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ブログ探訪(その5~戯作・西中眞二郎様へのメール~)

拝啓 西中眞二郎様

 日頃は拙作を多々ご選歌いただいたうえ、再三に亘ってご無理なことまでお願い申し上げ、真に恐縮に存じます。
 さて、「題詠2009」のお題・「080:午後」に対する御作、「若き娘(こ)に引かれて午後の道を行く犬のふぐりの左右に揺れる」は、投稿作品中、稀に見る傑作と拝察致しました。
 つきましては、百首一巻の投稿を終え、完走報告をし終えた心安さから、、無謀と知りつつも、その解釈と鑑賞を試みましたので、以下に記させていただきます。

 さて、詠い出しの「若き娘(こ)に引かれて」の「若き娘(こ)」は、人間の「若い娘」を指すのではなく、動物の「若い娘」、即ち作品中の<わたし>の愛犬の<雌犬>を指すのである。そうした前提で、一首全体の解釈を試みる。

 麗らかな春の午後、作品中の「わたし」、即ち話者は、折からの春風に誘われて、愛犬を散歩に連れ出そうとする。
 愛犬は若い雌犬。生来の出不精に加え、遣らずもがなの「題詠2009」の選歌の忙しさにかまけて、最近私は犬の散歩を怠っていたので、運動不足気味のこの犬は、私が犬舎の施錠を解く前から、まるで女の子がお気に入りの伊勢丹のケーキー屋に出掛ける時のように、「早く、早く」とばかりに、狭い犬舎の中で跳ね回っている。
 屋外に出た。予定コースは定番の○○川土手のウォーキングロードだ。運動不足のせいか、今日はなんだか身体が重い。そんな私とは関わり無く、犬は私を引くようにして、どんどんどんどん先へ先へと進んでしまう。
 いい歳をして、若い娘ならぬ若い雌犬に引かれての散歩とは、いささか恥かしい。誰に観察されているわけでもないが、私は少し照れてしまう。
 まだ少し冷たいのかと思って出て来たのだか、身体全体を撫でて行く風が意外に心地よい。そこで、さっきまで塞いでいた私の心も少しは軽くなる。春風が私の身体を押すようにして吹き過ぎる。私は、心だけではなく、身体までも軽く感じる。
 道の畔には、枯れ草に交じって、その下から萌え出た新芽がちらほら見えている。枯れ残りの「犬のふぐり」が道の左右で揺れている。植物の「犬のふぐり」だけでは無く、動物の「犬」の「ふぐり」も、オーナー様の歩みにつれて「左右に揺れる」。

 調子に乗って、つい書き連ねて来てしまったのだが、「植物の『犬のふぐり』だけでは無く、動物の『犬』の『ふぐり』も、オーナー様の歩みにつれて『左右に揺れる』」と書いた瞬間、私は、「あっ」と気がついて、恥かしくなる。
 そうだ、作品中の<わたし>を引いてゆく「若い娘」は雌犬だから、彼女の股間には「ふぐり」などぶら下がっていないのではないか。ぶら下がっていないはずの「ふぐり」が「左右に揺れる」はずはない。 あの<たんたん狸のキンタマ>だって、彼の股間にぶら下がっていればこその<風もないのにぶーらぶら>なのだ。
 すると、詠い出しの「若い娘」を、作品中の<わたし>の愛犬の<雌犬>と解したのは、間違いではなかったのだろうか? 私の考え方は根本から間違っていたのではなかったのだろうか?
 否、否、私のあの解釈は絶対だ。第一、私よりご高齢のはずの西中眞二郎氏が、人間の「若き娘(こ)に引かれて午後の道を」行ったりするはずがないではないか。それなら、昼下がりの情事ではないか。そんなのは許されるはずがない。たとえ奥方様が許してもどなたが許しても、この私が許さないぞ。もし、そんなことが在ったとしたら、それは、ほとんど犯罪ではないか。西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか。「『歌人の犯罪』、これは小説ネタになるぞ。
 待て、待て、「西中眞二郎氏はほとんど犯罪者ではないか」とは言い過ぎだ。話を面白くしようとするあまり、つい、言い過ぎてしまうのは、君にごまんと有る性格的欠陥の中でも最たるものだ。第一、作品中の<わたし>と作者の西中眞二郎氏を等号で結ぶのは、お前の信条に反するのではないか。
 いや、いや、つい口を滑らしてしまった、西中眞二郎氏犯罪者説は取り消すとしても、その他のことは取り消さない。作品中の<わたし>と実在の西中氏を等号で結んでしまったのも、この際は無視する。大事の前の小事だからな。
 それより何より、上の句の冒頭の「若き娘」を雌犬とし、下の句の「犬のふぐり」を、道端の雑草の「犬のふぐり」と愛犬の「ふぐり=陰嚢」との掛詞とする、私の考え方は絶対に正しい。
 雌犬の股間に陰嚢がぶら下がっているはずがないじゃないか。ぶら下がってもいない「ふぐり」が「左右に揺れる」はずがないじゃないか。
 いや、いや、作品中の<わたし>の目には、その時確かに、犬の「ふぐり」が見えたのだ。雑草の「犬のふぐり」の「左右に揺れる」のと重なって、雌犬の「ふぐり」が「左右に揺れる」のも見えたのだ。この考えは、絶対に譲らないぞ。作品中の<わたし>の頭の中で、一瞬の間に、犬の雌雄の性転換が行われることだって、考えられるからな。
 お前はどこまでも我を張る。上の句の「若き娘(こ)」が雌犬であることは認めるにしても、下の句の「犬のふぐり」は、やはり、道端の雑草の「犬のふぐり」に過ぎない。下の句は散歩の途上の道端の風景のスケッチなのだよ。
 西中眞二郎氏の短歌を馬鹿にするな。下の句が道端の風景の単純なスケッチに過ぎないとしたら、それではあまりに、下の句の語句の働きがなさ過ぎるではないか。君の言い方は、単に西中作品に対する侮辱に止まらず、短歌文学全体に対する侮辱だ。だから、君の考えは、絶対に認めるわけにはいかない。

 いやはや、その五月蝿いこと、五月蝿いこと。在るか無きかの雌犬のキンタマを廻っての論争は、この後も果てし無く続くことであろう。
 
 そこで、この秀作の作者の西中眞二郎氏に質問致します。
 貴方は、この「犬のふぐり」論争が読者の間でやかましく交わされることを予測して、この作品を「題詠2009」にご投稿なさったのですか。
 もしそうならば、御作は<御作>ならぬ<御策>、<秀作>ならぬ<秀策>でしょう。
 とにもかくにも、歌壇の片隅のインターネット上で、今、全く新しいスタイルの短歌が呱呱の声を挙げようとしていることは確かです。
 そのニュースタイルの短歌とは、「読者を論争に巻き込んだ挙句、混乱の極に陥れて、突き放す」スタイルの短歌、ポスト・前衛、ポスト・ライトヴァースの短歌。掌に付着したチューインガムのようなスタイルの短歌。チューインガムという奴は、見た目が甘そうなだけに始末に負えない。
 西中眞二郎様、おめでとうございます。

   人麻呂に茂吉に邦雄そして万智、そして今また西中眞二郎      鳥羽省三

 末筆乍ら、御作を無断で引用させていただいたことを、深くお詫び申し上げます。また、この戯作が、西中様に御目文字致さないことを祈念して居ります。万が一、御目に留められましたら、平にお許しあれ。                                                    敬具
  
       平成二十一年二月十七日                      鳥羽省三
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ブログ探訪(その4)

 あの黒田英雄氏が、ご自身のブログ「安輝素日記」の二月六日の記事で、「『短歌人』2月号・秀歌選」の一首として、あの斎藤寛氏の作品「処刑台、にはあらで此を瀧といふ あらがはぬものひたすらに落つ」を採り上げ、本日の記事では、それを鑑賞し、解説して居られる。(今や、黒田・斎藤両氏は〝あの〟付きである。)
 太っ腹な黒田氏のことであるから、何処かの誰かのように、「無断引用・転載禁止」などとは仰らないだろうから、先ず、その全文を転載してみよう。

 この歌の眼目は、普通、滝を処刑台だなどとは思わないことだ。確かに滝の水は、ひたすら上から下へと落ちる。これは、絞首刑の定義と一緒だ。あの滝の立てる轟音が、作者には、足元がぽっかり開き首吊りの縄が伸びるときの音ともとれたのかもしれない。
 現代歌壇に足りないものは、気骨と反骨である。この言葉は、歌壇においてはもはや死語と言うべきだろう。作者の歌には気骨を感じる。結句がいい。この結句にこそ、作者の反骨精神がみなぎっている。方法論先行の歌人が多く、まったく話にならない。
 歌には、もっと作者の個性というものが欲しい。出来不出来ではない。ああ、この人の歌なのだとすぐわかるような個性が欲しいのだ。

 
 黒田氏は、斎藤氏の作品を評して、「現代歌壇に足りないものは、気骨と反骨である。(処刑台という)この言葉は、歌壇においてはもはや死語と言うべきだろう。作者の歌には気骨を感じる。結句がいい。この結句にこそ、作者の反骨精神がみなぎっている。方法論先行の歌人が多く、まったく話にならない。作者の歌には気骨を感じる」と仰せられる。
 黒田氏と斎藤氏とのご関係を言えば、斎藤氏は、『短歌人』誌の二月号に「師匠は支障を生む」というエッセイを掲載したが、それを黒田氏がいち早く取り上げて褒め称えたのも、そこに斎藤氏の「気骨と反骨」を感じたからであろう。
 ところで、黒田英雄氏が「秀歌」と褒め称える斎藤氏の作品、「処刑台、にはあらで此を瀧といふあらがはぬものひたすらに落つ」から私は、「気骨と反骨」だけではなく、確かな「方法論」も感じるのであるが、そんなことを言ったら、私はあの黒田英雄氏から、「お前の眼はまだまだ節穴だらけ、豚のケツ」と笑われるのであろうか?
 「瀧」から「処刑台」を連想した比喩も見事だか、下の句の「あらがはぬものひたすらに落ち」は、真に「言い得て妙」である。
 高井有一氏に、『俄瀧』という短編小説がある。私は斎藤寛氏に、是非、この小説を読むようにお勧めしたい。
 それはそれとして、何処かの家の太郎君も、あまり「あらがは」ないで「落ち」て行けばいいのに。何しろ太郎君は、「堕ち」ても「落ち」ないから困る。


ブログ探訪(その3)

 「短歌人」所属の佐山みはるさんのブロク「月待ち人の窓辺」にお邪魔したら、去る二月一日の記事の末尾に、次のようなことが記されてあった。

 さて、歌会に出した私の歌は、いずれ結社誌か総合誌に出すつもりでいるので今は載せない。(歌会の段階では既発表ではないようだ)
 先日、「結社誌に発表した歌を総合誌に送るのは、ルール違反じゃないのか?」というコメントをいただいた。私の認識が甘かったようで、苦言を呈してくださった匿名希望さんには感謝もうしあげたい。できればぜひお名前を。今後はそのような不備がないように気をつけたいと思う。

 「既発表」「未発表」の問題については、昨日、私が論じた、京大短歌会のケースとは若干ニュアンスが異なるようだが、詠歌を日々楽しまれている佐山さんもまたお悩みのようだ。
 佐山さんの記事中の「(歌会の段階では既発表ではないようだ)」には、思わず微笑んでしまったが、私が旧居住地で、ある短歌会の月例歌会に出詠していた頃、その短歌会の会長さんは、よかれと思われたのか、毎月の歌会に出詠された作品をある地方紙に送付していたそうで、私の拙い作品も、私の知らない間に部数五十万部ほどの地方新聞に掲載されていたという。つまり、私の知らない間に、未発表のつもりの私の作品が既発表になっていたのだ。
 私は、それらの作品を以て新人賞レースに打って出ようなどという魂胆は持っていなかったから、格別に問題としなかったが、これが、私とは思いを異にする人の場合だったら、かなり厄介な問題になっていただろう。
 そうしたことで、私はこの問題については、いささかならず関心を持っている。
 既発表か未発表かが問題になるのは、主として、商業紙誌など主催の新人賞などに応募したり、投稿したりする場合に生じる問題であろうと思われる。
 角川短歌賞や短歌研究新人賞を初めとした、新人賞の募集要項にも「未発表の自作」などと、こと細かに書かれてあるし、地方公共団体等が主催する短歌コンクールなどの場合も同様である。
 そこで、私は一つの提言をしたいのだが、先ず、私は、「(角川)短歌賞」「短歌研究新人賞」を初めとした数十首を審査対象とするコンクールと、一首ないしは二首を審査対象とするコンクールを厳然と区別する。そして、数十首を審査対象とする短歌コンクールの募集要項からは、「未発表」という条件を除去した方がよいと思う。
 その理由は、わずか一、二首の作品を投稿させて審査し、その審査の通過作品を新聞や雑誌に掲載したり、賞品や賞金を与えるようなコンクールとは異なり、数十首単位の作品を提出させ、応募作品の個々の出来不出来は勿論、、タイトルや構成、場合によっては、作者の年齢や活動歴なども参考にして審査するようなコンクールは、応募者の現在の力量の全て、将来性までも見定めなければならないから、その応募者の力量の全てが最も反映されている作品で以て応募させるべきで、そうした場合、未発表、既発表の区別などは物の数ではないからである。
 数年前、超有名なある女流歌人の肉親が、某総合誌が主催するコンクールで受賞されたことがあったが、その際、その受賞者が在籍されている学校の教壇にも立っている某有名歌人が審査員の一席を占めていて、彼は最終審査会の席上で、その受賞者と自分との関わりの深さをしきりに説明していた。その審査員と受賞者との関わりの深さは、発表誌に掲載された受賞者の「言葉」からも伺われて、歌壇内外で、猛烈な物議を醸し出す結果となった。
 こうしたことは、公平を期すべき公的コンクールの審査のあり方として決して望ましいことではないが、俵万智以来絶えて久しいスター歌人の創出に懸命な短歌メディアとしては、ひとつのやり方ではなかったかとも思う。
 また、新人賞などに短歌結社の所属者が応募する場合、予め、結社内の実力派歌人などから添削を受けたり、選歌をしてもらったりしたうえで応募するということもよく聴く話である。
 更には、数ある短歌結社の中には、作品の未発表、既発表をめぐって、昨日の記事で私が問題視したような、奇妙奇天烈にして不恰好な取り決めをしている結社もある。
 あれやこれや考えてみると、角川短歌賞や短歌研究新人賞、または、それらと同数程度の作品を
提出させて優劣を判断する短歌コンクールの審査基準からは、「未発表」という意味のない条件は撤廃すべきであると思う。
 応募前に予め審査員や実力者歌人から添削や選歌を受けたり、なんらかの指導を受けたりした作品を以て応募する者が厳然として存在しているのに、今更、その作品が未発表か既発表かなどという些細な事を問題にしていても始まらない。
 大規模な短歌コンクールを主催する総合誌は、結社誌への発表何するものぞ、インターネットでの発表何するものぞ、との気概を持って、短歌メディアの元締めとしての貫禄を示して欲しい。
 また、願わくばもう一つ。応募作品数を、三十首や五十首などとけち臭く限定せずに、最低でも百首、出来得れば三百首から五百首、受賞作品がそのまま一冊の歌集として上梓できるような規模の短歌コンクールが、一つか二つ、この二千年にも及ぶ和歌の伝統を持った我が国にあってもよさそうなものだ。

ブログ探訪(その2)

 京大短歌会のホームページの「京大短歌・歌会の記録」を開いてみると、それぞれのページごとに、その日の出席者の作品の一部を掲載した後、その末尾に、毎回必ず、次のような注意書きを記している。
 ・ このページに掲載の歌稿は、作者の許可のもとで掲載しています。
 ・ このページに掲載の歌稿は、通常の歌会等における詠草と同じ権利のもと「一切の短歌メディアに対して未発表扱い」です。ご注意ください。
 ・ 転載・引用を希望される場合は、「お問い合せ」より連絡下さい。作者の意向を尊重し、その都度対応を決定致します。
 情報メディアとして、電子メディアが印刷メディアや放送メディアに比肩するほど重要視されるに至った今日、私たちがインターネットのホームページやブログなどで読んでいる記事は、その筆者や管理者が、他人に見せることを目的の一つとして書き、常時他人に見られるような状態で記録され、公開されているものである。
 したがって、仮に誰かが、他の誰かの書いたブログなどの記事について、筆者の許可を得ないままに論評し、公開発表したとしても、その内容が関係法規に抵触しない限り、何ら問題が生じないのではないだろうか。
 そのことは、私たちが、印刷媒体や放送媒体から齎される情報などについて、その著作権の帰属者に断わらないままに、論評し公開発表しても、その内容が関係法規に抵触しない限り、何ら問題が生じないのと同様である、と私は思う。
 私のこうした思いは、単に私一人だけの思い込みではなく、世間一般の常識であり、社会通念でもあろう、とも私は思うが、もしそうならば、「京大短歌会」ともあろう有識者の集りが、一体どういう理由があって、毎回毎回飽きもせず、自らのブログの記事として、上記三項目の注意書きを掲載しているのであろうか。
 上記三項目の全部に問題があるとも思われるが、そのうち、特に第二項目の記載内容には、大きな問題があると思われ、この項目の文全体が、意味不明瞭な悪文である、と私は思う。
 第二項目には、「『このページに掲載の歌稿は、通常の歌会等における詠草と同じ権利のもと『一切の短歌メディアに対して未発表扱い』です。ご注意ください」と書いてあるが、そもそも、情報メディアとして今やゆるがせに出来ない位置にある、インターネットのホームページに記され、公開されている短歌を、ことさらに「歌稿」と呼ばねばならない理由は何処にあるのだろうか。
  「歌稿」とは、「歌=短歌を書いた原稿」のことであろうが、手元にある「新明解・国語辞典(第五版)」を開いて、「原稿」の意味を調べたところ、「【原稿】 印刷物や口頭で発表する通りに文章を紙に書いたもの」とあった。
 即ち、世間の常識に基づけば、短歌作品は、作者がそれを創り、やがてなんらかのメディアに載せて発表するために、その準備として原稿用紙などの紙に書いただけで、それが未だ何のメディアにも載っていない段階に於いては、その作品の作者であれ、誰であれ、そのものを指して「歌稿」と呼んでも構わない。勿論、この段階では、紙に書かれたその作品を、わざわざ「歌稿」と呼ばずに、「短歌」と呼んだり、「歌」と呼んだりしても、一向に差し支えないであろう。
 しかし、一旦それがメディアに載せられて、世間に公開され、発表されたら、その途端、それは直ちに<歌稿>ではなくなり、<短歌>とか、<歌>とか、<作品>とかと呼ばれる存在となる。
 この場合のメディアの範疇には、新聞や書籍・雑誌などの印刷メディア及び、テレビやラジオなどの放送メディアばかりではなく、インターネットを中心とした電子メディアも含まれること当然である。
 それが、世間の常識と言うものであろう。
 ところで、著名な歌人が、雑誌などに掲載した自作の短歌について語るとき、「ひと様の前にぶざまな歌稿を曝す結果になってしまったのは、私の不徳の致すところでして~~」などと、既に発表した自作の短歌のことを、短歌とも歌とも作品とも呼ばずに、「歌稿」と呼ぶ場面が想定されるが、前述の『新明解国語辞典(第五版)』の記載に基づいて言えば、その時のその歌人の言い方は間違いである、としなければならない。その時、その歌人が、「ひと様の前にぶざまな短歌を曝す結果になってしまったのは、~~」と語らなければならないところを、「ひと様の前にぶざまな歌稿を曝す結果になってしまったのは、~~」と語ってしまったのは、その時、その歌人の心の中が、<照れ>とか<謙遜>とかといった思いに占領されていたからだ、とか、なんらかの理由が考えられるが、インターネットのホームページという、立派な情報媒体に堂々と記録して公開発表した短歌を、「短歌」とも「歌」とも呼ばずに、その前段階であり、幕開き前の状態であることを示す言葉・「歌稿」として紹介した京大短歌会の面々の心中を占領していたのは、一体、どのような思いであろうか。
  「歌稿」がインターネットに乗って公開発表された途端に、それは「歌稿」ではなく、立派な「短歌」もしくは「歌」となる。その立派な「短歌」もしくは「歌」を、インターネットのホームページという、今や花形の電子メディアを通じて世界中に公開発表しながら、「このページに掲載の歌稿は、通常の歌会等における詠草と同じ権利のもと『一切の短歌メディアに対して未発表扱い』」です。ご注意ください」などと断わるのは何故だろうか。
 公開発表しながら「未発表扱い」にすると言い張るのは、一体、どんな根拠に基づいての理屈であろうか。
 また、この文中の「通常の歌会等における詠草と同じ権利のもと」と言う件の「権利」とは、どんな「権利」であろうか。そもそも、この際は、「歌稿」でも「短歌」でも「歌」でも構わないが、人間でも生き物でもないものが、「権利」などというご大層なものを持っているものであろうか。
 更に、「『一切の短歌メディアに対して未発表扱い』です」とあるが、「未発表扱い」の対象を「短歌メディア」に限定するのは、どんな理由があるからなのであろうか。そもそも、「短歌メディア」とは、どの範囲のメディアを指すのか。
 もしも、いかなる意味に於いても「短歌メディア」とは言えないメディア、例えば、風俗関係メディアなどが、何かの必要があって、「京大短歌・歌会の記録」に記録され、公開発表されている短歌を引用したり、転載したりするときは、その作品の作者なり京大短歌会なりの許可を得なくても良いのであろうか。
 あれやこれや考えているうちに、京大短歌会の会員ほどには頭脳明晰ではない私も、この三項目の注意書きの持つ意味が解ったような気になった。
 近年(と言うよりも、かなり前から)、京大短歌会の構成メンバーから、短歌総合誌などが主催する新人賞の受賞者や次席・受賞候補者などが輩出するようになったと聞く。京大短歌会の構成メンバーやその関係者の短歌が、短歌総合誌などの商業誌に掲載される機会が多くなったとも聞く。
 これはあくまでも私の推測であるが、京大短歌会が、一見意味不明の三項目の注意書きを自らのホームページに掲載しているのは、そのことと関係しているのではないだろうか。
 もしそうならば、それは、大変利口な遣り方と言うか、もっと端的に言えば狡い遣り方である。
 京大短歌会に限らず、仮にこの世間に、次のような短歌結社とその構成員が存在したとしたら、世間一般の人々はどう思うだろうか。
 その道の有望株揃いの集団と聞くから、ある短歌会に入会し、その歌会に出席して短歌を作った。
 せっかく作った短歌だから、その会のホームページででも公開発表し、歌仲間や世間の人々に見せびらかしたい気持ちもある。
 でも、その会のホームページで公開発表しただけでは、読者の数が少なくて見せびらかし甲斐がないし、その上、もしも、その作品を新人賞に応募する作品の中に加えようと思っても、その作品は、インターネットのホームページという立派なメディアに載せて、公開し発表した作品であるから、その新人賞の応募規定に抵触する。
 そういうことで、歌人願望の彼ないし彼女は大いに悩む。
 そうした悩める彼・彼女の救済策として、その会の幹部か誰か、とにかく中途半端に頭の切れる者が、既にメディアに載せて公開し発表した「短歌」を「歌稿」と言い張り、電子メディアで公開しただけでは「発表」したことにはならない、といった、世間の常識に逆らうような内規を作って、ホームページに掲載する。
 そこで、その短歌会は益々隆盛を極め、その短歌会の関係者が益々歌壇で羽振りを利かすようになる。
 いいがであろうか。
 終りに、少し軽口を言わせていただこう。
 京大短歌会に於いて、既に電子メディアに記録し、公開し発表した短歌を、「短歌」と呼ばずに「歌稿」と呼んだり、「未発表扱い」にしたりするのは、同会の会員同士が、熱い「兄弟仁義」ならぬ「京大仁義」で結ばれているからであろうか。

ブログ探訪(その1)

 この頃気になってならないブログがある。それは、平安時代の著名な日記の筆者の継母の生家の姓と同じ姓の女性(?)が管理する、短歌鑑賞を内容としたブログであるが、鑑賞対象となる短歌を選ぶ管理者の選歌眼が、私の好みと合致しているため、近頃の私は、月に数回程度の、その更新を今か今かと待ち焦がれている状態なので、この記事を綴ろうとしている私の気持ちは、それほど単純ではない。
 管理者の記す鑑賞文は、その選歌眼に較べるとかなり粗い(と言うか、私の趣味に合わない、と言うか)し、時々は明らかなポカもやる。
 例えば、去る一月五日の記事は、『夏の騎士』所収の糸川雅子氏の作品、「幸福そうなやりとりをしてわれを知らぬ遠くの店にて電球を買う」についてであったが、その中で管理者は、「この歌集には夫の死後の暮らしの寂しさ、夫恋が通低奏音として流れ、その思いを鎮め、自分を鼓舞するかのような作品が多い」と述べておられるが、この中の「通低奏音」は、明らかに「通奏低音」の誤りであり、「夫恋」も「妻恋」に比べるとあまり一般的とは言い難いから、ここは「つまごい」と振り仮名を施すべきであろう。
 また、前述の部分以外でも、「そう頻繁に必要なものではない日常品としての『電球』が、いっそう哀しみを強めているようだ」という件などは、言いたいことはよく解るが、結社に所属して短歌創作を楽しんでいる者の表現としては、あまりにも粗い。
 ところで、このブログの昨日の記事は、『憂春』所収、小島ゆかり氏作の「ピラカンサの実のつぶつぶの黒みつつ有象無象のふかきつぶやき」についてであり、その鑑賞文にもかなりの問題点が指摘されるが、それについては後日ふれよう。


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