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作中主体などと呼ぶのは?

<作中主体>などと呼ぶのは仰々し詠歌は独話<話者>と呼ぶべし     省三

 ここに「霊柩車ゆっくり走れ焼き場まで君には一時(ひととき)吾には一生(ひとよ)」という短歌らしきものがある。
 言うまでもなくこれは、栗木京子さんの、あまりにも有名なあの作品のパロデイであり、ついさっき、ある魂胆があって私が創ったものであるから、作者は私・鳥羽省三である。
 ところで、私は今日まで、父母を初め数多くの親類縁者をあの世に送り、時には、霊柩車を追走する車に乗り、火葬場まで亡骸と同行したこともあるが、そういう時でも、「霊柩車よ(或は、霊柩車の運転手よ)、今日、この亡骸を火葬場まで運ぶという仕事は、君にとっては、たった一時(いっとき)の出来事に過ぎないだろうが、亡骸の縁者である私にとっては、一生一回の、生涯生きている限り、絶対に忘れられない出来事である。だから、もっとゆっくり走ってくれ。もっとしずしずと厳粛に走ってくれ」などとは、思ったことがないから、前述のパロディ中の「吾」は、いかなる意味に於いても、その作者である私・鳥羽省三と同一ではない。
 短歌というものは、基本的には<一人称文学>であるから、その鑑賞にあたっては、<我=私>の存在を意識しなければならない。そのことは、先のパロディのように、作品中に直接「吾=私」が登場する場合に於いても、「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(塚本邦雄『日本人霊歌』より)のように、作品中の何処にも「我」も「私」も登場しない場合でも同様である。
 私は、生活の資を得るために高校の教壇に立って、長年、短歌鑑賞の授業を行って来た。その頃の高校の国語教科書に載っている短歌は、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲(佐佐木信綱『新月』より)」・「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ(斎藤茂吉『小園』より)」・「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼(北原白秋『雲母集』より)」などのように、短歌鑑賞に際して読者が意識しなければならない「私」が、「私=作者」として片付けても済むような作品ばかりであったため、私は、私の授業に出席している生徒達に多少の後ろめたさを感じながらも、「作者は晩秋の大和路の風景の中に立って~~」とか、「東京を逃れてきた作者は、今~~」とかと言って済まして来た。
 ところが、学校での授業の場を離れると、作品中の<我>とその作品の作者との落差を強烈に意識をしなければならなかった。
 何故なら、自作の中に、現実の自分とは似ても似つかない艶福者や美男子などを「われ」として登場させるのは、他ならぬその作品の作者の「私」に他ならなかったからである。
 そうした私にとって、短歌鑑賞の場でいつの頃からか使われるようになっていた、「作中主体」という言葉は極めて重宝なものであった。
 短歌作品の中に登場して、「煙草くさき国語教師が言う」「明日という語」を「最もかなし」と感じている少年は、あくまでも、文学作品たる短歌の登場人物に過ぎず、その作品の作者とは別人である。その「別人」のことを「作中主体」と呼ぶ。このことは至極当然なことであり、改めて注釈を要しない。
 だが、「作中主体」という、この至極当然で極めて重宝も言葉も、決して万能ではない。
 何故なら、「煙草くさき国語教師がいうときに明日という語は最もかなし(寺山修司『空には本』より)」という作品からは、確かに、「作中主体」と呼ぶべき存在を指摘することが出来るが、先に引用した「日本脱出したし~~」のような作品からは、「私」及び「作者」の存在を指摘することは出来ても、「作中主体」と言うべき存在を指摘することは出来ないからである。
 それより何より、たかが短歌鑑賞の場である。ある誰かが、「作者は~~」「作品中の<われ>は~~」などと言ったが最後、別の誰かが、まるで鬼の首を取ったかのような口調で、「作者と作品中のわたしとは厳密に区別しなければいけません。作品中の私を指す場合は<作中主体>と言うべきです」などと騒ぎ立てるのは、あまりにも仰々しく、あまりにも青臭いと思う。
 短歌が、本来<一人称文学>であり、詠歌とは、自己の切なる思いを<語る>行為であったことを思えば、短歌作品中の<われ>は本質的にその作品の作者自身である、と言ってもそれほど見当違いとは言えない。少なくとも、「作者と言わず作中主体と言え」などと言い出して威張り腐る歌人ちゃんよりはよほどましである。
 とは言え、短歌作品中に作者自身とは異なる人物を登場させ、その人物(時には、非人物)をいろいろと思考させたり行動させたりする作品が短歌としての存在を主張している今日、「短歌作品中の<われ>は、本質的にはその作品の作者自身だ」などということを、いつまでも主張しているのも、これまた青臭く、阿呆らしい。
 従って、私は、作品中に直接登場する<われ>は勿論、しない<われ>も含めて、短歌作品に於ける<われ>を<話者>と呼ぶことにする。
 上掲のミソヒトモジ、「<作中主体>などと呼ぶのは仰々し詠歌は独話<話者>と呼ぶべし」は、そうした私の思いを述べようとしたものである。但し、この<思い>は、<決意>とは異なり、かなり軟弱なものであるから、<話者>という一語で以って把握出来ない作品に出会ったら、その時はまた、別の言葉を考えるだろう。
 因みに、上掲作品の「われ」は、作品の作者と完全に重なる「われ」である。 
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今週の『朝日歌壇』から

○枇杷咲いてやうやくめぐり来し主役、菅井きんさん八十二歳     (神戸市)内藤 三男

 初句「枇杷咲いて」が効いている。
 枇杷の花は花弁が白く小さく、しかも咲く時期が時期だけに、それを美しいと思って見る人はいない。
 その枇杷の花のように地味で目立たない女優・菅井きんさん演じる、口さがなく下品なおばさんやおばあさんに、私は映画やテレビドラマの画面で幾度出会ったことであろうか。最初の頃は、「この助平ったらしい婆め、さっさと消えてなくなれ」といった気分で見ていたのであるが、やがてその演技力に注目し、熱烈なファンとまでは言えないまでも、一種の期待と好感を持って見るようになった。
 その菅井きんさんが、御歳八十二にして、初めて主役を演じる映画『ぼくのおばあちゃん』(榊英雄監督)が先日公開された。

○転がった錠剤二人で探した日今はおろおろ一人で探す       (広島市)山田ミサ子

 カプセルと言えるかどうかは知らないが、錠剤の入ったあのプラの器の裏蓋を破って中身を取り出そうとする時、中身の錠剤が飛び跳ねて転がり、行方不明になってしまうことがよくある。
 そうした時、この作品の話者である私の家では、その頃健在であった夫が一緒になって探してくれた。だが、その優しい夫も、今では空しく黄泉路を辿る人になってしまった。
 あの頃は私にとって黄金時代であった。その思い出を胸に、今の私は、「転がった錠剤」を「おろおろ一人で探す」ばかりだ。
 高齢者にとって、錠剤を服用することは以外に難しい。そうした日常茶飯事の中で発生した些細なトラブルを契機として、話者の私は、今は亡き夫のことを思い、夫に先立たれて孤独な自身を思う。

○親不孝通りと言へど親もなく親にもなれずただ立ち尽くす     (ホームレス)公田 耕一
○屋根があるだけの違いよ公田さん年金生活薄氷の上       (飯塚市)中村テルミ 

 公田氏作は、高野公彦・永田和宏の両氏共選。
 横須賀市に実在する「親不孝通り」という地名に端を発し、「親もなく親にもなれず」と展開する、言葉の運びにも妙味はあるが、それ以上に選者らのハートを射たのは、作者・公田氏の悲酸な境遇と、「親もなく親にもなれず」という事実の重さであろう。
 永田和宏氏によって選ばれ、公田耕一氏作の直後に配置された中村テルミ氏作は、その作品自体の魅力と言うよりも、その内容が、今話題のホームレス歌人・公田耕一氏の過去の入選作の回答になっていることに注目されての措置であろうか。もしそうならば、この作品を朝日歌壇の入選作として選んだ選者・永田和宏氏は、ここで一種の遊び心を発揮されたのである。こうした遊び心も、時には必要であろうか?
 
 ところで、新聞は、本来、社説やコラムなどで主張すべきところの内容を、読者からの投稿や歌壇の入選作品などに語らせようとする、とは、今となっては、散々言い古されたことではあるが、朝日歌壇は、他紙のそれとは著しく性格を異にし、毎回、何かのキャンペーンを張っているような趣きを持っている。そうした朝日歌壇にとって、ホームレス歌人・公田耕一氏の登場は、天からの授け者のようなものであろう。公田耕一氏作の、再三に亘る朝日歌壇への入選と掲載は、何よりもご本人の天分とご努力在ってのことに他ならないが、その天分とご努力はおろか、その悲酸なご境遇までが、掲載紙を発行する新聞社に、真に以て好都合な結果をもたらすことも在り得る。
 ご本名かどうかは分からぬが、<公田耕一>という作者のお名前も、何か謎めいている。
 公地公民制度下、時の政府から与えられた<公田>の耕作に専一だった農民が、その税、即ち<租庸調>のあまりの重さに耐えかねて、逃散(ちょうさん)し流浪して果てる、とは厳然たる歴史的事実である。
 本来、入選作品の作者の現住地を記すべき欄に、(ホームレス)と記すなど、前代未聞の措置を以て、公田耕一氏の作品を掲載しておられるのは、自社にも他者にも厳しいことで知られる、朝日新聞社のなされることであるから、作者・公田耕一氏のご境遇もお名前も、真実に他ならないことであろう。
 だが、もし、公田耕一というお名前がペンネームであるならば、度重なる失政などによって農村が疲弊し、農業が職業として事実上成り立たなくなった社会の現状を風刺するものであり、、公地公民時代の逃散民にも等しい農村からの離散者が、派遣社員だとか、季節労務者だとか、ホームレスだとか、という哀しい境遇に陥っている現状と、その現状を現状たらしめている政治家や政府官僚へのプロテストの姿勢を示すものあろう。
 

僧侶等は

僧侶等は白き草履に目印のなければとまどふこの世の庭に  奥平初子『四照花』より
 
 数年前のことであるが、私は後学の為にと、曹洞宗のある寺院で行われた、晋山式という行事に出席(と言うよりも見学)したことがあった。
 晋山式とは、言わば寺院の住職交代儀式で、ある寺院で、それまで住職を務めていた僧侶が死亡したり引退したりした場合、その職務を引き継ぐべき別の僧侶が、その寺院の正式な僧侶として入山することを記念して行う行事であるそうだ。
 その式が行われた寺のj前住職は、同宗派のその地方の僧侶の実力者とか言うことで、その後継者たる息子のためのその儀式には、曹洞宗の二つの本山たる永平寺と総持寺の僧侶は勿論、法縁の寺々などから数十名の僧侶が臨席していた。
 本尊仏を前にして行われた、読経や問答などがひと通り終わった後、本堂前の庭園に設えられた雛壇に上がって、臨席僧侶一同の記念写真を撮る段になった。すると、それまでご本尊の前で大人しく額づいたり、読経したりしていた僧侶たちが我先にと争うようにして履物置場へ急ぐ。檀家の子弟たちが担っていた当日の履物係が、予め各僧侶たちの履物に付けられていた番号札と僧侶たちが衣の袖を探って差し出した半券とを引き比べ合わせ、それぞれの僧侶にその履物を差し出す。
 私は、その一部始終を興味深く観察していたわけではないが、おおよそ、その僧侶たちは、その着衣こそ各自の位階などに応じてそれぞれ異なっていたが、その履物は、この作品中に出て来るように、何の記名も無く目印も無い白一色の草履で、殆んど同一物なのだ。
 私が出席した晋山式に於いては、ミシン目入りの荷札を用いた番号札というウルトラC(この言葉ももはや死語となったか?)と檀家の子弟の履物係によって、尊いお坊さんたちに醜態を曝させないで済んだが、この作品の背景となった法会に於いては、主催者たちがそうした智慧も廻らさなかったのであろう。
 「白き草履に目印のなければと」「この世の庭に」「僧侶等は」「まどふ」。
 本作の背景となった法会は、もしかしたら、生臭坊主たちの日頃からの強欲ぶりに立腹していた人々による陰謀だったのかも知れない。
 インターネットで検索したところに依ると、本作の作者の奥平初子さんは「礫の会」に於いて、主宰補佐をなさって居られる方であるそうだが、その観察眼は鋭く、その言は辛辣である。
 経典に言う、「女人は刀刃を以て人を戮さず、舌鋒を以て戮す」とは、この謂ひなるか?

彼岸では

彼岸では有色元首が誕生す此岸の総理は未曾有の暗愚      省三
 
 オバマ大統領就任おめでとう。これからどうなるかは判らないが、今はとにかくおめでとう。なにしろ、彼岸・米国に黒人大統領が誕生したのは未曾有の出来事に違いないから。
 リンカーンの奴隷解放が真の意味で完遂したのは2009年1月20日と言わなければならないだろう。
 ところで、此岸・日本の政界は黒杳々、混迷を極めるばかりである。
 今朝の朝日新聞によると、昨日の同委員会で麻生首相が、数日前「みぞゆう」と誤読して満天下の笑いを誘った漢字<未曾有>を、正しく<みぞう>と発音し、それほど狭くない委員会室がどよめく一幕もあったそうだ。
 間違って読んで笑われ、間違わないで読んで笑われる。こんな男が、どうして一国の総理大臣の座に在るのか。麻生首相は、天皇や皇太子と同窓だそうだが、この日本には、華族制度が未だ健在なのだろうか。
 参議院予算委員会の一幕は、質問に立った、民主党の石井一議員への答弁の中で展開されたもので、前述の朝日新聞の記事によると、「石井氏は、首相が就任直前に月刊誌『文芸春秋』に寄稿した論文から、『畢竟』『窶す』などの難しい漢字を抜粋したパネルを用意し、『(論文は)本当にあなたが書いたのか』と迫った。首相は、『書かせていただいた。皆さんが読みにくいのは、<身を窶し>ぐらいじゃないか』と涼しい顔。石井氏は『じゃあなぜ<みぞゆう>なんて言うんだ。率直に認めないとまた支持率下がるよ』と皮肉った」そうだ。

今週の『朝日歌壇』から

○松代の山を穿ちし洞窟に閻魔蟋蟀冬を越えいる     (長野県) 沓掛喜久男
 
 第二次大戦中に東京への空襲に備えて、大日本帝国の大本営本部が置かれたのは、確か松代 山中の洞窟であった。未だその記憶を消せないでいる作者は、「あれから六十年余も経つのに、今また、この山のこの洞窟にけったいな奴がいて、私をびっくりさせる! なんだ閻魔蟋蟀か。お前も誰かみたいに、こんな所に立て篭もって生き延びようというのか。しぶとい奴め。気持ち悪いったら、ありゃしない」と呟く。
 一首に、作者の反戦の意志を感じようとするのは、私の深読みか?

○バス停は迫りても意地競うごと「おりますランプ」灯らずにおり   (吹田市) 豊  英二

 この道に疎い私は、ついうっかり、「この歌は、『バス停の迫りてなおも意地張りて<おりますランプ>を灯さずにおり』とでもすれば、もっと良くなるのになぁ、不器用な作者だ」などと思った。
 だが、やはり、これはこのままでいい。何故なら、作者は<おりますランプ>を擬人化し、車中に座席の数より多く居る<おりますランプ>たちが、それぞれ、「灯ってやるもんか。絶対、灯ってやらないぞ。あいつより先に灯りなどしたら、俺様のメンツがまる潰れだからな。乗客なんか糞喰らえだ!」などと意地の張り合いをしているように思っているのだから。
  「灯らず」と「灯さず」では大違い。

○我もまた靴を投げつけたき人のあると思ひて靴ひもを締む     (尾道市) 堀川  弘

  「新婚さんいらっしゃい」という、テレビの人気番組があり、出演する新婚カップルがあまりに熱々 だったり、頼りなかったり、煮え切らなかったりなどすると、司会者の男性が、さもじれったそうにして自分の履いている靴を脱いで投げつける。
 私は、あの番組を思い出しながら、この歌を読んだのだが、それは私の不勉強のせいかしら? 最近、誰か、例えば、あの麻生総理か誰かが、記者会見の最中に、気に食わない質問をした番記者に向かって、自分の履いていた靴を投げつけた、などといった未曾有の出来事があったかしら。
 それはどうか判らないが、最終句の「靴ひもを締む」という肩透かしが絶妙で笑わせる。
 
○恋人と別れし友は私にチョコレートパフェを食べさせたがる     (京都市) 敷田八千代

 作者名は忘れたが、「恋人を持たない我は真夜中にチョコレートパフェをなぜか食いたがる」という歌もある。
 超有名タレントを弟に持ち、テレビのお笑い番組に自らも出演していて御馴染みの某大学教授が、行政当局から営業停止処分を喰らって、一時期、業績不振に喘いでいた某製菓会社から膨大な研究資金を引き出して、「チョコレートパフェと恋愛の因果関係」の研究をしていたが、その成果が今期中に発表される予定で、そうなれば、未だ百円以下に低迷しているスポンサー企業の株価が、一躍、百倍以上に急上昇する、という噂があるが、それは本当かしら。
 
○乳房のみ肌異なるらし暗闇に白く光りて鏡に映る          (東京都) 清原 翁丸
 
 本当かしら? それにしても、この歌の作者が男性名なのも不思議。枕草子に、「翁丸」という可愛そうな犬が登場する。

○白馬の遭難死者名刻す碑に猶幾許かの空白残す           (天理市) 乾  喜宏
 
  「その空白は、なん人分の空白かしら?」「その空白を埋めるのは、誰かしら? もしかして、この私かも?」などと、読者にさまざまな疑問や不安を抱かせるように、冷淡かつ簡潔に詠んだのは、朝日歌壇常連の作者の超絶技巧というものであろうか。
 その「空白」は、山開きの頃ともなれば、山肌の残雪を映し、上空の雲を映すから、いくら命と引き換えでも、登山は止められない。

ピラカンサの

ピラカンサの実のつぶつぶの黒みつつ有象無象のふかきつぶやき    小島ゆかり 『憂春』より

  「わだかまり言はんと来しにわが髪の雪をやさしく君は払へり」といった、毒にも薬にもならないような歌を詠んでいた女も、時を経て薹が立てば、このような小難しい歌を詠む。とかく、時間の為す業は厄介で、女という者は恐ろしい。
 この歌は、晩秋から冬にかけて、戸建住宅の玄関先辺りで、紅い小粒の実を無数に着け、「私たちも紅よ!」と言わんばっかりに自己主張している、あのピラカンサ(ピラカンサス)の、つぶつぶの実を詠っているのであるが、その盛りを詠わずに、「黒みつつ」ある状態を詠っているところに、この粒粒に対する話者の気持ちの在り様が伺わる。下の句の「有象無象のふかきつぶやき」は、その気持ちを具体化して述べたものであろうか。
 カキ、ナンテン、ウメモドキ、ナナカマド、ゴゼンタチバナ、センリョウ、マンリョウ、ヤブコウジと、晩秋から冬にかけての庭面を紅く染める木の実や草の実は数多いが、その中でも、この歌の題材となったピラカンサは、その実の数が圧倒的に多く、しかも、その中心部に一粒一粒黒々として目立つ一物を抱えている。その「実のつぶつぶの」数の多さと腹に抱えた黒々とした一物と、本作の話者にとって、それがどうしようもないのだろう。それも未だ秋口で、一粒一粒が真っ赤に輝いていた頃なら我慢出来たが、季節が深まり冬になり、黒い一物を中心としたつぶつぶの実の全体が黒ずんで来ると、いよいよ我慢できなくなるのだろう。
 話者は、その黒ずんだ実の一粒一粒に、自分の周囲や縁辺、そのまた縁辺の誰彼の人間を感じてくる。話者とは全く関わりのない人々の人間性をも感じてくる。
 「この有象無象めッ! ひとりひとり身を真っ赤に焦がして。そのくせ、からだのど真ん中に真っ黒な恥部を抱えやがって。それ見ろ、この頃、からだ全体が黒ずんで来たではないか。生意気にも、一人一人ぶつぶつ呟いているが、お前らが何を言うのだ。何を呟くのだ。お前らに何が解ると言うのだ」と。
 話がこれで終われば、本作の話者にとっても、本作を鑑賞する私にとっても、他人事として片付けることが出来て、それほど複雑ではないが、やがて話者の目には、その哀れで汚らしい実の一粒が自分に見えて来る。鑑賞者の私の目にも、それと同様に見えて来る。 
 かくして、本作の話者もその鑑賞者の私も、その「黒めいて」哀れな実に愛しささえ感じるようになり、その前から離れられなくなる。

 凡百の歌人ちゃんなら、「ちっちゃくて可愛いね」とか言っちゃって、簡単に片付けてしまうかも知れない、あのピラカンサの実に「有象無象」を感じた作者は確かに才女だ。もしかしたら彼女こそ、<みちのくの奥の奥>から文学への憧れを抱いて上京した、昭和・平成の菅原孝標女かも知れない。下の句の「有象無象のふかきつぶやき」にも、十二分の説得力が感じられる。
 更に劫を積んで、あの<歌会始の儀>の撰者か召人になつた時の彼女の御歌が読みたい、と思うのは、必ずしも私の悪趣味とばかりは言えないだろう。

   月も出でで闇に暮れたる姨捨を何とて今宵は訪ね来つらむ    菅原孝標女

ブログ探訪(その1)

 この頃気になってならないブログがある。それは、平安時代の著名な日記の筆者の継母の生家の姓と同じ姓の女性(?)が管理する、短歌鑑賞を内容としたブログであるが、鑑賞対象となる短歌を選ぶ管理者の選歌眼が、私の好みと合致しているため、近頃の私は、月に数回程度の、その更新を今か今かと待ち焦がれている状態なので、この記事を綴ろうとしている私の気持ちは、それほど単純ではない。
 管理者の記す鑑賞文は、その選歌眼に較べるとかなり粗い(と言うか、私の趣味に合わない、と言うか)し、時々は明らかなポカもやる。
 例えば、去る一月五日の記事は、『夏の騎士』所収の糸川雅子氏の作品、「幸福そうなやりとりをしてわれを知らぬ遠くの店にて電球を買う」についてであったが、その中で管理者は、「この歌集には夫の死後の暮らしの寂しさ、夫恋が通低奏音として流れ、その思いを鎮め、自分を鼓舞するかのような作品が多い」と述べておられるが、この中の「通低奏音」は、明らかに「通奏低音」の誤りであり、「夫恋」も「妻恋」に比べるとあまり一般的とは言い難いから、ここは「つまごい」と振り仮名を施すべきであろう。
 また、前述の部分以外でも、「そう頻繁に必要なものではない日常品としての『電球』が、いっそう哀しみを強めているようだ」という件などは、言いたいことはよく解るが、結社に所属して短歌創作を楽しんでいる者の表現としては、あまりにも粗い。
 ところで、このブログの昨日の記事は、『憂春』所収、小島ゆかり氏作の「ピラカンサの実のつぶつぶの黒みつつ有象無象のふかきつぶやき」についてであり、その鑑賞文にもかなりの問題点が指摘されるが、それについては後日ふれよう。


どこからが

どこからが空かと思う 熱気球の籠のあたりはまさしく空だ     省三

 新年の五日と十二日の二回に亘って、結社ひとり氏がそのブログで奥村短歌について言及している。五日は「ボールペンはミツビシがよく~」について、十二日は「どこまでが空かと思い~」についてであるが、両日とも結社ひとり氏の舌鋒はいつになく冴え渡り、他人にも自分にも厳しいことで有名な、作者の奥村晃作氏を大いに喜ばせた。
 今や<ただごと短歌>の教祖と崇めても過言ではない、あの奥村晃作氏をあそこまで喜悦させたのは、結社ひとり氏の文章のどの辺であろうか。私が思うには、例えば五日分について言うと、「ボールペンに書き味を求めるこの歌の社会的背景はすでに消滅している。それにもかかわらず、この歌に斬新さや活力を感じるのは、読み過ごしてしまう飛躍を感じさせない飛躍にある」と述べた辺り、また、十二日分では、「『どこまでが空か』と問われれば、ほとんどの人は、無限の彼方をイメージして答えるだろう。天文学者は、『空』を『宇宙』と同義として、『ビッグバン後、膨張し続ける宇宙の百数十億光年の果て』と答えるのではないか。しかし、この歌は、読者にはるか遠く高くをイメージさせて、一転、足元の地面までの空間を『空』と、とんでもないことを言っている」と述べた辺りではないだろうか。
 十二日の記事の末尾で、結社ひとり氏は、「『空』を、頭上の空間としてではなく、眼下の地表を境界とする空間として、『結局は 地上スレスレまで空である』という表現は、リアリズムを超えたリアリティがある。この歌は、短歌史上に残るスーパーリアリズムの名作だ。守旧派を前衛と祀る歌壇の読みは、奥村短歌にまだ追いついていない」と断じているが、これは、奥村氏の作品とそれについてのご自身の読み以外の何者をも容認しないという言い方で、大言壮語とも言えるこうした言い方は、私を含めた極く少数の奥村短歌ファンには大いなる爽快感を感じさせるが、その他大勢の歌壇の諸々からは、またあの結社ひとりが大口を叩いたと蔑視され、唾棄されるのかも知れない。
 上掲の、奥村晃作氏の「短歌史上に残るスーパーリアリズムの名作」の本歌取り紛いの腰折れは、ひとえに、そうした名作をものした奥村氏と奥村氏の名作の名作たる所以を正確に言い当てた結社ひとり氏との計り知れない才能に激しい嫉妬心を抱いている私の、<ごまめの歯軋り>とでも思っていただければ、幸甚この上ありません。

題詠2009(鳥羽省三)

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