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末裔

五人扶持薩摩藩士の末裔の105円傘の雫切る所作      省三
 
 格別な親友といった間柄ではないが、教員時代の同僚に薩摩藩士の末裔を自称する男が居た。嘘か本当かは知らないが、本人が言うには、「五代前の先祖は示現流の達人で、島津の分家の一つのなんとか島津家の総領に剣術を教えていた」ということであった。
 ある時、何かの用事で、この男を含めた数人で外出したことがあったが、その途中で激しい雨が降って来た。その日は、多分早朝から怪しいお天気具合だったと思われ、彼以外の者は傘の用意をしていたが、万事につけて用意周到を心掛けるべき武士の末裔らしくもなく、彼だけが傘の用意を忘れ、当初は誰かと相合傘をしていたのだが、やがて、あまりの降りように耐え切れなかったのか、通りすがりのとある店に飛び込み、透明ビニール製の100円傘~その傘の値段は、正確に言えば消費税も入れて105円だったろう~を買ってきた。
 そうそう、この記事を書きながら、たった今思い出したが、その日の私たちの目的は横浜美術館に行って印象派絵画展を観ることであった。
 つい先ほどまであれほど激しく降っていた雨も、美術館に行き着く頃にはすっかり上がっていた。だが、美術館の入り口にはポリエチレン製の傘入れが用意されていたので、私たちはめいめい自分の傘をその袋に入れて展示スペースに行こうとした。
 その時、仲間の一人が、「ちょっと待って。まだ○○(例の末裔氏の姓)が来てないぞ。一体どうしたんだろう。俺、行ってちょっと見てくるから、みんな待ってて」と言い、一人で入り口のところまで引き返そうとした。そこで、私たちもぞろぞろと彼の後をついて行った。
 案の定、末裔氏は未だ入り口の手前に居た。馬手に傘、弓手にポリエチレンの傘入れを持って。そして、私たち全員の視線が彼の手元に集中していることも知らぬげに、まるで赤胴鈴之助が、あの真空斬りをやらかす時のような鋭い眼光と真剣な仕草で、右手に持った105傘を、気合もろとも二回、三回と振り回すのだ。
 その時、誰かが声を上げた。「さすが薩摩示現流! ビニール傘の雫を先祖伝来の剣術の極意と気合で振り払おうとしているのか?」と。声を上げた誰かとは、或は私であったかも知れない。
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焼き鳥

老いぬれば朽木の洞に身を投げて命絶つとふ雀かなしも    省三

 終戦のどさくさの最中に小学校に入った私の夢のひとつに<焼き鳥をたらふく食う>ということがあった。
 都会とは幾分事情が異なるが、北国の田舎町の住人である私たちは、年から年中お腹を空かしていて、その頃、町のあちこちに出来初めた一杯飲み屋の賑わいと、そのつまみの焼き鳥は、欠食児童の一人であった私の憧れであった。
 本当かどうかは知らないが、私の周囲の大人たちの話では、その焼き鳥の原料は、お寺や鎮守の杜などの老木に巣篭もっている雀だ、ということであった。また、私の遊び仲間の一人の某君の兄さんが毎日空気銃を持って何処かに出掛けて行くのは、その焼き鳥の原料となる雀を狩るためで、彼は、自分が採って来た雀を飲み屋に卸した稼ぎで、十人近い家族の生活を支えているのだ、という噂もあった。
 年月が経って、あの頃よりはかなり大きくなった私の口にも焼き鳥と名づけられたものが入るようになった。その頃、いっぱしの給料取りとなった兄が、仕事帰りのお土産として、その頃、町のあちこちに目立ち始めた惣菜屋から、経木に包んだ焼き鳥を買い求めて帰宅するようになったからだ。
 でも、なんか違うのだ、今、私が口にしている焼き鳥は、その味も香も、あの頃、私が憧れた<焼き鳥>とは、なんか違うのだ。
 ある日その疑問を、成人に達して、たまには飲み屋にも行くようになっていた兄に率直にぶっつけてみた。
 兄曰く、「それはそうだよ。この頃、町の総菜屋で売っている焼き鳥は、本物の焼き鳥ではないからさ。本物の焼き鳥は雀の肉を焼いたもので、私が総菜屋で買ってくる焼き鳥は、鶏の肉や内臓を焼いたものだから」と。
 今になって思えば、あの時の兄のお話も、本当は真実ではないのだろう。
 雀と言えば、子供の頃に抱いた疑問の一つに、「雀の死に場所は何処だろうか?」というのがあった。
 日中は稲の穂にむれたり、電線に数珠繋ぎになって留まっていたりして、夕暮れになると、お寺の境内や鎮守の杜の老木に帰って来て、ちゅんちゅんじゅくじゅく一晩中鳴き止まず、私の町の人口の何百倍もいるはずの雀たちだが、その亡骸らしいものは絶えて見たことが無かったからだ。
 そこである日、この疑問を父に質してみた。すると父曰く、「雀たちの墓場は、奥山にある老木や朽木に空いている洞の中だ。こんなことを俺がなぜ覚えているかと言うと、俺がまだガキの頃、村の山にそれはそれは大きな橡の木があった。ところが、ある年の秋の台風で、その橡の木が真中から折れてしまい、それまで見えなかった巨大な洞が顔を出したのだ。そこで、俺たち悪ガキどもは、早速家から梯子を持って来て折れた木に登り、その洞を覗いてみた。すると、その洞の中には、雀の死体が何百何千と詰まっていて、獣の腐った匂いをあたり一面に撒き散らしていたのだ」と。
 明治半ば生まれの父は、私たち子供を喜ばせるために、よく現実にはあり得ないようなほら話をすることがあったから、今となっては、この話の真偽も判らない。でも、その頃の私にとって、年老いて餌を採ることも飛ぶことも出来なくなった雀たちが、己の亡骸を巨木の洞の中に隠して、天敵から守ろうとしたことが、とても哀れに思えてならなかったのである。

ドレス着て

   ドレス着て犬がおめかしせぬ代りをんな着膨れ冬のさいたま     省三    

 東京都の南側の隣県から北側の隣県の街に転居して間もない私は、この冬、現住地の愛犬家たちが、元の居住地の愛犬家たちとは異なって、冬になっても、ご自分の愛するお犬様たちに防寒用の衣裳を着せる様子が無いことに気づいて少し驚いた。そのことの是非は別のこととしての話である。
 昼前とは違って、少なからず風が吹き出して来たある午後、見沼代用水東縁のサイクリングロードに到る遊歩道を散歩中に、連れ立っていた家内にそのことを話したところ、常日頃は他人の悪口や辛口批評を嫌悪している家内が、その宗旨に変化を来たしたのか、「それもそうだが、その代り人間が、特に女性の厚着が目立つようだね」と仰せになられたのには、これまた吃驚。
 なるほど、なるほど。今日の散歩の途中、私達は、少なくとも十人以上の愛犬連れの女性に出会ったが、そのいずれもが、分厚いコートかジャケット風の衣装に身を固めていたし、それとは逆に、彼女らに牽かれた(或は、彼女らを牽いた)お犬様たちは、例外無しに、生まれたままのヌードスタイルであった。
 同じ東京隣県ながら北と南の違いのある、元の居住県の街の人々が、愛犬たちに防寒用の衣装を着せ始めたのはいつの頃からだろうか。今では寒さ避けというのを通り越して、それぞれ鹿鳴館の舞踏会に着て行く華麗なドレスのような衣装を着せ、これ見よがしに裸木並木の冬の歩道を闊歩しているのである。

   ドレス着て犬が舗道を闊歩する街の何処(いずこ)に吹く不況風

今週の朝日歌壇から

○ 社員三人鬱病となしし社に勤め十六年をくたびれ果てぬ   (仙台市) 坂本捷子

「今日の世相そのものを体験に持った歌。作者も鬱情をまぬかれながら『くたびれ果てぬ』とうたう」と、選者の馬場あき子氏は評す。
 「社員三人鬱病となしし社に勤め」と言う上の句中で留意すべき語句は「なしし」である。
 「なしし」とは<過去に於いて為した>ということ。
 これに拘って、この一首を大袈裟に解釈すれば、作者は自分自身が十六年の長きに亘って勤務した会社の内情を暴露し糾弾していることになる。
 そのような会社に長く勤めていれば、自分とて無事で居られるはずはない。
 「自分は鬱病に罹りこそはしなかったが、この会社での十六年ですっかりくたびれてしまった」と作者は言っているのである。
 「十六年をくたびれ果てぬ」という下の句から読み取れるものは、「この十六年間、我慢に我慢を重ねて私は働いて来たが、今となっては、精も魂も尽き果ててしまった」という、作者の憤懣と諦念であろう。
 会社の実名こそ出してはいないが、この一首から、評者が、作者の内部告発的姿勢を読み取ったとしても、決して深読みとは言えないであろう。  
   〔答〕 鬱を病む社員三人首斬りて我が社の経営いよよ安泰   鳥羽省三 


○ 二羽の鳩三日つづけて訪ね来て四日目からは巣を作りおり   (町田市) 高梨守道

 「二・三・四と上ってゆく数詞の遊びが、鳩への親しみを楽しく伝える」とは、選者の佐佐木幸綱氏の評。
 単なる数字遊びに終らせず、「たった二羽でやって来て、しかもわずか三日通っただけで、四日目には、もう巣作りを始めてしまった。あの鳩たちの命の営みのなんと浅はかなことよ」といった、我が家の軒に巣を掛けた鳩たちに対する、話者のの驚きと憐憫の気持ちが表現されているのである。
 「四日目」から始まった巣作りの作業が終わると、やがてその巣の中には、五つの新しい命が誕生するはず。
 佐佐木幸綱氏の言う「数詞の遊び」は、<二・三・四>で終らず、そこに新たな<五>を加え、<六>を跳ばして、<七>にまで発展することが予測される。
   〔答〕 二羽で来て七羽で暮らす鳩たちの糞のこぼるる軒下を往く   鳥羽省三 


○ 渋滞の我が渋面を後続の運転席の顔で悟れり   (東京都) 佐藤利栄

 「渋滞」と「渋面」。
 <じゅう・じゅう>の渋くて重い音声の重なりが、交通渋滞への苛立ちの気持ちを表わしているのである。
 だが、ふと、バックミラーに視線をやったら、そこには「後続の運転席の顔」が映り、それは「渋面」であった。
 そこで作者は、自分もまた後続車のハンドルを握っている人と同じように、渋面を浮かべながら運転しているに違いない、と気が付いたのである。
 末尾の「悟れり」から、はっと気が付き、気を持ち直して「渋面」を止めようとした作者の気持ちの変化が読み取れる。
   〔答〕 後続の運転席の渋面をバックミラーに見つつ走れり   鳥羽省三


○ 冬空に池の金魚らじっとしてゼリーの中の蜜柑のように   (東京都) 古川 桃

 「ゼリーの中の蜜柑のように」という直喩が宜しい。
 「ゼリーの中」だから、ぎゅうぎゅうに縛られ、閉じ込められているわけではない。
 「ゼリーの中の蜜柑のように」という直喩は、単に、「冬空に」「じっとして」耐えている「金魚ら」の様子だけを表わすだけでは無く、その「金魚ら」を包む「池の水」の柔らかく白濁した様子と、晴れやらぬ「冬空」の様子をも表わしているのである。
 「ゼリーの中の蜜柑のように」は、視覚と触覚から発想された比喩なのである。
   〔答〕 冬空を映して清める池水の底にかそけき金魚の生きよ   鳥羽省三         


○ 開けたなら閉めて出てゆけわが猫よこごと言いつつ年暮れ果つる   (豊中市) 玉城和子

 「こごと言いつつ年暮れ果つる」という下の句は、老境に達した作者の暮らし振りと心境とを覗かせていて、それだけで十分に面白いのだが、その「こごと」を「わが猫」に言う所が更に面白い。
 因みに、「開けたなら閉めて」とは、還暦を幾つか過ぎた私の連れ合いが、古希に達した私に向かってよく言う言葉である。
 私は、玉城和子さん宅のニャンコ並みなのか?
   〔答〕 「開けたなら閉めて行って」とまた言われ猫の尻尾を踏んで仕返し   鳥羽省三


○ 東洋の粟散辺地にわれはいてモーツァルトの楽を楽しむ   (八尾市) 水野一也

 この<世界三位の経済大国・日本>を言い表わすのに、事もあろうに「東洋の粟散辺地」とは、何たる言い様。
 さすが、八尾の<あほんたれ>の言うことは、他の人のそれとは違う。
 その口して、あの楽聖<ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト>様の「楽を楽しむ」とは、とんでもない。
 それでも、どうしても音を聴いていたいのなら、村田英雄や中村美津子の歌声か、勝新太郎のダミ声の科白を聴いたらいかが。         
   〔答〕 大阪の粟散辺地の八尾に居てモーツァルト聴くとはうそのよな話   鳥羽省三 


○ うっすらと埃のようにつもるだろうみんなで笑った今日の記憶は   (佐倉市) 船岡みさ

 「楽しかった一日、それすらも埃のような記憶として『つもるだろう』と言う。時間の生理と言えばそうだが、どこか将来の儚い影を暗示するような歌だ」とは、選者・永田和宏氏の弁である。
 だが、その一面、永田氏の言う「将来の儚い影」を意識するあまり、<楽しかった一日>をそれほどにも楽しめず、「みんなで笑った」その笑いの中にも、十分には溶け込めなかった話者の心情が覗き見られるのではないだろうか。 
   〔答〕 塵埃の底に沈める面影のふと甦る今朝の初雪   鳥羽省三  

一首を切り裂く(100:好)

(みつき)
    好きという理由ひとつで結ばれて今年も同じさくらを見てる

 「さくら」が「好きという理由ひとつで結ばれて今年も同じさくらを見てる」というわけですか。
 本作の作者<みつき>さんと相手の方とは、きっと、「花見同好会」とかいうサークルに加入されているお仲間なんでしょうね。
 と、言うのは、あまりのご夫婦仲のよさに嫉妬している鳥羽省三の悪質な冗談でした。
 「さくら」は、大阪造幣局のくぐり抜けですか。
 それとも、祇園の枝垂れ桜。
 或いは岐阜の山奥の薄墨桜。
 もしくは千鳥が淵の堀に傾れて咲く桜。
     〔答〕 かくありし時の挙句に結ばれて角館(かくのだて)にてさくら見ている  鳥羽省三
 「かくありし時」の意味を、さまざまにお考え下さい。


(ひいらぎ)
    好きなとこ嫌いなとこも思い出になれば全てはただ美しい

 それが、時間というものに必然的に備わっている、<浄化作用>というものでありましょう。
     〔答〕 嫌なこと水に流して隅田川今日も明日も海へ注げる  鳥羽省三


(斗南まこと)
    たまになら夢に見ていいその時はあなたの好きにしちゃってもいい

 斗南藩の藩主様ともなれば、「夢」にまで認可権をお持ちなんですか?
 <まこと>なんですか?
 斗南は、薩長との戦いに敗れた末にやっと辿り着いた最果ての地なのですから、せめて、夢ぐらいは自由に見させてやって下さいませ。
     〔答〕 夢は夢 誰に遠慮が要るものか 好きなお方と共に見なさい  鳥羽省三 


(蓮野 唯)
    戻りあう好意互いに受け止めて今は一児の親をする仲

 「親をする仲」という表現は、少し苦しい。
 でも、「戻りあう好意」を「互いに受け止めて」「今は一児の親」となったのは大変お目出度いことです。
 あの工藤公康投手も、元の古巣の西武ライオンズにカムバックしましたし。
    〔答〕 許し合う心ここらで発揮して鳩山兄弟政界再編  鳥羽省三


(花夢)
    ずっと好きでいるのもなにか省エネのように感じて過ごす休日

 「ずっと好きでいるのもなにか省エネのように感じて」というのは、実に素晴らしい表現です。
 かく持ち上げる私も、本作に接してみて初めてこの表現の素晴らしさに気付き、これ一つをとってみても、花夢さんは立派な表現者なのだと、今さらのように納得しました。
 そうですね。
 冒頭の「ずっと」の意味を<継続的に>と解釈すれば、その「ずっと」を止めて、<継続>を解消した途端に、止めた人間は、ものすごく膨大なエネルギーを消費することになります。
 例えば、それまで延々と続けて来た「好き」と「好き」との関係を解消して、一挙に「嫌い」と「嫌い」の関係になだれ込んだ時には、皿が飛ぶやら、襖が破れるやら、お互いの心身が傷付くやらで、それこそ目も当てられない結果となり、お互いにへとへとに疲れてしまい、その挙句に、それを通じて消費したエネルギーの補給にも、莫大なお金を要します。
 また、その反対に、それまで、人知れずに地下水の流れるが如くに続けて来た、ごく淡白な「好き」と「好き」との関係を解消して、濃厚な「好き」と「好き」との関係に入ったときも、同じように膨大なエネルギーとお金とを消費することになりましょう。
 先ず、途切れ無しに掛け合うケータイの通話料の支払い。
 そして、毎晩支払うモーテル代。
 さらには、あの「くみつほぐれつ」する時のエネルギー消費量もばかにはなりませんよ。
 みんな疲れることばかりで、みんなお金の掛ることばかりなのです。
     〔答〕 休日は遠く離れて好きのままキスもしないで居るのがステキ  鳥羽省三


(ほたる)
    問われれば蕾のひらくようにして“好き”を咲かせてしまう、そのたび

 花夢さんと違って、<ほたるさん>ぐらい純情になれば、「“好き”を咲かせてしま」っても、何も危険なことはありません。
 何しろ、未だ「蕾」のままですからね。
     〔答〕 “好き”咲かせ“機雷”は閉じておきましょう 争いごとは“嫌い”ですから  鳥羽省三


(今泉洋子)
    竈猫の話弾みて猫好きの親子の夜はしんしんと更く

 作中の「竈猫」とは、冬の夜に、飼い猫が、火を消した後もまだ温みの残っている竈の中に潜り込んで一夜を過ごす現象や、そのようにする猫を指していう言葉である。
 だが、日常生活の中でこの言葉を用いることはほとんど無く、主として、俳句の季語として用いられるのであるが、家庭での暖房様式の変化に伴って、今となってはその季語も、季語ならぬ死語となってしまった。
 そこで私は、自分自身の勉強の為にもと思って、「竈猫」を季語とした俳句を探索し、以下にそれを提示した。

       銀猫も竈猫となつて老ゆ      山口青邨
       鳴くことのありてやさしや竈猫    々
       竈猫けふ美しきリボン結う      々
       かまど猫家郷いよいよ去りがたし  鈴木渥志
       何もかも知つてをるなりかまど猫  富安風生

 俳句の季語としての「竈猫」は、読んで字の如く<かまどねこ>と読むのが通常であるが、使われる場面に応じて<かまねこ>と読んだり、<へっついねこ>と読んだりもする。
 本作の場合は、これが「竈猫の」として、一句目に用いられているから、作者としてはおそらく、「かまねこの」と読ませたいのであろう。
 
 東京に遊学している息子が暮れの休みに久しぶりに帰省した。
 この息子は、夫と同じように、すこぶる付きの猫好きである。
 そこで、猫好き同士の二人は、さっそく熱燗徳利を抱えて暖炉の側に寄って、竈猫の話に熱中し、眠ることも忘れてしまったようだ。
 冬の夜はしんしんと更けて行く。
 けれど、彼ら二人の竈猫を巡る話題は尽きようにもない。
 格別嫌いというわけでも無いが、特別な猫好きでもない作者は、久しぶりに帰って来た息子と夫を放ったまま、自分一人だけで眠りに就くわけには行かない。
 特に、今年の秋口から晩秋にかけて、作者は詠歌の取材と称して、関東・関西を股にかけて遊び回って居ただけに、余計に気が咎めるのである。
 そこで作者は、そっと書斎に入って行き、自分専用のパソコンを開いてみた。
 そして、かねてよりやたらにコメントを寄せて来る、あの歌好きの爺さんのブログを立ち上げてみた。
 すると間も無く、パソコンの画面に現れ出たのは、あの「見沼田圃の畔から」の記事。
 その記事の中程に、「今泉洋子)竈猫の話弾みて猫好きの親子の夜はしんしんと更く」とある。
 いけない、いけない。
 この悪口だらけの記事を、今見てはいけない。
 これを、今読んでしまったら、私はきっと卒倒してしまい、可愛い息子と夫に、明日の朝食べさせる、お雑煮も作れなくなってしまうから。
     〔答〕 <かまねこ>と<かまとと>の違いも知らぬから「一首を切り裂く」難渋してます  鳥羽省三 


(千坂麻緒)
    お互いに好きだったことお互いに子どもだったね 東京にいます      

 つまり作者は、「あなたがわたしを好いていた原因や、わたしがあなたを好いていた原因は、わたしたち二人が、まだ子供で、幼稚だった点に存在する」と言いたいのでしょう。
 したがって、本作は、短歌スタイルを騙っての一種の去り状、即ち、離縁状、絶縁状に他ならない。
 創作の動機が極めて不純であるが、第五句の「東京にいます」がなかなか宜しい。
     〔答〕 「東京にいます。けれども好きでない。わたしをあきらめ結婚しなさい」  鳥羽省三
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鳥羽省三

Author:鳥羽省三
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