならない。その謎めいた箇所の有無が、その短歌の鑑賞に読者を誘うか否かを決める鍵である」と思っている。
 作者と作品中の<わたし>は、「きみの笑顔の意味がわかった」と言ってはいるが、作者でも作品中の<わたし>でもない私たち読者には、その「意味」とやらがさっぱり解らない。そこで、「何か、その『意味』を理解する手だてはないかしら。上の句に『メールから(笑)をぬいてみて』とあるから、その「メール」とやらを見てみたいものだ、(笑)を抜いた形と抜かない形で」とまで思ってしまう。
 作者の策略にまんまと嵌まり、私たち読者は「月下燕」地獄に陥ってしまったのである。
 この作品の作者の<月下燕>氏とは、女性か?男性か?
 女性ならば彼女は魔女。男性ならば彼は間男、いや悪魔。

 今日はなんだか、やたらに褒めまくってしまったようだな。でも、お祭だから。  
 

『題詠2009』への投稿作品と作者自身によるその注釈(そのⅢ)

021:くちばし(鳥羽省三)
 くちばしの黄色い秋刀魚が新鮮と妻は秋刀魚を血眼で選る

 今から四半世紀ほど前までは、 「お前という奴は、くちばしの黄色い分際でよく口出しをする」などと言って私を叱ってくれる人が沢山居たが、彼らの大半はあの世に旅立ち、生き残っている人たちも今ではすっかり元気を失ってしまった様子だ。かつての厚顔の美少年の私もそれだけ年取ったということかな。
 人間と同じように、秋刀魚も取れ立てで新鮮なうちは嘴が黄色い。
 いや、そういう言い方は本末転倒だ。新鮮な秋刀魚の嘴が黄色いことから、年若い人間を貶して「お前は嘴の黄色い分際で」などと言って叱ったのだ。
 でも、嘴が黄色いことは秋刀魚の場合はいいことなのに、人間の場合は良くないことなのは、どうしてだろうか?
 とか何とか言って、例によってかなり原稿料を稼いでしまったけど、我が家の奥方は秋刀魚が大好きで、私の嫌いな秋刀魚の塩焼きをむしゃむしゃ食べる。そして、食べる秋刀魚が無くなると、毎日でも魚屋に通って秋刀魚を買い求めて来る。
 魚屋のトロ箱から秋刀魚を選る時の奥方の目は真剣だ。少しでも嘴が黄色くて大きいものを、との一心で、血眼をして秋刀魚の識別をする。そういう時私は、秋刀魚の黄色い嘴と奥方の血眼とを、冷たい目をして見比べている。何を隠そう、ローマン主義的な歌ばっかり作って笑われている私の実態は、冷静な観察者なのだ。
 秋刀魚を選る時の奥方が血眼になる理由は二つ。
 一に、秋刀魚が好きだから。二に、亭主の私が無職、無収入だから。
 いや、「亭主の私が無職・無収入」というのは少し言い過ぎだ。こんなやくざな私でも、毎年毎年、減額されて行くばかりだけど、公務員共済会本部から二ヶ月ごとに送られて来る、年金ってものがあるからさ。だから、無職ではあっても無収入ではないわけだ。
 でも、それだけでは、とてもじゃないけどやって行けないから、最近、奥方はお犬様のご衣裳作りに励んで居られる。でもでも、お犬様のご衣裳は、作っても作ってもさっぱり売れないし、結局は友人や親戚の人などにただで進呈してしまうことになるから、自分が大好きな秋刀魚を選る時の奥方の眼は血眼になるわけさ。
 そういうわけだよ。これで奥方と秋刀魚のお話はおしまい。


022:職(鳥羽省三)
 「有職」は「故実知る」の意、世に謂へる「無職」とふ語の対義語でなし
 
 初稿は、「涜職に汚職に無職・管理職 職の付く語は碌なもの無し」という、かなり創作意欲を喪失した状態で作ったもので、それをそのまま投稿した。
 しかし、トラックバックをし終えた瞬間、憎悪感覚だけで作り、まるで反吐を吐くようにして詠み捨てたその作品に嫌気がさし、掲出作品のように改めて再投稿したのだが、時すでに遅く、再投稿作品は「題詠2009」の再投稿規程の範囲を越えているから、主催者の五十嵐きよみさんに見つかったら怒られるかも知れない。
 でも、五十嵐きよみさんを怒らせるのも面白いかも知れない。あの美人(?)が血相変えて怒って、スパニッシュ訛りか何かの日本語でまくし立てたら、どんなに怖いことだろうか。家内の妹の愛犬のクロちゃんだったら、震え上がってションベンちびるかも知れない。
 閑話休題。「有職」は<ゆうそく>と読み、「貴族社会や武家社会などの古くからのしきたりや行事に関する知識(を知ること、または人)」の意。通常は「有職故実」という四字語として用いられる。
 自慢して言うわけだけれど、筆者は、その昔、河鰭実英氏というその道の最高権威から、「有職故実」学を学んだ。
 その最高権威者の直弟子が、有職の反対(ではない)の無職とは、とほほほほほ。ああ、なんとなさけなや。
 

023:シャツ(鳥羽省三)
 身に合ったシャツが無いから浴衣着て下から読んでも山本山は

 初稿は、「ネルシャツを寝るシャツなどと覚え居し息子も今は二児の父なり」であったが、いくらなんでも、と思って投稿しなかった。
 「作品中の<わたし>≠作者の私」というタブーを破ってまで、敢えて問わず語りをするが、我が家の長男は、中学時代のある日、誰から授けられた知識なのか、ネルのシャツを買って来て、すまして言う。「このシャツは最近流行のネルシャツだ。これを着ていないと女の子にもてないから買ったのだ」と。
 ところが、ある晩、その長男がその自慢のネルシャツをパジャマ代りにしてベットに入っているのだ。それを見た妻が、理由を訊ねると、「寝る時に着るからネルシャツと言うんだ」と、真面目な顔をして答えたそうだ。妻は私に、「あれは冗談ではなくて、本当にそう思っているから、そう言ったんだよ」と言って、一件の披露に及んだ。 
 話を投稿作品に戻そう。
 昨今話題の、体重四分の一トンの、あの大相撲力士・山本山が浴衣を着て出歩くのは、身の丈に合ったシャツを持っていないからではなく、「力士たる君らは、ジャージーやTシャツなどを着て出歩いてはいけない。外出する時はきちんと浴衣を着なさい」という、理事長や親方の言いつけを守って、そうしているのだろう。
 そうと知りながら、「身に合ったシャツが無いから浴衣着て」と言ってしまうところが、この作品の作者の恍けたところであり、この作品の面白いところでもある。
 それに続けて、日本橋の老舗<茶舗・山本山>」の宣伝文句である「下から読んでも山本山」を、そのまま下の句としたのも秀逸である。
 自慢して言うのだけれど、私は、「題詠2009」の投稿作品の中のせめて5%くらいの作品が、このくらいのレベルの作品だと、主催者の五十嵐さんは、たちまちラスベガスに別荘を持てるような金満家になれるだろう、と勝手に思っている。


024:天ぷら(鳥羽省三)
 天ぷらや命あっての武勇伝 鳶ノ巣攻めではほとほと死にき
 
 一見、継ぎ接ぎだらけで、なにがなんだか分らない作品ではあるが、テキストを凝視していると、次第にある光景が思い浮かんで来る。
 先ず、「鳶ノ巣攻め」と「命あっての武勇伝」から、あの天下のご意見番・大久保彦左衛門が導き出され、そして、五句目の「ほとほと死にき」からは、「万葉集巻15」所収の狭野弟上娘子が恋人・中臣宅守に贈ったとされる相聞歌、「帰りける人来たれりと聞きしかばほとほと死にき君かと思ひて」と、その作者・狭野弟上娘子が導き出される。
 作品中の語句で残ったのは、初句の「天ぷらや」だけである。「天ぷらや」の「や」は、ひらがな書きをしているからには、まさか「天ぷら屋」の「屋」ではあるまい。おそらくは、「松島やああ松島や」の「や」だろうから、この際は関係ない。
 「天ぷら」関係で何かないか。「天ぷら」とこの作品中の他の語句や、他の語句から導き出された事柄とを関連させてもいい。
 こうして、あれこれ思案しているうちに、「天ぷら」と、先ほど導き出された大久保彦左衛門との関連で、一人の重要な人物が浮かび上がる。
 その人物とは、徳川家康、東照大権現様である。徳川家康は大久保彦左衛門の主君。
 そして、後々「天下のご意見番」として、一方には頼もしがられ、他方には煙たがられた大久保彦左衛門が、自分の武勇伝として語った、「一番乗り、一番槍」の大手柄を立てたのは、徳川家康の旗本として出陣した、「鳶ノ巣・文殊山の初陣」に於いてのことであった。しかも、その大久保彦左衛門の主君の徳川家康の死亡を巡っては、「天麩羅中毒説」が囁かれている、ことに気が付く。
 これで決定。
 後は、この三つの要素を適当に繋ぎ合わせて行けばいい。つまり、この作品は、徳川家康、大久保彦左衛門、そして万葉の狭野弟上娘子のコラボレーションないしはパッチワークなのである。
 主役の<わたし=話者>は、勿論、大久保彦左衛門。掲出作品の中身は、この大久保彦左衛門のモノローグなのだ。
 以下、彦左衛門の独白。
 「天麩羅か。天麩羅も食いたいけど、命が惜しい。なにしろ、わしの主君の東照大権現様には、天麩羅に罹ってお亡くなりになられた、という噂があるくらいだからな。そうなるとわしたち、徳川家の家臣にとって、天麩羅はお家に仇なす仇敵というわけだ。わしは今でこそ、天下のご意見番などと呼ばれて、調子づいたら、あの徳川三代将軍、家光公にまで意見を申し述べたり、武勇伝を語ってお聞かせ申しているけど、それも命あっての物種。天麩羅など食わずに摂生しているからだ。」
 「命あっての物種と言えば、わしがいつも語り草にする、鳶ノ巣文殊山の初陣には、少し裏話があるのだ。あの鳶ノ巣攻めでは、わしが一番乗り、一番槍の大手柄を立てたことになっていて、わしはこないだも、家光公にその話を語り申して、公の近頃の不摂生をお戒め申したが、本当のことを言うと、あの時、わしは、<ほとほと死にき>という状態だったんだ。」
 「待てよ。わしは今、なんと言った。なに、<ほとほと死にき>だって。<ほとほと死にき>といったら、あの万葉集にある、狭野弟上娘子の歌ではないか。確か、『ほとほと死にき君かと思ひて』と言って、彼氏に贈ったというやつだ。つまりは、『死ぬ、死ぬ』というわけか。わしも『死ぬ、死ぬ』って言わせてみたいな。若い娘っこに。」とかなんとか。
 私の作品は、解り易いの唯一の取り得なのだが、たまには、こんな解り難いのが在ってもいいだろう。
  

025:氷(鳥羽省三)
 氷下魚(こまい)とてその身の白き魚あり凍れる海を割りて漁る

 初稿のまま投稿したが、投稿後に思いついた、「北洋に氷下魚とふ名の魚居て凍れる海を割りて漁る」と比較してどちらが勝るか。
 インターネット歌壇有数の論客として知られる水口涼子さんがわざわざメールを寄せられて、投稿作品の方に軍配を上げたから、そっちの方が良かったのだろう。
 

026:コンビニ(鳥羽省三)
 コンビニは真夜を灯して煌々と夢失ひし僕を誘ふ

 初稿は「『アノコンビニハカナワヌ』と遺書残し<かめの>は逝ったKⅠの朝」というお笑いネタだった。「かめの」は「鶴野」の裏。「KⅠ」については語るを要すまいが、空手ではないよ。お笑いだよ。
 初稿を作った時、私は、「コンビニ」と言っても「コンビニエンス・ストアー」の略称としての「コンビニ」ではない、カタカナの「コンビニ」は無いか、と無い知恵をさんざん絞った。その挙句、遺書の中身をカタカナ書きすればいいことに気が付いて初稿に行き着いたのである。
 でも、お笑いネタでは一笑に付してしまわれるだけだから、と思って没にした。
 掲出作品については、類想歌の存在が気になるが、コンビニエンス・ストアーの略称としての「コンビに」を詠めば、だいたいこんな内容のものになるだろうとも思う。
 コンビニの灯りは誘蛾灯の役割を果たしているのだ。目標を失ったコンビニ族は現代社会の「蛾」なのだ。
 作者の私は投稿作品を、「褒められもせず。苦にもされず」といった程度の作品か、と思っている。


027:既(鳥羽省三)
 「既往症無し」と記して澄ましてる未往症なら数え切れぬが

 うーん。分る。分る。世の中に病気持ちは多いからね。誰だって、病気の一つ二つを持っているからね。一つも持っていない奴は頭の病気とか。
 「未往症」とは、「未だ往かざる症(状)」ということで「未だ治っていない病気」のこと。
 これとは別に、「既発表になってしまうが気にせずに『2009』には佳作を出そう」という作品も作ったが没にした。吹けば飛ぶような作品を作って、「やれ既発表だ。未発表だ」などと、大真面目に騒いでいる、いわゆる「歌人ちゃん」たちを揶揄しようとしたのだが、その祟りが恐ろしいので止めたのだ。


028:透明(鳥羽省三)
 週末の息子はビニール身に纏ひ透明人間パパマン一号

 ああ、涙ぐましい。その昔、息子二人のために、私がやっていたことを、今、娘二人の親になった長男が夢中になってやっているのだ。その様を見ていると、私は、つい、「作中の<わたし>≠作者の私」という公式を忘れてしまうのだ。失態、失態。
 今日、家内の田舎に電話して、「<透明人間パパマン一号>の留守宅に、秋田こまち三十キロを送って下さい」とお願いした。勘定はもちろん、パパマン〇号持ち。
 透明人間パパマン一号は目下、大阪に単身赴任中。本当の透明人間になったのだ。

〔追伸〕 
 昨晩、透明人間パパマン一号宅から℡あり。孫娘二人も電話口に出て、「おいしいりんごありがとう。わたし丸ごと食べちゃった。それからね、昨日パパが大阪から帰ってきて、私のお弁当を作ってくれたの。でも、幼稚園では給食だったから、私二つとも食べちゃった」と次女。長女は「美味しいお米ありがとう。前に送ってもらったのがちょうど無くなりそうだったから、とても嬉しいと、ママも喜んでいたよ。りんごも美味しかった」と。
 小学二年生の子にお米の御礼を言われたのは初めてだ、と家内は喜ぶ。また送ってやろうかな。


029:くしゃくしゃ(鳥羽省三)
 くしゃくしゃの紙は丸めて捨つるより皺を展ばして尻拭くが良し

 少し汚かったかな。出た後は、よく手を洗っとけよ。
 これとは別に、「くしゃくしゃの人生だからと彼は言う ぐしゃぐしゃよりはいいではないか」という、惨めったらしいのも作ったが没。


030::牛(鳥羽省三)
 「うしの日にむなぎ召せ」とふ「うしの日」は「丑の日」にして「牛の日」でなし

 「石麻呂にわれもの申す夏痩せによしといふものぞむなぎとり召せ」という、万葉集の大伴家持の和歌に唱和したつもりであるが、果たしてどうか。 
 「十二支」の二番目の動物は、「丑」であって、「牛」ではない。それなのに、最近の鰻屋は「牛の日です。夏痩せしないように鰻を召し上がれ」などと書いた貼り札を貼っている。

『題詠2009』への投稿作品と作者自身によるその注釈(そのⅡ)

011:嫉妬(鳥羽省三)
 嫉妬とふ単語に女ふたり居て互ひに嫉(そね)み妬(ねた)み合ひたり

 初稿は「嫉妬とふ言葉に女二人居て互ひに妬(ねた)み嫉(そね)み合ふとか」であった。末尾を「合ふとか(聞く)」とすることによって、「嫉妬という言葉の中に女が二人棲息して居て、その二人の女は互いに相手を嫉妬し合っている、と誰かから私は聞いた」という伝聞形式にしたのだ。
 この場合、作品全体の話者としての<わたし>は、「嫉妬とふ言葉に~~(中略)~~妬み嫉み合ふ」という話を、誰かから聞いた<わたし>であって、その<わたし>にその話を聞かせた<誰か>とは別人である。つまり、一作品の中に、作品全体の話者と、その話者にある話を聞かせた、その話の話者がいるのである。
 初稿を投稿して間もなく、私(=作者)は、伝聞形式のその初稿が気に食わなくなった。
 一作品の中に話者が二人存在する(それはよくあることだが)などというのはややこし過ぎるからである。
 そこで、作品の内容を「~という話を、誰かから私は聞いた」などという間接的な形にせずに、「私は~した」という直接的な形にしようと思った。
 掲出の作品、「嫉妬とふ単語に女ふたり居て互ひに嫉(そね)み妬(ねた)み合ひたり」は、こうした次第を経て出来上がった。
 伝聞形式から直叙形式に改めたわけであるが、ことのついでにと思って、「言葉」を「単語」に替え、「妬む・嫉む」の語順を「嫉妬」の文字順に合わせて入れ替えもした。
 「言葉」を「単語」に改めた件は、もしかしたら、初稿のままの方が良かったかも知れない。だが、「女(が)ふたり」の「ふたり」と「単語」の「単」とを比較対照化したいと思ったので、敢えて「単語」に改めた。
 「単語に女(が)ふたり居て」とは、「一軒の家に<女>が二人居て」、つまり、妻妾同居の形である。
 ところで、「題詠2009」のブログを開いて「011:嫉妬」という<お題>を見た時、私は困惑してしまった。何故なら、この「嫉妬」という語こそ、短歌にとって最大のテーマ、恐らくは「短歌そのもの」と言ってもいい語であると、かねがね思っていたからである。
 「蝌蚪生れし水のよろこび水の面に触れてかがやく風のよろこび」と、雨宮雅子氏は自然への嫉妬心をあからさまに歌う。
 「杖すでに用なくかへす傘立てにすとんと棒にかへりゆきたり」と、春日真木子氏は、生前にその「杖」を愛用していたご父君・松田常憲氏の死亡に伴って無用となってしまって、一本の棒と化してしまった「杖」にさえ嫉妬し、それわ歌に託して憚らない。
 「嫉妬心」を歌った作品の例として、女流歌人二人の作品を上げたのは、このお二人が、私が七回生まれ変わっても及ばないような優れた歌人だからである。彼女たちは、嫉妬の対象とされこそすれ、彼女らご自身が嫉妬するなどとは、私は思ってもみなかったからである。
 嫉妬心を短歌に託するのは、何も女流歌人ばかりではない。
 今や、歌壇の一方の旗頭となってしまった感のある、高野公彦氏の学生時代の作品に、「悲しみを書きてくるめし紙きれが夜ふけ花のごと開きをるなり」(『水木(昭59)』より)という、人口に膾炙した佳作があるが、高野氏がこの作品を発表される数年前に刊行された森岡貞香氏の歌集『白蛾(昭28)』に、「生ける蛾をこめて捨てたる紙つぶて花の形に朝ひらきをり」という、全く同趣向の作品が掲載されている。
 私は、これを以て、高野公彦氏が森岡貞香氏の作品を模倣したとは思わないが、もしかしたら、当時の大学生歌人・高野公彦氏の胸中に、森岡作品への嫉妬心があったのかも知れない、とは思っている。
 大学生歌人だけではなく、一人前、いやそれ以上に有名な大歌人だって嫉妬する。
 あの塚本邦夫氏に、「五月祭の汗の青年、病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる」(『装飾樂句(昭31)』より)という嫉妬心の権化のような作品があるが、それは若気の至りとしても、もう一つの、「雉食へばましてしのばゆ再(ま)た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ」(『緑色研究(昭40)』より)は、彼の全盛期の作品であり、彼の代表作の一つであるだけに、絶対に見逃すわけにはいかない。
 このテキストから読み取れるものは、自分より強健で、自分より有名で、自分よりもかなり獣性に勝った同性への激しい敵愾心と燃えるような嫉妬心である。
 私の歌は彼、彼女らの手になる歌からすれば、まるで屁のようなものであろうから、こうして嫉妬心の火達磨と化してしまったような彼、彼女らの作品に接する時、まさか高野が、まさか塚本が、という思いに囚われてならない。
 この稿を書き進めながら、気分転換にと思って、たまたま「題詠2009」の投稿歌を見ていたら、水口涼子さんと仰る妙齢の女性(?)の方の御作として、「必ずや探し出されて君といるタイガーバームに嫉妬している」という傑作が目に入った。何と驚いたことに、この広い世の中には、あの塗り薬のタイガーバームに嫉妬している女性だっているのだ。しかも、その女性は、ひょっとすると変態と思われるかも知れない、ご自身のあまり褒めたものでもないご性格を、堂々と短歌に託して、満天下にご披露に及んでいるのである。
 ことほど然様に、「嫉妬」と短歌との関係は深いのである。
 と言うわけで、あれこれと悩みの尽きない私は、苦肉の策として、「嫉妬」そのものを主題とせずに、「嫉妬」という文字を題材にして一首をものすることに決めた。戦国時代の武将が、敵の正面からの攻撃が無理だと悟った時に、よくやる戦法だ。つまり、搦め手戦術というやつだ。
 おそらく古代中国人の仕業であろうが、彼らは迂闊にも、「ねたみ・そねみ」を意味する、「嫉妬」という言葉の、「嫉」の字も、「妬」の字も、「女偏」の字として作って下さった。これは、今ならばウーマン・パワーに一蹴されそうな大失敗であろうが、私は、この古代中国人のしでかした大失敗につけ込んで、上掲の一首を作ったのである。 
 「嫉妬」という一単語の中に二人の女が棲息しているという、このささやかな発見は、作者の私にとっては、コロンブスの卵にも、ニュートンの林檎にも等しい大発見であった。


012:達(鳥羽省三)
 「達者でナ」なんて演歌もあった気が駿河銀行テッシュも呉れぬ

 「『達者でナ』なんて演歌」を三橋美智也が歌ってヒットさせたのははるか昔のことであって、今となっては、作詞者、作曲者の名前も忘れてしまい、歌詞さえ曖昧にしか覚えていない。
 掲出の作品は、その「達者でナ」という演歌のタイトルを含む一連の語句、「「『達者でナ』なんて演歌もあった気が」を、それと直結する掛詞の部分、即ち、「するが=駿河」を呼び起こす序詞として用いたものである。従って、この作品の意味のある部分は、「駿河銀行ティッシュも呉れぬ」という下の句だけということになる。
 但し、万葉時代に起源を持つ、この序詞には、作品中のある語を呼び起こす役割を主たる任務としながらも、それ自体にもなんらかの意味を持たせて使っている<有心の序>と、そうではない<無心の序>とがあり、拙作では、序詞に当たる「『達者でナ』なんて演歌もあった気が(するが)」という部分にも、作品中の<わたし>が、昔のことを懐かしむ、といったような何らかの意味を託していると思われるので、これは、どちらかと言うと<有心の序>である。
 そこで、この序詞の部分を有心とした上で、この作品の口語訳をするとこうなる。
 鳥羽の爺は未だに達者ということだが、そう言えば、かなり昔、『達者でナ』なんてタイトルの演歌があったような気がするが、今となっては、作詞・作曲者の名前はおろか、歌詞さえもうろ覚えになってしまったよ。待て、今、私はなんて言った。そうだ、「演歌があった気がするが」と言ったんだ。その<するが>で思い出したのだが、横浜の若葉台にある「駿河銀行」銀行、俺がせっせと貯金をしているのにティッシュも呉れない。しけた銀行だよ全く。
 作品中の<わたし>は、仕事仲間と二人で駅のベンチかどこかで、ワンカップでも空けているのだろう。すると、下の句の「駿河銀行ティッシュも呉れぬ」は、仕事の疲れから発する愚痴であり、日頃からサービスの悪い駿河銀行に対する、呪いの言葉でもあると思われる。そうなると、この七七は、「駿河銀行潰れてしまえ」と替えても差支えがないだろう。


013:カタカナ
 カタカナで書けば<ステキナワタシ>だが鏡を見ても素敵な私

 初稿は、「『カタカナで<カホリ>と書くが呼ぶときは<かおり>と呼んで』と妹は言う」であったが、あまりにも馬鹿馬鹿しく思われたので棄ててしまって、上掲の形で投稿した。でも、投稿した方がもっと馬鹿馬鹿しいカモ。
 でも、あの斉藤斎藤の歌をからかう役割は少し果たせたカモ。
 斉藤斎藤流にやれば、「カタカナで書けば<ステキナワタシ>だが漢字で書けば<素敵な私>」となるのだが、作品中の<わたし>は彼よりはかなり頭脳明晰だから、「カタカナで書けば<ステキナワタシ>だが鏡を見ても素敵な私」と、自惚れてみたのだろう。
 

014:煮(鳥羽省三)
 「小豆汁煮えた?」と問はれ「小豆汁煮えた」と言へば殺されるお噺

 子どもの頃に、真中で目隠しをして屈まっているオニの回りを、「あーぶく立った、煮えたった。煮えたか、煮えねか、食べてみろ」と歌いながら、手をつないだ数人の子どもたちが周り、歌い終わって外周の子どもたちが止まると、真中のオニが、「もう煮えた」か「まだ煮えね」かのどちらかの答えを言う。その時、オニの答えが「まだ煮えね」だったら、外周の者たちは再び歌いながら回り出すが、「もう煮えた」だったら、オニの直後に止まっていた者の身体を、目隠しをしたままのオニが触り、「あっ、これはおっぱいがおおきいからカズ子だ」「あっ、これはあそこが直立しているから、眞作だ」などと名前を言う。オニの言った名前が、言われた本人の名前と的中したら、その者が次のオニ。的中しなかったらオニの交代はなしで、また同じことが繰り返される、といったような遊戯があった。
 歌う歌詞は少しずつ違っていても、ゲームそのものは、それほど変化なく全国各地で行われていたと思われ、私とは郷里を異にする小島ゆかりさんが、この遊戯に取材したと思われる短歌を作っていた。だが、その内容は忘れてしまった。
 この遊戯で歌う歌の、私の郷里での歌詞は、「小豆かいかい、煮かいかい。煮れたか煮れねか、食べてみろ」だった。オニの答えは「もう煮れた」「まだ煮れね」。
 上掲の作品は、この遊戯唄の元となった昔話に取材したものである。
 この怖い昔話を、家の年寄りが子ども達に語ってくれるのは、決まって真冬。子ども達が囲んでいる囲炉裏の自在鍵に掛けられた大鍋の中では、前年の秋に畑で取れた小豆がぐつぐつぐつと何事かを呟いていた。その怖かったこと、恐かったこと。
 

015:型(鳥羽省三)
 「型枠を組めば仕事は半分さ」 左官屋さんは誇るがに言ふ

 「型枠」とは、家屋の土台のコンクリート打ちなどをする時に作る木製の枠。コンクリートが一定の形で固まるようにするための仕掛けである。
 左官屋さんとは、元々、家や土蔵の壁を塗るのが本業であるが、今となっては、白壁を塗った家などほとんど建てないから、昨今の左官屋さんは、大工の棟梁から頼まれてするコンクリート打ちを本業のようにしている。
 型枠組みの上手下手は、その後の作業工程や家屋の強度や工賃とも密接に関わるから、型枠組みを自分の思い通りにし終えた時、「『型枠を組めば仕事は半分さ』」と「左官屋さんは(自分の腕前を)誇る」ようにして「言ふ」のである。
 「誇るがに言ふ」の「がに」は、「~~せんばかりに・~~するかのように」の意味で用いられる副助詞である。この上代語を現代短歌の中で使うのは、なるべくならば避けたいと、私はかねがね思っていた。だが、この作品の場合は、他に適当な表現方法が見つからなかったのでやむなく使った。


016:Uターン(鳥羽省三)
 シャッター街はつばくらめのみ新しくUターンせし吾を斬るがに飛べり

 中村草田男の処女句集『長子』に、「町空のつばくらめのみ新しや」という名句があることは、どなたもご承知のことと思われる。掲出作品はその名句へのオマージュとして作った。
 もしも、お題に縛られなかったら、おそらく私は、この歌の第四句を「帰郷者われを」としたに違いない。しかし、投稿後によくよく熟慮したら、この一首はこのままでいいのだという結論に達した。
 何故ならば、「帰郷者われを」ではなく、「Uターンせし吾(わ)を」にしたことによって、「つばくらめ(燕)」の<直線的飛行>と、「吾」の<曲線的行動>」とが、具体的に比較され、それが、次句の「斬るがに飛べり」という後ろめたい感情を述べた語句を呼び起こすことになると思ったからである。
 ところで、短歌の解釈や鑑賞の基本は、テキストとした作品の徹底的な読みである。
 しからば、このテキストから何を読み取り得るか。ごく普通の人であれば、このテキストから読み取りうるものは次の四点であろう。
 ① 作品中の「吾」は都会から故郷にUターンした。 
 ② その時季は燕の飛び交う初夏である。
 ③ Uターンした故郷は、寂れてシャッター街と化していた。
 ④ 寂れた街並みに較べると、そこに飛び交う燕の姿は新鮮だった。

 この四点に基づいてテキストを解釈すれば、次のようになるだろう。
 
 初夏、久しぶりに帰郷した故郷は、すっかり寂れ、目抜き通りの商店はあらかたシャッターを閉めていた。そのシャッター街を燕が飛び交っていたが、シャッター街の暗さに比べ、飛び交う燕の姿は新鮮だった。

 わずか三十一音に過ぎない、この一首から読み取り得る情報としては、これで充分かとも思われるが、私の考えでは、この一首を真に鑑賞したと言うためには、もう一つ二つ何かが欠けているのではないだろうか。

 その欠けている一つ二つとは何か。それは次の二点である。
 ⑤ 作品中の「つばくらめのみ新し」という語句は、中村草田男の処女句集『長子』の句「町空のつばくらめのみ新しや」からの抜粋であること。
 ⑥ 「つばくらめ」「斬るがに飛べり」という語句から、あの佐々木小次郎のつばめ返しが呼び起こされ、そこから作品中の「吾」の抱いた罪悪感が呼び起こされること。

 上掲の①②③④に加え、この⑤⑥を考慮に入れて、この一首を解釈すれば、次のようになり、ようやく鑑賞の域に達する。

 初夏、これまで都会に出て働いていた私は、何かと気苦労の多い都会暮らしを止めて、久しぶりに故郷に帰って来た。だが、私を迎える故郷の街はすっかり寂れ、目抜き通りの商店のシャッターは軒並み閉じられたままで、その街並みを燕が飛び交う様だけが新鮮であった。燕と言えば、私は直ぐ、あの中村草田男の有名な句を思い出すが、私を出迎えてくれるこの街の燕たちは、中村草田男を出迎えてくれた、松山の燕とは異なって、何故か、その飛び交う様子が鋭く、まるでUターンした私を斬り裂くような感じなのだ。ああ、この街を故郷として帰って来た私は、家の長男として、一体何を為し得るのだろうか。 
 
 語法的なことについて述べると、またしても「がに」である。「ごと」か「がに」かの選択を迫られたのであるが、音感の関係でやむなく「がに」を使ってしまったのである。

   
017:解(鳥羽省三)
 人質の解放待てるテントからどっと上がった喜びの声

 クーベルタン精神の発揮。投稿することに意義があると感じて作っただけの作品だ。私の脳裡に在ったのは、あの「在ペルー大使公邸占拠事件」であったが、あまりにも旧聞に属することなので、「題詠2009」への参加者のほとんどの方の記憶には残ってはいないだろう。
 これとは別に、「人質の解放などは二の次で犯人逮捕を急げとの沙汰」というのもあるが、これの解説をすると、国家機密を暴露しかねないので已めた。


018:格差(鳥羽省三)
 国民に格差在りやと謂ふがごと元旦参賀の日の丸の波 

 テレビ画面でしか見たことはないが、毎年行われている、あの元旦参賀って凄いよな。人、人、人、人、人、人、人、何処まで行っても続く人の波だ。旗、旗、旗、旗、日の丸の旗。どの人も、どの人も、日の丸の旗を振っているのだ。
 あの光景を目にしたら、皇室の方々がいくら頭脳明晰でいらっしゃったとしても、「民の竈は賑わいにけり。朕が民草に格差などなし」と来ちゃうよな。別に憎かったり、羨ましかったりして言うのではないよ。要は、ご皇室の方々もお忙しくて大変だ、と申し上げたいのだ。


019:ノート(鳥羽省三)
 ノート型PC抱き売りに行くときPCは啼くに非ずや

 初稿は、「ノート型PCを抱き売りに行くときPCは欲情せずや」であったが、五句目中のニ文字・「欲情」が、<goo>ブログの検問に引っかかることを危惧して、掲出の形に変えて投稿した。
 韻律の良さを佳作の条件としている、私の作品としては珍しく、初句と二句目及び四句目と五句目に句跨りが見られる。節操に欠けた私は、そこがまた気に入っている。
 どなたかから、寺山修司の「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき」の本歌取りではないか、とのご指摘をいただいたが、中世の歌学書などをひも解くと、本歌取りの歌という場合は、本歌から取る語句が何句以上、何句以下でなければならないなどと、いろいろ喧しい規定があるようだ。拙作は、それらの条件を満たしているとは思われないので、本歌取りの歌だと主張するつもりはない。
 でも、吾ながら上手く詠んだものだなあ。寺山作の場合は「柱時計」だから「鳴る」。鳥羽作の場合は「ノート型PC」だから「啼く」か。でも、今ひとつ何かピンと来ないなあ。柱時計とノート型パソコンと、一体どっちが人間に近いだろうか? どっちの体温が温かいだろうか? えっ、パソコンだって。それはないよ。お前のパソコンは過熱しているからだ。
 

020:貧(鳥羽省三)
 我が村の<貧>を象徴せる如く村のワンコは冬着まとはず

 本当のことを言うとね。あの犬に着せる冬着は、どんな高価なものだって窮屈なんだって。高価になればなるほど窮屈で着てられないんだってさ。ドレス着たワンコが鳴き喚くのはそのせいだってよ。嬉しいからではないよ。苦しいからだ。だから、脱がしてやりなよ。
 でも、この歌は傑作だなあ。横浜市の田園都市線の沿線あたりでよく見かける、犬にふかふかのドレスを着せて威張って散歩している、あの肉襦袢を着たようなスタイルのおばさんたちのことを風刺しているみたいだ。こないだなんか、まるで鹿鳴館のダンスパーティに行く時に着るドレスみたいな衣装を身につけたワンコがいたからな。そのくせ、手綱を握っているおばさんは国技館から出て来たような格好してさ。
 犬に衣装を着せている人は、本質的に教養の無い田舎者なんだよ。そこは村なのさ。

『題詠2009』への投稿作品と作者自身によるその注釈(そのⅠ)

                       〔序〕
 文芸作品を彫琢に数年数月を要する彫刻に例えたのは評論家の某氏であるが、もしも短歌作品が文芸作品の範疇に入り得るものならば、そのような短歌作品とその短歌作品を電波に乗せて送らせ、その速さを競わせているような「題詠2009」の企画とは明らかに矛盾する。
 そう思い、それを悪しとするならば、それに参加しなければいいだけの話であるが、私はそれを格別悪しとも思わないし、そこに別の意義を見出せるとも思うので、ここに、この企画に参加させていただき、いち早く拙作百首の投稿を終えた。
 しかし、私の投稿作品の中には、碌々推敲しなかったが故の失敗作もあり、また、必ずしもそうとばかりも言えない作品もあるかと思う。
 そこで、この度、一に自己確認の為に、二に存在するかどうかも分らない拙作の鑑賞者の為に、「『題詠2009』への投稿作品と作者自身によるその注釈」と題して、雑文を書き散らすことにした。
 短歌を書いて恥をかき、その弁解をしては恥をかく。近頃の私は、有り余る暇に任せて、ただ書きに書くばかりである。
 かくかくかく、文を書くのも「かく」と言い、恥をかくのも「かく」と言う。いずれ「かきかく」ものならば、在るか無きかの読者方への義理欠かぬよう、頭掻きつつ、四角い画面に我はかく書く。
 ご期待あれ。

001:笑(鳥羽省三)
 あの憎いお笑い野郎にコマサレて何故に孕むか藤原紀香
 
 「題詠2009」の主催者の五十嵐きよみさんが加入している<goo>ブログには、投稿上の規則というものがあって、例えば、差別的な表現とか性的な表現を含んでいる記事は投稿できないのだと言う。
 現に、私が、<お題>「003:助」について詠んだ作品の初稿、「「助さんも格さんも居ぬ平成の我は天下の人工肛門」は、私が散々手を尽くしてトラックバックを試みても投稿先のブログの画面に一向に反映されず、結局、投稿を諦めざるを得なかった。
 察するに、この作品中の「人工肛門」という語が、差別的な表現または性的な表現に該当していると判断され、コンピューターから門前払いを食らわされたのであろう。
 こうした措置は、<goo>ブログが示した一つの見識であり良識であろうから、これをとやかく言うつもりは今の私には無い。むしろ逆に、たかが詠み棄て短歌一首の投稿のために、「人工肛門」などという、当事者にすれば絶対に眼にしたくない言葉を電波に乗せようとした、私自身の良識の無さを恥じるばかりである。
 そのことが明らかになった時、私は、「001:笑」のお題について投稿したはずの上掲の作品のことが心配になった。
 何故ならば、この作品中の「お笑い野郎・コマサレて・孕む」が、<goo>ブログの言う、差別的な表現、性的な表現に該当しているかも知れないし、この作品の内容自体が、一種の差別意識や性的劣情に基づいて作られていると判断されても致し方の無い側面を持っているからである。
 しかし、この作品は「題詠2009」の画面に間違いなく記録され、私の心配は杞憂に帰した。
 それはそれで良しとしても、そうした事態に直面して私は思うのである。
 それは、「お笑い野郎・コマサレて・孕む」が差別的な表現でも性的な表現でもなくて、「人工肛門」が差別的な表現もしくは性的な表現であると判断された<goo>ブログの基準とは、一体いかなるものか、ということである。
 そして、<お題>「003:助」についての私の作品、「助さんも格さんも居ぬ平成の我は天下の人工肛門」が、<goo>ブログには見事にはねつけられて、「題詠2009」への投稿作品として日の目を見なかったが、私の加入している<FC2>ブログには、格別な拒否反応もしめされないで、ここにこうして記録され公開されているのは、一体、ブログ業界全体の、どんな基準及び協定に基づいてのことであろうか、ということである。
 この作品自体については、格別な解説は要さないとは思われるが、私はこれまで藤原紀香ネタの短歌を連発して来た。
 その中の比較的真面目なのを示せば、「身の丈があまりに高くこの僕に似合うはずなし藤原紀香」となるが、「あのお笑い野郎と離別した後の紀香となら、少しぐらいの身長の差を無視しても結婚したいな」などと言っているのは、勿論、作品中の<僕>であって、そうした無節操でチビな彼と現実の私とは一切関わりがありません。

002:一日(鳥羽省三)
 一日に百万円も遣えたら友だちの友だちも友だち

 いささか旧聞に属するが、例の「<簡保の宿>の払い下げ拒否問題」で、一躍<男>を上げ、近頃元気の無い自民党議員の中で、異例の壮健振りを発揮している鳩山邦夫現総務省が、「私の友だちの友だちはアルカイダである」などと奇怪な発言をして<男>を下げたことがあり、また、それで<男>を下げたはずの鳩山邦夫氏が、何を隠そう「一日に百万円ずつ使っても、一生使い切れない大金持ち」である、という新聞報道がなされたことがあった。
 上掲の作品、「一日に百万円も遣えたら友だちの友だちも友だち」は、その鳩山邦夫氏のそうした一連の事績に取材して作った、私の旧作である。
 現在の私は、一日に百万円どころか、その千分の一も使えないので、友だちらしい友だちはほとんど居ない。だが、その御蔭で、こんな素晴らしい短歌を創作できる余暇に恵まれているので、鳩山邦夫氏の金満ぶりを羨んでいる作品中の<わたし>と、この作品の作者である私とを等号で結ぶのはご勘弁願いたい。
  
003:助(鳥羽省三)
 助さんにも格さんにも見限られ印籠持たず何処行く首相

 上述のような事情で、お題「003助」についての作品、「助さんも格さんも居ぬ平成の我は天下の人工肛門」の投稿を諦らめざるを得なかったので、その代りにと、ほんの数秒で作ったのがこの作品。
 「印籠持たずに何処行く首相」の「首相」とは、言うまでも無く、あの<未曾有>のお方を指すが、「助さん」「格さん」については、読者諸氏よ、それぞれ任意にお決めなされ。
 
004:ひだまり(鳥羽省三)
 ひだまりをひざげりと読む児らの居てわが教室の春まだ浅し

 初稿は、「ひだまりをひざげりなどと読み違い支持率落すな総理大臣」であったが、「003:助」に続いて、またもや<未曾有>ネタなので、急遽、上掲の作品に変えた。その間、ほんの十秒。作品中の<わ>≠作者の私。
 私のかつての勤務先は、ガリ勉コチコチの生徒ばかり居る受験校であったので、私は、こんな教室風景とは無縁であった。私の元の同僚の某教諭の話に拠ると、高校には、<受験校>と<事件校>があるそうだ。
  
005:調(鳥羽省三)
 我が職は人事部付けの調査役 人は私を窓際と呼ぶ

 私は、池井戸潤氏の銀行小説の愛読者である。彼の小説には、必ず、上掲の作品の「我」のような人物が出て来て、悪巧みに長けた銀行幹部を退治する。
 初稿を以て投稿作としたが、「我がポストは人事部気付調査役 人は私を窓際と呼ぶ」と改めてもいいかな、とも思っている。いずれにしても<詠み捨て作品>に違いない。

006:水玉(鳥羽省三)
 水玉のシャツ着て街を行くときは何故か弾けてステップを踏む

 この作品の創作には実質一時間を要した。いざ詠まんと身構えても、「水玉のシャツ」とか「水玉のエプロン」とかの月並みな語句しか思い浮かばなかったからである。
 結局は、その月並みの「水玉のシャツ」で詠い出すことになってしまったが、「水玉」→「弾ける」→「ステップ」の連想ゲームには、いささか自負するところがある。
 この一首を思いついた時には、「俺の脳味噌もそれほど腐れてはいないな」と思った。
 
007:ランチ(鳥羽省三)
 「ギャル曽根やランチ食うとき口開ける」 あいた口から蝿が飛び込む

 大食いネタのテレビ番組はほとんど視たことがない私であるが、ギャル曽根という見るも卑しき大食いタレントがいることぐらいは知っている。
 ところで、今は亡き俳人・西東三鬼に「広島や卵食ふとき口ひらく」という傑作がある。
 上掲の歌の初稿が出来た時、私は、あの卑しき食うだけタレントの醜態を詠むだけのために、私の尊敬する三鬼大先生の名句を下敷きに使うのはもったいない、と思った。その思いに殉じて、三鬼句の「口ひらく」を「口開ける」に変えた。
 「口ひらく」よりも「口開ける」の方が、ギャル曽根のギャル曽根振りが一層引き立つと思ったからでもある。 

008:飾(鳥羽省三)
 神持たぬ我が窓にまで光(かげ)寄せて虚飾電飾聖しこの夜

 「題詠2009」のブログを開いて、「008:飾」という文字を目にした瞬間、私は、このお題には井上陽水ネタを使ってやろうと思い、そう思った瞬間、「<飾りじゃないのよ涙は>なんちゃって、泣いたふりしてダイヤねだるの」という一首が、ほとんど完成していた。
 でも、私にとってこそ井上陽水は天才であり神様であるが、「題詠2009」の参加者や読者にとって、今の彼は、NHKの語学番組に七光り出演している生意気な娘の馬鹿親に過ぎないのではないかと思った。その瞬間、私の胸には、ある別の思いが走り、初稿は結局棄てられる運命となった。
 私の胸(と言ったって、あの巨乳とか言う奴ではないよ、別に)に走った「ある別の思い」とは何か。
 それは、私には「008」のお題「飾」を使った作品のストック、しかも将来、歌人・鳥羽省三の代表作と言われるかも知れない大傑作のストックがあることである。
 去年のクリスマス頃の夜、この土地に転居して間もない私は、自宅近辺を徘徊した。すると、つい先日、「ドレス着て犬がおめかしせぬ代りをんな着膨れ冬のさいたま」と私に馬鹿にされたばかりの「さいたま市」の家々の外壁に、煌々と灯りが灯っているではないか? 
 何と驚いたことに、それはクリスマスの電飾なのだ。クリスマス時季に民家の外壁が電飾で彩られる光景は、前住地の横浜で飽きるほど目にしているが、まさか、この<さいたま>で、寒風吹き荒ぶ冬になっても愛犬に胴巻き一つ買って与えられない人々ばかりが住む、この<さいたま>で、民家の外壁の電飾を拝めるとは思わなかった。しかも、濃厚な電飾で彩られた外壁で囲われた民家の中には、某宗教団体を集票源とした、あの政党の委員長様のポスターを貼っている家もあるのだ。
 私には、「虚飾」としか思われない「電飾」の「光」は、クリスチャンでも(一時代前ならこの後、<アグネスちゃんでも>と続けるのだが、あの方も、とうとう正確な日本語を話せないまま老境に入られてしまったから止めた)ない私の家の窓辺にまで押し寄せて来て、ただでさえ寝不足の私を益々寝不足にさせたのであった。
 「虚飾・電飾・聖しこの夜」、このごつごした語句の転がりがなんとなくいいなあ。「聖しこの夜」の「聖」が、あの広告塔歌手を思い出させて少し嫌だけど。
 あんまりいいからもう一度転がしてみるか。「虚飾・電飾・聖しこの夜」、ああ、ビリビリと来る。感電かしら? 寡聞にしてこの鳥羽省三、これ以上快調にして、意味有り気な「転がし」には、生まれてからこの方、出会ったことがない、と、自分で言っていれば世話はないけど。
 でも、棄ててしまった、「飾りじゃないのよ涙は~~」もなかなかいいよ。誰か拾ってくれないかな。もったいないから俺が拾っちゃお。ちゃおちゃおバンビーノだってば。

009:ふわふわ(鳥羽省三)
 ふわふわと飛んで行ったりしないでね。お姑様から叱られるから。

 「ふわふわ」という、何と無く<ふわふわ>した擬態語に惑わされて、真面目に歌を作る気になれなかった。だから、あくまでも繋ぎとして即興で作った、この一首を仮投稿しておいた。
 「題詠2009」の開催期間は、私にとっては、気が遠くなるほど永いから、そのうちに本格的な作品を再投稿しよう、と思っている。
 一首の意は、「あなたー、お願いだから、こないだみたいに、ふわふわと何処かへ飛んで行ったりしないでね、お願いだから」「こないだなんか、大事な息子のあなたが居ないからって、わたし、お姑(かあ)さまからコテンコテンに叱られちゃった。あの婆ったら、自分が生んだ上等息子が家に居ないからって、他人のこのわたしを叱るのよ、いつも。わたしトサカに来ちゃった」と、近ごろ認知症気味のダンナさまを、その奥さまがお叱り遊ばしている図柄。そ・れ・だ・け。

010:街(鳥羽省三)
 長春市大同大街ニッケビル父母の出会ひしオフィスありき
 
 初稿は、「新京市大同大街ニッケビル母を見初めし父のオフィス」であったが、投稿しようとしてトラックバックを試みたら、<goo>ブログのコンピューターめが門前払いを食らわした。
 中国がアメリカに対抗し得る程の経済力と軍事力を備えた昨今、旧満州に関わる地名を口にするのはタブーなのだろうか。
 それにしても、同じ業界に居ながら、五十嵐きよみさんが加入している<goo>ブログと、私の加入している<FC2>ブログとが歩調を合せていないのは何故か。
 作品中の<わたし>が、現実の私と別人の架空の人物だから、作品中の「父母」もまた架空の人物。もっとも、私の周辺に日本毛織株式会社の社員がいたことは事実だが。
 でも、その事とこの事とは一切関係が無い。
 今の長春市、元の新京市の、今の人民大街、元の大同大街のニッケビルには、設立当時の満映の事務所が置かれていた。そこでこのビルには、満映の理事長であったあの甘粕正彦など、多数の著名な日本人が出入りしていたことが考えられるし、満映が撮った映画に出演した女優なども出入りしていたことが考えられる。
 そこで私は、掲出作品の背景として、それらの人物間の恋愛を想定した。
 例えば、甘粕正彦と李香蘭。そうなると、作品中の<わたし>は、甘粕正彦・李香蘭夫妻(内縁関係)の子どもということになる。
     蟹工船・小林多喜二・大震災・獣に劣る甘粕大尉     鳥羽省三

ブログ探訪(その5~戯作・西中眞二郎様へのメール~)

拝啓 西中眞二郎様

 日頃は拙作を多々ご選歌いただいたうえ、再三に亘ってご無理なことまでお願い申し上げ、真に恐縮に存じます。
 さて、「題詠2009」のお題・「080:午後」に対する御作、「若き娘(こ)に引かれて午後の道を行く犬のふぐりの左右に揺れる」は、投稿作品中、稀に見る傑作と拝察致しました。
 つきましては、百首一巻の投稿を終え、完走報告をし終えた心安さから、、無謀と知りつつも、その解釈と鑑賞を試みましたので、以下に記させていただきます。

 さて、詠い出しの「若き娘(こ)に引かれて」の「若き娘(こ)」は、人間の「若い娘」を指すのではなく、動物の「若い娘」、即ち作品中の<わたし>の愛犬の<雌犬>を指すのである。そうした前提で、一首全体の解釈を試みる。

 麗らかな春の午後、作品中の「わたし」、即ち話者は、折からの春風に誘われて、愛犬を散歩に連れ出そうとする。
 愛犬は若い雌犬。生来の出不精に加え、遣らずもがなの「題詠2009」の選歌の忙しさにかまけて、最近私は犬の散歩を怠っていたので、運動不足気味のこの犬は、私が犬舎の施錠を解く前から、まるで女の子がお気に入りの伊勢丹のケーキー屋に出掛ける時のように、「早く、早く」とばかりに、狭い犬舎の中で跳ね回っている。
 屋外に出た。予定コースは定番の○○川土手のウォーキングロードだ。運動不足のせいか、今日はなんだか身体が重い。そんな私とは関わり無く、犬は私を引くようにして、どんどんどんどん先へ先へと進んでしまう。
 いい歳をして、若い娘ならぬ若い雌犬に引かれての散歩とは、いささか恥かしい。誰に観察されているわけでもないが、私は少し照れてしまう。
 まだ少し冷たいのかと思って出て来たのだか、身体全体を撫でて行く風が意外に心地よい。そこで、さっきまで塞いでいた私の心も少しは軽くなる。春風が私の身体を押すようにして吹き過ぎる。私は、心だけではなく、身体までも軽く感じる。
 道の畔には、枯れ草に交じって、その下から萌え出た新芽がちらほら見えている。枯れ残りの「犬のふぐり」が道の左右で揺れている。植物の「犬のふぐり」だけでは無く、動物の「犬」の「ふぐり」も、オーナー様の歩みにつれて「左右に揺れる」。

 調子に乗って、つい書き連ねて来てしまったのだが、「植物の『犬のふぐり』だけでは無く、動物の『犬』の『ふぐり』も、オーナー様の歩みにつれて『左右に揺れる』」と書いた瞬間、私は、「あっ」と気がついて、恥かしくなる。
 そうだ、作品中の<わたし>を引いてゆく「若い娘」は雌犬だから、彼女の股間には「ふぐり」などぶら下がっていないのではないか。ぶら下がっていないはずの「ふぐり」が「左右に揺れる」はずはない。 あの<たんたん狸のキンタマ>だって、彼の股間にぶら下がっていればこその<風もないのにぶーらぶら>なのだ。
 すると、詠い出しの「若い娘」を、作品中の<わたし>の愛犬の<雌犬>と解したのは、間違いではなかったのだろうか? 私の考え方は根本から間違っていたのではなかったのだろうか?
 否、否、私のあの解釈は絶対だ。第一、私よりご高齢のはずの西中眞二郎氏が、人間の「若き娘(こ)に引かれて午後の道を」行ったりするはずがないではないか。それなら、昼下がりの情事ではないか。そんなのは許されるはずがない。たとえ奥方様が許してもどなたが許しても、この私が許さないぞ。もし、そんなことが在ったとしたら、それは、ほとんど犯罪ではないか。西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか。「『歌人の犯罪』、これは小説ネタになるぞ。
 待て、待て、「西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか」とは言い過ぎだ。話を面白くしようとするあまり、つい、言い過ぎてしまうのは、君にごまんと有る性格的欠陥の中でも最たるものだ。第一、作品中の<わたし>と作者の西中眞二郎氏を等号で結ぶのは、お前の信条に反するのではないか。
 いや、いや、つい口を滑らしてしまった、西中眞二郎氏犯罪者説は取り消すとしても、その他のことは取り消さない。作品中の<わたし>と実在の西中氏を等号で結んでしまったのも、この際は無視する。大事の前の小事だからな。
 それより何より、上の句の冒頭の「若き娘」を雌犬とし、下の句の「犬のふぐり」を、道端の雑草の「犬のふぐり」と愛犬の「ふぐり=陰嚢」との掛詞とする、私の考え方は絶対に正しい。
 雌犬の股間に陰嚢がぶら下がっているはずがないじゃないか。ぶら下がってもいない「ふぐり」が「左右に揺れる」はずがないじゃないか。
 いや、いや、作品中の<わたし>の目には、その時確かに、犬の「ふぐり」が見えたのだ。雑草の「犬のふぐり」の「左右に揺れる」のと重なって、雌犬の「ふぐり」が「左右に揺れる」のも見えたのだ。この考えは、絶対に譲らないぞ。作品中の<わたし>の頭の中で、一瞬の間に、犬の雌雄の性転換が行われることだって、考えられるからな。
 お前はどこまでも我を張る。上の句の「若き娘(こ)」が雌犬であることは認めるにしても、下の句の「犬のふぐり」は、やはり、道端の雑草の「犬のふぐり」に過ぎない。下の句は散歩の途上の道端の風景のスケッチなのだよ。
 西中眞二郎氏の短歌を馬鹿にするな。下の句が道端の風景の単純なスケッチに過ぎないとしたら、それではあまりに、下の句の語句の働きがなさ過ぎるではないか。君の言い方は、単に西中作品に対する侮辱に止まらず、短歌文学全体に対する侮辱だ。だから、君の考えは、絶対に認めるわけにはいかない。

 いやはや、その五月蝿いこと、五月蝿いこと。在るか無きかの雌犬のキンタマを廻っての論争は、この後も果てし無く続くことであろう。
 
 そこで、この秀作の作者の西中眞二郎氏に質問致します。
 貴方は、この「犬のふぐり」論争が読者の間でやかましく交わされることを予測して、この作品を「題詠2009」にご投稿なさったのですか。
 もしそうならば、御作は<御作>ならぬ<御策>、<秀作>ならぬ<秀策>でしょう。
 とにもかくにも、歌壇の片隅のインターネット上で、今、全く新しいスタイルの短歌が呱呱の声を挙げようとしていることは確かです。
 そのニュースタイルの短歌とは、「読者を論争に巻き込んだ挙句、混乱の極に陥れて、突き放す」スタイルの短歌、ポスト・前衛、ポスト・ライトヴァースの短歌。掌に付着したチューインガムのようなスタイルの短歌。チューインガムという奴は、見た目が甘そうなだけに始末に負えない。
 西中眞二郎様、おめでとうございます。

   人麻呂に茂吉に邦雄そして万智、そして今また西中眞二郎      鳥羽省三

 末筆乍ら、御作を無断で引用させていただいたことを、深くお詫び申し上げます。また、この戯作が、西中様に御目文字致さないことを祈念して居ります。万が一、御目に留められましたら、平にお許しあれ。                                                    敬具
  
       平成二十一年二月十七日                      鳥羽省三

完走報告(鳥羽省三・再投稿)

 紆余曲折の末、どうにかこうにか完走致しました。皆様の熱き声援、深く感謝申し上げます。
      詠みなぐり書きなぐりして完走す銅だメダルだ堂々三着      省三

100:好(鳥羽省三)

「好物は白々ご飯」と孫は言う 「しろしろごはんにタマタマかけて」

099:戻(鳥羽省三)

父子三人(ふしみたり)骨箱抱きて戻る道 守一描く「ヤキバノカヘリ」

098:電気(鳥羽省三)

電気椅子に坐らせられたと父が言ふ! 矢吹歯科医の電動椅子か?

097:断(鳥羽省三)

義理チョコは断乎反対、受け取らぬ!本命無しの俺にも意地が!

096:マイナス(鳥羽省三)

「マイナスにマイナスかければプラスになる」 俺の人生みたいだってさ!

095:卓(鳥羽省三)

かくありし時過ぎ二人の子の在れば宵は囲めり麻雀卓を

094:彼方(鳥羽省三)

彼方此方(をちこち)の鬼遣る声に怯えつつママが目当てのスナックに行く

093:鼻(鳥羽省三)

火棚には南部特産鼻曲がり後の絶えにし故郷の家 

092:夕焼け(鳥羽省三)

琉金の四つ尾かすかに揺れてゐて棄教者われは夕焼けを病む

091:冬(鳥羽省三)

伝承の最も酷き一つにてネズミ音せぬ天保の冬

090:長(鳥羽省三)

あの長き真夏の日々は忘れない村椿輝雄よ君はいずこに

089:テスト(鳥羽省三)

テスト氏の職を株屋と決める時さぞ悩みけむポール・ヴァレリー

088:編(鳥羽省三)

妻が編み吾が着て旧りしセーターの綻びにけり棄てむと思ふ

087:気分(鳥羽省三)

白酒でほろ酔い気分になったから雛壇飾りは娘(こ)らに任せた

022:職(鳥羽省三・再再投稿)

「有職」は「故実知る」の意、世に謂へる「無職」とふ語の対義語でなし

086:符(鳥羽省三)

初場所の升席券を割り符とし取引場所は両国駅前 

085:クリスマス(鳥羽省三)

地球上で最も早く一日が始まる島だクリスマス島 

084:河(鳥羽省三)

百年の河清を俟(ま)てぬ性(さが)にして行政改革断固遣るのみ

083:憂鬱(鳥羽省三)

色褪せし我が青春の愛読書・『パリの憂鬱』(ボードレール著) 
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